夜会 1
国王陛下にご挨拶する。
その後ダンスをする。
挨拶待ちの列で、カース子爵家のアルティアと視線を交わして互いを励ましあえたのが嬉しかった。
従兄弟のテオルドは、ディーンよりダンスが上手で緊張しているシンシアを上手にリードしてくれた。
社交界デヴューの『仕来り』であるふたつが終われば、シンシアの緊張もゆっくりと解けてきた。
初めて出席するアディード国王陛下主催の夜会を、あとは自分なりに楽しむだけだ。
シンシア以上に緊張していた母も今はもう自分の友人たちと一緒にいる。父は、陛下へのご挨拶のためのエスコートが済むと、早々に知り合いへの挨拶まわりに行ってしまった。ディーンの姿は、会場に入ると同時にエレーナを探しに行ってから見ていない。
ダンスが終わった後、人で溢れた大広間にシンシアを一人で残すことが出来ず困っていた従兄弟は、セアラが現れると緊張して挨拶だけを済ませると人々の中に姿を消した。
「怖いものに出会ったみたいに、逃げるようにいなくなったわね。」
セアラが少し悄然として見えたので、慌てて言う。
「人見知りをするひとなの。」
従兄弟が少々内気なのは本当だ。
「まぁ、いいわ。」
セアラは小さく息をついて、切り替えたようだ。
「もう少し息のしやすいところへいきましょう。」
「アルティアと一緒に挨拶回りをしようと約束していたのだけど。」
幼馴染みの名を出すと、セアラは嬉しそうにした。
「アルティア、久しぶりだわ。私も会いたい。」
シンシアは、それからセアラに導かれるまま人の間をぬって歩く。
「シンシア、とてもきれいよ。ドレスも良く似合ってる。そのレースの袖、凝ってるのね。花模様がとてもすてき。髪もそんなふうに大人っぽく結っている方がいいわ。陛下へのご挨拶も見ていたのよ。きれいな立ち居振る舞いで見惚れたわ。」
シンシアの父は何も言わなかったし、母はとにかく失敗がなくて良かったとだけ繰り返していた。
だから真っ直ぐな褒め言葉が嬉しい。話はかなり割り引いて聞かなければいけないだろうけど。
それに、褒めてくれるセアラの方が美しいのは間違いないと思う。濃い青色のドレスがとてもよく似合っていて、人目を引かずにいられないようだ。
人が少ない場所にやって来ってきても、視線をいくつも感じる。
そのセアラは、シンシアに寄り添うように立つと声をひそめる。
「実は余計な緊張させないように、陛下へのご挨拶が終わるのを待っていたの。話しておかなければいけないことがあるのよ。」
何かを思う前に、胸がギュッと締め付けられる。声がうまく出ない。
「まさか、あの話が…」
「違うわ。そちらは大丈夫、だと思う。例の二人組は相変わらず私に接触して来ないけど、あの方が順調だと仰っていたから。」
あの方とはレンカート殿下だろう。それなら安心できる。
「じゃあ、何?」
「それが……、こういうことも、あるかなぁと、思ってはいたのよ。」
珍しくセアラの歯切れが悪い。
「駄目かもしれないし、けど心の準備は、しておいた方がいいかな、とか、いろいろ、思って……」
「なんなの、セアラ。そんなに言いにくいこと?」
「悪い話ではない…かな、と思う。あぁでも、どうかしら。」
「何?」
不安になってきた。何が言いたいのだろう。
セアラはひとつ息をつくと、シンシアとしっかり目を合わせてきた。
「シンシア、男には気をつけるのよ。」
「え?」
「甘い言葉に、ぼんやりさせられたら駄目よ。」
驚いた。こんなことをセアラに注意されるのは、初めて同じ晩餐会に出た時以来だ。
「どうしたの?」
「とにかく気をつけて。約束して。」
「するわ。」
即答する。とても初歩的なことだ。けれど疑問に思う。
「するけど、これが緊張するようなこと?」
陛下への挨拶の後と言われるほど、緊張するようなことではない。
「本題はここからよ。この間…あ、うそ、来た。」
セアラの視線がふいにずれた。
誰が来たのかと思って視線を追った時には、彼が側にいた。
「お邪魔をしてもよろしいですか? セアラ。よろしければご一緒におられるご令嬢を紹介して頂けないでしょうか。」
カイル・キルティ卿だった。
この間最後に見せてくれた優しい笑顔が、すぐそこにある。
驚きで一歩引き、反射的にセアラを盾にしてしまった。
今日姿を見ることが出来るかもしれないと、ふわふわと思っていた。その人がすぐ目の前にいる。
そしてシンシアの名前を尋ねてくれた。セアラの研究室で会ったことは誰にも言わないことになっているから、対外的には今日が初対面だ。
セアラのひそめた声が、キルティ卿に向けられる。
「ひと息で言ったわね。もう少し手順を踏みなさいよ。」
キルティ卿の声もひそめられた。
「手順は踏んだ。君の言った通りにな。」
セアラの言った通りとは何だろう。
シンシアがそっと彼女を見ると、疑わしそうな顔でカイルを見た後、会場に目を走らせ始めた。すぐに視線は止まり、その方向に会釈をする。
それからセアラは大きくため息をついた。
「シンシア、こちらキルティ侯爵のご子息カイル様。」
紹介してくれるようだ。これで本当にお知り合いになれる。どうしようとシンシアは動揺した。
ただ、セアラの声がどこか投げやりに聞こえるのが気になる。シンシアに紹介したくないのだろうか。
「子供の頃からの知り合いだけど、ご自分に都合の良い時だけ、私を友人扱いする方なの。行政機関にお勤めで、今は自分が侯爵家を継ぐ時に、領地管理をしてくれる都合のいい奥方を探しておられるわ。」
「セアラ!」
非難のこもった声がカイルから投げられたが、セアラは知らぬ顔をしている。
この間会った時、ふたりが友人に見えなかったのを思いだした。
キルティ卿は、今は留学中の第一王子の側近と言われている。セアラは第二王子であるレンカート殿下と親しい。だから子どもの頃からの知り合いなのは間違いないだろう。
「カイル。」
彼に向き直った時、セアラの声は低く、真剣なものに変っていた。
「ケルティ子爵のご息女シンシアさんです。私の大事なお友達です。もう一度言っておきます。大事なお友達です。」
重ねて言われた。
ふたりは互いを見ていたが、どうみても甘い雰囲気はなく、無表情だ。
何故だか、勝負をしているような気迫がある。
どうしたらいいのだろう。シンシアが不安に感じ始めた頃、キルティ卿の方が目をそらした。
「よくわかっている。セアラ。」
セアラの肩からも力が抜けた。
「ありがとう、カイル。」
口調も気安いものになった。妙な緊迫感がなくなってシンシアはほっとした。
けれどセアラは、今度はシンシアの目を捕えると言い聞かせ始める。
「甘い言葉に騙されちゃ駄目よ、シンシア。この人は便利に使えるご令嬢を探しているんだから。」
「セアラ」
キルティ卿が、少し情けない顔になっている。
シンシアは焦って言葉を絞り出した。
「つまり、それは、領地管理ができる有能な方をお探し、ということですよね。」
「人が良すぎよ、シンシア。」
セアラにはため息をつかれたが、カイルは喜んだようだ。
「シンシアと、お呼びしてもよろしいですか?」
どこから見ても端整なカイルに優しく言われて、否と言えるわけがない。
「はい。」
「では、私のこともカイルとよんでください。」
ついセアラを見てしまった。意外な事にすぐに頷いてくれた。残念そうな顔をしてはいたが。
それでも安心できる。本当に駄目な人なら、セアラはもっと上手に逃げるはずだと思う。
「はい。」
小さな声になってしまったが、カイルがいっそう嬉しそうな顔をした。
甘い言葉に騙されちゃ駄目と言われたばかりだが、騙されてもいいと言っていたどこかのご令嬢の言葉が身にしみてわかった。
「では、踊って頂けますか?」
心がふわりと浮きあがる。けれど、シンシアには出来ないことがある。
「大丈夫。」
セアラが、シンシアの右腕にそっと触れた。
「カイルは知ってるから。」
「無理はさせません。」
キルティ卿がそう言って、手を差し出してくれる。
躊躇いながら、シンシアも手を伸ばした。
「仕方がないわ。楽しんできて、シンシア。」
そんな言葉でセアラが送りだしてくれた。
今、自分の手を取ってくれているのが本当にキルティ卿なのか、シンシアは確かめずにはいられなくて、何度も視線を上げてしまう。
「大丈夫です。迷子にはさせません。」
優しい声で、シンシアに話しかけ、微笑んでくれる。
たくさんの人の間をすり抜け、ダンスフロアへと向かう。
歩みはゆっくりだが、鼓動が早まったまま、なかなか元に戻らない。
最初は他の人の視線が気になった。シンシアがそうだったように、キルティ卿のことを見ている女性はたくさんいるはずだ。一緒にいる自分のことをどんなふうに思うだろう。
けれどすぐにキルティ卿に次々に質問されて、答える方に気を取られた。
好きな花、好きな季節、音楽に誕生日。家族のことは当たり障りのないよう答えた。キルティ卿のお母さまが三年前になくなっているのを初めて知った。
そうして話しているうちに、とうとう心の中のふわふわしたものに名前がついてしまった。
恋だ。
自分はこの人が好きなのだ。
詩と物語のどちらが好きかと言う話が出た所で、ダンスフロアにたどり着いた。
音楽が始まったところだった。シンシアはキルティ卿に誘われるまま、踊り始める。
「私とセアラが険悪なので、驚いたでしょう。」
ステップが曲に乗ると、キルティ卿が話を変えた。
「はい。」
シンシアはごまかさなかった。
「でも、完全に反目されているようも思えませんでした。」
苦笑された。
「十年以上前になります。子どもの頃に人前で、私の間違いを彼女に指摘されたんです。私は誇りをズタズタにされた気がしたものです。何才も年下の女の子にやりこまれたんですから。それ以来、私は彼女を目の敵にするようになりました。」
あまりに正直な告白に、シンシアは目を見張る。
「けれど、セアラは変わらないんです。いや変わったかな。いつの頃からか、人前では言わなくなった。袖を引いて小さな声で指摘するんです。」
「指摘はするんですね。」
なんだかセアラらしい。
「自分に腹が立つんです。彼女が気付いたことに、どうして自分が気付かないのかと。」
キルティ卿は少し肩をすくめた。
「それで、彼女が誰にでも好き勝手なことを言うのを理由に、八つ当たりをするわけです。逆恨み、かな。どちらにしろ、私は器の小さい男なのです。」
「まさか、そんな…」
シンシアは何を言っていいのかわからなくなる。
黒髪に茶色の瞳。端整な顔立ち。第二王子の側近。そして自分を小さいと言う人。
シンシアは短く伝えた。誰が聞いているとは知れない場所では、何にとは言えない。
「私は感謝しています。」
「あなたは優しい人ですね。」
穏やかな笑顔に、シンシアが返した笑顔は少し困り顔に見えていただろう。
足が地についていないような気分でのダンスだったけれど、キルティ卿のリードのおかげで、なんとか様になっていると思う。
けれど、落ち着かないふわふわとした感じとは別に、緊張感から安全な場所に逃げ込みたいという気分もある。
セアラの警告も心のどこかで引っかかっている。
甘い言葉にぼんやりさせられてはいけない。
でもそれは無理。
「シンシア、これからもお誘いしてもよろしいですか?」
「え?」
一瞬本気にとった自分を、愚かだと思う。侯爵家の嫡男が、子爵の娘を相手になんてしない。
社交辞令だ。
「はい。喜んで。」
社交辞令で返す。
それでも彼はとても嬉しそうに笑ってくれた。
曲が終わる。
キルティ卿がシンシアの目を見つめてくる。
「これからの夜会のダンスは、私のために誰とも踊らないでください。」
ふわりと心が舞い上がる言葉だ。けれど、シンシアには少し苦い言葉でもある。
肩に負担をかけないように、踊らないことの方が多い。それをそのまま伝えることにした。
「私は肩のことがありますから、出来るだけダンスは控えております。」
急に彼の目に陰りが出来た。
「すみません。負担を強いるつもりではないのです。」
誠実な言葉のように思えた。
「大丈夫です。わかっています。今日はありがとうございました。」
シンシアは丁寧に礼をして、他の踊り手たちに場所を譲るため、この場を離れようとした。
キルティ卿が慌ててついてきる。
「シンシア、もう少し一緒にいられませんか?」
出来るなら、もちろんそうしたい。でも心はいろんなもので満ち、揺れ動いている。これを一度落ち着けないことには、どんな失敗をするかわからない。
嫌われないように、この場を離れる理由を必死で考える。アルティアは姿が見えない。けれどオーガス侯爵夫人がひとりでいるのを見つけた。
「私、今日はまだ、セアラとしか話をしていないのです。ご挨拶をしなければいけない方々がいらっしゃいますので……。」
うまく笑顔になれた自信がない。若いメイドたちとあんなに練習したのに。
「では、その方の近くまでお送りしましょう。」
これは礼儀上断れない。
「お手紙を差し上げてもいいでしょうか。」
キルティ卿の言葉に、思わず彼を見上げた。
家に手紙が来ると言うことは、家族に知られてもいいということだ。
これも社交辞令なのだろうか。
どちらにしても、シンシアに返せる言葉は一つだ。
「はい。」
「ありがとう。」
自分の言葉でこんなに喜んでもらえたら、本当に勘違いをしそうだ。
オーガス侯爵夫人が、シンシアに気付いて、小さく手を上げてくれた。それをきっかけにして、シンシアは自分で終わりを決めた。
「では、ここで。ありがとうございました。」
「今夜中にでも、機会があればもう一度お話しましょう。」
「はい。」
シンシアは、笑顔を心がけて礼をすると、すぐにオーガス侯爵夫人の側へと歩き出した。
緊張感が続いてる。振り返ることもできず、ただ走ってしまわないよう気をつけた。
「ご機嫌いかがでしょうか。オーガス侯爵夫人。」
「楽しく過ごさせて頂いているわ。シンシア。」
安全地帯に逃げ込んで来た子猫のような気分だ。
オーガス夫人の声を聞けて、やっと息ができるような気がした。
そして気付いた。セアラが陛下へのご挨拶の後で言うつもりだったのは、キルティ卿がダンスに誘いに来るということだったのか。
「まだ、カイル・キルティがこちらを見てるわよ。」
オーガス侯爵夫人にそっと小声で言われて、また肩に力が入った。
振り返ると、彼が笑顔になって会釈し、それから人の波の中に消えた。
それを見送っているとアルティアに声を掛けられた。
「シンシア。」
呼ばれて振り返ると、幼馴染みが目をきらめかせている。
礼儀作法に重んじるカース家の人たちは、どんな時でも省略することなくきちんと挨拶をする。アルティアもその例にもれないが、いつもより幾分早口だ。それが終わると待ちきれないというように話しだした。
「話を聞かせて、シンシア。いつキルティ卿とお知り合いになったの? ダンスをしている姿、とても素敵だったわ。それに今日のドレス、とても手が込んでいるわね。どこで手に入れたの?」
オーガス侯爵夫人がいなかったら、アルティアの攻勢は止まらなかったかも知れない。
「慌てないで、アルティア。ひとつずつ聞きましょう。いつお知り合いになったの?」
「ついさっきです。」
シンシアは、なんだか力尽きたような気分だ。
「セアラと話していたら、突然。驚きました。何だか泣いてしまいそうな気分です。」
「あらあら、そんなに怖い思いをしたの? 踊っているのを見ていたわよ。楽しそうに見えたけど。」
「楽しい…というか、とてもとても緊張しました。オーガス侯爵夫人がここにいて下さって良かったです。」
可愛らしいことと言って、侯爵夫人は品良く笑う。
アルティアは落ち着きを取り戻し、朗らかに微笑んでいる。
「春の夜会で素敵な殿方と出会えるなんて物語みたいね。」
「アルティア、他人事だと思って楽しんでるわね。」
「若い方といるといいわねぇ。私までわくわくしてくるわ。」
侯爵夫人はそう言うが、シンシアとしては、ひりひりきりきりといった気分だ。
「いつもご令嬢方に囲まれているカイル・キルティ卿が追いかけてくるなんて、なんだか勝ち誇った気分になれるわね。」
「全くですわ、侯爵夫人。私、意地悪なご令嬢たちに悩む主人公を支える親友役、立派に務めますわ。」
「主人公って誰なの? アルティア。」
完全に遊ばれている。けれど全く嫉妬したようすのないアルティアに、自分たちは似ていると思う。立場が逆なら、シンシアも同じことをアルティアに言っただろう。
「一緒にいてもケルター子爵はとやかく言わないと思うけれど」
オーガス侯爵夫人が少し声をひそめた。領地が隣接している両家はまだ仲たがいをしたままだ。
「ご婦人専用のお部屋に行きましょうよ。ゆっくり聞かせて頂戴。」
オーガス侯爵夫人は好奇心を全く隠さない。
さぁ行きましょう、とオーガス侯爵夫人に左側の腕をしっかり組まれた時だった。
目の前に、険しい顔をしたローク・カティスが立った。