向かい風のむこう 2
「来たわ。」
セアラの声が小さくなった。
「大丈夫だからね。」
セアラは重ねてそう言い、シンシアを残して応接室に戻って行った。
少しだけドアから向こうを覗きこんでセアラの背を見送ってから、シンシアは椅子に座りなおして深呼吸を繰り返す。
ケルター領にやってきた二人組が、今、研究室のドアのすぐ向こうにいる。
ふわふわと動きだす心を叱咤する。
今はケルター領のことだけを考えると自分に言い聞かせた。
「どなたでしょう?」
セアラの問いかけにドアの向こうから、バラカとキルティですという返事があった。
「どうぞお入りください。」
ドアの開く音がする。
バゼス・バラカはケルター領に来た二人の内、年長者の方だ。
四十一才の男爵だと、セアラが教えてくれた。ケルターの食堂の女将が言っていた通り、生活の差は年齢に表れるらしい。
カイル・キルティのことはオーガス侯爵夫人から聞いて知っている。侯爵家の後継者で、歳は二十一。
「どうぞ、おかけになってください。お茶を淹れます。」
彼らがソファに掛けた音と、セアラがお茶の準備をする音が聞こえてきた。
「セアラ殿。随分な呼び出し状をくださいましたな。」
聞かされていた通り、訪問者の声はどう聞いても好意的ではない。
「お茶の準備をしながらお話してもよろしいでしょうか。」
セアラは礼儀正しく尋ねている。
「どうぞ。」
短い返答にシンシアは怯む。相手の顔を見る事が出来ないからよけいに心配が募る。
「お忙しい所をお運びいただきありがとうございます。」
セアラは丁寧に言ったようだが、返ってきたのはさっきより若い厳しい声だった。
「来なければ殿下に報告するなど、脅迫まがいのことを申されたこと、私からすでに殿下にお伝えいたしました。」
これがカイル・キルティ卿。シンシアの頭の中でふわふわ浮かんでいた人と現実は違う。
胸が苦しい。
そして言われたことに動揺する。殿下は本当に知らない振りをしてくれたのだろうか。
「そうですか。では、私も殿下にお話ししなければいけませんね。」
セアラの声は、叱責されているのに淡々とした様子だ。殿下はすでに知っているとは言わない。
「ご自分のお立場をお分かりか。あなたは専横が過ぎる。」
キルティ卿の声は攻撃的だ。それでもセアラの冷静さは失われない。
「私の言葉が足りなかったようです。それについてはお詫びいたします。」
「では、我々はこれで失礼する。脅迫には屈しない。」
最初に聞いた声、バラカ男爵だ。
「おかしな話ですね。」
セアラは本当に平静だ。シンシアは、自分だったら固まって動けないかもしれないと思う。
「脅迫に屈するつもりがなく、殿下にすでにお伝えされたのなら、どうしてここに来られたのですか? そんな必要はないでしょう。」
「我々はあなたに忠告に来たのです。またこんなことをしたら、痛い目に合わせますよ。」
そうキルティ卿が言い、バラカの声が続いた。
「詫びを聞きましたから、もう結構です。これからは大人しくお過ごしなさい。」
「これ、どう思われます?」
セアラの声で、場が静かになった。
「私の言葉が足りなかったようです。それについてはお詫びいたします。」
さっきと同じことを謝っている。そこから、やり直しだとでもいうように。
「それは、なんですか。」
バラカ男爵が差しているのは、もしかしたらあの似顔絵だろうか。けれど彼の言葉に返事はなかった。
「来て下さらなければ殿下にご報告すると手紙で申し上げたのは、お二人もご存じの通り、私が今、殿下の直属の配下となっているからです。監査部の方々からケルター領の件からは外されましたから、私が得た情報はまず殿下にお渡しするのが筋。」
セアラから淀むことなく言葉が滑り出てくる。
直属の配下と言うのは、内宮の侍女だからということだろうか、シンシアは黙って聞いているしかない。
「ケルター家のご令嬢と親しいことを理由に、私を排除してまでお決めになった内偵を行う方々が、ケルター領で不審人物として認識され、すでにケルター子爵家の方に監査部の内偵があったと知られていること。私は失態だと思ったものですから、殿下にお話しする前に、お伝えしたかったのですが」
一瞬の間。
「そうですね。これが失態だと思ったのは私の早計だったかもしれません。」
失態失態と繰り返してる。
「すでに、殿下に私と会うことをお話しされたのでしたら、私もおふたりではなく、直接殿下にご相談申し上げます。その方が何事も早く済みます。」
怖い。監査のふたりではなく、セアラが怖い。
シンシアは思い出していた。セアラは最初に『がつん』をすると言っていた。
これが『がつん』なのだろうか。
「ケルター家の者が知っていると?」
バラカ男爵がいぶかしげに聞いている。
「キルティ卿は、社交の場ではとても目立っていらっしゃいますもの。監査部にお勤めということも、誰もが知っています。」
こんな目立つ人に内偵をさせるなんて真面目に仕事をする気がないんじゃないかしら、と前に会った時は言っていたが、今はそこまで言わないようだ。
「お茶が冷めてしましました。淹れ直しますわ。どうぞ、こちらをお召し上がりください。」
オレンジだ、と思った。
こんな時だが、知り合い以外の人に食べてもらうのは初めてだ。こんな状況でも美味しいと思ってもらえるだろうかと、シンシアは心配になった。
「キルティ卿、私の専横が過ぎるとお思いなら、殿下にそう仰ってください。」
お茶を注ぐ音に、セアラの声が重なる。
「この研究室は、私の言動を抑えるために与えられたものと理解しております。王城から去らせていただければ、私はここに閉じ籠ります。」
先刻ふたりで話していた時もそう言っていた。
けれどそれには触れられず、急に話題が変わった。
「……このオレンジ、ガザ・オレンジではありませんね。」
キルティ卿だ。声から険しかったものが消えている。
あの人がすぐそこにいて、シンシアのオレンジを食べてくれた。
美味しいと思ってもらえたのだろうか。オレンジの最高峰といわれるガザ・オレンジが引き合いにだされたのなら、悪くない評価を得られたと思っていいだろうか。
こんな時なのに、キルティ卿の言動が気になる。
「ケルター領で出来たものです。毎年、シンシアさんが私にくださいますの。」
「ケルター領で?」
「そうです。今年は王都に出荷をしようと考えているようです。」
カップが置かれる音がして、セアラがソファに座る音が続いた。
「私のような小娘にあれこれ言われることが、気分の良いことではないというのはわかっています。けれど悪意を持って行動していると思われるのは心外です。」
脅迫と言われたことへの抗議だ。
セアラの、彼らへの言葉だけ聞いていると、失態をかばうつもりだったと聞こえる。
本当にそうなのかもしれない。殿下は知らないことになっている。この『失態』はなかったことになる。
あぁでも彼らは自分で殿下に言ってしまっているのだった。セアラは殿下に似顔絵のことを言ったのだろうか。
「本当に、私が差し上げた手紙こと、殿下にお話しになったのですか?」
セアラがそう聞いたから、シンシアは驚いた。
大きく息を吐いているのが聞こえた。バラカ男爵のようだ。
「言っていない。」
では、嘘を言ってセアラを怖がらせようとしただけなのか。十八才の女の子相手によくそんなことが出来ると、シンシアは初めて怒りがわいてきた。
けれど、セアラは淡々とした声のままだ。全く気にした様子はない。
「では、監査部主導で事を運んで頂けますね。殿下にお話すれば、税務管理部を動かされるでしょうから、案件は監査部から離れます。」
監査ではなく、税務管理の手柄になると言うことだと、シンシアにもわかる。
「そういう言い方が、脅迫的だというんです。」
キルティ卿の声がまた不機嫌になる。
「信用されていないようですから、念を押してお願いしたくなるのです。」
「わかりました。聞きましょう。あなたの相談と言うのを。」
バラカ男爵の声に諦めを感じた。
「ありがとうございます。」
セアラの声が明るくなる。
「会っていただきたい方がいるのです。」
シンシアの心臓がとてつもない速さで走りだす。
出番がやって来た。ここで座り続けているわけにはいかない。
立ち上がったとたん、ふらついた。なんとか足に力をいれて、歩き出す。きっとみっともない動きになっているに違いないと思う。
こわばる顔を、笑顔にすることは出来なかった。怯えたように見えるかもしれない。
ドアをくぐった。セアラだけを見る。
セアラは勇気づけるように小さく頷くと、大人二人に向き直った。
彼らは、女性が現れたと知ると同時に席を立っていた。これも貴族社会の『仕来り』だ。相手が貴族であれば身分を問わず、殿方は立っている女性の前では座らない。女性を弱きものとし、守るのが使命だという考え方のためだ。
「シンシア・ケルター嬢です。」
セアラに紹介されて、シンシアはなんとか視線を二人に向ける。
父と年齢の近いバゼス・バラカ男爵。端整なカイル・キルティ卿。
「シンシア、バゼス・バラカ男爵と、カイル・キルティ卿です。」
とても短い紹介だ。
シンシアは、二人に向かって深く腰を落とし、礼を示した。
「お初にお目にかかります。シンシア・ケルターです。本日は私の父ケルターが治める領土について、ご相談させていただきたく、ご無理を申しあげました。どうかお許しいただき、お力をお貸しいただきたく、お願い申しあげます。」
声は震えていた。顔もきっと泣き出しそうになっているだろう。
「我々の事を知ったケルター家の方というのは、シンシア殿ですか」
バラカ男爵に、シンシアは小さくはいと答えた。
「皆さま、おかけください。」
セアラだけが朗らかだ。シンシアのためのお茶の追加をすぐに用意してくれる。
テーブルの上のオレンジはなくなって、皿だけが残っていた。
嬉しい。
食べてもらえたことが、シンシアの心の中に力を注ぎこんでくれた。
「おふたりが協力して下さるなら、ケルター子爵が納税できる可能性は出てきます。」
セアラが本題に入る。
バラカ男爵が右側の眉だけを上げた。
「と、言うと?」
「ケルター領は、貧しいですが、治安がいいでしょう。シンシアが領内をまわるからです。危険な場所がないよう、彼ら自身が気を付けるようになった。職の無い者に支援をしたのも大きい。果樹園も、手工芸もシンシアが力を注いだものです。領民たちが少しでも読み書きが出来るように、教師を雇い、各村を回らせているのも彼女です。」
セアラの説得の声は先ほどのやり取りとはまるで違った。生真面目で真剣だ。
「シンシア嬢のことは、多くの者たちから聞きました。しかし、申し訳ないが、隠し事を白日にさらすのが我らの役目です。」
バラカ男爵も、シンシアが現れてから明らかに声が穏やかになった。
セアラははっきりと言ってくれる。
「ですが、名を貶めるような方法はとって頂きたくないのです。ケルター子爵は脱税をしたわけではないのですから、穏便にことを収めて頂きたいのです。」
セアラの嘆願に、シンシアも気持ちが高ぶって、勝手に目がうるんでくる。
バラカ男爵が、ため息をつきつつ言った。
「ケルター子爵には、人頭税の減税申請をするよう勧めます。」
「それだけで何とかなるとお思いになりますか?」
間髪をいれずにセアラが聞く。バラカ男爵の視線が、少しだけシンシアに向き、すぐそらされた。
セアラも、それに気付いただろう。
「シンシアはわかっています。ケルター子爵家の資産状況を。だから憂いているのです。」
バラカ男爵はまたため息をついた。
「ケルター子爵は、外務省で仕事をお持ちの上、領地管理者も兼ねておられる。領地管理者を今すぐ新たに置かれるようお話するつもりです。そうすれは管理者変更の特例により、一年、納税を先延ばしに出来ます。その間に算段を付けられるようお勧めする。」
「算段とは?」
「それはケルター子爵家の問題です。」
案なしと言うことなのだろう。彼らの仕事は、摘発することと、警告することで、その後の面倒を見ることは含まれない。
セアラが言っていた、同じことを考えているかもという推測は外れたようだ。
「シンシアを管理者変更決定の場に呼んでください。」
セアラのお願いに、男爵がしばらく沈黙した。
「当主の奥方が領地管理者になるということはありますが、ご令嬢という例は…。」
「管理者にして頂きたいわけではありません。」
セアラにまかせっきりだが、二人の話す速さにシンシアはついていけない。
「ケルター子爵に領地管理者の変更をお勧めになった後、別の日に確認されるでしょう。その方がケルター子爵家を傾けさせない方法をお持ちならそれでいいのです。ですが、ないのなら、シンシアを呼んでください。」
「シンシア殿にはその案があると?」
セアラが頷いた。
「私が考えました。けれどシンシアの実績があってこその案です。」
『忘れられた法』のことはふたりで思いついたことだ。けれどセアラがシンシアの家族の事を慮って、シンシアの名を伏せてくれた。
ケルター子爵領の今後に関しては、シンシアが今育てきれていない事業を持ち出す。
バラカ男爵が、腕を組み、セアラに目を据える。
「何故そんな面倒な事をするのです。シンシア殿が直接お父上にお話しになればいいでしょう。」
「ケルター子爵が、忠告に耳を傾けるような方なら、子爵家を困窮させることもなかったでしょう。」
「その子爵家を立て直すと?」
「先ほども申しましたが、立て直しはもうシンシアが始めています。次の管理者が引き継げばいいことです。私が出すのは、税を納める方法です。」
「家を傾けずに、ですか?」
キルティ卿が聞いてきた。シンシアが入ってから初めて口を開いた。
もし目があったりしたら真っ赤になってしまうかもしれない。そう思うと、シンシアは彼を直視できない。
「監査の方がお力を貸して下さるのなら。」
セアラの声にも力が入っていた。
バラカ男爵が何度目かの大きなため息をした。
「一応、お聞きしましょう。その案とやらを。」
ここでシンシアが話せなくても、セアラが何とかしてくれるはずだ。
けれど、これが自分で考えたことでなくても、自分で話せなければ一生悔いが残ると思う。
セアラが、シンシアを見た。気づかわしげな色をその目に見る。
シンシアは彼女に大きく頷づく。
晴れやかな笑顔が返ってきた。
「では、今後の立て直し案から。シンシアがご説明します。」
セアラの言葉を受けて、シンシアは、花の刺繍が美しい手提げ袋から、厳しい数字の並んだ資料を取りだし彼に差し出した。
「お話します。」
声はまだ震えている。
けれどもう、後戻りはできない。
馬車の中に入り、座り込むと同時に脱力した。
「シンシア様、大丈夫ですか?」
キリカが慌てて様子を聞いてくる。
今日は、セアラは同乗しない。監査の人たちの馬車に乗せてもらうのだそうだ。
どうせ帰る先は同じ王城だからとセアラは言ったが、自分だったらそんな度胸は全くない。
「ねぇ、キリカはもしかして知っているかしら。」
「なんでしょう。」
シンシアが何かを尋ねる時、キリカはいつも真面目な顔をする。
「『がつん』ってどういう意味かしら。」
「はい?」
キリカが眉をひそめた。
「『最初にがつんとする』のだそうよ。『がつん』って何か知ってる?」
「セアラ様ですか…」
キリカが額に手を当てている。
「シンシア様がお知りになる必要はないと思いますが、他の方に聞いて回られても困りますのでお答えします。」
シンシアは、頼もしい侍女に期待の目を向けた。
向けられた方は、少し怒っているように見える。
「たとえば喧嘩などで最初に大きな一撃を与える事を、そう表現します。けれど、シンシア様は絶対にお使いにならないでくださいね。」
キリカは念を押した。
「絶対だめです。」
「わかったわ。」
勢いに押されて頷く。
『がつん』は『大きな一撃』を指す言葉だったということか、とシンシアは納得する。
けれど、今日は最初から最後まで『大きな一撃』だったように思う。
セアラはすごいと思うけど、自分には出来なくていいことだ。心が持たない。
結局、シンシアを領地管理者決定の場に出さないと決まった。管理部のふたりに全部渡してしまう。
ふたつとも話の流れで自然に決まったように見えたけれど、こちらの思惑通りだ。
シンシアは父の前であの話は出来そうにないし、セアラは面倒な手続きをしたくない。
管理部が手柄を欲しがるに違いないと読んだセアラの筋書き通りになった。
「なんだか今日、キリカがセアラを警戒する気持ちが初めて分かったわ。」
つい、口にしてしまった。
キリカが我が意を得たりと大きく頷く。
「そうでしょう。シンシア様にそんな言葉を教えるような人、気を付けてください。」
「けど、それと同時に」
シンシアはまだ明るい陽射しがさしている外を、馬車の窓から見た。
「とても格好いいと思ってしまうの。」
ケルター子爵家が没落を避けられそうなのは、セアラのおかげだ。
セアラのような度胸は、シンシアにはない。
「いけませんよ、シンシア様。」
キリカがまた言葉使いについて言い始める。
それを聞き流しながら、目を閉じた。
「大丈夫よ。私はあんなふうにはなれないわ。」
言いながら、シンシアは今日のセアラにぴったりの言葉を見つけた。
相手を手玉に取る、というのよね。
本当にそんなこと出来なくていいと思う。
キルティ卿とは、最後の挨拶でやっとまともに顔を合わせられた。
こんなに不躾な事をしたのに、優しい笑みを見せてもらえた。
社交辞令ってすばらしい。
シンシアは、またふわふわと現実的でない彼を心の中に取り戻した。