向かい風のむこう 1
監査部を巻き込み、忘れ去られた法で起死回生を狙う。
その朝、目が覚めて一番最初に考えたのは、あの人に会えるということだった。
どこかふわふわとした期待と、現実にしなければいけないことの圧力で、心が揺さぶられる。
三日後は王家主催の夜会だ。その日を落ち着いて迎えられるようにと、セアラが今日を選んだ。
木漏れ日が濃淡の影を落とす昼下がり。
シンシアはひとり、学院内のセアラの研究室に向かっていた。
キリカは、学内のカフェテリアで待たせている。今日の話は聞かせられない。カフェテリアは男女別にあるので、安心して待っていてもらえる。
この学院の生徒に混ざっても、シンシアやキリカが目立つことはない。みんな同じ世代で、貴族も庶民もいる。
卒業が早すぎたのかもしれない。
法的に大人と言う立場を手に入れたけれど、心は十六才の女の子でしかない。
シンシアは、立場が上の大人相手と渡り合ったことがない。
領民たちや、ランクールの会長とやりあった時は、身分の壁がシンシアを守っていた。貴族らしい気位の高さに気を付けていればよかった。
けれど今日の相手は違う。
『全ては手の内にあり』とセアラは言っていたけれど、十代の少女である自分たちが大人相手に叶うとはとても思えない。いくら彼女が行政部門の大人たちに交じって、働いたことがあったとしてもだ。
今回は、下働きではない。
本当に大丈夫なのだろうか。
気が進まなければ来なくていいとセアラは言った。そんなふうに言われると余計に怖くなる。
けれど怖いことなら尚のこと、セアラをひとりにはできない。たとえ側にいる事しか出来なくても。
これはケルター家の問題だ。
涼やかな風がシンシアの茶色の髪を揺らす。
緊張する。ゆっくり息をして、と自分に言い聞かせながら歩く。
似顔絵の、監査部のふたりは、ケルター子爵領の件で内密の相談に乗ってほしいというセアラの手紙に応えて来てくれるはずだ。
最初はセアラひとりで話し、シンシアは彼女に呼ばれてから紹介してもらうことになっている。シンシアが緊張で何も話せなければ、セアラが代わりを請け負ってくれる。
だけどシンシアが、セアラの後ろに隠れるわけにはいかない。
研究棟に入り、セアラの部屋の前に来ると大きく深呼吸をしてから、ノックをした。
「ごきげんよう、シンシア。」
微笑むアラはいつもと変わりなく見える。
シンシアも挨拶を返してから、部屋の中を見回した。
今日は侍女のキリカがいないので、セアラがお茶を淹れる。そのセットの乗ったワゴンの上に、オレンジがあった。
「オレンジ」
シンシアが口にすると、セアラが大事そうに手にとった。
「食べてもらおうと思って。これも彼らが知らないシンシアの実績でしょう。」
ケルター子爵家の飛び地シアーズで栽培されているオレンジのことは、誰にも言ってはいけないと関わるものすべてに約束させている。見知らぬ人に話したりしていないと聞いていた。
「私の実績?」
「そうよ。シンシアの努力の結実のひとつ。」
「おおげさよ。」
セアラの言葉につい笑ってしまったが、軽やかにと言う訳にはいかない。緊張している。
「そのオレンジはセアラが作ったようなものじゃない。」
「私は、苗木を手に入れ、あなたに送りつけただけ。実を付けさせたのは、シンシアとシアーズの領民たちでしょう。」
「でも…」
セアラに出会わなければ、このオレンジはここになかったと言いたかったのに、彼女は口元に一本指を立てた。
黙ってという仕草だ。そしてセアラは微笑んで言った。
「私は思いついただけ。実行できたのは、あなたの意志のおかげ。」
そうなのだろうか。セアラは苗木を植える場所まで指定してきたのに。
納得できずにいるシンシアに気付いたのか、セアラは話題を変えた。
「ではこの件は、苗木をくれたオーガス侯爵夫人も交えて、別の機会に話しましょう。今はまず、これから来る人たちの事よ。」
ソファを勧められて座ると、向かい側に座ったセアラは申し訳なさそうに言った。
「実は、シンシアを怖がらせないために言っていなかったのだけど、今日来る人たち、怒っているかもしれないの。」
言葉がすぐに出て来なかった。そうでなくても怖いのに、相手は怒ってる?
「…どういうこと?」
「自分たちが追いだした私からの呼び出しよ。あの人たち、来ないかもしれないと思って。来なければレンカート殿下に相談するって書いたの。」
内宮に住む方の名が出てきて、シンシアはめまいがしそうだった。
セアラと第二王子であるレンカート殿下は、同い年の幼馴染だ。セアラの兄が第一王子と同い年で、学友として内宮に出入りしていたのが縁だと聞いている。
シンシアが王立学院在学中、殿下も在籍していたが、出会わないように気をつけていた。顔を覚えてもらおうなどという野心はない。厄介事の匂いしか感じないからだ。
「監査部は国王陛下直轄機関だけど、レンカート殿下が陛下の代理を務められることもあるの。今回もそう。監査の彼らとしては、私から殿下に話を持っていかれるのは困ると思うのよね。」
セアラはのんびりとして見えるが、シンシアは悲鳴を上げたいような気分だ。
「大丈夫なの? そんなこと書いて。」
「大丈夫。」
「その自信はどこからくるの?!」
思わず声が大きくなるのを、シンシアは抑えきれなかった。
セアラはあっさりと言う
「もう、殿下は知ってるから。」
「え?」
今度は固まる。
「私、見習いとはいえ内宮の侍女だから。殿下とは、ほぼ毎日顔を合わせるのよ。彼らに手紙を出す前に報告済みなの。けれど彼らはそれを知らない。殿下も知らないふりをしてくれる。」
「どういうこと? よくわからないわ。」
「内宮の侍女が手柄を上げても仕方ないでしょう。殿下が管理している監査の者が実績を上げれば、殿下の評価も上がるわ。殿下と私たちの利害は一致するの。」
実績、評価、利害。
シンシアが今まで考えていたような実績や利益とは違うものを感じる。実績は積み上げるもの。利益は結果として得られるもの。
それ自体を取引材料にしようと考えたことはなかった。
「セアラ、ケルター子爵領の話をするのよね。それが、どうして評価とか利害とかの話になるの?」
「私は、ケルター子爵家が持ちこたえて、生活の苦しい領民に重税を課さずに済めば、それでいいと思ってる。私の計画が、誰の実績になっても構わないわ。シンシアも気にしないでしょう?」
セアラの笑みには、迷いがないように見えた。
「それにね、シンシア。私たちと同じような事をすでに監査部は考えているかもしれないわ。」
「殿下は、セアラの計画を知らないの?」
「全部は話してないわ。殿下には、あまり意地の悪いことはするなと言われただけ。でも監査のふたりには感謝されてもいいくらいよ。」
「感謝?」
「『内偵』になっていないこと。失点でしょう。誰にも知られなくないはずよ。」
混乱してきた。
「でも、彼らは怒っているのね。」
「自分たちの失点にまだ気付いていないなら。」
セアラが小さく肩をすくめた。
彼らは確かに思いもしないだろう。あんな似顔絵があるなんて。
「とにかく心配しないで。監査のふたりと私の間で、冷たい言葉が交わされてもね。」
セアラが立ち上がり、お湯を沸かしている炭火を確認しに窓辺に寄っていった。
その姿を見ながら、頭の中を整理する。
内宮に住まう方のお名前まで出てきた。
シンシアは、自分がセアラに危ない橋を渡らせようとしているのではないかと思い始めた。確認せずにいられない。
「セアラは本当に大丈夫なの? 誰かに非難されることはない?」
振り返ったセアラは目を見開いていた。それからとても優しい笑みになる。
「大丈夫よ。それに何かあったとしても、私にはここがある。」
学院の研究室。
「ここに籠ればいいわ。」
なんでもない事にようにセアラは言う。
「シンシア、驚かせてごめんなさい。そろそろ時間だわ。奥の部屋に移動して。」
事はもう始まり、約束の時間は迫っている。もうなかったことには出来ない。
ふたつの部屋を繋ぐドアが、今日は開かれている。
シンシアは、促されるままに奥の研究室に入った。
応接室から見えないよう、ドアの横に椅子が置かれている。
「腕の飾り布を取るわね。」
セアラが、結び目を解いてくれた。
この学院内では、腕を支えるための飾り布を外したことはない。家でのんびり過ごすのとは違い、学院内ではたくさんの事をしなければならない。腕を支えるものはどうしても必要だった。入学したばかりの頃、何度か理由を聞かれて、幼い頃の事故のせいだとだけ答えたが、それ以上は追及されなかったし、早いうちに質問されることもなくなった。
けれど、今日の客人の前では外さなければならない。
「きれいよね。」
セアラが、夏の花が刺繍された布を見ている。
「袖口や襟だけなら、刺繍もたくさんせずに済むし、いいかも。」
「今は、刺繍より、レースが流行りでしょう?」
シンシアは自分のために用意された椅子に座りながら、今、そんなことを言い出すセアラを呆れたらいいのか、すごいと思えばいいのかわからなくなる。
「冬のコートのことよ。後で話しましょう。」
冬。
冬なら、レースより刺繍の方が飾りとしてはいいだろう。
「でもセアラ、まだ夏も来ていないわ。」
夏。
ケルター子爵領のこれからが決まる夏。
「アミタに次に会う時は、冬の話もきっと出るわよ。」
アミタ、オレンジ、秋の花の刺繍、木工細工。
次々に連想されるものを、頭の中から追い出す。
残ったものの中から不意に浮き上がる人の顔。今日、これから会う。ふわふわと頼りない気持ちにされてしまう人。
「やめて。」
シンシアは、声に出したことを何とかごまかす。
「今はそんな先まで考えられない。」
「そうね。ひとつずつ片づけましょう。似顔絵を貸してもらえる?」
飾り布を差し出される。受け取ってから、シンシアは肌身離さず持っている手提げ袋の中から、似顔絵を出してセアラに渡す。
「その袋もとてもきれいよね。」
刺繍の施されたそれを見ながら、セアラが羨ましそうに言った時、ノックの音がした。
始まりの音だ。