前夜
ドレスはすでに出来上がっている。
シンシアが、今思いだしたかのようにそのことを告げたのは、両親が領地から王都に戻る前夜、晩餐も終わりに近づいた頃だった。
今でも若い頃の体形を維持している母が、驚いてダイニングテーブルに身を乗り出してきた。
「まさか『春の夜会』のドレスの事ではないでしょうね。」
シンシアはそっと視線をそらす。
そのまさかだ。
アディード王国で「春の夜会」といえば、春の花が咲き誇る頃に開かれる王家主催の大夜会のことである。
十六才になった貴族の子息、息女に、個人名宛で招待状が届く。
出席してもしなくても、この春の夜会の後に、正式に社交界にデヴューしたとみなされる。成人となるのは十八才からだが、もう子ども扱いはされない。
シンシアにも、今年その招待状が届いた。
国王陛下の紋章と、シンシア・ケルター子爵令嬢という自分の名前。
その招待状を見る時、誰もが深い感動を抱くと聞いていた。けれどシンシアが最初に感じたのは『安堵』だ。
自分のことを忘れられていなくてよかった。
「どうしてなの、シンシア。お母さまは、あなたとドレスを選ぶのを楽しみにしていたのよ。知っているでしょう。社交界デヴューのドレスよ。国王陛下にお目にかけるドレスなのよ。」
母の気持ちなら、シンシアはよく知っている。
「国王陛下にお会いするのは、ドレスを見て頂くためではなく、十六才になったことをご報告し、ご挨拶をするためです。」
シンシアは、まずは訂正をしてから、言い訳に入る。
「それにお母様とは、もう三年もデヴューのためのドレス選びをしているではありませんか。それなのに、あれもダメ、これもダメと言われるばかり。色ひとつ決められなければ不安になります。」
「不安?」
母が心外だというように大きく目を見開く。
シンシアは心を痛めていますという顔を作った。
「そうです。このまま夜会の日まで決まらないのではないかと。」
「何を言っているの。そんなわけないでしょう。」
いいえありますと、シンシアは心の中で断言した。
春の夜会までひと月を切っているのだ。
「今から注文しても、夜会に間に合わないでしょう。」
「それは…、頼んでみなければ、わからないわ。」
母は動揺も露わに視線を泳がせる。最終期限を考えていなかったのだろう。
誰もがドレスを注文する時期なのだ。空きがあるわけがない。
シンシアは、母が自分のドレスはすでに準備しているのを知っている。
けれど母が、決してシンシアを軽んじているわけではないのもわかっている。
母は予定を立てるのが下手なのだ。
それを良く知っているから、実は利用させてもらった。シンシアには、自分の好きにドレスを作りたい理由がある。
「シンシアが、領地をなかなか出て来ないのが悪いのよ。だから決まらなかったのよ。」
責任転嫁をされたが気にしない。両親や兄より、シンシアが領地で過ごす時間は長い。それは事実だ。
「大丈夫です。お母さま。どれもダメなら、何を着ても同じです。」
この勢いで、シンシアは父に顔を向けた。滅多に自分と目を合わさない父が、シンシアは苦手だ。けれど怖気づいているところなど見せたくない。明るい少女に見えるように、声を張り上げた。
「お父さま、ケルター家の娘がデヴューの時につける首飾りを、私もつけていいでしょう。」
父は痩身で、気難しそうに見える風貌をしている。三才年上の兄は父に似ているが、性格は母譲りの大らかなものだから、人に与える印象が全く違う。兄は、年頃のお嬢さま方にそれなりに人気があるのだ。
「そうしなさい。」
素っ気なく返された。
「はい。」
安心した。シンシアが準備したドレスは、その首飾りを身につけると想定して作っている。だめだと言われたら、本気で泣ける。泣き落しも持さない覚悟だったが、あっさりとお許しが出てよかった。
普段から、父はシンシアに関心を向けない。息子がいれば、娘はどうでもいいらしい。けれどそろそろ結婚適齢期を迎えるため、父の言動には油断が出来ない。
父との短い会話でドレスの話は終わらせたかったが、母は諦めなかった。
「では、そのドレスを見せなさい。私が社交デヴューの夜会にふさわしいかどうか確認してあげましょう。」
厳しい口調をしているつもりだろう。けれど、両親に内緒で多くの大人たちと接しているシンシアを従わせるには威厳が足りない。
足りないが、シンシアは正直に答えて困る事もないから、本当のことを言った。
「ドレスはまだ服飾店に預けたままなのです。」
「預けたまま? どこの服飾店なの?」
「ランクール商会を仲介しています。使いたい生地や飾りがあったので。」
「どういうこと?」
訝しげに聞かれて、シンシアは親友の名を出した。細かい事を話し始めたらきりがない。
「セアラ様のご紹介ですから、大丈夫です。私が王都へ着く頃には出来上がっているはずです。すぐにお目にかけますね。」
セアラ・ディパンド伯爵令嬢の兄は、第一王子の学友として有名だ。だから彼女の名を出すと、たいてい母は追及の手を緩めてくれる。
預け先についてはごまかされてくれたが、母の不機嫌さは変わらない。
「母親が娘のデヴュードレスを知らないなんてありえないでしょう。」
仕方がないのと思いつつ、軽い気持ちでシンシアは提案した。
「では、お母さまもドレスをご用意ください。どちらか似あう方を着ます。」
これで母が黙り込んでくれた。
ドレスを決められなかったのは、あれこれ迷うことが楽しいからという単純な理由だとシンシアは思っている。
母が迷わないのは、可愛いものに対してだけである。そして、それについては細かい所にこだわる。
女の子なら金髪でないと『可愛い』という範疇には入れてもらえない。母自身が金髪だからなのかもしれない。
シンシアは確かに特別美人ではないが、髪が茶色い時点で、母にとっては残念な娘なのである。その上、顔は祖母に似ている。祖母はシンシアが物心つく前に亡くなった。けれど几帳面な性格の祖母が、何事にも大らかな母に対して随分厳しかったという話は、シンシアの耳にも入っている。
残念な娘のために、決断力を発揮しなければならないのは苦痛に違いない。
「大丈夫です。最悪でも私が作ったドレスがありますから、ご無理なさらないでください。」
「最悪なものを着せられないわ。」
この言葉に、シンシアは少し心を動かされた。
娘のためなのか、自分のためなのかは分からないが、シンシアにみっともない姿をさせたくはないようだ。母は頑なさを発揮してドレスを作ってしまうかもしれない。
それならそれでいいと、シンシアは思った。最悪なのはドレスがないと言う状態だ。春の夜会で母が選んだドレスを着ることになっても、社交の場は他にもある。シンシアが作ったドレスは一着ではない。使いたい生地や飾りで出来たドレスを披露する機会はまだある。
「ありがとうございます。」
偽りなくお礼を言える事が嬉しい。性格も祖母似だと自認しているシンシアだが、母とは穏やかに話したいと願っている。
シンシアが素直な気持ちで笑顔になると、母も気持ちを納めてくれたようだった。
無事に食事が終わり、シンシアは父に退出の断りを入れた。
「お茶はお部屋で頂きます。先に失礼してよろしいでしょうか。」
いつもの事だから父は小さく頷くだけだ。
「では、失礼いたします。お休みなさい。」
そしてゆっくりと椅子から立ち上がった時だった。
「シンシア。」
珍しく父に声を掛けられた。
「はい。」
緊張する。
父が苦手だからというだけではない。胸に謀を秘めているせいだ。
声が上ずってしまわなかったか気になる。
だが、父の視線はすぐに逸らされた。
「日程に余裕を持って王都に来なさい。」
当たり前の注意をされただけだった。春の夜会が控えている。その為だろう。
「心がけます。」
それ以上は引きとめられず、シンシアは無事にダイニングを出た。ほっとして、ため息が出るのを止められなかった。
「シンシア様。」
静かに呼びかけてきたのはシンシア付きの侍女、キリカだ。今年二十歳になる赤毛の彼女は闊達な女性で、いつも明るく面倒を見てくれる。
十年前、シンシアは右肩に大怪我を負った。その時から、右肩で腕を支えるのがとても疲れる。頭痛もよく起こす。
「お支えします。」
キリカの言葉に、シンシアは右肘を曲げた。
美しい刺繍が施された布を下から当てられる。幅の広い紐の両端を首の後ろで結べば、右腕の重苦しさから少し解放される。
今は、人前や食事をする時以外は、この布を使っている。
最初はただの長い布だったが、家政婦長のデイラが装飾品のように美しく見えるものを作ってくれた。
それにシンシアが喜びの声を上げてからは、館中の女たちが知恵を出し合い、美しい布を作り始めた。凝った意匠。細やかな刺繍。
『吊り布』と呼ばれていたそれは、いつしか『飾り布』と称されるようになった。
飾り布の話は、いつの間にかケルター子爵領内に広がり、自分たちのお嬢様のためにと民たちが腕を競い始めた。
十年経った今では、それが染色の技術まで高めている。
怪我をした頃、シンシアはまだ子供だった。きれいな布に喜んでいるだけだった。自分のことを心配してくれる領民にありがとうとだけ言えばよかった。
けれど今は違う。
ケルター子爵領は貧しい。その事を知り、理由を知った。
シンシアのための飾り布が、ただの親切心だけで作られたものではないのも知った。領民たちには、シンシアの怪我に心を寄せるわけがあった。
事実を一つ知る毎に、胸を痛めた。
早く大人になりたいと思った。大人になれば出来る事があるはずだと。
そして疑問に思う。
父はどうして何もしないのだろう。
明日、王都に帰る両親が、領地管理のために滞在したのはたったの三日間だ。その三日は書類仕事だけ終わった。領地を見回ることをしない。
跡取りである兄も、父に倣い領地に関心が薄い。今回も同行しなかった。
シンシアに関心がないのはいい。けれど領地には、責任があるはずだ。
だからまだ子供だったシンシアは決心した。ケルター子爵領のために、自分に出来る限りのことをする。
もう何年も、父である子爵に相談をせず、色々と領地のために動いてきた。
果樹を育てたり、読み書きを教える学び屋をつくったり、領内のすべての村に足を運んで村長と言葉を交わしたり。小さなことかもしれないけれど、シンシアには大冒険だった。
だから、未だに両親が気づかないことが逆に時々怖い気がする。
そしていろいろ疑問にも思うことも出てきた。
自分のしたことで利益が出て、自分が税金を納めるようになると、ケルター領としての財務書類が気になってくる。ほんの少しのつもりでケルター子爵領の納税申告書を見たのは、ひと月前のことだ。
目にしたものに動揺した。納税金額が前年と全く同じだった。
同じ金額というのはあり得ないだろう。
忍び込んだ父の書斎にある、たくさんの書類に疑念を持った。
領地の管理は、父の仕事だ。それを侵害するつもりはなかったから、老朽化した橋の架け替えや、放置されて久しい農耕地についてなど事業には、あえて手は出さなかった。
けれどあの申告書を見た後は、どうしても確かめたくなった。
それが父の負うべき義務や権利を侵すことになっても。
シンシアは、二度目の大きな決心をした。
それが今、胸に秘めている企みだ。
明日、ケルター子爵領の情報全てを手にする。
自室に入ると、お茶が運ばれてきた。
いつもなら、読書の時間だけれど、今日はそんな気分になれない。
ぼんやりとカップの中を見ていると、キリカが明るく話しかけてくれた。
「シンシア様、ドレスのこと、お話ししてよかったんですか? 奥様は、王都のお屋敷にあると疑っておられるかもしれません。シンシア様のお部屋をかきまわされますよ。」
口調が楽しそうで、面白がっているのか心配しているのかわからない。
シンシアも軽い調子で返した。
「構わないわ。いくつ私の秘密を見つけ出せると思う?」
「本棚の本が、見せかけ通りの物語ではなくて、学術書だということを知られてしまうかもしれません。」
「ドレスを探すのに、本棚を見るの?」
不思議に思ってキリカを見ると、澄ました笑顔を作っている。
「他のものも探してみたくなるかもしれませんでしょう。恋文とか、恋文とか、恋文とか。」
「三回も言ったわね。意地悪キリカ」
まだ一度も恋文を貰ったことのない十六才の乙女心を刺激されて、シンシアは不機嫌な顔を作るが、冗談だと分かっているから長くは続かない。
キリカの声が優しくなった。
「楽しみですね。春の夜会。」
そうだ。心配事ばかりではない。楽しみなことも、やりたいこともある。
シンシアは、キリカに向かって目を輝かせた。
「今シーズン用意したドレスは全部、ケルター領の、刺繍やレースの技量と、染色の繊細さを極めた逸品揃いよ。一人でも多くのご婦人方の目に止めて頂けるように頑張るわ。」
気に入ってもらえれば、ケルター領の仕事が増える。
キリカが呆れたように窘めてきた。
「シンシア様、頑張る方向が違いますよ。よい殿方とお知り合いになれるよう頑張って下さい。」
そちらの方は自信がない。シンシアの笑顔から力が抜けた。
「幸運を祈っていて。」
本当は、何事に対しても運など当てにしていない。
できることを、するだけだ。
今までそうしてきたように。