LVNH//O//2038/04/14/05/37//TE-01/2021/05/22//FCE
あ、ああ……ああああああッ!
俺は初めて出会った女の子になんてこと言ってんだあああああッ!
玲華の安全が保証されていないってのに、何で俺はこんな呑気に知らない女の子とメイドごっこなんてしているんだ。そんな場合じゃないだろう。どうかしちまったんじゃないか、俺の頭は。やっぱり、何度も意識が途切れ過ぎておかしくなってしまったのか?
い、いや、確かにルナは俺の父さんの知り合いでここに来たとするなら無関係な女の子ではない。どころか、丁寧に扱うべき客人だ。
しかし、初見であることに変わりはない。その上、そんな初見の女の子に、「君はルナだ」、なんて俺は何を言っているんだ。これ、一種のセクハラなんじゃないかな。一体何個の罪に問われれば気が済むんだ。
まあ、理由としては如何に和服を着ていても西洋人なワケだし、そりゃあカタカナっぽい名前が良いかなと思ったわけでして。って、結局何の理由にもなってないじゃないかああああ!
「ああ、恥ずかしい。恥ずかしくて舌噛んで死んでしまう」
「ご主人様の最期までお仕えし、ご主人様の命と共に命を散らすのが私の役目です。最期の最期まで、どうか宜しくお願いします」
「う、うん……。何か凄く重いけど、宜しくね……」
しかし、俺が何度自分にこれで正しかったのか、これが正しい行いだったのかと問い質せば、お前は正しいだとかいう返答がどこからともなくやってくる。誰ですか貴方は。さっきから俺に謎の知識を授けてくれる先生は。
しかも、格好付けて一緒にいてやるなんて言ったけど、実際にはノープランだ。塵程も考えてない。ミジンコ並みに考えてない。衛世の知り合いであれば何とかなるとも思ったが、肝心の衛世は既に逝ってしまったのだった。何という置き土産。っていうか、彼女のお家に返してやって、お友達になれば良いってことなんだよな? と思ってルナに聞いてみれば、
「え? 何を仰っているのですか? 私はご主人様のメイドです。ご主人様の日々の助けを行うメイドです。そのメイドが一体全体どうしてご主人様と一緒に暮らさない道理がございましょうか?」
の一点張りでどうにも言うことを聞かない。ご主人様の言う事に従ってくれるんじゃないのか? なーんていう困った顔をすれば、ルナは物凄く悲しげな顔で善処しますだとか、気の済むまで殴って蹴って下さいとか言い出すからこれまた大問題だ。
まあ、アレだ。端的に言うと、ルナはこのまま我が家に住み込むつもりなのだ。せめて衛世との関係性が日の元にはっきりと出されれば良いものの、そんな証拠は一切存在しない。家に帰れば置き手紙でもあるかもしれないが、そのような衛世とルナの関係性を証明する類いの代物が無ければ打つ手無しだ。
これは実に由々しき問題で、我が家には未だに滝沢玲華がいるのだ。玲華はその辺の正義感、というか善悪の判断が厳しい奴だ。残念ながら、通報は免れないだろう。
玲華の港元市への引っ越しは問題が無ければ後三日なのだが、それまでルナの存在を彼女に隠さなくてはならない。玲華には昨夜のあれこれも本気で隠さなくてはならないのに、また隠し事が増えてしまった。面倒だ。早く彼女の引っ越しが完了して欲しいとも思うが、それは同時に後三日の内に斬殺事件の問題を片付けなくてはならない。彼女の引っ越した後に解決したって、それは丸投げしたことに変わりはない。そういう事を意味していた。一度、港元市に行ってしまえば玲華とはもう二度と会えないのだから、本来、今は斬殺事件の解決に奔走しなくてはならないのだ。
だが、そうは言ってもルナを放っておくことも出来ない。自分の言ったことには責任を取らなくてはならないし、何より父の遺言だ。
というわけで、まずは目の前で困っている人を助けてみようと思ったわけだが、斬殺事件と謎の少女。どっちもどっちで、解決しなくてはならない問題。はあ……厄介な問題を二つも抱えてしまったぞ。
「……なあ、ルナ。お前、どんなことでも知っているって言ったよな」
「ええ、申し上げました。特にご主人様の事なら、何でも」
「お前の家はどこか。お前のご両親の本名は何か。お前の誕生日はいつか。衛世との関係性は何か。とりあえず、まずはこれらを教えてくれ」
「一つ一つお答え致します。ご主人様のご自宅、正確には檻が私の家、つまり住所です。両親については、何も生まれてから私はご主人様以外の人間とは会ったことがありません。ですので、知らないと答える他ございません。私がこの世に生を受け持ったのはご主人様と出会えた今日、この日です。ご主人様のお父様とは紀元前の頃にお会いしております」
ダメだこりゃ。もう、何にも分からない。色々破綻している。っていうか紀元前って何なんだよ。流行なのか、紀元前ジョーク。俺も今度使ってやろうか。
ああ、畜生。一体、どうやって俺一人でこの問題を片付けようか。早速行き詰まってしまったぞ。
ん、警察の助けだって? いやいや、それは論外だ。何故って、まず一番の問題に俺は彼女から監禁の罪を着せられているのだ。俺自身が警察に逮捕されかねない。だから、このルナの問題については俺自身がどうにかしなくてはならない。
もうここまで来たらルナの言葉を最大限信用して衛世の人脈を漁って調べるしかない。まずはフィリップさん辺りに聞こうか。あの二人の関係性についてはもう把握済みだ。彼らが大親友、竹馬の友であることは昨晩の相性ではっきりと分かった。そんなフィリップさんなら、衛世の友好関係を知っているかもしれない。願わくはそこのルナについて知ってくれていると助かる。
さて、謎の少女、ルナについての問題はここまでとして、やはり差し迫っているのはどう考えても斬殺事件の方だ。タイムリミットは後、残り三日だけだ。その三日の内はルナを玲華から隠しつつ、玲華を斬殺事件から守るというとんでもないミッションだ。出来る気がしない。
そこで、この謎の少女ルナ自身の協力を仰ごうと思ったわけだ。何でも知っているというメイドのルナさんに。けれども、こんな的外れで適当な発言しかしない彼女の事を信じるということは愚か、何でも知っているというのが恐ろしく空虚な嘘であることは明白だ。ルナが当てにならないのは手の打ちようのない事実だ。結局、こっちの問題も頼れるのはフィリップさんだけか……。アイツ、今どこにいるんだろうな。彼も死んでないと良いのだが。いや、結構本気で。
俺はそんなどうしようもない事を考えながら、旧果処無神社の長い階段を下っていく。日は未だに低いものの、しかしゆっくりと昇りつつあり、俺に徹夜という二文字を突き付ける。眠い。
眠い、だなんて言って何気なく石段を下っているようだが、それでも最大限の警戒は行っているつもりだ。フィリップさんが何とかしてない限り、未だに刀を持った斬殺魔はこの辺を跋扈しているはずなのだから。必ず、父の仇は討ってやる。
だから、今、すべき事はそのための地道な情報取集だ。俺はそのまま石段を下った後に激突が起こった九頭龍川に立ち寄るつもりだったが、メイドさんのルナはそれに強く反対し、俺の家に向かうことになった。それもそのはず、彼女がやたらと俺の身を気遣って今は寝て下さいと言うのだ。それで、まずは俺の家に行くことになったのだ。本当はお前が俺の家に来たいだけなんじゃあないかなあ。そうは言っても、不本意ながら早く寝たいのは事実だしな。今日学校あるけど。
一方で、ルナが言うには、玲華が安全で、尚かつこの事件を俺に隠すのであれば、何事も無かったように俺の家に戻っているはずだ、ということだ。メイドのクセによく物を言う奴だが……ルナの言うことは一理ある。俺の質問には的外れな解答しかしてこなかったが、意外と頭は悪くないのかもしれない。馬鹿なのか普通なのか、あるいは天才なのか、どれなんだ?
「やっと、下り終わった。もう、脚がヘトヘトだぜ……」
「ご主人様のお家でしっかり休みましょうね。マッサージをしてさしあげます」
「マッサージ、か。それは楽しみだな。但し、俺が何か頼まない限り勝手な真似はするなよ。これは、命令だぞ」
「畏まりました、ご主人様」
果処無村は先の九頭龍湖よりも標高が低く、山に囲まれているので日が差し込まず、まだ完全に明るくはない。村の内部では刀の男は勿論のこと、怪しげな男たちや血塗れの子供も一人もいなかった。俺とルナの二人しかいなかった。
異様な程、静かな村。まあ、どこの村だろうとこの時間は静かなもんだろう。こんな時間に女の子を連れてほっつき歩いている方がおかしいのだ。
そんなこんなで、村は静かなだけでそれ以外には特に何も無く、気付くと問題の村の出入り口に差し掛かろうとしていた。
村の唯一の出入り口。
そこに位置する鳥居。
この鳥居も九頭龍湖の水面から生えていた石で出来た古風な鳥居と同じものだ。外宮鳥居って言ったっけな。
さて、問題と言った理由というのは、昨晩この鳥居の辺りでも斬殺事件が起きており、死骸が散らばっていた、ということだ。俺とフィリップさんがこの村に入ってすぐに見つけた新聞記者と警察官二名の死骸だ。異様な程綺麗な断面。今まさに斬られたような新鮮な血液。今でも明確に思い出せる。
だが、昨晩は状況が状況で、俺とフィリップさんはその残骸を仕方なく放置してきたのだ。だから、鳥居の前にはやや腐敗はしているであろうが、昨晩と変わらずに死骸が散らばっているはずなのだ。
その、はずなんだ。
そうじゃなきゃ、オカシイのだ。
ああ、そうだ。
そこには死骸は愚か、肉片の一片、血液の一滴さえ存在していなかった。
死骸の痕跡は跡形も無く消滅しているものの、現場を洗浄したり、直接ここで焼かれたりしたような痕跡もない。完全に消滅していた。どこかへ運ばれたのだろうか。だとしても、血の一滴も無いなんて妙だ。
そして、代わりに生きた人間がそこにはいた。ああ、いや、あの残骸が生き返っていたわけではない。罰当たりにも鳥居に寄っかかっていたのは、世界の滅亡に直面したような表情を浮かべている真っ白いコートを羽織った男だ。
「やあ、衛紀くん。君は無事かい?」
先程、どこにいるんだろうと疑問に感じたフィリップ大総統が例の村の入り口に立っていたのだ。真っ白いトレンチコートと傷だらけのダメージジーンズを着ている男で、本来はフランスの大都会の高層ビルにいるはずの男だ。
それが一体全体どうしてこんなド田舎にいるかと言えば、表向きには失踪ということになっているが、事実、彼は港元市の捕虜としてこの田舎に派遣されてきたのだ。その派遣目的というのは、この戦蓮社に住んでいる最強の魔術師JKである滝沢玲華の転校をスムーズに行うことだ。んで、彼の本来の仕事はそれだけなのだが、彼はこの村の山奥で起きている事件に首を突っ込んでしまったのだ。そこで俺と彼は出会ったのだが……同時に俺たちにとって大切なものを失った。彼のどこか疲れたような表情は昨晩寝ていないという単純な理由だけではなく、もっとそれ以上の理由がありそうだ。
彼の心を巣食う闇。それは、言うまでもなく、我が父、藤原衛世の死だ。
フィリップさんと父さんは随分と仲の良い関係にあったのは、昨夜の激突の際の彼らの行動を見れば容易に分かった。彼らは唯一無二の親友であったはずだ。大親友を喪った彼の心情はもはや俺程度の悲しみとは桁が違うのかもしれない。何たって、俺と父が一緒に暮らしている時よりも多くの時間を彼は父と過ごしていたのかもしれないのだ。
それに、フィリップさんはただ単に衛世の死を嘆いているわけではなく、自分を責めているのだ。自分の責任の一端で衛世は命を落としてしまったのだ、と。彼の自身を非難する気持ちは……量こそ違えど、俺にも身に染みて分かった。
だが、それでも俺は衛世の息子だ。この状況で父が何を望むのかなんてことは明確に分かる。
「フィリップさん、悪いニュースはしなくて良い。父さんの事はこの斬殺事件が全て片付いてからだ。良いな?」
「……はは、まさか衛紀くんに慰められるとはね。本来なら衛世の息子である君を慰める予定だったのにな。何と言うか……君も衛世に似ているな。まあ、息子なんだから当たり前か」
重苦しい沈黙を破って、乾き切った笑いをあげたフィリップさんは少し吹っ切れたというか、憑き物が落ちた様な感じだ。そのまま自分を皮肉って、無理矢理に力強く笑顔を作る。その仕草はまるで俺の父さんのようで、俺自身も彼に慰められたような気がした。
俺はルナという課題を抱えつつも、フィリップさんと仇を打ち、玲華を守らなくてはならない。何度考えても無理難題なミッションだ。無理難題というかマジで無理なんだい。……いけね、父さんが乗り移ったか?
「そうだな。衛世さんがここにいたら、『早く俺様の敵の首を持ってこい』って喚き出している所だな」
「ああ、それ凄く分かるわ。確かに父さんはいつもそんなことを言う」
「よしよし、では衛世さんのためにせいぜい働きますか……。給与は、出してくれよな」
だが……どんなに無理難題でもこの問題を片付けなくてはならない。
日常を守るために、戦わなくてはならない。
それが父が一方的に言った言葉だ。
でも、ね…………ああ、うん、正直に言おう。眠い。
山に囲まれた果処無の村にも日が差し込み、本格的な朝が始まろうとしていた。これはもう徹夜確定かなあ。あと、一時間と三十分は寝れそうなのに。しかも今日学校だし。
俺がフィリップさんの指差す死骸の消えた地面を眺めるが、余りの眠さで本当に申し訳ないが、彼の言うことが全て「お休み」という言葉に聞こえてくる。
俺が眠気でぼーっとしているのに気遣ってくれたフィリップさんは『統一協会』のスピーチで度々見せる大袈裟過ぎるような身振り手振りまでをも披露して説明をしてくれる。これ、聴講料取ったりしないよな。何たってフィリップ大総統の生スピーチだ。ファンなら飛び付いてやってきて聴講料の百万円だって惜しみなく出すんじゃないかな。
だが、まあ、当然ながら俺の薄暗くなってきた視界に映るのは身振り手振りの動作をしながら、真剣な表情で「お休み」と言うフィリップさんだけだ。
「お休み! お休みぃ、お休みぃいい、ぉぉぉお休みッぉお休みぃぃいい! おっ休みおっ休み……お休みぃぃぃいい」
ああ、寝る。マジ、無理。死にそう。くそねみ。というか、そんな真剣な表情でお休みなんて言わないでくれ。笑いが、笑いが我慢出来なくなるだろうが……ッ。
笑いと眠気が同時進行を開始する。このまま笑ってしまうとその衝撃によって一発で眠ってしまいそうだ。ソ連とナチスに囲まれたポーランドのようだ。いや、何だこの喩えは。眠過ぎておかしくなってきてしまっているのだろう。
と、寸でのところで俺はさっきからフィリップさんに尋ねることがあったのを思い出す。尋ねたいこと、というのは自明のことだが俺がルナと名付けてしまった謎の少女についてだ。
ルナと衛世に何かしらの関係があり、自分の死後に息子を任せるとなれば絶対にそれはそれは強い仲であったに違いない。であれば、この衛世の大親友であるはずのフィリップさんだって彼女のことを最低限見た事はなくとも、知ってはいるかもしれない。
俺が振り返ってさっきから一言も話さずにしらばっくれているルナをじっと見つめると、彼女は「ふにゃ?」だなんて言って首を傾げやがる。ふ、ふふ……今にお前の化けの皮を剥いでやる。
「ああ、フィリップさん。消えちまった死骸はともかくとして、俺の後ろに影みたいにぴったりと張り付いている女を知っているか?」
「…………僕は衛紀くんと消えた死体について話したかったんだけどな。何たって、この村の名前に関わる大事な話だというのに。でも、言ったそばから衛紀くんが壊れてしまったか。残念だ。誠に遺憾です」
フィリップさんはうんうんと頷いて腕を組む。まるで、玄人が素人を見つめながら、「しょうがねぇなぁ」、と言いたげな視線を俺に向け……手を翳した。え、待って、この村の名前に関する話って、何の事だ……?
そして、俺の意識は本日何度目か分からない消失を迎える。
あ、でも意識の消失は一回だけなのか。単にうつ伏せで目覚める回数が多いだけで。だからこそ、次はうつ伏せで目覚めたくはないなあ。願わくはルナのおっぱい枕で寝ていたりとか……。
な、何を考えているんだ、俺は……。
***
ふわふわ。
ふわふわで、ぷにぷに。
クラクラするような甘ったるい香りと、ふかふかとした暖かみ。
これは……間違いない。女の子だ。
そしてこの柔らかい感覚、これはもうおっぱい以外には何も思い付かない。まさか、本当にルナのおっぱい枕で寝ているのだろうか。はは、まさかなあ。
だが、果たしてこんなに控えめな胸であっただろうか。ふにっとする感覚はあるものの、こう……すぐ底に果てがあるというか。俺がこの目で聢と見てきた(おい)ルナのおっぱいは、こう、言っちゃあアレだが、もっと脹よかだったはずだ。メロンを二つぶら下げたような。今、目の前にあるのは何と言うか、いや、言うまい。
うーん、まあ、良いや。あったかいし、気持ち良いし。どうせ夢だろうからもっと顔を埋めてしまおう。おっぱいは大小問わず、その柔らかさと暖かさが大事なんだ。ああ、気持ち良いんじゃあああ。
***
えーと……。目は直ぐに覚めた。
俺が次に目覚めた場所は何と俺がずっとずっと恋い焦がれていた我が愛しきベッドの中だった。しかも、うつ伏せではない。ベッドの中はふかふかで暖かく、寝るには最高の空間を築いていたことが分かる。正直、俺が俺自身に嫉妬してしまうくらいに気持ち良さそうな空間だ。ああ、何て俺は気持ち良さそうな空間で寝ていたんだ!
それでも、意識は何故か寝起きなのに凄まじくはっきりしており、意識を落とす最後の瞬間までの記憶が残っていた。あの血生臭い事件の連続が夢だとは思えない。何より、指に嵌められた何の飾り気も無い銀の環が昨夜の全てが現実であったことを明白に分からせる。もはや疑いの余地がない。
俺はその記録に残された最後の映像を反芻する。フィリップさんの翳した手から放たれた青白い魔法陣。恐らく、あれはテレパスを代表とする精神魔術関連のものであろう。
……何度も何度も精神魔術だとかワケ分からんことを言って済まないね。俺もはるか昔に習ったことで記憶が曖昧だから大雑把な説明しか出来ないのだ。
そもそも、自身の後付けの知識による魔術を全体的に梵的魔術って言って、その中には第Ⅰ種から第Ⅵ種の魔術群がある。その魔術群を研究した魔術師の名前からとって、その分け方をローゼンクロイツ的弁別法と呼ぶ。
つまり、全ての後付けの知識による魔術(つまり、梵的魔術)はこの四つの魔術群のどれかに該当するということになるのだ。このローゼンクロイツ的弁別法という魔術の分け方が世に言うスタンダードというもので、国連や『統一協会』でも正式に採用されているものだ。
その魔術群の内、第Ⅰ種魔術群は神話を、第Ⅱ種魔術群は宗教を、第Ⅲ種魔術群は哲学を、第Ⅵ種魔術群は科学をそれぞれ中心とした魔術だ。要するにローゼンクロイツ的弁別法は神話、宗教、哲学、そして科学、以上の四つに弁別出来る。覚えておこう。ああ、そう言えば昨日、玲華はイデア論がどうとかで第Ⅲ種魔術群とか言ってたっけな。
弁別群それぞれの名前が超厨二病なドイツ語なのにはしっかりとした理由があり、例のローゼンクロイツ的弁別法を提唱したローゼンクロイツとかいう胡散臭いジジイの出身国が現在のドイツだからだ。では、梵的魔術を提唱したのは古代インドのウパニシャッド哲学関連のお偉いさんかと思うだろう。だが、これはこれでややこしいことに違いまして、クロウリーさんとかいうこれまた胡散臭いジジイによるものだったり……。
とにかく、この辺の意味不明さは枚挙に暇が無い。以前、俺は魔術技能がクソ過ぎるからこの辺のお勉強は真面目にやっていたんだが、ぶっちゃけ、役に立たないから止めた。詳しくは玲華に聞いてくれ。アイツは文武両道を極めし最強の黒髪少女だ。黒髪は関係無いけど。
そして、主な(勿論、他のもあるが)精神魔術が属するのはその魔術群の中の、主に科学を中心とする第Ⅵ種魔術群と呼ばれる魔術群だ。まあ、もっと言うと第Ⅵ種魔術群の中の更に一項目なんだけど、うざったいのでもう端折ります。
で、はい。フィリップさんが俺にかけた睡眠の魔術というものの詳細は、特定の時間まで意識を落とし、短時間で通常通り、或いはそれ以上の睡眠を与えるものだ。主に魔術師が自分自身にかけて低間隔で休息を取りたいときに使うものだが、その扱いは非常に困難で、一歩間違えると自身の力で目覚められなくなる、とかいう死んでもおかしくない状態に陥ったりする。
以前、馬鹿者燎弥が俺は最高のテストパフォーマンスを実現させる、なーんて言ってこの睡眠魔術を使ったら自力で目覚められなくなって、テスト全科目を寝過ごしたとかいう事件があったのだ。一種の植物状態だ。え、えっと、脳死と植物状態って何が違うんだっけか。あ、失礼、脱線しました。
流石は魔術界の権威フィリップさんの魔術だ、俺は燎弥の二の舞になることなく自力で目覚めることが出来た。彼のお陰で眠気もすっかり吹き飛び、今日一日は寝なくてもやっていけそうな気がする。最高に意識がとても明瞭としている。何か日本語がおかしくなったが、まあ、言いたいことは分かるだろう。 全快なんだよ!
思い切って瞼をかっ開き、目に朝日を感じようと思ったのだが……これがどういうわけだか視界は余り変わらなかった。目に光が入り込まないのだ。
お、おかしいな。俺がフィリップさんに眠らされた時には既に山際から太陽が昇り始めていたはずだ。急に曇りだしたのかな。だが、昨夜かかっていた雨雲は強い風に吹き払われた記憶があるのだが。
それとも、もう夜なのか。フィリップさんは夜に俺を目覚めるように設定した、そういうことなのだろうか。でも、この睡眠魔術のメリットは短時間の睡眠というものだ。わざわざ一日中寝かす意味もあるまい。それに、もし本当に今日一日を寝過ごしたとなると、それは非常に良くない事態だ。斬殺事件のタイムリミットは、後三日しかなかったのだから。
しかし、それ以上の問題に気付く。
もし、これで一日中俺が目覚めていない内に何か大問題があるのであれば。
「る、ルナッ! うッ、ぐふぅっ…………?!」
俺が咄嗟に頭を動かそうとしたので、俺はどうやら目の前にあった柔らかい壁に激突したらしい。なるほど、視界が暗かったのは目の前に壁があったからか。ああ、良かった。まだ朝なのだ。にしても、邪魔な壁だな。
っておい。柔らかい、壁、だと。この状況を反射的に危機と感じた俺が、試しにそれを手の平で触ってみるが……ああ、やっぱり瑞々しい弾力が感じられる。これは、おっぱいだ。間違いない。では、誰のおっぱいなのだ?
「う、うう……おはよう、衛紀くん。起きた?」
「れ、玲華……!」
俺の目の前にいた、というより俺のベッドに入り込んでいたのは幼馴染の滝沢玲華だったのだ。頭脳明晰にして国家レベルの一流魔術師。プラス巫女属性。風光明媚な黒髪のセミロングを持ち、サファイアのような青い瞳を持つ俺の幼馴染だ。
間隣にぴったりとくっ付いている彼女の黒髪はベッドに乱れ、何だかいやらしい雰囲気を醸し出している。まるで俺が彼女を無理矢理押し倒したみたいだ。その瞬間、全身に恐ろしい程の戦慄が駆け抜け、俺はガバっともの凄い勢いで起き上がる。これは……ヤバい。悩殺される。
そして、伸びをして起き上がる彼女。セミロングの黒髪はハラリと彼女の横顔にかかり、その隙間からは眠たげな彼女の青の瞳が窺える。あ……ああ、そうだ。間違いない。俺がさっきから顔を埋め込んでいたのは彼女の控えめな胸だったらしい。すべすべで、滑らかで、美しい小さき丘。そのサイズからは想像もつかない柔らかさで……。
「……衛紀クン。何カ失礼ナ事ヲ考エテナイカナ?」
「と、とんでもないです玲華様! 私は玲華様のお胸が大好きですからッ!」
「え、えええッ?! そ、そう……なの?」
玲華は鬼のように恐ろしい形相から有り得ないほどトロンとした顔付きに変貌した。一体どんな変化だよ。炭素だってもう少し分かりやすく黒鉛だとかダイヤモンドだとかに変化すると思うぞ。
彼女のサファイアの瞳は妖しく輝き、何か変なスイッチが入ってしまったのをハッキリと分からせる。とても、いやらしい。
「ま、待て。何をする気だ、玲華」
何か嫌な予感がする。瞬間的にそう察知した俺はあらかじめ彼女に質問をするも、敢え無く一歩遅かった。彼女は細い両手を広げて俺の顔をがしっと掴む。本当に、な、何をするんだ、玲華ッ。
「そ、そんなに私の胸が良ければ……こんなことだってしちゃうんだから」
「ふぎゅうッッッッッッ!?」
玲華は俺を彼女自身の胸に押し付けたのだ。そのまま俺の後頭部をぎゅうっと押さえ込み、俺の顔は否応なく彼女の薄くも柔らかな丘に沈み込む。まあ、沈み込むほど大きなものではないけれども。
二人分には狭いベッドの上で俺はその呪縛から解き放たれようともがくが、玲華は女の子の細い腕の出力では想像のつかないくらいの馬鹿力で俺を締め付ける。一体、どっからこの力が湧いているのだろうか。苦しいし、こ、後頭部が変形する……。
というか、コレ、胸に沈むというよりめり込んでないか。しかも、俺のレジスタンス的行為が増したせいで、逆に俺の顔は彼女の胸を擦り付けてしまったようだ。すぐ近くで彼女の細くて淫らな息遣いが聞き取れる。か、感じているのか。あー、いかんいかん、ここまでだ。ここから先はダメだ。続きは有料版でな。
「や、やり過ぎは、ダメだよ……衛紀くん」
「わ、悪い。済まなかった、優しくする」
いやいや、何で俺が謝らなきゃならないんだろうね。
というわけで、俺の必死の抵抗も空しく終わり……やがて俺は動きを止めて、彼女のなすがままになった。とても悔しいが、すごく気持ちよく、暖かかった。全世界に住まう貧乳の方々の怒りを買いそうであることを承知の上で表現させてもらうが、この薄皮一枚を隔てた向こうから彼女の心臓の拍動が伝わってくる。
彼女の規則的な鼓動。
それは、確かに彼女が生きている証だった。
昨夜、彼女は斬殺魔に襲われ、正に後一歩で命を落とす所だったのだ。それを、俺たちは守り抜いたのだ。俺はそれがたまらなく嬉しく感じられ、このまま彼女を抱きしめてやりたいとさえ思った。もう、絶対に離すものか。これは、俺の、俺だけの玲華だ。
だが、俺はここで感情をぐっと抑える。決して、玲華にこの感情を悟られてはいけないのだ。どんなに、どんなに彼女の日常が続いているのが嬉しくとも、俺はいつも通りに接しなくてはならない。
……そうなのだ。俺は昨晩の彼女を何も見てはいないのだ。そういうことにしなくてはならないのだ。いくら、日本刀を携えた化け物がいようとも、そいつが公安の人や父の仇であっても、玲華が助けを乞う大人共をバラバラに切断していったのは、覆すことの出来ない事実であり、彼女が俺に隠していることなのだから。
彼女がアレを俺に隠しているのなら、俺も彼女の不可侵の領域に無理に踏み込むことはしない。彼女の隠しているそれに、俺が踏み込んで良いわけがないからな。俺はそうやって彼女の悩みを解決する自信も無いままで、彼女の不可侵の領域に土足で踏み込むことは出来無い。
「どうしたのかな、衛紀くん。何か、考えている?」
「いや、何でもないよ。玲華の、気のせいだ」
少なくとも、俺の目で見えた事実とはそういうものだ。
目で見た情報というものは、今まで新聞や他の人から聞いた斬殺事件の情報と違い、とてつもないリアリティを持って俺の前に立ち塞がる。
斬殺魔と日本刀。
玲華の見えない斬撃。
そして、呪われた儀式。
これらの全てが彼女と見えそうで見えない糸で繋がっているように思えた。切っても切れぬ、それでいて決して密着はしない。まるで、液体を構成する分子のように付かず離れずの関係を繰り返しているようだ。
斬殺魔と呪われた儀式は確かに関連しているようには思えないが、そこを巫女装束の玲華が仲介しているのではないかと俺は思う。というのは、単に昨日起きた事件を部分部分に分解して、それを再構成した時、そういう順番に並べられるなあ、とか思っただけなのだが。要素主義って言ったっけな。
それ故に、当然それは憶測の域を出ず、俺の脳の中空を彷徨っている。まだ、証拠が足りない。足りなさ過ぎる。
それでも、俺は玲華の潔白を証明しなくてはならない。斬殺魔は彼女とは別にはっきりと存在し、彼女と斬殺は何の関係も無いと。彼女が斬殺事件に関与していても、斬殺という殺人自体は彼女と無関係であると。
今度こそ……俺が玲華を守るんだ。衛世の意志を継ぐんだ。
「ふふ、衛紀くん、暖かいんだね」
「玲華も、暖かい……」
「そうかな……。も、もっと……感じて?」
「ちょっ、れ、玲華、苦しいって」
「そ、そうかな。私の胸でも……衛紀くんを窒息させられるんだ。もっと、してあげるね……」
「止めろ」
玲華は、俺が苦しい=自分は胸がある、と勘違いしているらしい。しかし、そこを指摘するとマジで窒息死させられそうだから黙っておいた。
それから玲華は俺を抱きしめたまま色々話し始めた。あの、そろそろ離してくれませんか。苦しいし、恥ずかしいんですが……。
「衛紀くん、朝なのに結構意識がはっきりしているんだね。昨夜はアニメ三昧だって聞いていたけど、今期は何が面白そうなの?」
「今期はシリアス枠が三つほど良さそうで、日常枠についてはもう今期はオシマイだな。オープニングで寝そうだ。それと、俺の意識が明瞭なのはお前の胸のせいだ」
前期の日常系アニメはそれはそれは俺がハマってしまったものがあり、そのアニメの第十三話の夜はお通夜ムードであったものだ。というわけで、今期の日常枠に期待してみればどうにも肌に合わず、今期は日常系アニメ難民確定だ。数ヶ月の間、あのふわっふわでゆりっゆりな感覚を我慢しなくてはならなない。辛い。
玲華は表情こそ見えないけど、多分溜め息をついて頭上から話しかける。
「はいはい、シリアスなんて言葉で誤摩化さないでよ、衛紀くん。どうせ可愛い女の子が活躍して、終いにはとっても酷い目に遭うんでしょ?」
「何故それを知っている……」
「こないだも言っていたでしょ。伝染病を操る隻腕の少女だとかが出てくる良さげな原作エロゲーのアニメがあるって。聖櫃だとか契約の箱がどうとか」
あ、あれ、俺そんなこと言ったっけか? 玲華の言ったエロゲーに関して個人的に言うと、少々グロい描写が多い作品だから、合わない人にはとことん合わないものだと思うのだ。可愛いヒロインの腕が片っ方無いんだぜ。そんな作品をエロゲー初学者の人間に教えたというのか。なかなか鬼畜なことをするなあ、この俺は。
玲華は頭上から「誰がエロゲー初学者だ」と冷たい声と共にぐいぐいと後頭部を圧迫してくる。い、痛いからやめて下さい。あ、それと急に聖櫃だとか預言者モーゼの十戒だとか語り出すのもやめて下さい。全然分かりません。
だが、エロゲー初学者である玲華にそんな重くグロい作品を紹介したことよりも、もっと由々しき問題がある。
「女の子はエロゲーだなんて言葉は知らないんだ。女の子はエロゲーだなんて言葉は知らないんだ。女の子はエロゲーだなんて言葉は知らないんだ。女の子はエロゲーだなんて言葉は知らないんだ……」
「女の子に変な幻想を抱くのはやめてよ……。女の子だってエッチには興味あるし、エロゲーがどうとかを教えたのは誰だと思っているのかな?」
「は、はい。俺です。ごめんなさい」
「それに、そのエロゲーのヒロインの抱き枕カバーを堂々と部屋に置いているのは誰かな。しかも、その洗濯をしているのは誰だと思っているのかな」
「は、はい。俺です。洗濯してくれているのは玲華様です。ごめんなさい」
「しかも、複数枚購入した絵柄の違う抱き枕カバーをベットカバーとして使っているのは誰かな」
「そ、それはだなあ……玲華。何度言えば分かるんだ。俺は枕の下に手を突っ込んで寝る派なんだ。抱き枕派は敵だ」
こればっかりは譲れない。いくら氷の刺のような辛辣な発言を受けても、これだけは誓う。俺は生涯枕の下に手を突っ込んで寝る派なのだ。確か、玲華自身も枕の下に手を突っ込んで寝る派だったはず……。
だが、世には抱き枕派なる最大規模の勢力があり、俺の日常は専らコイツらとの闘争だ。その勢力の規模はあらゆるアニメ・ゲーム関連のショップで販売されている抱き枕カバーの多さを見れば、その需要の多さ、即ち勢力の規模が分かるだろう。俺もまた、その勢力に負けて止む無く抱き枕カバーだけを購入するという最大の辱めを受けているところだ。いや、まあそんな闘争なんてねえけど。でも、燎弥の野郎は抱き枕派だったな。許さん。
「でも抱き枕カバーは購入するんだ」
「ウィッス」
玲華は研ぎすまされた鋭敏な刃のように俺自身で意識していた矛盾点を追撃し、再起不能となった俺は適当に返事をした。悔しいんじゃあ。
こうして昨夜のアリバイのつもりも含め、俺は玲華に今期のアニメの話をしておいた。彼女は別にアニメが好きというわけでもないが、単に俺や燎弥がその話をするもんだから、彼女がせめて俺たちの話が分かるくらいには知っておきたい、と俺に相談してきたことがあったのだ。つくづく思うが、本当に努力家というかなんというか……。
そういうわけで、その過程で彼女にはエロゲーなるものの知識が備わってしまったという、悲しくも避けようもない事故があったのだ。純粋無垢なる滝沢玲華は消えてしまい、今、俺の横にいるのは脳のどこかにエッチなゲームの知識を備えた滝沢玲華なのだ。
だが、さっきはそれを嘆いたものの、これもこれでなかなか面白い状況だ。何故って、この超真面目な玲華の脳のどこかにはエッチなゲームの知識があるんだぜ? 興奮するだろう?
そんなこんなで、アニメの話も終わり……そろそろ学校の準備をしたい時間帯に入る。いつもなら朝食を作り終えた玲華が俺を起こしにやってきて、眠ったままの俺を布団ごと床へ引き落とし、階段から突き落とそうとする時間帯だ。そうだというのに、彼女は俺を強く抱きしめ、しばらくの沈黙が漂う。聞こえるのは……彼女の息遣いと鼓動だけだ。
「はあ、私も抱き枕カバーになって衛紀くんに購入されたいなあ」
「突然の沈黙を破ったセリフがそれか」
「だ、だって……ずっと、こうしていたいんだもん。二人で、二人だけで。私はそれだけで、それだけで良いんだよ」
「ど、どうしたんだ、玲華? 変な物食ったか?」
「ずっと、一緒にいたいんだ。衛紀くんと…………二人で、ずっと」
「……玲華」
今にも消え入りそうな声色で彼女は呟いた。
彼女の口から発せられたその言葉は酷く俺を狼狽させた。俺は彼女の発言がたまらなく不思議というか、理解が出来なかった。
二人だけでいたい。
一緒にいたい。
これから訪れる港元市への転校という名の永遠の別れを認めた彼女がこんなことを言ったことに、俺は何か非常に違和感のようなものを感じた。何と言うか、本当に彼女らしくない。それは違和感を通り越して、変な嫌悪感を胸に湧かせた。別に、彼女の要望が俺の気を悪くしたワケではない。というより、それは彼女の転校が決まってからずっと俺が考えていたことだ。俺だって彼女と二人でいたい。一緒にいたい。
だが、彼女は責任感が強いというか頑固というか、とにかく一度決めたことは決して諦めず、最後までやり通す奴なのだ。その中途で弱音は吐こうとも、諦めてしまおう、やめてしまおうなんて言葉は絶対に吐かない。今回の転校の件だって、彼女は一旦認めたのだから、それを曲げることなく絶対にやり遂げるはずだ。
だからこそ、昨夜の夕食の時の彼女はそれへの決心を固めていたところだったのだ。あの時の彼女はあくまで転校することを前提にして、俺に嫌われないかを案じていたのだ。
だが、今の玲華の発言はもう転校そのものを放棄するような発言だった。あの責任感が強く、頑固で、誰よりも努力家である玲華がそんな発言をするのが……何となく今まで尊敬の念で接していた彼女とかけ離れていた気がした。この一晩で、彼女は……脆く、弱々しくなってしまった気がする。
いや、彼女が弱くて脆弱なのは知っているのだ。それは夕食の時に感じたものと同じだ。そうではなくて、彼女が強い、これだけは誰にも負けない彼女だけの強さ、みたいなものが喪われてしまっていたような気がした。
今朝の彼女は、どうにも認められなかった。明らかにおかしかった。正直に言って、俺は彼女が非常に気持ち悪いと思った。
「……私は衛紀くんを抱きしめているのに、衛紀くんは私を抱いてくれないんだ。ぎゅうってしてくれないんだ」
「れ、玲華。どうしたんだ、お前」
「衛紀くんは、止めてくれないんだ。来てくれないんだ」
「お、おい。玲華、何言ってるんだ」
「ねえ、衛紀くん…………」
彼女は声のトーンを落とし、素っ気なく問う。
「————昨晩、何ヲシテイタノ?」
しかし、ぶっきらぼうに投げつけられたその問いは、俺を激しく揺さぶった。
途端に間近で感じていた彼女の胸の向こうから伝わる鼓動が、余りにも冷たい機械のようなものと感じられる。
「ねえ、衛紀くん。昨夜は何をしていたのかな? どこにいたの? 何を……見たのかな?」
玲華の中で何か歯車がガチリと組み代わったような、彼女らしからぬ声が俺に突き立てられる。氷の刃のような言葉が、ずぶりと胸に深く刺さっていくような感覚が俺を襲う。痛みというよりは、深く、深くへ刺さっていくような、俺の深淵まで入り込んでくる嫌な感覚だ。
彼女の過度に感情の籠っていない冷徹で冷淡な声。俺は彼女のこんな声を聞いたことがない。そもそも、これは……人間の出せる声でない気がした。
そう……これは、ただの音だ。
「な……何を、言ってるんだ? さっきも玲華が言っていたじゃないか、昨夜はアニメ三昧だったって」
「へえ、まだ惚けるんだ。じゃあ、別の質問をしようかなァ……」
俺の声は彼女の胸に塞がれて満足した声量で返答が出来ない。さっきよりも、苦しい。心情的な理由だけじゃない。明らかに彼女はさっきより強く俺を圧迫している。
そうなのだ、彼女は未だに俺を抱きしめたままに言うのだ。これは……反則だ。文字通りの意味の呪縛から抜け出そうにも、さっきも言った通り彼女の腕は人間を超えるような圧倒的な力を持って俺の後頭部を締め付ける。もはや彼女の胸の柔らかさを感じる余裕などない。それでもおかまいなしに、いや、だからこそ玲華は頭上から容赦のない凍てつく言葉の刃を振り下ろす。先程までの彼女の身体の温もりなどは、とうに冷却されて今や液体窒素のようだ。
玲華の短く息を吸う音が聞こえ、俺は彼女の発言に構えるものの……その発言だけは避けるべきであった。絶対に、何があっても。
「衛世さん……今は、どこにいるのかな?」
次に放たれた言葉、それは必殺の一言だった。
俺は何か反論しようと思ったが、言葉は喉を閊える。
俺が口籠る度に彼女の小さな腕の万力は力を強めていく。窒息死、というより、これは圧殺だ。これはもう、俺じゃなければ意識が吹き飛ぶぞ!
だが、この万力から逃れるために俺は彼女から離れたかったが、どうしても今は離れたくない。離れてはいけないのだ。何故って、そんなことをしてしまえば……見えてしまうではないか。この無機質で冷たい刃のような言葉を吐き付ける彼女の顔を。
ど、どうしたら良い……ッ? 正直に言うしかないのか。大人しく、彼女に真実を告げるか。ちゃんと頭を下げて謝って、彼女と共に彼女の潔白を証明するか。
それは、ダメだ。
脳の奥で、誰かが俺にそう告げた。俺がその声を聞いた瞬間に、ダムの決壊のように様々な未来が流れ込んできた。
流入する未来の破片。
それは可能性、あったかもしれない、あるかもしれない未来だ。
真実に近づいた玲華の首が斬殺魔の刀に刎ねられる未来。
玲華が俺を庇って口から脳にかけて斬殺魔の刀に突き刺される未来。
斬殺魔の持つ何らかの力によって玲華の身体がごっそり消滅する未来。
俺が斬殺魔によって氷付けにされている最中に玲華の喉が搔っ捌かれるのを見ているだけの未来。
どこからともなく飛来する弾丸によって俺の身体そのものがひしゃげ、玲華が見知らぬ少女に誘拐される未来。
潔白を晴らしても、玲華が誰からも信じられずにそのまま逮捕される未来。
そのまま死刑にかけられて吊るされた玲華を、指をくわえて見ているだけしか出来ない未来。
俺と玲華が互いに疑い合い、不仲のまま玲華が斬殺魔に四肢を切断される未来。
俺と玲華が疑われ、フィリップさんの水銀のような砲弾に肢体を爆砕させられる未来。
玲華が俺を巻き込んだという罪悪感から自身で作り出した特殊な剣で心臓を抉り出して自殺する未来。
彼女を追った俺が何度自殺をしようとしても、結局死ぬことが出来ないままで生き続ける未来。
衛世や公安の男からの言伝を果たせなかった自分を責め続けて抜け殻のように生き続ける未来。
最初に来るのは絶望だ。
次に来るのは左肩の爆発的な痛み。
俺の脳に流入した未来の欠片は、全て、悉く失敗するものだ。
しかも、今挙げた未来の断片は、所詮は例に過ぎず、他にも見えない斬撃や血液が凍らされたり、圧殺されたり……。もう、そんな目を背けたくなる映像が脳に氾濫する。しかし、目を逸らしたところでそれは意味を持たない。その情報は視覚や聴覚などの五感を経て入ってくるものではなく、脳にダイレクトに注がれる情報だ。いくら外界を遮断しようとも、内部から涌き上がる情報の噴出は抑えようも無い。
恐らく、これらの未来の欠片は警告で、このまま彼女に真実を明かした場合の未来の可能性なのだろう。その莫大な情報量に頭がクラクラしてくるが、彼女の腕力は俺の顔面の1センチ足りとも揺れ動かす余裕を与えない。
これは一体、何の魔術だ。さっきから、さっきから俺の脳内に様々な情報を注ぎ込む得体の知れない魔術は。監禁罪にしろ、ルナを口説くセリフにしろ、外宮鳥居にしろ、壬生忠岑の和歌にしろ、さっきから一体何なんだ。玲華が俺に見せる幻術や呪いの類なのか。しかし、どういうわけか俺自身魔力が異常に消費される感覚さえもある。皆目検討も付かない。
そんな俺を余所目にクスッと彼女は何の感情も含まれてない乾いた笑いを漏らす。そして、更なる追撃をしかける。
「衛紀くん……これも、答えられないのかな? じゃあ、その見慣れない指輪は誰から貰ったのかな?」
見慣れない指輪。
恐らく衛世から託された銀の環のことだろう。
これは、明らかな物的証拠だ。確かに、これなら彼女の質問からは避けられまい。物理的にその指輪は存在してしまっているのだから。
だが、しかし。
「そんなもの、ないぜ」
はっ、と玲華は驚いたように身体をびくりと震わせた。そりゃあ、驚きますわな。さっきまで嵌まっていた指輪が一瞬の内に消滅したのだから。
俺はこのどうしようもない状況で一か八かという賭けに出た。そして、どうやらこの賭けは巧くいったようだ。俺の、勝ちだ。
俺の視界に今ようやくの朝日が差し込む。
「…………そうだね。指輪は……ないね」
俺はしばらくの沈黙の後に玲華から解放された。
その万力が取り外されたことにより、頭の中の頭蓋がギシギシと音を立てて修復を始めているのが分かる。頭蓋が凹んでしまっていた状態が長く続き、頭蓋がある程度凹んでいても正常であるように調整されていたものが、戒めを解かれた今、再び正常に戻ろうとしているのだ。やっぱり、玲華の抱きしめ、というか締め付けは人の頭蓋を歪めてしまうくらいの馬鹿力を出していたのだ。俺じゃなきゃ意識が飛ぶというのはこういうことだ。殺人ホールドとは正にこのことだ。
解放された俺は無意識に彼女の顔を見てしまったが、そこにいたのは何事も無かったように元に戻っていた玲華だ。黒髪は澄んだ朝日を吸い込み、サファイアの瞳は光彩を跳ね返す。俺のすぐ隣にいた玲華は……見紛う事無く、確かに正真正銘、滝沢玲華であり、いつも通りの俺のよく知る玲華であった。
彼女は可愛らしく微笑み、制服に着替えてくるねと告げて退室した。彼女はさっきまでの冷酷な雰囲気をまるで何事も無かったかのように吹き消し、まるでそんな事が最初から無かったのではないかという感覚さえ与える。
「あ、ああ。俺も着替えちゃうからな……」
「うん、また後でね」
今気付いたが、彼女はワイシャツだけで俺のベッドに潜り込んで、俺を抱きしめていたようだ。モロにおっぱいに顔を埋め込まれていたのか、俺は。いや、彼女の温もりを感じている余裕などほとんど無かったが。
時は何事もなかったかのごとく動き始め、室内にはコチコチと時計が時を刻む音が聞こえた。そこにあったのは、いつもと同じように見える朝だ。
しかし、その中には明らかな異物がある。
日常の飽和点を超えて、露出してしまった異物。
明らかな異物は、その金髪のロングヘアをサラサラと揺らし、こちらを見つめる。いやあ、本当に気に食わない。まさか、コイツの力を借りるとはなあ。
「ご主人様、これで宜しかったでしょうか?」
ああ、俺のベッドにもう一人、いつの間にか入り込んでいた女がいたんだ。まあ、絶対に俺が玲華に抱きしめられる前にはいなかったが。いつそこに湧いたのだろう。虫か、或いはそれに準じる何か?
私はウジ虫じゃありませんだとか喚いている少女は、暁月の少女、ルナ。俺が名付けた名前で本名は知らんが、とにかく、俺の隣にいるメイドのことを意味する名だ。
金髪に和服メイドという謎の新ジャンルに挑戦中の彼女だが、ベッドでゴロゴロしていたせいで和服が少し乱れてしまっている。ベッドに横たわるルナはこちらを見て、太陽に向く向日葵のような笑顔を浮かべる。実に悔しい話だが、可愛いし、何よりほっとする。
俺がベッドから下りると、彼女も四つん這いでベッドから下り、乱れた服装を整える。一応その辺の気遣いはメイドとして最低限度のことは出来るらしい。そして、その帯の辺りに手を突っ込んだ彼女は銀色のものを取り出す。そう、俺はルナに銀の指輪を託したのだ。さあ、指輪を返してもらおうか。
「畏まりました。少々お待ちくださいませ、ご主人様」
っておい! なんじゃそりゃあ!
彼女の和服の帯から飛び出したものは銀色の指輪……ではなく、銀色のフォルムに、五センチもの大口径を持つ魔銃、空間加速砲だったのだ。
「な、何てブツを俺の部屋に持ち運んでいるんだ、お前は……!」
俺がどっかになくしちゃったと思ったが、お前が持っていたのか。
それからルナはその魔銃の銃口に手を添えて銃身を振ると、ぽろっ、と銀色の輪っかが転がり落ちる。どこに指輪をしまっているんだ、このメイドは!
「はい、こちらがお預かりしていましたご主人様の指輪です。確かにお返し致しました」
ルナは俺の手の平に銀の環を丁寧に置くと、もう片方の手に持つ魔銃をそそくさと真紅の帯の内側へ突っ込み直す。だ、だからそんなところにしまうなよ。 危ないだろう。その大口径が帯の隙間なんぞに入るものか。
俺は青ざめながら指輪を右手人差し指に嵌め直そうとするが、このまま階下で玲華と会うのだからと気付き、壁に掛かった制服の胸ポケットに突っ込む。よし、ここなら落とさないし、彼女に見られる事も無いだろう。
「ふう、ルナ。ちょっとだけ、良いか」
「はい。ちょっとと言わず、全部でも構いませんよ、ご主人様」
ルナは何か勘違いしているようだが、構うものか。俺はゆっくりと彼女に向き直る。
さてさて、お前には聞かなければならないことがあるのだ。とっても、とっても大事な事だ。
「はいはい、ご苦労様。っと、さあ、ルナさんよぉ。ご主人様にもう少し早く言うべき事があったんじゃないかなあ?」
「あら、お気付きになられていましたか。その指輪の力について。説明の手間が省けました。流石はご主人様です。その力はご主人様の望む運命を導くために必要な知識を脳に直接付与する宝具でして……」
「……いや、お前、それも知っていたのか」
「左様でございます。ご主人様のお父様よりお聞きしましたわ」
「いや、俺が聞きたいのは指輪の能力ではなくてな。いや、勿論、それは別件でまた聞くとして、だ」
俺は胸ポケットから再び取り出した指輪を人指し指に嵌め直しつつ、溜め息をつく。二度手間でも、これはやらしてくれ。済まない。
そして、指をピンと伸ばし、指の一本一本を隙間なく並べる。無論、手刀打ちの構えだ。俺はそれを振り上げ、大声量と共に振り下ろす。
「お前が俺以外の人間に見えないってことを、どうして、ちゃんと、説明しないんだよ!」
俺のお仕置きを脳天に喰らってブッ倒れたメイドのルナさんは、なんと、俺以外の人間には認識されない存在だったのだ!