LVNH//O//2038/04/14/03/26//TE-01/2021/05/22//FCE
「痛ッ!」
背中に叩き付けられた衝撃はまるで何か金属の塊を打ち付けられたような感覚だ。銃弾でも打ち込まれたような気がする。銃弾なんかではなく、ただ衛世に力強く、というか思いっきり背中をブッ叩かれた俺だが、なんとその場でいきなりこけた。しかも、こけたのは顔面からだ。顔に大きめな石がいくつも突き刺さり、血の感覚が顔を覆う。鼻血でも出たのだろうか。またですか。
いや、そんなことより、は、恥ずかしいなあ。いきなりこけるとか、玲華が見ていたらどうするんだよ。いや、マジで。
だが、そんな心配を他所に俺が顔を上げると、なんと、ここは真っ暗なだけの空間だった。玲華どころか、衛世や刀の男もいなかった。
「……あれ、何だこれ。どういう、ことだよ」
え……えええ? ちょ、ちょっと、ここはどこだ? この真っ暗な所が衛世の言う新しい世界なんかじゃあないだろうなあ。いや、厳密に言えばここは真っ暗な所なんかじゃない。思い切りブッ叩かれた背中を擦りながら辺りを見回してみる。見えるのは轟々と音を叩き鳴らす真っ黒な九頭龍川に、鬱蒼とする木々。そして、遠方に見える爆発的な輝き。光の柱が刺のように何本も放出されているのが分かる。
うーん、と……だいたいここから五百メートルか八百メートルくらい離れた所だ。どうやら、衛世と刀の男が対峙し、衛世の光の魔術が発顕された地点から離れた所に俺は吐き出されたらしい。理解不能だな。テレポートの類か?
「一体誰がこんなことを……。どうせ、十中八九、衛世だと思うが」
真っ暗に見えたのはあの爆発的な光源から離れ、今度は目の暗順応が間に合っていないからだ。映画館に入った時は真っ暗で何も見えないのが、目が慣れて段々と色々見えてくるアレだ。目が効いてきた俺はまたしてもブッ倒れた身体を起こそうと手を伸ばすと、カチャリ、と指に金属の冷たい何かが当たる。
「次は何だ、銭だと良いんだけど……って、これは!」
俺が触れたのは銀色の拳銃、正確には銀色の魔銃、空間加速砲だった。銃身内部の固定された空間を加速魔術によって高速で射出し、対象へ斬撃を与える港元市製の魔銃。五センチもの大口径はやはり圧倒的な迫力を俺に押し付け、その滑らかなラインは見ただけで一種の魅力に引き落とす。先程、公安の男が使用していた魔銃が俺の隣に落っこちていたのだ。
使用者である公安の男は既に死亡し、特に新たな所持者がいるわけではない。ここで護身用にちょうだいしておこうか……とも思って指をかけたが、これは立派な銃刀法違反だ。辺りを見回して誰も見てないことを確認するが、やはり俺以外の人間など一人もいなかった。その代わりに、俺はこけた自分自身の下敷きになった黒い平面の物体を見つける。
「これは……影か?」
人影。
それは人型の黒い影だ。
下敷きになっていたのは俺の影ではない。
試しに俺が手を鳥のように手をパタパタさせたり、そのまま荒ぶる鷹のポーズなんかをしたりするが何の変化も見られない。やっぱり俺以外の人間がいるのか慌てて振り向くが、そこにあったのは微妙に寒い春の空気だけだ。というか一人で荒ぶる鷹のポーズとかこんな時に俺は何をしているんだ……。
冷静に戻った俺は改めて人型の石や木でもあるのかと探してみるが、やはりそんなものはない。そもそも父さんの顕した光源の向きからしても、そこに影が映し出されるのは明らかにオカシイ。
不自然な影。
つまり、それは何の影でもなかった。
『影で君を上流の方に転移させたよ。まあ、ワープみたいなものかな。……ほら、そこの魔銃を持って走れ!』
「うぉぉぉおおおおッ?!」
影から男の怒鳴り声がした。
俺は落っこちていた空間加速砲を手で二、三回ほど弾ませ、抱えながら件の怒鳴る影から足場の石を散らし勢いよく逃げ出す。俺は影からの叱咤に飛び上がり、もはや叱咤の内容を聞いて走り出す以前にその驚きで駆け出していた。
「な、何なんだ、あの怒鳴る影は! ああ、もう、お陰で魔銃持って来ちゃったじゃんか。これで逮捕ですか、そうなんですか!」
影の声は持ってけなんて言っていたけど、絶対持って行って良いワケないだろう。もう全然意味が分からん。こけた瞬間に川の上流の方にワープ。落っこちている魔銃。その上、意味不明な影から怒鳴られるとか!
上下に揺れる視界も暗さに慣れてきて、その先にやや大きめな瀑布が見えてくる。これが九頭龍滝だ。ネーミングセンスが単調過ぎると思うが、この瀑布が九頭龍湖と九頭龍川を繋ぐ地点だ。まあ、名前についてはツッコんでやるな。この辺の伝説やら伝承が絡んでいるのだろう。
そんで、衛世は俺にこの滝の辺りから川の流れを変更させろと指示を出したのだ。ということは、やはりあの影が言うようにここは九頭龍川の上流の方なのだ。こけた時に顔面に突き刺さった石がやけに大きくてゴツゴツしているのも、ここが九頭龍川の上流であるということを示していた。なるほど、これは上流への謎のワープが大変ありがたいわけだ……ッ?!
「う、うるさっっっっっ!」
急に爆発音が炸裂したのだ。反射的に耳を塞いだが、ロクに意味が無かった。
まるで耳の中で爆発が起こっているような感覚だ。一瞬遅れて、遠方から雷のように低くて重い音が鳴り響くのが聞こえた。まさか。いや、恐らく、これは……!
「おい、衛世! 戦いながらテレパス繋げるんじゃねぇぞ! 今の爆発音、耳に滅茶苦茶きたぞ!」
『……す、すまねえ。これでもかなり外界の音へのミュート調整をしたり、最大音量制限を設定したりと四苦八苦した結果なんだ、許してくれよ。ほら、俺からのお詫びの品としてのプレゼントが背中にはっ付けてあるからよ』
突然、衛世からのテレパスが来たのだ。当然ながら衛世は例の刀の男と交戦中だ。その戦闘で生じた衝撃音や爆発音がテレパスを通した脳内で直接再生されたのだ。それはある意味避けようも無い音響攻撃魔術とも言えた。衛世か刀の男のどちらが鳴らした音かは分からないが、音響攻撃のせいで未だに耳がキーンとしてしまっている。
「プレゼントだと? お前、さては俺の背中を叩いた時に何か張ったな? シールだな?、そうなんだろう?」
『そう……。お前の背中にバナナのブランド名の書いてあるあのシール、っつーかラベルを貼付けたのだ……。呪いの符号と指輪と共に』
「はあ? バナナのあのラベルか? ラベル自体小さいし、剥がしにくいし、描かれているあの絵も背中に貼付けるには恥ずかしいし。お前、相当陰湿だな」
しかも何だよ、呪いの符号と指輪って。滅茶苦茶厨二過ぎるし、バナナのブランドラベルの方がよっぽど呪いに等しいわ。
俺が九頭竜滝目掛けて一直線に駆けると、瀑布の鳴らす大自然の轟音が聞こえてくる。川の音をも掻き消すその圧倒的な音を前に、何故か脚がガクガクとしてくるが、この脚は止めないぞ。
数回ほどの甲高い音と衛世の舌打ちの音を耳に直接聞きながら、父さんが結構手こずっているのが分かる。俺は父さんが心配になってきたので、何も返事を返さない父の名を呼ぶ。すると、衛世は物鬱げな音色の声で返して来た。
『……今、確認しないの?』
「しねえよ! というか俺がラベルを確認するまで黙っていたのかよ」
『ええ……ダメ? 今すぐ、確認してくれないの?』
「悔しいから絶対に確認しない! 恥ずかしい姿のまま、絶対お前の元まで戻って行ってやるッ!」
『もう、お前の可愛い反応を最期にお父さんに見せてくれよぉ』
「うぜぇ……」
心配返せ。この心配泥棒。衛世は未だに悲しそうに泣き真似をして確認してくれと懇願し続けるが、無視だ、無視。本当にそんなふざけた真似をしてあの斬殺魔と戦っているのだろうか。些か疑問だ。
「真面目に戦ってくれ。それとも、俺との会話の片手間程度で圧倒出来る相手なのか、その斬殺魔は」
『冗談言うな、衛紀。そんなワケないだろ。コイツ、滅茶苦茶強いぞ』
「……それなら、戦いに集中するべきだと思うぞ、父さん」
大きくゴツゴツした石ばっかりの道でもない道を走り続けているせいで脚が悲鳴を上げているが、俺はそれさえも無視して走り続ける。足首はもう何か変な感じに変形してきているが、これも無視する。どうせそんなのすぐに治る、というか直るんだから。
滝に近づけば近づく程、滝壺から生じる真っ白い霧によって視界が霞んで見えなくなってくる。俺がさっきみたいに手をパタパタして霧を払って進んで行くと、泣きついていた衛世が急に真面目な声で言う。
『衛紀、その魔銃を使えば霧も払えるんじゃないかな』
「よ、余計なお世話だ! そんなこと気付いていたし!」
俺が握っていた魔銃を前方に構える。ああ、実は拳銃を持った事も扱うのもこれが初めてではないのだ。俺の祖国港元市は銃や刀剣の所持が許された武器社会であり、小学校の頃から簡単な銃の扱い方なんかも習うのだ。で、この空間加速砲もその昔に授業の一環で打ったことがあるのだ。
しかし、俺の銃の扱い方自体は物凄く長いスパンが空いているため、なかなかおぼつかない構えとなっている。加えて当然ながら、授業で使った魔銃は何年も前の空間加速砲のタイプであり、今、この手にある空間加速砲は更に進化したタイプのものだ。七年間も同じ機能を保っている武器なんか港元市にあるものか。世界的に見ても珍しいはずだ。
まあ、何かを高速で射出するという発想自体は九世紀頃から何も変わってない気もするが。いや、もっと言ったら石器時代からも何も変わってないかもしれない。
俺は目の前の鈍重な黒い霧を引き裂くように照準を合わせ、引き金を絞る。
バシュッッッッ!
空気が裂ける音が鳴り渡る。瞬間的に体内の魔力が引き抜かれ、僅かな反動も感じさせずに目の前の霧が四角く切り抜かれる。空気の斬撃が通り抜けた周りの霧もその勢いに追随し、一瞬で視界はクリアーになっていく。
更に、空気の刃はやや先にあったと思われる警告用の鎖をも切断したようだ。勝手に壊してごめん。俺は鎖がバラバラと地に落ちて行く様を見て、改めて港元市の魔術技術が健在であることを感じる。
破壊された鎖の辺りを超えると、ドドドド、という瀑布が滝壺を猛打する轟音が聞こえてくる。顔を上げれば真っ黒い墨汁を勢いよく吹き落とす九頭龍滝の細部が見えてくる。水を横長に真っ直ぐに叩き落とし、滝壺に近づくにつれて真っ黒い飛沫を上げる大きな滝だ。だいたい高さは二百何メートルくらいで、日本の滝落差のランキングではかなり上位に位置していたはずだ。それが、今、もうほんの先にあるのだ。滝の音は勿論のこと、鈍重な霧はもはやただの飛沫となり、俺はいつの間にかずぶ濡れになっていた。水浴びを終えた犬のように顔を振って水を払い落とした俺は、父と繋がった耳にその音を聞く。
「もう、着くぞ、衛世! 目と鼻の先だ!」
『……そうか……偉いぞ、衛紀。……っとアブねえ!』
テレパスの先にいる衛世はさっきまでよりも格段に焦っていた。爆発音は先程よりも頻繁に起こり、何だかビームが発射するようなキテレツな音も聞こえるようになってきていた。
テレパス越しではなく、リアルに伝わって来る背後からの爆音や、突風が駆け抜ける。それが、体感を持って衛世と斬殺魔が繰り広げる戦闘の熾烈さを物語っていた。衛世や刀の男がどんな戦いを繰り広げているのかはサッパリ分からないが、衛世が押されていることははっきりと分かった。先程とは桁違いの爆発音が炸裂した後に、衛世は聞き慣れない溜め息をついて呟いた。
『なあ、衛紀。こんな時に広告の裏に書くようなことを言って良いか?』
「Twitterで世界に拡散するくらいなら俺が聞いてやる。何だ」
『ぎくっ』
「で、何だよ。何を言おうって言うんだ」
『ああ、俺はさあ……公安の人が、お前が玲華ちゃんを助けようとして草むらから飛び出したって聞いて、驚いているんだよ。割りと、真面目に』
「は、恥ずかしいから言うなよ、そんなこと……」
『恥ずかしいことなんかじゃ、ない』
衛世は急に真面目な声で俺の発言を遮った。今まで、聞いたことのない声色だった。衛世は目の前の敵よりも、俺と話すことに集中しているようであった。
ドクン、と心臓が強く脈打ち、俺はその事実に驚きを隠せなかった。今の衛世は何かおかしい。どうかしちまっている。それとも俺がおかしいとでも言うのか?
『恥ずかしいことなんかじゃないんだよ、衛紀。ああ、驚かせちゃったかな。ごめんな。でもな、父さんはお前にちょっと感心しているというか、誇りに思っているというか……。そう、尊敬しているんだ』
「き、急にどうしたんだよ、父さん。毒キノコでも食ったのか……?」
ビームのような音が頻繁に聞こえるようになってくる一方で、剣戟の音がより聞こえるようになってきた。恐らく、例の日本刀による斬撃だ。甲高い金属音が断続的に聞こえてくる。
対して衛世は光の剣に聞いたことの無い詠唱を唱え上げ、剣を更に強化していくようだ。それに伴って後方からは圧倒的な閃光が瞬く。剣戟の音は先よりも勢いを増し、爆発音も加速していく。俺は不安になって尋ねるが、衛世は力強く語る。
『良いから、お前は滝壺を目指して走れ。そうそう……七年前くらいに、お前が泣いて、肩を搔き毟っていたあの頃から比べて、こう、大人になったなー、と思ったのよ。というよりは、子供の頃に戻ろうとしているのかな』
「……俺が幼稚だって言いたいのか?」
『そうじゃなくて、お前がお前を取り戻したというか、お前らしいというか。俺の憧れというか、なんというか。ああ、分からなくなってきたな、今のナシ。で、こんなのはどうでも良くて、提案があるんだけど……良いかな』
「提案? バナナのラベルなら取らないぞ」
『それはマジで反応が見たいから取って確認してくれ。そうじゃなくてさ、玲華ちゃんのことなんだが……。クッ……やっぱこの刀は! くっそ、それ元々は槍じゃなかったっけか……ッ!』
「な、何だよ? 提案って。っつーか、刀が槍って何だよ?! あの刀がどうかしたのか?!」
硬い金属が高速で駆け抜ける感覚を耳に感じる。本当に俺の耳元を鋼の線が掠めている気がしてくる。衛世のテレパス魔術の集音部位がどこかは分からないが、その剣閃が彼の身体の近くを掠めているのもまた事実だ。
俺が戦闘中の衛世に解答を催促すると、衛世は少し躊躇いがちに「あ、ああ……」だとか、「それは……」とか、コミュ障みたいなことを呟く。何か言葉を選んでいるのだろう。そして、言葉を選び終わったのか、滑らかな口調で答える。
放たれる衛世の提案。
それは…………。
『ぶっちゃけさ、お前も玲華ちゃんと一緒に港元市に戻らんか? ってこと』
心臓が、止まった気がした。
衛世の提案。それは……俺にとっては突然の攻撃となった。
気付かぬ内に遠方から弾丸を狙撃されたような衝撃に身を襲われる。爆発的な、それでいて、じわりじわりと痛みが左肩に生じ、口の中がカラカラに乾燥する。そして、俺の脚が、止まる。
意味が分からない。今の衛世は本当にどうかしてしまっている。彼はおかしい、おかしくなっている。精神魔術でも喰らっちまっているんじゃないか? 本当は、彼は藤原衛世なのではなく、別の誰かじゃないか? 俺が接してきた藤原衛紀ではないのではないか? 誰かに、操られているのではないか?
父に対する疑心が胸から吹き出る。どうして、そんなことを言うのだろうか。今、こんな状況下で。いや、状況がどうとかじゃなくて、どうしてこの俺に言うのだろうか。彼は……彼は、俺の理解者のはずなのに。
俺の『性質』を彼は理解しているのに。
港元市が、俺に何をしたかを彼は知っているのに。
市に対する怒りが泉のように、マグマのように噴き上がる。
そのやり場の無い怒りは、父である衛世に向く。
「どうして! 俺をあんな場所に戻そうってお前が言うんだ! 港元市が俺にしてきたことを知っているお前が……ッ! どうして、どうしてなんだよッ!」
『……まあ、自分で冷静になって考えてくれ。一応、父さんとしては衛紀がこの問題と向き合うことを望むよ』
俺の激昂に衛世はもの悲しげに答えた。今にも消え入りそうで、儚い。
しかし、それでも衛世は彼自身の望みを強く訴えた。俺にはそれが、どうしても認められない。彼の言うことが信じられない。理解は出来ても、それを認められない。俺の知っている父は決してそんなことを言わないのだ。俺の理解者の父は、俺を苦しめることは……言わない。
胸にすっぽりとした空白が生まれる。大事な支えが失われたような空虚感。今まで当たり前のようにあったモノが欠落する。
「何でだ?! どうして俺がッ、あそこに戻る必要があるんだ!」
『だって……お前は玲華ちゃんを守るんだろう?』
「ひ……卑怯だ。卑怯だぞ、衛世!」
玲華は、確かに守る。
そう決心した。だが……それとこれとは話が違う。
脳裏に港元市のあの少女の姿が浮かぶ。
大粒の雹と稲妻が覆う世界。
力に酔い、力こそが全てを為すと叫ぶあの少女。
あの少女と玲華の姿が重なる。
振り撒かれる市の災禍。それが、世界を包む。俺は玲華をそれから守ることが出来るのか。いや、守らなきゃならないんだ。だが、衛世の言うことが理解出来ても、それが道理に適っていても、認められない。
俺は……あの場所に戻りたくはない。
『それにな、お前はそろそろ立ち向かうべきだぞ。運命という壁に。既にお前は運命を背負っている。お前の居場所はあそこだ』
「違う! 俺は、今、この田舎で、のどかな生活を送ることが何よりも大切なんだ! 衛世だって分かるだろう!」
『おいおい、衛紀。こんなコトが起こっているのにもこの田舎が平和だとでも言うのか? ソイツは平和ボケというより単純に節穴というヤツだ』
「そ、それは……。だから、俺は日常を守るために今、こうして戦っているんだ! それだけだ!」
『くっ……くくく。はは、その調子で港元市でも戦ってきてくれ。日常を守るために、な』
論破された気がした。いや、論破というより、会話をこういう風に持って行かれた気がする。実に腹立たしかった。
己の日常を守るために戦え。
父はそう言ったのだ。この逃げてばかりの俺に。
俺はそれがまた恥ずかしくて、止めていた脚を思い切り動かす。痛みで悔しさを誤魔化すように。
真っ黒い飛沫を上げる滝壺の近い所まで辿り着き、俺はその昔に習った物体の向きを操る魔術式を組み立てる。が、これがまた……時間のかかる作業なのだ。二分、三分後にようやく完成した術式を真っ黒な九頭龍川に打ち込み、俺のありったけの魔力を含んで稼働した魔術は青く輝き、ゆっくりと、微かに流れを変えていく。
俺は墓穴を掘ってしまった感が否めないため、父との会話を避けようと黙々と作業に取り組んだ。だが、作業の粗方が終わった頃に、衛世がこれまた突拍子もないことを言う。
『俺さあ、衛紀と母さんと俺の三人で星が見たかったんだ。この戦蓮社でさ』
「遂にイカレタか、衛世。母さんについてはあれ程お前自身がタブー視していたはずだが。お前、さては偽物の藤原衛世だな?」
『はは、衛世は勘が鋭いなあ。いやいや、俺は俺、俺こそが藤原衛世で、本物の藤原衛世だ。俺と母さん、衛紀の三人はいつでも一緒だ……。そして、お前もいつか大事な二人を見つけるはずだ』
「おい……なあ、お前さっきから死亡フラグ立て過ぎだろう。いい加減にしろ! 俺は、俺は絶対にあんな場所には戻らないからな! 絶対だ!」
『……絶対に押すなよ?』
「死ね、クソ親父!」
俺はもう自己矛盾だとか責任だとか、そんな都合の悪い言葉から逃げた。そして、生暖かい日常にどっぷり浸かった。そこには俺を不快に感じさせるものは何一つとして無かった。俺は学校で燎弥と馬鹿みたいに騒いで、玲華にテスト範囲を聞いて、衛世の皿洗いなんかを手伝って……そんな日常が幸せだった。それを恥ずかしいとも、満足し足りなかったとも思わない。素直にこの日常が大切で、大好きだと言える。
だけど、それは追ってきた。斬殺事件、玲華の転校として、最後は藤原衛世として姿形を変えて追ってきたのだ。だから、俺は何も聞かないようにした。何も聞こえないように耳を塞いだ。
……それでも、父からの優しく暖かい声は聞こえてくる。
テレパス魔術のせいだ。彼は、俺が耳を塞ぐ自体を予想していたのだろう。
俺と衛世。
変わった親子だとよく周りからは言われた。どんな事情かは知らないが、俺の母はどこかへ消えてしまった。俺を産んですぐにいなくなってしまったらしい。俺と父さんの間で、この事に触れることは全くと言っていいほど無かった。
それでも父は決して弱音も吐かず、馬鹿みたいに前向きな在り方で俺を育ててくれた。そんな父親の馬鹿正直で変わった生き方はよく周囲から陰口を言われていた。その父親から育てられた俺もその例外とはならず、周囲からよろしくないことを言われ続けてきた。
しかし、父親は決してそんな逆境にも臆することなく彼の生き方を貫いていた。幼い時はその父親の姿はとても眩しく、憧れていた。
だが、物事が分かるようになると、いつしか俺はそれとは逆の生き方を選ぶようになった。陰口を言われる側から、陰口を言う側に回った。大衆側に回ったのだ。当時は単に父親のそういう生き方が気に食わなかっただけだと思っていたが、今考えると俺は父の生き様を諦めたのだと思う。そして、そういう生き方を諦めた負け犬として吠え続けた。
そうして、逃げたんだ。あの市から。魔術から。自分の夢から。
そんな時でも、衛世は俺に変わらずに前向きに救いの手を差し伸べてくれた。俺を庇って、守ってくれた。暖かいその手で。
あの時も。そして、今も。
『はいはい、年寄りはすぐに死にますって。……俺たち三人家族と、お前の作る幸せな三人を称え、お祝いをしたいと思います! はい拍手!』
衛世はおちゃらけたようで何かよく分からないことを言う。だから、何なんだよ、三人って。二股かけろってことなのか? しかも、将来なんて分からないし……何より俺たち藤原家から母親はいなくなった。もう、過ぎちまった話のはずだ。今更、コイツは何を言っているんだ……。認知症か?
今の衛世は、本当にオカシイ。可笑しい程、会話のネジがかみ合わない。まるで、生きている時間がズレてしまっているようだ。理解が出来ない。
「衛世、どうしたんだ! お前はさっきから何を言っているんだ! お前、本当に藤原衛世、俺の父親なのか?!」
瀑布の上げる轟音と遠方からの爆発音だけは痛い程に聞こえてくる。しかし、耳元で聞こえる爆発音や剣戟の音が一切聞こえなくなる。テレパスが爆発音やら余計な音を全てミュートにしたのだ。つまり、衛世は今、どういうわけなのか、テレパスの術式に集中しているのだ……!
川の流れは確実に巡り、ごうごうと渦を巻いて循環する。その循環する川の巡りは青く輝き、一つの魔法陣として機能する。クリアー過ぎる耳元に、そっと暖かい父親の詠唱が響く。
『────その閃光は
世界を三度巡る────』
突如として世界に三本の光の剣が突き刺さり、それは世界を三度照らす。
圧倒的で、柔らかく暖かい光が世界を包み込み、俺の意識が途切れる。
最後に聞こえた父の言葉を耳で反芻しながら。
『また会おうぜ、衛紀』
***
白。
世界は白だ。
全ての光を反射する世界。
視界から見える景色の全ては白で、明るさや暗さ、遠さや近さ、広さや狭さという概念を一切感じさせない。そういうものは何一つとしてなく、ここにあるのは白だけだ。
だから、ここは白の空間で、白の世界だ。
白は全ての色の可視光線が乱反射され、人間の赤錐体、緑錐体、青錐体の三つ全ての錐体が興奮した時に視認される色だ。だが、これだけの条件では人間はそれを白とは意識しない。認識出来ても意識出来ない。
つまり、人間がそれを白であると意識するためには、比較すべき白以外の色が必要であるのだ。例えば、それは黒だ。
黒。
牢獄は黒だ。
全ての光を吸収する物体。
白い世界には黒い檻がたった一つぽつんと置かれていた。まるで、黒という比較対象として、この白い世界を意識するためだけに置かれてあるようだ。
おいおい、さっきまで視界に見えるのは白一色だけと言っていたではないか。だが、確かに黒い檻はそこにある。確かに、あるのだ。
たとえ話をしようか。人間は鏡などの光を反射するモノが無ければ自分自身の顔を見ることは出来ない。だが、顔を下に向ければ自分自身の目で手や脚、身体を見ることは出来る。あんまり良い喩えではなかったな。
結論だけ言おう。
俺自身が、檻だった。
俺は檻。
つまり……これは、俺がいつも見ている異世界の夢だった。
夢ではいつも、俺は俺の中にいる少女を見るんだ。
一糸纏わぬ姿の少女を。
檻の隙間を覗く少女を。
囚われた囚人の少女を。
名も無き『彼女』を。
檻を白い手で掴む『彼女』は外界を眺望する。
その目からは暖かい雫が溢れ落ち、俺の身体全体に染み渡る。
檻は『彼女』を隔離し、遮蔽し、保護していた。
まるで、この白い世界は黒い檻を設置するためだけに存在しているようだった。
しかし、希望を含んだ目で、『彼女』は檻の外を見つめる。
これはいつもの夢と違う所で、まだ見ぬ夢の続きだった。
そして、
俺は、
目を醒ます。
***
寒い。
寒さを知覚した瞬間に歯がカチカチとぶつかり合う。身体の全表面がすっかり氷付いてしまっているようだ。それだけじゃない、身体の奥の芯までもが氷付いてしまっているようだ。白衣を着てメガネをかけたオッサンにこれが絶対零度だと言われれば、首を縦に振って素直に信じてしまうだろう。
「さ……寒い。あ、何なんだ、ここは…………」
今夜何度目か分からないうつ伏せの姿勢から起き上がりながら瞼を擦る。立ってみて分かったが、服が大量の水を吸い込んでいた。これは寒いわけだ。風邪を引いてしまう。服はズタズタに裂け、口の中は砂や砂利が沢山入っており、もの凄く気持ちが悪い。
「ああ……寒い。寒い。」
口の中身を一気に吐き出して、震える口で言葉をポツポツと漏らす。視界はまだぼやけているが、俺の周りには静かな水溜りがあることは分かった。
しなてるや、九頭龍湖。
いや、「しなてるや」というのは「鳰の湖」の枕詞だが。鳰の湖、っていうのは確か琵琶湖のことだ。こことは全然関係無いですね、はい。
とりあえず、俺は九頭龍湖の畔でブッ倒れていたのだ。どれほどの間倒れていたのだろうか、頭上には未だに雲に隠れた月がある。ポケットに突っ込んであるスマホを取り出すも、まあ当然ながら水に浸かっていたせいで故障している。真っ暗な画面からうんともすんとも変わらない。畜生、この田舎でスマホ持っている奴なんて五人もいないんだぞ。
「ああ、マジかよ。燎弥セレクションがお陀仏になっちまった」
燎弥セレクションとは、俺の悪友の天草燎弥が吟味に吟味を重ねた最高にして至高の二次元画像たちのことだ。その数は現在、百二十枚。不定期で燎弥が二十枚ずつデータを転送してくれるのだ。因みに、全て表立っては見せられない美少女のあられもない姿のものばかりだ。というかエロ画像だ。ああ、畜生、まあ、しょうがない。
っつーか、服の糸が鬱陶しいな。俺はズタズタになった服の糸がチクチク刺さって鬱陶しいので、それを脱ぎ捨てようとして気付いた。背中に何か、貼付けてあるのだ。首の辺りに近く、普通に背中に手を回しても届かないような位置だ。
真っ白い四角形、要は白いメモ帳がその四隅にある青い小さなシールで貼付けてあったのだ。水をたっぷりと吸った服と違って、そのメモ帳は防水仕様らしく特有のテカりがある。
一体何だろうと思って俺はメモ帳を服から引き剥がそうとするが、なかなかこれが剥がせないのだ。メモ帳を破かないように四苦八苦して剥がしてみてみると、何か文字列が書かれてあるのが分かる。
呪いの符号。
そう書かれた手書きの汚い字の下には何桁かの英数字の列が二つほど記されている。英数字の列の後ろにはそれぞれ括弧があり、その中には先程と同じ汚い手書きの字でID、パスワードと書かれている。どうやら、この英数字列は何かのIDとパスワードらしい。
メモ帳を手にとって呪いの符号をよく確認してみようとするが、そのメモ帳自体に何か不自然な重みを感じる。俺はその違和感を求めて裏面を覗いていると、かくして、重みの違和感の正体はあった。
それは小さな金属だった。
「な……何だ、コレ?」
呪いの指輸。
その汚い文字から生えているよれよれの矢印の先にあるもの、それこそがメモ帳の不自然な重みの正体。それは一つの指輪だった。銀色に輝く指輪で、煌びやかで、変わった宝石も嵌め込まれていない。ただ、崩しまくってもはや原型も失ったような怪しい記号が彫り込まれているだけの飾り気の無い指輪だ。
その怪しげな呪いの指輪がメモ帳の裏に、またもや例の青い小さなシールで貼付けられていたのだ。それはもう、厳重に貼り付けられていた。指輪自体の輝きである銀色の部分が見えないくらいに。
「漢字間違えているぞ……」
メモ帳の裏にはそのメモ帳の文字曰く、呪いの指輸(輪)なるものが貼付けられていたのだ。俺はひとまずその指輪を取り出そうとするが、これまたとんでもなく頑丈に小さなシールによって貼付けられているのでなかなか取れない。いっその事、炎の魔術でメモ帳やシールごと焼き払ってやろうかとも思ったが、そんな魔術が使えないことに気付かされる。俺が一枚一枚、シールを爪で剥がして、その銀の環を改めて観察する。色とりどりの宝石が嵌めてあることもなく、指輪自体が変わった形状をしているわけでもない。その表面に変わった記号が彫り込まれている以外では、あまりに殺風景な指輪。
「綺麗な、指輪だな。とっても、綺麗、だ」
しかし、そのシンプルさがどことなく俺を魅了しているのが段々と分かってきた。気付いた時には、「とうっ」、なんて言って俺はその指輪を人指し指に嵌めていた。銀の環は、俺の指に嵌められるのを待っていたかのように不気味な程に馴染んだ。俺の指に嵌まっているのが極めて自然であるような、俺の指に無い方が不自然であるような気さえする。
もう、その指輪は俺の身体の一部だった。
とはいえ、指に付けてしまえばそれ以上の発見はなく、ただ、ああ綺麗な指輪だな、くらいしか感想は思い付かない。指輪を装着した瞬間に魔法陣が起動して俺に謎人格が目覚めたり、髪が金髪になったり、使い魔との契約が完成したりすることは無かった。
にしても、一体何なんだろうな、この呪いの符号と呪いの指輸(輪)というのは。メモ帳の裏には指輪以外に図解も取り扱い説明書も何も無いので、再び表の文字列を注視してみる。
あ、あれ。このIDの文字列は……?
いや、別にこの文字列が俺の使っている携帯のパスワードでも、メアドでも、とにかく俺の知っている文字列ではない。単に、英数字の文字列の中で、S、K、E、Iという大文字が目立ったのだ。それ以外の文字列は数字と小文字の不規則な英字なのだが、その四文字だけは大文字で目に入ったのだ。
「サ、ケ、イ? サケイ、か。いや、それは違う。これは……セキエイだ」
セキエイ。隻影。
どういうわけだか分からんが、頭の中でその四文字の文字は特定の二文字の漢字を想起させた。何だっけ、隻影って。そんな厨二病みたいな痛々しいワード。どこかで聞いたことがあるような気がする。
そうだ……これは確か、衛世の使っていたTwitterの痛々しいハンドルネームだ。思い出しただけで背中がむず痒くなってくる。ああ、痛い、痒い。
…………待て、衛世だと?
俺は即座にメモ帳の四隅に貼付けられた青い小さなシールを凝視する。その青いシールは、正確にはブランド名の記されたラベルと呼ばれる類いの物だ。青いラベルには変なモノを頭に乗っけたおばさんの絵が描いてあり、それがバナナのブランド名が記されたラベルだと分かる。
あ、あの野郎……マジで俺の背中にバナナのラベルを貼付けていたのか。メモの裏側には指輪という金属の塊が付着していたのだ、道理で叩き付けられた時に滅茶苦茶鋭い痛みが背中に走ったのか。んで、その後に言っていた呪いの符号と呪いの指輪ってのは、文字通りこれらの事だったのか。てっきり、全部冗談だと思っていたが……マジで貼付けてあったとは。本当にこういう悪戯が大好きな奴だ。
そろそろお叱りをしてやらないとなあ、アイツも反応を見たいと言っていたし。俺自身も父の声が聞きたかったからな。俺は耳元にあったはずのテレパスに意識を向けて、衛世に向かって言う。
「だからさ……頼むからテレパスに応じてくれよ、父さんッ」
胸の中にぽっかりと開いた真っ暗な伽藍堂。
どうしようもない欠落が、埋めることの出来ない欠落が俺の心にあった。欠落があるというのもなかなか変な言い方だな。無いモノが有るだなんて、ね。
俺はひたすらテレパスに向かって肉声を吐き出し続ける。テレパス魔術なんて、もう、起動してないのに。父との唯一の繋がりであったテレパスは既に切断されており、俺の耳には父の朗らかな笑い声も、剣戟と爆発音さえも聞こえない。耳に入ってくるのは遠くから聞こえる瀑布の音、風が湖の水面を揺らす音だけだ。
圧倒的な静かさ。
自然が織り成す際限無き永遠の沈黙が俺を包み込む。
俺はテレパスが切断されているという事実を見て見ぬフリ、聞いて聞かぬフリをして叫ぶ。それしか、出来なかった。
「おい、おい! 何か言えよ! 馬鹿クソ親父!」
焦りだった。もう、とっくに心に穴が空いているのに。
事態に追い付いていないのだ。本来なら、もうその変わらぬ事実を飲み込んで悲しみにくれる段階のはずなのに、俺は未だに死にかけの人に生きる希望を与え続けているようなことをしていた。既に死んだ人に生きる希望を与えたって、その意味は塵屑程にもない。何故って、もう、父が人間である以上、死ぬ時は死ぬし、死んでしまえばそれまでだ。決して戻ってくることはない。
「衛世……ほら、衛世、返事しろよ! 聞いてんのかよ! 死んじまったのかよ!」
その通り、衛世は死んでいたのだろう。そんなことは分かっていた。もう、知っていた。衛世が最後に打ち出した例の光の剣の魔術だが、あれが起動する本の数秒前に肉を裂く音が聞こえていたのだ。公安の男が玲華を庇って斬られた時と同じ様な水っぽい音が。
俺は衛世が託した銀の環を嵌められた人差し指ごと強く握りしめる。銀の環は冷たい輝きを放っていたが、俺が強く握りしめると微かな暖かさを感じさせた。
ああ……あの野郎、さんざん死亡フラグなんて立てるから死んじまったんだぞ。馬鹿だなあ、本当に。死ぬつもりだったから死亡フラグをネタのように乱立させていったんじゃないだろうな。最期までネタ大好きな父親として。
いや、笑えねえから。全然、面白くねえし。ふざけんなよ。デリカシー無さ過ぎだろ。馬鹿過ぎ。阿呆過ぎ。馬鹿。阿呆。間抜け。
本当に、本当に、どうして、どうして……ッ!
「最後まで、俺は素直になれなかったんだろうな……」
憤りは冷め、焦りも霧散していく。その胸に空白を残して。
力を入れていた肩をぶらぶらと揺らし、腕を投げ出す。
夜風が身体を吹き抜け、溜まりに溜まった熱を冷やしていく。
この夜、日常の象徴たる父は、死んだ。
父は七年前のあの時と同じようにこの無愛想な俺を庇って、守り抜いた。最期までこの男は狡猾で、言いたい事の全てを一方的にくっちゃべって死にやがった。どこまでもそれが憎らしくて歯痒くて、どこまでも俺の憧れていて大好きな父親のままであった。
一人ぼっちになっちまったな、俺。これが衛世の言う新しい世界か。こりゃあ、マジでお先真っ暗な世界だな。勘弁してくれ。
その皮肉を受け取った世界は、これまた皮肉とばかりに俺に一陣の風を投げつける。湖畔に佇む俺はその風に顔を押さえ、腕の隙間から白い光が差し込むのを感じる。春の微妙な寒さを含む夜風は天空の雲を払いのけ、天球に再び月を現したのだ。雲から顔を覗かせた月は柔らかく白い光を静かな水面に投げかけ、静かな水面のさざ波の上に投影される。今気付いたんだけど、今夜は満月だったのかな。
そして、長く溜まった溜め息を一つ。
そして、月光の中に『彼女』の影法師が一つ。
「ご主人様が、私を監禁していたのですね」
透き通るような少女の声。
振り返ると、名も無き『彼女』はそこにいた。
『彼女』の微笑みは暖かく、どこか懐かしく。
まるで、俺と『彼女』はずっと昔に逢っていたようで……。
それは、俺の運命を変える邂逅だった。