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俺は彼女を監禁する / 白銀の剣閃  作者: 清水
始動 〜 Silver Slashing ripping the Darkness.
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LVNH//O//2038/04/14/03/14//TE-01/2021/05/22//FCE

 目の前で起こったことを改めて言語化してみようか。そうすれば、ワケの分からないこの状況を冷静に分析出来るかもしれない。


 まず、死にかけの子供たちを川に突き落とそうとする大人たちに一人の巫女が立ちはだかる。その巫女とは、俺の家から抜け出した滝沢玲華、彼女自身であった。彼女は子供たちを助けるために……大人たちをぶった斬った。一人残らず。全員だ。彼女自身が動くことは愚か、刀剣さえも使わずに。


 というのが今、俺の視界で繰り広げられた惨劇の一部始終だ。

 うん。やっぱり冷静に分析したところで現状の進展は愚か、理解さえ侭ならないな。というより、冷静に分析出来たかも怪しいが、これ以上の進展があったとしてそれが何だというのだ。玲華が……命ある人間に文字通りの断罪を与えたことに変わりはないのだから。

 彼女が子供たちを助けようとしたのは良かった。それは良かったのだ、それだけは良かったのだ。俺たちみたいに草むらの陰でコソコソしているよりは正義だった。正しい選択かはともかく、正義ではあった。

 だが、彼女は子供たちを助けたことにより、暴力の化身としてこの世に顕現してしまったのだ。滝沢玲華が、一瞬にして天使から悪魔に、女神から死神に転じたその瞬間であった。

 赤と黒の空間には大人たちの叫び声から子供たちの泣き声が戻る。子供が泣くのも当然だ。目の前で凄惨な事件そのものが起きたのだから。とりわけ、目の前で起きたこの「斬殺事件」は彼らにとっては村の知り合いのお姉さんによって引き起こされたものなのだから。

 泣き出した子供たちは目を血走らせ、川べりに佇む巫女から脱兎の如く散り散りに駆け出す。逃げ出す子供たちが果たして無事に戻れるのか、戻った先に彼らに救いがあるのかは分からない。彼らを無事に帰還させるべく今すぐにでも保護をしたいが、今、動くわけにはいかないのだ。玲華が、逃げ出す子供たちを死んだ魚のような光の無い目で追っているからだ。

 特に女の子なんかは何度も転んでは這いずり回り、時には無様にも転がりながら、それでも必死に林の方に向かって逃げる。苦しげに呻く彼女たちの有り様はあまりに痛烈で、目を背けたくなる。彼女たちの真っ白な大腿に走る一筋の赤黒い線。それは破瓜による血液が乾いて赤黒くなったものだ。それを視界に捉えた俺は再び吐き気が込み上がるのを押さえ込む。


「……?」


 すると、ガチガチ……と何かの音が鳴る。音の出所を探すが、今動いているのは地を這いずり回る少女だけで、他には見当たらないが、検討は付いた。まあ、見つからなかったのは当たり前とも言える。鏡が無ければ見えないからな。

 歯だ。俺の歯が余りの惨状に歯を鳴らしていたのだ。舞い降りた地点から動かなかった玲華は子供が一人残らず逃げるまで監視し続け、結局、歯をガチガチと鳴らしているだけの俺は……何も出来なかった。


『無理を言うようだが、可能な限り音を出すな。衛紀くん。バレてはならない』


 フィリップさんは先程より高音質なテレパスを用いて警告を呟く。テレパスの質が上がったのは玲華という強力な魔術師にテレパスの魔術自体を感知されないようにするためだ。彼女くらいの魔術師ともなればテレパスの感知から割り込みや遮断、改竄も容易く行える。

 フィリップさんの言った、玲華にバレてはならないという忠告もまた周知の事実だ。俺は黙って彼女の跡を付けて来て、彼女が隠していた事を知ってしまった。彼女がこの幼馴染で、共に暮らす俺にも黙っていたことなのだ。余程触れられたくないことだったのだろう。俺はそれを確実に疑いという言葉の元に踏み荒らした。だから、俺の見た彼女の隠し事はこのまま墓場まで誰にも渡さず持っていくつもりだ。

 それに、バレてはただで済むまい。フィリップさんならば彼女とも対等か、それ以上で戦えるかもしれない。だが、この俺は雑魚中の雑魚だ。雑魚オブ雑魚だ。フィリップさんがこの俺を守りながら戦うとなると玲華が優勢になるかもしれない。彼女は視認出来ない斬撃を連続で、詠唱も無しにやってのけるのだ。つまり、彼は具体的に俺を何から守れば良いのかを目で確認することが出来ないのだ。

 そして……最も決定的なヒントだが、俺たちは斬殺犯を見てしまった者がどうなったかを見て来たのだ。この村の入り口で。あの鳥居の辺りにぶちまけられた残骸はある種の警告だったのかもしれない。……彼女流の。


『ひとまず、この場に子供たちはいなくなった、な』


 フィリップさんのテレパスの言うように、林の奥で聞こえる子供たちの声も川の叩き鳴らす圧倒的な轟音に包まれ、聞こえ無くなる。単純で単調なごうごうと鳴る音しか耳に入らないからか、世界はある種の沈黙に包まれる。


「ああ、一応、終わったみたいだけど……」

『迂闊に声を出すな。って……おい、アレは』


 緊張の余り俺がうっかり声を出すも、突然、フィリップさんは眉を顰める。怪訝に思った俺は彼の視線の先を見つめ、ドクン、と全身の血脈が脈打つのを感じる。


 その真っ黒な川に、見知らぬ男の映像が映っているのだ。


 川に投影された平面の映像は徐々に立像のようになり、もう普通の人間がいるような感覚を見る者に与える。そう、それは立像を見る者にだけだ。つまり、川に背を向ける玲華はソレには気付いてないのだ。

 真っ黒い川から映し出された人間はこちらに向けて長方形の何かを見せつける。どうやら男はこちらが隠れていることに気付いているようだ。男が振って見せてきた長方形の何かは……黒い皮のものだ。真っ黒い川から出て来たものだから、その黒い皮のようなものが何だか一瞬分からなかった。その黒塗りの皮に金色の旭影、つまり、警察官の紋章が描かれてあると気付くまでは。


『データベースで調べた公安だ……!』


 ……しくじった。

 公安の奴がまだ生きているのは良い事なのだが、今のこの状況は必ずしも望ましいものじゃない。彼の目から見れば巫女服の女の子が魔術を用いて、助けを乞う大人を皆殺しにしていったように見えるのだ。いや、それは俺からしても全く同じことだが……!

 俺の視線が公安の男が片手で引き抜いた銀色に輝く金属の筒に釘付けになる。金属の筒、それは一般的には拳銃と呼ばれる類いのものだ。先程、こちらに警察関係者と名乗ったのはある種の発砲許可だったのかもしれない。

 だが、その拳銃はただの拳銃ではない。


『あの銃は……空間加速砲(エアアクセル)、か』


 空間加速砲(エアアクセル)

 正式名称、固定空間加速射出砲。

 まず、普通の拳銃と違って、口径がとんでも無く大きい。ミリとかいう単位ではない。5センチくらいの大口径を持つ拳銃と呼んでも良いのか分からない代物である。そして、この銃の最大の特徴は銃弾を一発も必要としない、ということだ。銃弾となる代替物はその名の通り、空間、つまり空気を用いるものだ。まあ、一種のエアガンみたいなものかな。だが、その銃から射出される空気はエアガンごときの威力では済まない。

 切断、だ。その威力は貫通というよりは、切断という一言に集約される。空間加速砲(エアアクセル)から射出される空気の刃はコンクリートの壁や、鉄板さえも切断し、ぶち抜く。人間などあっさりとバラバラに出来るはずだ。一発打ち出せば四肢を綺麗に切断させられるだろう。

 空間加速砲(エアアクセル)の絡繰り自体は魔術を用いたもので、そこを把握すればまあまあ仕組みは理解出来る。納得は絶対に出来ないが。その仕組みというのは大口径の銃身の内側の空間、つまり、空気を加速魔術によって高速で打ち出すというものだ。銃の軸となる加速魔術を起動させる術式自体は最初から銃の内側に刻み込まれているので、わざわざ自身で加速術式を組み立てる必要はない。使用者は魔力を銃に流すだけで起動出来るのだ。

 このような魔術のサポートとなる道具で、その道具自体に一つないし二つ以上の術式が彫り込まれたアイテムを俺たちは魔具と呼ぶ。その中でも、とりわけ一般的な銃と似たような形態をし、似たような効果をもたらす魔具を魔銃と呼ぶ。うん、そうだね。これは拳銃なんて呼んではいけない。魔銃と呼ぼう。

 しかも、実に憎らしいのは、この空間加速砲(エアアクセル)を開発、生産しているのはかの魔術技術最先端国家の港元市なのだ。銃弾を一発も用いず、術式を組み立てる必要もないため、港元市で開発された魔銃の中でも群を抜いて素晴らしいものの一つだ。確か、港元市内部の警察組織でもこの魔銃が正式採用されていたはずだ。港元市はヒトの用いる魔術技術を高める以外にも、こういう魔術兵器をも数多く開発しているのだ。

 で、長々と銃の説明をした。だが、済まない。この際全部忘れちまっていい。何ならまた同じことを説明してやってもいい。問題はその港元市の銃を日本の公安が使っている……というのも問題だが、真の問題は公安が確実に玲華に照準を定めているということだ。如何に魔術師であっても、警戒を解いている状態で背後からひっそりと狙撃なんてされればひとたまりも無い。それが港元市製の超高性能魔術兵器であればなおさらだ。


 魔術師も所詮は人間の身体を使っている。死ぬときは勿論死ぬ。

 そう、人間の身体であれば、絶対に死ぬときは死ぬものだ。


 それは玲華のような強力な魔術師であっても例外ではない。このままでは、確実に玲華は打たれてしまう。最低でも警察行き、運が悪ければそのまま射殺されかねない。彼女の未来は、彼女の約束された未来はここで終わってしまう。


 幼馴染が、一方的に射撃されてしまう。俺はそれを黙って見ていて良いのか?

 それが、果たして、正義なのか? 人のするべき事なのか?


 公安の男からすればそれこそ正義を実行したとも言えよう。斬殺犯の疑いのある、というか今、この場で斬殺を実行せしめた犯人を捕らえることは彼ら警察の正義だろう。

 俺だって、彼女を疑っているのではないか? そもそも、彼女の目の前で大勢の大人がバッサバッサと切断されていったのは事実だ。この目でしっかり見た。瞼の裏に焼き付いて忘れることも出来ない。さっきだって鳥居の辺りに散らばっていた残骸を彼女なりの警告、ヒントと決めつけていた。


 何より、俺は彼女のサファイアの瞳を、その奥を見ていなかった……。


 おいおい、何のためにここまで来たか思い出せ。さっき約束したばかりではないか、玲華を信じ続けるって。あの約束は嘘だって言うのか? それは彼女の涙を溜めたあの笑顔を踏み躙ることだ。玲華を疑うのなんてフィリップさんや公安の奴らにでもさせていろ。玲華を信じることが出来るのは、俺だけなんだ。

 まだ、玲華が斬殺犯だと断定出来るわけじゃない。彼女が斬殺犯ではないと信じる俺が、このまま黙って玲華が撃たれるのを見ていられるとでも?


 はあ、そんな単純なこと、二階の窓から飛び降りた時から、決心は出来ていたじゃないか!


 俺は草むらから川べりへ、弾かれたように玲華の元に駆け出す。

 足の裏が夏場のプールサイドのようにジリジリする。心臓の鼓動が早くなる。

 僅かな間隙。俺たちの隠れていた草むらから玲華の元にはやや距離が空いていた。二十メートルくらいだ。今は、その、たったそれだけの間隙が憎ましい。

 だが、今、俺と玲華を隔てているのは真っ黒い空気と木々だけだ。疑いという分厚い壁はもう音を立てて瓦解し始めた。

 玲華は青い瞳を伏せたままで、背後から魔銃を突き付ける公安は愚か、飛び出そうとする俺にさえ気付かない。そのまま、公安の指が引き絞られる。あの引き金が引かれれば魔力が必要なだけ瞬間的に注がれて加速術式、つまり魔銃が起動する。そうすれば一発、空気の刃が射出されてしまう。それだけで玲華はオシマイだ。

 公安の男は飛び出して来た俺に気付いて憎々しげに歯を噛み締め、物凄い眼差しで俺を威嚇する。その迫力で脚がもつれて転びそうになる。このままでは間に合わない。引き金が完全に引かれてしまう。

 空気の刃が、彼女をズタズタに引き裂く未来が脳裏にちらつく。だが、俺の脚が彼女の元に辿り着けないなら、他のものを届かせるまでだ。魔術? 飛び道具? そんなものじゃない。というかそんなものは使えないし、持ってもいない。俺が今、彼女の元に届かせられるのはこの乾き切った口から放たれる咆哮だけだ。間に合え……!


「玲華…………後ろだあああああああああッ!」


 口が乾き過ぎていたせいなのか、彼女の名前を大声量で発音出来なかった。だが、それでも、彼女に音そのものを届けることは出来たはずだ。

 

 背後でフィリップさんが何か叫んだが、何も聞こえなかった。

 今、聞こえるのは俺の懸命な叫び声と、心臓の鼓動の音。

 そして、聞こえるはずのない木の異常なざわめきと甲高い金属音。


 カキィンッッッッッッ、と。

 金属が金属を切断する音が響く。


 一瞬、あるいはそれ以上の間、何が起こったか理解出来なかった。

 見えない何かに衝突されて、俺は空中で三回転ほどして草むらの辺りまで吹っ飛ばされた。着地した後もゴロゴロと転がり、顔や肩、様々な部位に鋭い砂利の石が刺のように食い込む。口の中には血と砂が混じった嫌な味が広がる。今すぐ吐き出したいが、口を下手に開けると前歯を折ってしまう。身体がブッ飛ばされる経験はあるけれども、歯はまだ折った経験が無いから避けたいな。


「……痛ッ。な、何だってんだ……!」

「衛紀くん! 前だ!」


 フィリップさんのテレパスを用いない突然のけたたましい警戒が俺を激痛から現実に引き戻す。ようやく動きの止まった俺は体中の激痛を無視してうつ伏せの姿勢から目を開き、現実を再認識する。

 砂利や土が舞い上がり、玲華が立っているの辛うじて分かるが、正確に視界に捉えることが出来ない。問題の公安の男の姿は見えない。隠れたか……何者かに斬られて川に流されてしまったのか。

 それでも、玲華が生きているのなら、俺の声は、届いたのだろう。この現実に向き合う価値は、充分にあったと思えた。

 だが、安堵の溜め息は喉元で閊える。


 ソレが…………あるのだ。

 果処無の村を、村人を凄惨な結末へ誘うモノが。

 死、という語を体現する冷徹で無機質なモノが。

 俺の平穏な日常を切り裂く白銀の輝きが。

 今、俺の目の前に。


 刃。


 堅固な鋼の塊。

 真っ黒でいて、白銀の輝きを跳ね返す刀。

 そこには、一目で業物と分かる、一振りの日本刀があった。

 彫刻品のような細かな意匠の施された金色の鍔に、煌びやかの欠片が何一つとしてない無機質な刀身。その相反する組み合わせが逆にその日本刀の芸術的な美しさを際立てている。刀の輝きからは怨嗟や殺意、悪意をありったけに振り撒いているのが見て取れる。およそ人の持つ負の感情の全てを吐き出しているようであった。もう、その刃を見ているだけで心臓がキリキリと締め付けられるほどだ。

 一方で、その輝きは単に人を殺意や悪意によって恐怖に陥れる光だけではなく、もっと美しく、幻想的で、魅惑的であった。そう、その刃の輝きは人を死へ誘う。うっかりしていると魂を奪われてしまうような輝きだった。


 盗蹠。


 彫刻的な金色の鍔から生えている真っ黒い鋼の側面にはそう意味の分からない漢字が刻まれている。文字は印刷された明朝体のような華麗な書体で刻まれている。恐らくその二文字の漢字がこの日本刀の銘というやつなのだろう。

 で、当然ながら日本刀は、誰かの手に納まっている。誰が、そこにいるのか、確かめなくてはならない。俺が恐る恐る、しかし素早く頭上を仰ぐ。

 俺には基本的に恐れるという本能が抜け落ちているのである。そこでお前は豆腐メンタルだろう、とか言うな。そっちは別なのだ。だが、今回は冗談抜きで自分に「恐れる」という本能が備わってないことに割りと、いや、本気で後悔することとなった。一目で分かった。痛いほど理解させられた。


 コイツが人間ではなく化け物であり────

 ────件の、斬殺犯であることに。


 そこには泥や煤で塗れた手に日本刀を握りしめた男がいる。擦り切れて血に穢れた服、青黒い血管の浮き出た腕、バサバサで墨のように黒い髪。何よりその男の顔は刀から吹き出す怨嗟と同質のソレで満ちていた。俺は今までこんな、明確に殺意や悪意を振りまく、そんな人間に出会ったことはなかった。安易に彼を人間と呼ぶことさえ躊躇ためらわれた。俺はようやくこの段階で「恐れた」。

 それらの在り方を一瞥して再認識した。やはりこれは人間ではない、人間としての何かが欠落したモノの成りの果てだ、と。

 気付けば、砂利と土の雨も止み、辺り一面には数個の金属片が突き立ったり、散らばったりしているのが分かった。その破片を脳内で再構成してみる限り、全体像は掴めないものの刃物、とりわけ槍のようなものである事が分かる。はっきりと槍だと断定出来ないのは、槍の穂先、刃の部位が何本か多い気がするのだ。つまり、一本の槍に一つの穂先を持つのが槍だというのに、槍の持ち手に対して穂先が多過ぎる気がしたのだ。この槍のような何かが俺をこの真っ黒い白銀の剣閃から守ってくれたのだろうか?

 ごろりと転がって来た槍の破片の断面がうつ伏せのままの俺の視界に飛び込む。そこに映るのは、自分の血と泥、砂で汚れた自分の顔、要は余りにも綺麗過ぎる銀色の平面だ。想像した通りのものだった。バターを加熱されたバターナイフで切り取ったように滑らかで、美しく、恐ろしく人工的だ。その平面に輝く金属光沢や、余りにも綺麗過ぎる断面には見覚えがある。


 滝沢邸の南門の鉄門扉。

 そして、果処無村の入り口の鳥居の前で。

 間違いなく斬殺犯は玲華じゃない。コイツが、コイツこそが斬殺犯だッ!


 ドス黒い怒りに満ちた謎の男はそのまま俺に背を向け、ゆっくりと川べりの玲華の方を見る。鳥居の前の斬殺死体は未だに仮説の域であるものの、仮説の中で最も有力な説は本来の斬殺犯のターゲットは果処無関係の人間というものだ。つまり、果処無村出身の玲華が、今、今度こそ、本当に、狙われているのだ……!

 斬殺魔はまるで、うつ伏せのままで彼を眺めているような虫螻こと俺には関心が無いとばかりに背を向ける。今、この場で俺に魔術を扱う力があれば、背を向けたこの男に一発お見舞いしてやれるというのに。斬殺事件のその全てを明るみに曝け出す空前絶後のチャンスだというのに。『性質』のおかげでこの俺の身体自体は既に全快だというのに、俺は身動き一つ取れなかった。

 上方からの圧倒的な圧力だ。俺の上に巨大な岩石が乗っかっているような感覚がする。見えない何かが、俺を上方から物凄い圧力を伴って押し潰しているのだ。


「くっ……! か、身体が……う、動かな、いッ」


 視界の隅で白銀の閃光が蝋燭のように揺らめく。

 男は物凄い早さで俺から離れ、刀を翼のように大きく広げる。勿論、玲華の方に向かって!


 ジュバッッッッッ!!


 刹那、響いた音は、俺を守ったと思われる槍をバラバラに断ち切った時のような甲高い金属音ではなかった。ただ、何か柔らかい肉を切り裂いたような、鈍くて、水っぽい音が耳を木霊する。生々しい音と同時に噴水のように放出される赤い液体。


 ……守れなかった。


 その光景は、俺を絶望の淵へと突き落とす。

 一瞬だった。轟々と鳴り響く川に一瞬だけ響くナマモノの音。そして、一瞬が過ぎればまた大自然の音だけが世界を支配する。何事も無かったかのように、世界は動き始める。

 一体何だって俺はこんな事をしているんだ。俺がしたことといえば、敵に屈服したような姿勢で、大切な人が斬られるのを黙って見ているだけだ。斬殺犯が無防備に俺に背を向けていたのにも関わらず、俺は倒れたままであった。

 鼻に鉄のような嫌な匂いがツンときて、咳き込む。その鉄の匂いがあの日本刀が何者かの血液を啜ったということを否応無く理解させる。

 救えなかった。守れなかった。助けてのサインを不器用ながらも出した彼女を。これからの未来に希望と不安を抱えた一人の少女を。危険を顧みずに窓から飛び降り、草むらから駆け出したが、結果はこんなものか。せっかく、玲華を信じ続け、彼女への疑念を打ち払っても。真の斬殺犯の目星がついたとしても。俺の口から漏れ出たのはただの絵空事で、彼女を守ることは出来ないのか。

 俺に魔術の腕前があれば、こんな事には……ッ!

 悔しさの中で、俺の意識は途切れ…………。


   ***


『諦めるな、衛紀』


 誰かの、暖かい声が聞こえた。

 テレパスによる音声だが、耳元で直接呟かれたようだ。

 その声は俺の心に巣食う闇に光を灯し、俺の身体を優しく包み込む。

 そして……それは俺の最も聞き慣れた声。この声は。


 刹那、

 視界に凄まじい閃光が迸る。


 辺りは漆黒の闇夜から太陽が燦々と照る真昼のような光が世界を新たに包み直す。赤と黒だけの世界に真っ白い輝きが爆発的に広がり、駆け抜けて行く。

 余りの光量に反射的に目を閉じたものの、その一瞬の光景が瞼に印刷されたかのように思い浮かぶ。誰か、また別の男がこの戦場に降臨したのだ。圧倒的な光を纏って。

 瞼越しにも目を射るような閃光が降り注ぐ中、そちらを確認しようとするが見ることが出来ない。光源を確認するためにうつ伏せの身体を起こそうとするが、腕さえも言うことを聞かない。未だに身体のパーツが何一つとして言うことを聞かないのだ。

 何とか動く身体の部位である瞼を無理矢理開くと、凄まじい白い閃光が視界を覆う。目に矢が刺さったような感覚だ。刺さったことないけど。さっきから真っ暗な所にいたせいで、目の明順応が間に合わないのだ。映画館で映画を見終わった後のような感覚だ。頭がクラクラする。斬殺犯はこの凄まじい閃光をもろに食らったらしく、目を押さえて片膝を付いていた。この光量をまともに受ければマジで失明しかねない。その位、強烈な光だ。斬殺犯の口に見える歯牙はガチガチと震え、凄烈なる怒りを噴出している。

 そして、地の底から響くようなおぞましい咆哮が世界に響く。


「ゴアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!」


 ……ッ! 何て、迫力だ。声量だけで吹き飛ばされてしまいそうだ。この憤激の咆哮を聞けば、それだけで失神してしまいそうだ。

 俺も、恐れるのか、この状況に。死をも恐れぬこの俺が……!


「大丈夫だ、衛紀。もう、平気だ。この光を間近で見ればどんな王様だって目を押さえて落下していくって。安心しろ」


 暖かく柔らかい声。

 次はテレパス越しではなく、すぐ真上からの肉声。

 ザッ、と何者かが目の前の砂利に降り立つのを感じ取る。

 視界には我が藤原家の玄関で長らく靴箱に収納されていた靴が映り込む。明順応が完了したのか、その大きめな靴にはこの辺では見慣れないサラサラとした白い砂が付着していたのが視認できた。白い砂はとにかく、それが白い砂だと分かるくらいには外界には強烈な光が発生していた。その凄まじい白い光によって地に写し出される影を見た。


 白と黒のコントラスト。

 白い光と黒い影。


 その影は……よく見慣れたものだった。髪型、その背丈、全て見慣れたものだった。その大きな靴を履く男、それは……。


「父さん、か……?」

「お待たせ、衛紀。お前を、助けに来た」


 藤原衛世。

 ネット廃人で馬鹿間抜け、しかし裏ではスーパーハッカー。料理以外の家事全般をこなす藤原家の長。生活力ゼロが浮き立つ髪の手入れの無さが特徴的である。俺の『性質』を知っている数少ない俺の理解者の一人。困った時はいつでも不真面目にも律儀に話を聞き、俺を助けてくれた。七年前も港元市から俺を守ってくれたのも父だった。

 衛世は軽く俺の声に応じて、同性にするには気持ちの悪いバッチリなウインクを決める。こんな絶望的な状況でも衛世はいつまでも朗らかな笑みを俺に送った。

 そして、俺の上にある鈍重で見えない何かを軽々と蹴っ飛ばす。まるで、缶蹴りをする子供の蹴り方だった。しかし、それだけで見えない何かはゴドン、と重々しい音を轟かせ、俺の顔の真横の砂利が捲り上がる。あ、危なっかしいなあ、もう。

 だが、父のお陰で俺を押しつぶす見えない何かは無くなった。ようやく、自由に動くことが出来るようになったのだ。やっとの思いで、俺は大地に立つ。


「ありがとう、父さん……。って、俺は良いから、玲華だ! 玲華はどうなったんだ!」

「それは……残念ながら、斬られた者は確かにもう助からない。だけど、今、斬られたのは玲華ちゃんじゃないよ」


 俺は彼の悼むような声の、後半部位にハッと反応し、顔を上げる。玲華はこの凄まじい太陽のような閃光の中で眩しそうに手を顔に当てている。

 彼女は、まだ生きていた。斬られていなかったのだ……。

 だが、玲華の足下で何かがもぞもぞと動くのが分かった。

 それは、人だった。その赤い地に伏した男は苦しそうに、しかし笑顔で親指を立てた。あの男は、さっきまで九頭龍川に佇んでいた男の……。


「こ、公安の人が……!」

「私に……構うな。私は……君がさっき、草む、らから飛び出して、来、た時に心、打、たれた、んだ……。君は……」


 血が巡ってない事がはっきりと分かる真っ青な顔の公安の男は苦しそうに呻きながらも最期の言葉を紡ぐ。俺には彼の言わんとすることの真意が完全には理解出来ないし、仮にも俺の想像通りであったとしても御都合主義のような気がした。だが、そんな御都合主義でも彼は先程、玲華が例の日本刀の餌食になる直前に玲華を庇ったのだ。その結果、公安の男は日本刀に胴体をバッサリと切断されてしまったのだ。

 だが、彼は俺に向けて親指を立ててこう言ったのだ。君は彼女を守れ、と。それこそが俺たちの掲げる正義だ、と。

 それから公安の男はいつの間にか父の横に並び立ったフィリップ大総統に、途切れ途切れに最期の言葉を紡ぐ。


「フィリップ大総統、今、私をこの場に、繋ぎ止めて、くれてありがとう、ございます。後は、任せます……ッ」

「……何、お安い御用さ。お務めご苦労様だ。でも、これ以上は持たない。貴方の命を無駄にしないためにも彼女を守りますから。頼むよ、衛世、衛紀くん」


 フィリップさんがそう言って、公安の男、衛世、最後に俺へ目配せをする。公安の男は今にも表情が無くなりそうな顔を無理矢理笑顔にして、フィリップ大総統に軽く敬礼をすると……動かなくなった。どうやら、草むらからフィリップさんは冷静な判断の元、彼の回復魔術で最大限度の治療を行っていたらしい。その魔術のお陰で公安の男は伝えたいことを全て伝え、事切れた。彼はこの場を俺たちに預けたのだ。


「任せろ、衛紀、フィリップ。俺たちなら何とかなる。そうだろう?」

「勿論だとも。王将の君と飛車の僕、二人に出来なかったことは無い。まあ、角のアイツはいないから、そこは衛紀くんで代用だ。これで行けるぞ」


 立ち並ぶ衛世とフィリップ大総統。ああ、二人はそう言えば元々親交があったと聞いたな。それはマジだったらしい。こんな魔術的にも世俗的にも偉大な権力を持つ国際人フィリップさんと、ネット廃人で半ニートな衛世が知り合いだと言うのは本当に信じられない。しかも、王将はフィリップさんじゃなくて、父さんだと? 一体彼らはどんな仲なのだろうか?

 竹馬の友、とかそんな感じだった。二人の背中はとても親しげで、眩しくて、大きくて、俺の憧れだった。

 憧れ。それは子供の頃の夢だった。偉大な魔術師となって人々を救う。非常に漠然とした曖昧な夢であったが、それなりに真剣に想っていた。

 そんな彼らこそが、俺の目指すものだった。いつしか失われてしまった夢の欠片が目の前にあった。


『汞』(メルクリウス)起動、展開……完了。よし、行けるぞ、衛世、衛紀くん」


 フィリップさんは左手で右手の手首を押さえ、何かしらの起動を促す詠唱を紡ぐ。すると、彼の両腕が水銀のような銀色の水によって覆われていく。

 これは第一回魔術リサーチ大会でも彼が使用した何かしらの魔術だ。彼がその銀の手袋を用いる戦いを動画サイトで見たことがある。その銀色の水のような魔術こそが、彼が汞の魔術師と呼ばれた由縁であった。専門家や本人の発言によれば実際に水銀を用いているわけではないと言っていたが。

 衛世は作戦会議とばかりに俺とフィリップさんを素早く呼んで作戦の内容を語る。って、これ、俺も何かするのかよ。この、魔術の才能の無い俺が。


「いくぜ、フィリップ、衛紀。時間がねえから手短に言う。俺は九頭龍川の流れを応用した大規模魔術を使って調べたいことがある。大規模魔法陣だ」

「か、川の流れを応用するだって?! 馬鹿言うな、そんなこと出来るわけないじゃないか!」


 衛世の突拍子も無い発言に俺は腰が砕けそうになる。この男はこの状況の中でそんな大規模術式を起こして調べ事だと。冗談じゃない。

 日本刀を持つ男は目を押さえて、怒りに身を震わせている。その口から漏れる呪いの言葉はおぞましく、鳥肌を立たせる。早く、説明しやがれ、衛世。もう、コイツが復帰するぞ……!


「おいおい、衛紀。港元市で習っただろう? 地形利用の術式について」


 衛世はこんな臨戦状態に入りつつも懇切丁寧に俺の疑問に応じる。そこまで丁寧じゃないけど。

 まあ、習った覚えはあるぞ……。地形を利用する術式については確か教科書の発展課題みたいなちっちゃなコーナーで習った。川や山、滝、台地、窪地、一本道、海……など、特殊な地形を術式として利用させるのだ。その特殊な地形を操る、ということではなく、地形を術式、とりわけ魔方陣として利用するパターンと記号として利用するパターンがある。

 だが、どちらにせよかなり大きめな魔術を利用する際に使われるパターンで、上手に運用出来れば非常に強いステータスとなる。何しろ地形というそれは大きな大きなモノを利用するのだ、特定の地域に硫酸の雨を降らせてその地域を土ごと死滅させることだって軽く出来るはずだ。

 しかし、何故そんな便利なワザがあの先端魔術国家港元市の教科書の発展課題などというちっちゃなコーナーにあるのかと言えば、ぶっちゃけて言うと凄まじく運用が難しいのだ。港元市のような先端魔術国家であっても困難を極めるノウハウなのだ。


「いや、理論上可能ではあるけれども、そんな短時間で出来るわけない。しかも、この九頭龍川は一本の川。流れの向きも変わってないし、ここら辺には支流は一本も無いんだぞ」


 今回、衛世は「川の流れ」を利用すると言った。それはつまり、川の流れを循環させてそれ自体を「一つの大きな魔法陣」として魔術を起動させるつもりなのだ。だが、川の流れなんて言ってもそんな即興に出来るモノなんかじゃないし、魔方陣としては利用出来ない。

 何故って、魔方陣は円や三角形、四角形、五芒星に六芒星まで様々な形があるが、どの魔方陣でも必ず最後は完結(・・)している。魔方陣は絶対に繋がってないといけない。これはルールだ。覆すことの出来ない絶対的なルールだ。ええと、ほら、円も三角形も途中で途切れていたりしないだろう。そういうことだ。どこの誰かさんが発明したんだかは知らんが、車輪の発明と同様、いつの間にか人類共通の重要知識となっていた。

 しかし、言うまでもなく川の流れというものは上流から下流へ、常に一方通行の動きを行っている。まさか、川の水が海に流れてその海水が蒸発して空気、雲、雨となり川をまた作る……という大規模過ぎる循環を利用するわけではあるまい。というかスケールが多過ぎる。地形魔術の域を超えて地球そのものを扱う術式になってしまっている気がする。

 フィリップさんは一瞬考える様な素振りをして、首を捻る。何か思い付いたが腑に落ちない、そんな感じだ。衛世はそれでも、その自信に満ちた瞳を曇らせない。一体、何をどうするつもりなのだ?


「良いか。川の流れを無理矢理魔術で循環させることは出来るだろ? 細かい理屈や説明は無し、面倒くさい。っつーわけで、衛紀とフィリップはある程度の上流と下流に行って川の流れを変更させて来い」

「衛世、まあそれがメジャーなやり方だが、そうするとこの場に残るのはお前一人になるぞ?」

「そ、そうだよ、父さん! お前、魔術なんて普段使って無かったんだから無理はするなよ!」


 そう、俺は生まれて久しく衛世の扱う魔術というものを見た事がないのだ。生まれて久しくも何も、一回も見た事ないんじゃないかなあ。こんな光をぱーっと生み出す便利な魔術なんて見た事がない。絶対にない。

 光属性の魔術。莫大な輝きは夜の闇を引き裂き、直視した者の視界を破壊する。この真昼の如き光を発生させているのはもうお分かりの通り、我が父の藤原衛世に他ならない。魔術の論理なんかはサッパリだが、とにかくこの強烈な光を発生させたのは衛世なのだ。

 しかし、フィリップさんは彼の自信ありげな顔を見て、何かを思い出したかのように頷いた。


「分かった、衛世。僕と衛紀くんに任せて、お前はここを食い止めろ」

「任せたぜ、フィリップ、衛紀」


 衛世はフィリップさんの言葉にニヤリと笑って、パァンと手を打ち合う。

 本当に仲が良いなお前ら。って、だから待てよ! 俺の意見は無視ですかッ!

 そんな俺を無視して打ち合った彼ら二人の手に突如として変化が起こる。フィリップさんの腕は例の水銀のような手袋がぼこぼこと沸騰したかのように泡立ち、膨張していく。そして、銀の手の平からはボウッ、とこれまた銀色の炎が噴出する。炎と言っても、そういう形に見えるだけで実際はどうか分からない。もう一度言うけど、水銀みたいな銀色の液体の炎なんだぜ。熱があるのかも定かではない。この魔術もリサーチ大会の映像記録で見たことがある。


「調子良いなあ、大総統さん。でも、俺も久々にやっちゃうからな」

「勢い余って爆発させるなよ、衛世」


 今度は衛世の右手に太陽の光のような真っ白い光の塊ががっしりと握られる。その常識外れな光の塊は真っ直ぐな束となり、輪郭の曖昧なまま形を整えている。


 光剣(こうけん)

 曖昧な輪郭なままで顕されたのは爆発的な光を纏う一本の剣。


 それは光の剣だ。別に剣特有の持ち手や鍔があるとかいうわけではなく、それはやはりただの光の束で、光の塊だ。しかし、衛世の握り方や構え方からその光の塊は剣であると知る。真っ白い光が真っ直ぐに伸びた剣で、その剣の周囲には虹色の輪っかが薄く見える。目に突き刺さるような峻烈な輝きは、同時に俺を包み込む暖かな煌めきであった。このヤバい状況も衛世が何とかしてくれると俺に感じさせた。

 玲華は……まだ眩しそうに顔に手を覆っている。ま、まさか眼球は破壊されていないだろうな。彼女を守った公安の人や、斬り付けようとした斬殺魔には気付いているかもしれないが、さっきまでぺしゃんこにされて地面に張り付いていた俺には気付いてないだろう。まあ、とりわけバレて良い理由はない。さっきも言ったが、寧ろバレないでいることのメリットの方が多い。

 とにかく、この光量ではまともに目を開けられないのが普通の人間だ。開けたって何がそこにあるのかなんて分かるはずが無い。注意深く観察なんてしまっては視界や眼球が破壊される。刀の男が良い例だ。衛世やフィリップは目に特殊な魔術を施しているのが分かる。ああ、俺はもう普通の人間ではないからな。視界が、眼球が破壊されたって何度でも再生されるのだ。

 しかし、そんな圧倒的な光を浴びながらも、目を押さえて屈み込む斬殺魔はふらふらと立ち上がる。その鋭利な瞳からは真っ赤な鮮血が吹き出ており、彼の眼球がどれほどのダメージを負っているかを分からせた。

 一方で、これだけのダメージを受けながらも立ち上がるこの男の意志や執念のような、とにかく何かとてつもない負の感情を感じる。血に濡れ、怒りを噴出する男の顔は正に鬼の形相。圧倒的な怒気が静かにその場を包み込む。日本刀がビュンッ、と風を斬って男は剣を構えの体勢に持って行く。もう、コイツは動き出すぞ……ッ!

 衛世はそれを見て舌打ちをし、俺とフィリップさんに鋭い指示を入れる。


「さて、それじゃあ二人とも! 上流か下流か、分担してくれ」

「じゃあ、僕は川の下流で流れを変更してくる。衛紀くんは上流の流れを任せたよ!」


 フィリップさんは二つ返事で足早に九頭龍川の下流の方に向かって走り去り、轟音と爆炎を撒き散らす。彼は両手の水銀の手袋から噴出する銀色の炎を推進としてロケットのように高速で下流に向かったのだ。もう彼の俊敏な脚は地から離れ、低空飛行を行っているのが視界の一番端っこの方で見える。噴出する銀の炎は先の量と比べ物にならない程で、膨大な熱気が熱風となって一帯を撫でる。

 ああ、もう、勝手に行きやがって! 俺は一体全体どうすれば……!


「衛紀、お前は九頭龍湖と九頭龍川の繫ぎ目にある大きな滝に行け。九頭龍滝(くずりゅうのたき)って言ったっけ? とにかくそこで流れを変更させてこい!」

「む、無茶言うな! そんな重要な事を俺に任せるなんて……」

「お前なら出来る。さっさと行け! もう、アイツが刀を構えているんだ!」


 ……くっそ、本当にこの俺がこの場を父に預け、父からの大規模魔術の一端を担うと言うのか? 父は何とか平静を保ってはいるものの、その表情に焦りが浮かんでいるのが俺にははっきりと理解出来る。

 対して刀の男は狼のような呻き声を上げて今にも襲いかかろうとしているのだ。破壊された眼球からも鮮烈な怒りが放たれている。俺も何とか父に協力しなければならないのだろう。

 だけど、この、俺が、この魔術的才能の無い俺に一体、何が出来るってんだ! さっきだってあっさりと押しつぶされたじゃないか!


 でも、まあ……ああ、どうとでもなれ、行ってやる! 決心はとっくに出来てんだよ、クソッタレ! 窓から飛び降りた時にな!


「さあ、行ってらっしゃい、衛紀。新しい世界へ踏み出せ!」

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