LVNH//O//2038/04/13/14/12//TE-01/2021/05/22//FCE
我が家というのは田舎に有りながら、引っ越して来たが故に一般的な家で、田舎特有の面白いものは無い。風情もクソもねえ。
何か期待していたか? 井戸とか暖簾とか、お風呂のドラム缶とか、赤と白が混じった魚が泳いでいそうな池だとか。残念だったな、諸君。我が家は二階建てでフローリング張りの普通の家なのだ。普通の住宅街にありそうな、ありきたりな、家。はいはい、俺が一番残念だよ。畳敷きの部屋で蚊帳の中でお布団を広げて寝てみたいものだ。一方で我が家は普通のベッドしかない。畳の部屋は一室だけある。和室という名の物置と化しているが。
俺の家みたいなのは寧ろこの戦蓮社では相当珍しいものらしいが、やはり元都会人としては掘建て小屋みたいな家に憧れるものなのだ。流石にお風呂はドラム缶なんかじゃなくて綺麗なものが欲しいが。そう、俺はお風呂に結構煩い男なのだ。
「ただいまです。今、帰りました」
「ただいま、だ」
というわけで、我が家到着。
ん、だが、以前玲華が果処無村に住んでいた頃の家というのはそりゃあ田舎らしく風情のある立派なものであった。何せ滝沢邸とかいう先祖代々使われていた滅茶苦茶デカい日本邸に住んでいたのだから。家、というかその邸宅(躊躇いもなく玲華は自宅を”mansion”と呼んでいたのを覚えている)の中には俺の家より広い庭、その中に池や林があったりした。小学生の頃はよく遊びに行ったものだ。子供の足だったせいもあるだろうが、その滝沢邸内の庭の探検だけで一日潰せるくらいには広く感じた。更にその庭には果処無に唯一存在した小さな学校や滝沢神社という小さな神社やその祭具小屋までをも含んでいたのだ。
しかし、現在、滝沢邸を全体的に見るならそれはもはや廃墟同然の有り様だ。というか、廃墟そのものだ。それもそのはず、玲華が「ただいま」と言ったように、現在、彼女はこっちの藤原家で暮らしているからだ。だから、玲華の親族含めその滝沢邸には住む人は一人もおらず、現在の滝沢邸内の住居人を敢えて数えるなら一匹や二羽と呼んだ方が適切な有様だ。
それでも、小さな滝沢神社は玲華が果処無を離れた今でも夏祭りや初詣の日だけは数少ない村人が集まり、賑やかとなる。だが、祭りは毎年あるから、整備自体は滝沢神社の部位だけは毎年行われているらしいが、やはり滝沢邸本体はもうどうしようもなく廃墟だ。邸宅が広過ぎて整備費も洒落にならないのだそうだ。もともと年代ものの建物だったからそうなるのも仕方ない。江戸時代の頃には既に建てられていたらしいしな。例の滝沢神社自体はもっと前から存在していたとも言うのだから驚くことばかりな話だ。もはや遺跡、立派な文化財だ。
おお、言い忘れていた。滝沢玲華はその滝沢神社の巫女さんでもあるのだ。年に一回の果処無の夏祭りは巫女装束の玲華が拝める素敵なイベントでもあるのだ。って、ちょっと前に玲華は神の使いであるだなんて言ったっけな。まあ、彼女の家、滝沢家が本来運営していたのは果処無村で一番大きな果処無神社であり、メインは滝沢神社ではない。果処無神社というのは果処無村で一番大きい神社であり、もはや村の中心的な建造物、シンボルであった。
つまり、彼女は滝沢神社の巫女であり、同時に果処無神社の巫女でもあったという超巫女巫女な女の子なのだ。彼女曰く、果処無神社と滝沢神社で祀られている神様は同じ神様らしいから問題無い、ということらしい。あんまり俺はそういうのに詳しくないが。巫女属性で猫属性の彼女。みことねこ。何か言葉遊びみたいで面白いな。失礼、脱線したな。
さて、玲華が我が家の至って普通の木の扉を開き、それに続いて俺も入り口をくぐる。我が家の玄関の奥、リビングからはカタカタとパソコンを叩く音が聞こえる。ここ最近はずっとこんな音が聞こえる。こんな田舎でパソコンを保有していることなど相当珍しいことなのだが、そのパソコンが健全に活用されていることは無いようだ。嘆かわしいな。
「おかえり、衛紀、玲華ちゃん。今日は学校が終わるの早かったみたいだね」
「本日は例の事件の影響で緊急下校となりまして……」
「ほう、最近は物騒ですからなあ」
カタカタというパソコンを叩く音を発生させていた張本人がこちらに顔を向けた。家のリビングでパソコンに向かって下らないツイートを打ち込んでいるネット廃人みたいな男は我が愚かなる父親の藤原衛世だ。しかも、戦蓮社駅前のコンビニでのアルバイト以外では特に働いてない。絶賛フリーター中。俺たち藤原親子と滝沢玲華から構成される我が家の生計がどうなっているかと言えば、俺とこのネット廃人が港元市から引っ越す際に莫大な補償金が付与され、ソイツを食い繋いでいるのだ。
ああ、引っ越しを決めたのは藤原家だが、引っ越し先を決めたのは港元市だ。まさか、港元市の連中がこんな素敵な田舎を知っているなんて思わなかったよ。だが、莫大な補償金を付与した市の意思は明確だった。心理的な首輪のようなものだ。つまり、金で恩を売ったのだから「いつでも戻ってこい」という、サインだ。俺はあの市が欲している力を秘めているが……二度と、行くものか。あんな所。
「お前、何やってるんだ……」
「コイツも俺の庭を見張るお仕事なんだよ」
それにしてもこれは何て下らないツイートなんだ。
衛世が「てゐっ」とエンターキーをスパーンと決めると、頭がオカシクなってしまったような顔文字(アラビア文字みたいなぐにゃぐにゃした文字が組み合わさったような顔文字だ)とワケの分からん文章が無残にも世界に発信されていった。更に一秒経たない内に凄まじいほどの通知が来て、何十何百もの大量のお気に入りとリツイートが行われているのが分かった。この何の情報も持たない下らないツイートのどこにそんなお気に入りに追加し、拡散するような価値があるんだって言うんだ。ワケが分からない。
以前父から聞いたが、彼らにとってこのツールはもはやおもちゃやゲームの類らしい。衛世曰く「星を爆撃し、獲得するゲーム」だそうだ。世界に暇人も多いのだな。Twitterもその開発者もまさかこんな彼らのおもちゃになるとは夢想だにしていなかったことだろう。まあ、字義通り鳥の囀りくらいのレベルとして受け取ってやろう。俺はそんな廃人衛世に果処無惨殺事件の緊急号を見せようと声を掛ける。
「おい、ネット廃人」
「ネットは偉人?」
「誰がそんな変換ミスみたいな間違えを犯すか!」
「ネット俳人?」
「…………」
これが我が父親の平常運転だ。
誠に遺憾である。因みに父は俳人でも俳優でも、まして偉人でもない。
「おい……父さん、ネットもいい加減にしろ。それより、斬殺事件、四人目と五人目が出たって」
「ネットで見たよ。これだから情弱は……」
「嘘つけ、果処無の事情がネットで出回っているワケねえだろ」
衛世はやれやれと言って肩を竦める。俺が肩を竦めたいよ。ああっ、なんか腹立ってきた。別に、彼は悪い人じゃないんだけど、いつもこんな調子なのだ。
しかも、実は一生言いたくはなかったのだが、誠に恥ずかしいことに、こんなネット廃人でも我が家の料理以外の家事を担っているのは彼なのだ。この有り様で洗濯とか掃除とかしちゃうのだ。つまり、我が家で家事をしないのは藤原衛紀だけということになる。げに悲しきかな。信じられない。
再び「ふぁぼれよ」だとかいうクソ下らないツイートをスパーンと決める衛世に向かって、今度は俺が丸めた緊急号で彼の頭をスパーンと決めてやった。頭をブッ叩かれた衛世はまた「息子が暴れている(意味深)」だとかいう旨のツイートを世に送り出し、また一秒後には大量の通知が波のように押し寄せる。
玲華は引きつった笑みでその場を抜け出し、階上に向かったようだ。俺も今すぐ逃げ出したいぞ!
「全く、カガリの奴め、何がクラスパーティーのアポ取りなう、だ。リア充野郎め!」
衛世は頭をバリバリと掻き、そのカガリとかいう奴に檄文を飛ばしているらしい。すると、これまた素晴らしい早さで「隻影も外出てこいよ^^」というリプが飛ばされて来た。
……いやいや、隻影って何だよ、衛世のハンドルネームとかの類いだろうか。隻影というハンドルネームの横には魔女特有の三角帽子を被った金髪に隻眼の女の子のアイコンがあった。隻眼とハンドルネームの隻影を合わせているのか?
だが、このアイコンの子……可愛いな。
ち、違う、そこじゃない。問題はそのハンドルネームだよ。何だよ隻影って。厨二病拗らせ過ぎだろ。ああ痛い痛い。痛過ぎて死にそうだ。
「ああああ! フィリップの野郎ォまで俺を嗤いやがってえええええ!」
衛世はそのカガリとかいう奴の他にフィリップとかいう奴からのリプも余程頭にきたのか、顔を天空に向けて雄々しい咆哮を上げた。というか発狂し始めた。アホか。なんなら今すぐ外に出してやろうか?
画面を覗き込めばゼロ年代や十年代に隆盛を極めた弾幕シューティングゲームに登場する金髪と赤いカチューシャが特徴的な女の子のアイコンが映っていた。そのアイコンの奴が衛世もとい隻影を煽っているのが見受けられる。こいつがカガリという奴らしい。であれば、そのすぐ下の現在失踪中の『統一協会』の大総統のイケメンな顔写真を用いたアイコンの奴がフィリップの野郎という奴らしい。ハンドルネームまでご丁寧にアルファベットで”Philippe”つまり、フィリップと合わせてあるし。そのハンドルネームの後ろに”(officiel)”と書いてあるが、”official”のスペルミスだろうか。
って、(公式)とかどう考えても釣りだろう。どうせフィリップ大総統の失踪の騒ぎに便乗し、彼の成り済ましをすることでフォロワー数を稼ぎたいという構ってちゃんなんだろう。何にせよ暇な奴らだ。もう、勝手にしていろ。俺は夕飯まで寝てやる!
***
「お、美味しい……!」
俺はその湯気を上げる唐揚げを食べて身を振るわせる。この唐揚げは玲華の作る晩ご飯だ。我が家の長は誠に悔しいことにネット廃人の藤原衛世なのだが、キッチンの長は玲華だ。この家を使わせてもらう代わりにと玲華は毎日欠かさず料理をしてくれるのだ。こちらとしては見返りを求めていないとは言ったものの、彼女の手料理無しには生きていけないというのが最近の正直な感想だ。
しかも、彼女のレパートリーは和食から洋食、お菓子まで何なりと作りこなす。これだから彼女の料理に飽きることなど全くなく、俺たち藤原家の癒しの一要素である。
だが、来週以降、我が家の料理長は転校していなくなってしまうので、この週は玲華が最も好きな料理を作る週と決めていた。というわけで、その玲華スペシャルの内の一品、それが唐揚げだった。
「美味しかった? 良かったあ」
戦蓮社高校のセーラー服にエプロンを重ねた玲華がそのサファイアの瞳を輝かせて右隣に座る。彼女のエプロンはピンクの生地に薔薇の刺繍が散りばめられもので、玲華のお気に入りだ。彼女が料理長を始めた頃からの長い付き合いで、もうエプロンの端の方からはくるくると伸ばしたコイルのようにピンクの糸が飛び出てしまっている。
始めは彼女も料理はてんでダメで、何度も失敗を繰り返していたが、練習を重ね、ここまで成長したのだ。というわけで、このエプロンこそ努力家の玲華を最もよく現した一品と言えよう。エプロン姿の彼女は目にも慣れたが、やはり可愛らしい。もう、そのエプロンはもはや彼女のためだけにあるような気さえする。いや、このエプロンを衛世の野郎が着用しているのを想像したくないのだ。
俺が隣に座った玲華を感慨深く眺めると、その視線に気付いたのか顔を赤くして俯いた。それと同時に髪の毛が邪魔にならないようにセミロングを無理矢理縛った小さなポニーテールが揺れる。ぴょこんと飛び出した小さなポニーテール。実に可愛らしい。
ああ、現在、幸いなことにネット廃人はコンビニバイトに駆り出され、フリーターとしての使命を全うしているので、俺と玲華は二人きりだ。
「ああ、本当に美味しい。玲華スペシャルの唐揚げは最高だ。一生食べていたいくらいだぜ」
「一生、ね。出来るならそうしたいよ。衛紀くんの……隣で」
「お、おい……」
幼馴染の彼女は俺の右肩に凭れ掛かってきた。彼女の小さくて、か細くて、脆くて、弱々しくて、暖かい肩が当たる。
刀剣の魔女、滝沢玲華。戦蓮社高校では、彼女をそう呼ぶ者もいる。まあ、当然だ。彼女の力は畏れをも伴って存在するものだ。その力はもはや一高校生の器では無い。世界で通用するそれだ。
彼女は物理的な刀剣と、炎や氷などの魔術を組み合わせたファンタジーゲームの定番とも言える魔術を主に扱う。その炎や氷などの魔術も勿論だが、彼女の魅力や本質はそこではなく、その研ぎすまされた剣術の方にある。その小柄な体躯で白銀の剣を可憐に、そして激しく振るう姿には多くの者を魅惑と恐怖に引き込む。俺もまた、彼女の剣術に惚れ込んでしまい、魔術の授業で気が付けばいつも玲華のことばかりを見ていたものだ。そういう場合は大抵燎弥に茶化されて目が覚めるのだ。
だが、俺は小柄な体躯であの激しい動きをする副作用、のようなものを知っている。彼女は何らかの魔術でその小柄な体躯で激しい動きをするのに堪えられるようにしているのだ。
無理矢理、強制的に。
その副作用が、時たま彼女の身体を蝕んでいるのだ。
だから、彼女は誰よりも最強の魔術師で、誰よりも弱々しい女の子なのだ。
「衛紀くん、港元市って……どんなところだったのかな」
彼女は弱々しく呟いた。
玲華の転校は来週だとは言ったのだが、その来週の期日までは四日ほどしか無いのだ。本日は四月十三日、彼女の転校予定日は四月十七日だ。
コイツは……本当に強がりで、頑固な奴だ。彼女は学校では全くそんな風に見せなかったのに。これは、俺だけが知っている幼馴染の玲華だ。
俺だけの、玲華だ。
「高層ビルや自律ロボットが……。あのロボット、何て名前だったかな。とりあえず、ゴミが路上には何一つ落ちていないし、夜景もすんげえ綺麗で……」
「そうじゃなくて、明るくて、楽しい場所なのかな?」
玲華は俺の右肩に寄りかかったまま、上目遣いで尋ねる。そのサファイアの瞳に、不安という曇りがあるのがはっきりと分かった。
それも、そのはず。この俺自身が、港元市から逃げるように引っ越して来たからだ。そして、彼女は俺の抱える苦痛のその全てを知っているのだから。彼女はその全てを知った上で、改めて尋ねてきたのだ。
「ああ、トップの魔術師が輝くには素晴らしく適した場所だ。魔術に秀でた者ならどこの国よりも優遇される天国のような場所さ」
だから、俺は気まずそうに左の鎖骨の下辺りを掻きながら、嘘を吐かず経験してきた事の全てを語った。まるで、内容物を吐き出すように、苦々しく。
魔術に秀でたものの天国。そう、それは裏を返せば魔術に秀でていない者への冷遇、地獄を意味する。魔術に秀でない者は魔術に秀でる者の引き立て役として、踏み台にされ続ける。才能の無い者は才能を持つ者に喰われていく。いわば資本主義の究極形態のようなものだ。俺は、ある事件を契機に喰われ続けた。喰われ、喰われ、喰われ続け、俺はこの田舎に逃げ込んで来たのだ。
玲華なら、この才能主義の社会の勝者で居続けられるだろう。常に喰らう側で立っていられる。喰らう側にとっては将来が約束された、正に天国のような空間である。玲華も俺のような弱者を喰らい、踏み台にしていくのだと考えると頭がパンクしそうになる。ズキリと身体が痛みを訴え始めた。
あの七年前の雷と雹の降りしきる日……俺に圧倒的な武力を見せつけた少女の姿と玲華の姿が重なる。あの少女は、幼き俺に何と言ったかは思い出せないが、あの凶暴な雹と雷の嵐だけは鮮明に覚えている。いや、鮮明ではない、白黒の記憶の中にくっきりとこべり付いている。
肩が、左肩が、その鎖骨の下辺りが妙に痛痒い。
「……そっか。それは、実に酷い所だね」
俺は昔の映像を振り払う。鋭い痛みが全身を駆け巡る。まるで、銃弾が皮膚を抉り取るような感覚。
だが、雷と雹を撒き散らすあの思い出は焼き印のように心の奥に深く刻み込まれ、俺から消えることは無い。
忌まわしい記憶は鎖と南京錠で俺の全てを雁字搦めにし、決して離すことはない。俺を、捕まえ、あそこに連れ戻そうとする、記憶。あの社会から、現実から目を逸らした俺を咎めるようにして記憶は現れる。
それを体現したあの少女が、玲華と……重なる…………ッ!
「止めてッ!」
彼女は俺の左腕を思い切り掴んで俺の挙動を制した。同時に、俺の左腕を掴む彼女の小さな手が鮮血に濡れる。
一瞬俺が驚いて玲華の身に何があったのか確認したが、彼女の身には目に見える傷は何一つ無かった。玲華は俯いたまま首を振って、俺の左腕を掴んでない右手で俺の左肩を指差した。その指先に何があるのかと確認しようとしたところで暖かい液体が俺の左半身を濡らし始めているのに気付く。
血の出所は……俺の左鎖骨下だった。どうやら、無意識的に搔き毟っていたようだ。ぐちゃぐちゃに皮膚が抉れ、夥しい量の血液を流出させていたのだ。俺の左手の爪の間には真っ赤な鮮血や皮膚の残骸を吸い込んでいたようだが、それでも含み切れずにボタボタと彼女の腕を濡らしていた。当然、左手の爪の間だけではなく、左肩からもどくどくとその赤々とした暖かい液体は滴り落ちていた。
「ご……ごめん。俺、気がつかなくて」
俺がその事実に気付いた頃には俺の服や左腕、玲華の手を濡らす血液は蒸発したように消え失せていた。
皮膚を抉られた傷口はまるで、テープを逆再生させるかのように塞がった。かさぶたは愚か、傷跡の一つも左鎖骨下には残らなかった。あんなに大量出血させておいて、命の危機などさらさら存在しなかった。
「い、いいよ……。色々聞いて、ごめんね」
彼女はそう言って俺の左腕を離した。
別に、彼女が回復の術を用いたわけではない。
俺が、治したのだ。
いや、俺に直されたのだ。
落ち着きを取り戻した玲華だが、すぐにそのサファイアの瞳を閉じて、また寄り掛かって来た。
今度は、さっきよりも重く、深く。彼女の頭や肩、全身が俺の身体に沈み込む。
「私も、衛紀くんの大嫌いな人間になってしまうのかな……」
……そうだ、何も苦しんでいるのは俺だけじゃないのだ。玲華も、苦しんでいるのだ。だが、彼女の苦しみは、俺と会えなくなることよりも、俺に嫌われてしまうかもしれないということだったのだ。
確かに、俺はあの港元市が大嫌いだ。そこに住んでいる人間を快いと感じたこともあったが、その少女にも容赦なく裏切られてしまった。
だから、結論から言って俺は港元市の人間なんて悉く嫌いだ。それを、玲華は感じ取ったのだろう。玲華の長いまつ毛が伏せられ、瞳に涙が溜められる。サファイアの瞳が、濡れる。
違う。違う、断じて違う、玲華はあんな奴らとは違う。
才能を振り翳し、弱者を嗤うような奴じゃない。あんな、あんな奴じゃないんだ。俺は彼女の身を砕くような努力を知っている。そのボロボロのエプロンも、その蝕まれた小柄な体躯も、彼女の努力の全てを物語っていた。俺は血の滲むような彼女自身の戦いを知っている。
そんな彼女が才能だけに縋るような屑共に塗れていってしまう。俺のような才能の無い屑たちには玲華も才能に縋るような奴と同じように見えるのだろう。
だから、俺は…………。
「大丈夫だ。玲華は玲華のままだ。お前はあんな奴らとは違う。俺が、全部知っている」
彼女の手を強く握った。
玲華は少し驚いたが、やがて彼女も俺の手に指を絡めた。
細くて、流麗な指の暖かさが伝わってくる。
「ありがとう、衛紀くん。私、頑張るよ……」
俺は彼女の努力を知っている者として全力で彼女の事を信じた。
屑に塗れた世界で彼女が迷わないように、惑わされないように。
七年前、俺が求めて止まなかった存在となるために。
***
あの後、馬鹿の衛世も普通に帰って来て、なんとなく気まずくなった俺たちは逃げるように飯を食ってその場を離れた。そうして、日もすっかり暮れて、戦蓮社の空に星の光が灯る。よく聞く話だが、都田舎の空というのは都会の空気より澄んでいて星が本当に綺麗に見えるのだ。ほら、ええと……この季節ならスピカとかレグルスなんかが見ることが出来るのだろうか。星は余り知らない。燎弥が異常に詳しかったっけな。占星術師にでも憧れているのだろうか。そういう俺が知っているのは小学生の頃に習った蠍座のアンタレスだとか、オリオン座のベテルギウスくらいしか知らない。
あれ、ベテルギウスってまだ存在するんだっけか。忘れた。ほら、ベテルギウスという恒星は既に消滅したが、その星の光だけは宇宙を旅していた……とかいう宇宙の馬鹿みたいに広大なスケールを感じさせるアレだ。そう言えば、今年の二月くらいにNASAが現在確認されている最も遠い位置にある銀河が丸ごと消えた……って報告をしたっけな。ブラックホールの出現かな?
星は相変わらず綺麗に見えるが、月は雲で隠れてしまっている。やがて雲が星空をも覆い隠すのだということが見て取れた。明日は、雨かな。
「ああ、これは……。例のアレのオマージュとでも言うのか、これは」
一方、明かりを消した俺の部屋にはテレビの明かりだけがぼんやりと浮かんでいた。テレビには先輩と呼ばれていた女の子が首を刎ねられ、その状況に絶望する女の子たちが立ち尽くすシーンが映し出されていた。女の子が痛い思いをするのよりも、寧ろ俺が女の子から痛い思いをされるのが好きなのだがなあ。靴で踏まれ、上から罵倒される。終いにはその靴を舐める。……たまらないッ。ぐへへへへ。
時刻はニ時半、勿論、真夜中のだ。衛世も玲華ももうとっくに寝ているだろう。衛世の奴もアニメは大好きなのだが、ご自分のパソコンで朝に見るのがお好みらしい。夜起きているのはそのくらい嫌いなのだろう。
では、俺がこんな夜中に何をしているのかと言えば、アニメ視聴と言ってしまえばそれまでだが、強いて厳密に言うのなら今期のアニメのテストをしている。今週は丁度ほぼ全ての深夜アニメの第三話が放送される週であり、第一話からとりあえず見ているアニメを今後見続けるか否かを選定、もとい剪定する儀式が行われる週でもあるのだ。この儀式を俺はテスト、と呼ぶ。そのアニメが第四話以降も見る価値があるのかを判断するテストでもあり、同時に俺のアニメを見る観察眼のテストでもある。この観察眼というものを養うのも大切な事であり、俺が見る価値無し、と判断したアニメがその期間で最も評価されていたりなんてした暁には発狂しかねない。この儀式はもはや全てのオタクたちに必須なことだ。俺はそう思う。今頃燎弥もテレビにかじり付いてこの失禁ガールを見入っているに違いない。明日、アイツも俺と同じように目の下にクマ作って登校するのだ。
ふぁああ……そろそろ今夜の分のアニメは終わりだ。にしても、第三話で登場ヒロインの首が舞うとは。こんな惨劇が起こるアニメなど今にも後にも十年代の奇跡の一作ほどしか無いと思ったが、まあ、これもありかな。好きなドSキャラはまだ生きているし。これでお気に入りのキャラが死んでみろ。反乱だ反乱。クーデターを起こしてやる。
さて、そろそろ寝ないと遅刻しかねない。クマ作ってでも登校しないと燎弥に笑われてしまう。俺はテレビを消してのろのろとベッドに向かった。光と共にテレビの発する音もプツリと途絶え、静かで冷たい闇が部屋に流れ込んで来た。
「そろそろ、寝よう」
何気なく、声に出してみる。口から出た音は閉じられた自身の部屋の内側だけに響き、空しさを俺の心に残した。そのままベッドに入り込み、最近よく見る謎の女の子の夢の続きを考えながら、枕の下に手を突っ込む。
そうだよ! 俺は枕の下に手を突っ込んで寝ねえと気がすまない、寝ることが出来ない奴だよ! 枕の下に手を突っ込むガチ勢だよ! 何だって? 抱き枕ガチ勢だと?! 戦争じゃ!
……はいはい、大人しく寝ますよ。枕の下に手を突っ込んでな。それに、最近は寝るのが大切な日課になっているのだ。いやいや、人間にとって睡眠がとりわけ言うまでもなく大切だ、重要だとかいうことは分かっている。そういうことではなく、さっきも言ったかもしれんが、ある夢を見るのが日課となっているのだ。
ここ最近、頻繁に同じ夢を見るのだ。同じ夢を、何度も、何度も。……檻の女の子の夢を、見るのだ。今朝、燎弥も言っていたが、俺は本当に脳内が平和ボケメルヘン野郎(女郎ではない!)なのかもしれない。女の子の夢だなんて、意味分かんないよな。意味不明だ。しかも檻って何なんだよ……。監禁かよ。物騒な夢ですこと。だが、ほぼ毎晩見る割りには、内容は不透明というか、曖昧というか、ぼやけているというか、余り覚えてない。
まあ、皆もそうだろう? 夢の内容なんて覚えている方が珍しいんじゃないか? さてさて、今夜も檻の女の子の夢、続き見ますかあ……。
ガチャンッッッッ!!
だが、俺の楽しい楽しい夢旅行を妨害する音が発生した。
突然、何か金属と金属が擦れ合い、ぶつかる音が飛んできたのだ……!
無機質で、無感情。冷たい金属音だ。それでいて、どう考えても人為的に発生したものだ。
音源は、外からだった。怪しくも、外へ誘惑する音。
「お、おい……抱き枕勢力の妨害だろうか。じゃなくて、そうではなくて、外、なのか?」
金属。
刃物。
……斬殺事件。
そのワードが黒々とした闇を木霊する。
玲華の転校に頭を覆い尽くされていた俺に再び悪夢のような感触が脳を這って回る。玲華の転校も充分悪夢のようなものなのだが。
しかし、というか当然、この二つは悪夢という段階では終わりそうも無い。
特に今は、斬殺事件については、悪い夢なんかでは済まされそうにはなかった。真っ昼間に殺害された果処無の村人。殺人鬼は、時間を選ばない。
いや、しかし、ここは戦蓮社の村だ! 果処無内で斬殺を繰り返す殺人鬼がここにいるわけがない。果処無の村だけでしか殺人を行わない奴が……。
有り得ない。どういうことなのだ。ここは果処無ではない。
そう言い聞かせても、震えが止まることはなかった。
イデア論。
プラトン。
『国家論』。
そして、洞窟の比喩。
心臓の鼓動を激しくしながら、玲華の言ったことを思い返す。
俺たち人間の見る世界にあるモノは全てツクリモノ。人間は、イデアの影を見ているだけなのだ。
そして、玲華のまとめのセリフが強く想起され、心臓がドクンと強く脈を打ち始める。そのまとめのセリフは……。
目で見たものを、全てだと思うな。
五十点。
玲華は俺の推測に五十点は欲しいと言っていた。
ここで気付いた。玲華が言おうとしていた事に。気付かせたかった事に。
斬殺事件が行われたのは、確かに果処無の村だ。そして、殺されたのは、全員果処無の村人だ……。
果処無の村、果処無の村人。
場所と、人間。
この二つはイコール関係にあると、錯覚、したのだ。果処無の村にいる者は果処無の村人、果処無の村人は果処無の村にいる者、そう決めつけていた。必要十分条件、とか言うのだっけ。数Aだか、数Bだか覚えてないが、苦手なことに変わりはない。
だが、この命題は必要十分条件でもなければ十分条件でも必要条件でさえもなかった。果処無の村にいる者が必ずしも果処無の村人でもないし、果処無の村人が必ずしも果処無の村にいるとも限らない。場所なんて、どうでも良かったのだ。
果処無の村という場所はキーではなく、果処無の村人という人間がキーなのだ。つまり、殺人鬼のターゲットは果処無の村ではなく、果処無の村人だったのだ。そう考えるのが妥当だ。
時間も、場所も殺人鬼は選ばない。
彼が選ぶのは、人間、なのだ。
ああ、回りくどく言うのは止めようか。今、この場合のターゲットは、果処無の村人であった玲華なのだ。
それを裏付けるかのように、漆黒の闇の中に少女の駆ける姿があった。少女の髪は、漆黒の闇と同化するようなセミロングで真っ黒な髪。
「あれは……玲華ッ」
最近、彼女には夜中、家を出て行く癖があった。俺は、敢えてその事実に触れることはしなかった。彼女の抱える悩みを解決出来る見込みも無いのに、土足であれこれ踏み荒らすのは良くないと考えているからだ。何より、俺がそんなことをされたくなかったからだ。
いやいや、今はそんなのどうだって良い。棚でも棚田にでも置かせてもらおう。
例の金属音。それは……刃物と刃物の衝突する音なのではないだろうか。行き先や目的は知らないが、今、彼女が駆けるのはどういうことなのか。もしかしたら、玄関先で彼女が『何者か』に遭遇してしまったとしたら……!
「クソッタレ……! どうとでも、なりやがれ!」
俺は咄嗟に窓をガラリと開き、飛び降りる。わざわざ階段を使って玄関から家を出る、なんていう考えは飛び降りてからやっと思い付いたくらいだ。冷静さなんて失われていた。
彼女を、守らなければ! その想いだけが俺を動かした。
春ながらも涼しい夜の空気が身を擦り、雑草の生い茂る庭に着地する。グシャリ、と足下から嫌な音が響き、足首の形がオカシクなっていた。それと同時に脚が激痛を示すが、こんなのは全く気に掛からない。俺の脚を止める理由にはならない。寧ろ、外の涼しさと鈍い痛みで一周回って頭が落ち着いたくらいだ。俺が脚に視線を向けた頃には変な方法に曲がっていた脚は人間の脚の形を取り戻していた。
これで、走れる。俺が、玲華を、玲華を守るんだ……!
家の外に飛び出し、俺は彼女の向かう先に駆ける。
『四大元素の一要素を為す火よ。その形は炬。その役は照破。宝生如来の智慧を借りて我が目の前の闇を照らし出せ! 火よッ!!』
俺が鬱陶しい詠唱を紡ぐと、ボウッ、と手の平にテニスボールよりやや大きい紅蓮の輝きを放つ火球が顕われる。真っ黒な闇に赤々とした輝きが灯り、俺の行く手を照らし出す。
よし、これで玲華や玲華を襲おうとしている殺人鬼を見つけることが出来る。真っ暗闇は危険だからな。
……だが、甘かった。
せっかく、詠唱を一発決めてやったというのに、俺は余りに冷静じゃなかった。よくよく考えれば、あの玲華が逃げ出すとはどういうことなのか。その辺をもう一度考え直さなきゃならない。
あの、世界屈指の魔術師、刀剣の魔女が逃げ出すとは、どういうことなのだ?
「はは、刀はどこだ。切り裂き魔。……とは言え君もここまでだが。大人しくブッ倒れてもらおうか」
刀はどこかって……? お前が持っているんだろう? 切り裂き魔は、お前なんだろう?
俺の背後から聞いたことがあるようで、実はなさそうな青年の声を聞いたのは俺が頭を強く打ってからだ。
後頭部に激痛が走り、重力の感覚がおかしくなる。俺がいつのまにか閉じられた目を開くと、どういうわけか天空に煌めく星を見ていた。さっき見ていたアレだ。あの青白いスピカとか……。
「ッ……痛ッ…………!」
どういうわけだか知らんが、俺は見知らぬ男、どころか姿さえも見えていない男の言うようにブッ倒れていた。眼球だけを動かして辺りを観察すると、俺が走っていた先には薄い青色をした円形の何かが浮いているのが分かった。
それは、魔法陣。つまり、魔術。
全く気が付かなかった。通常、魔術というものはその魔力というか、気配みたいなものを感じ取ることが出来るのだが、それが出来なかった。まあ、それは単に俺に魔術的な才能が無いからなのだが。
ビルのガラス窓に突撃した鳥のように、俺はあの魔法陣という壁にぶつかってブッ飛ばされて来たらしい。でも、五メートルは飛んだぞ。手元に灯していた火の魔術はその衝撃で吹き消されてしまい、夜の帳が俺たちを包み直した。せっかく組み上げた魔術が台無しだ。組み上げたくも無かったというのに。
「君が使っていた火の術式……エンペドクレス式四大元素魔術と仏教式五大要素魔術を無理矢理組み合わせたものとかどういうことなんだよ? こんな滅茶苦茶なことを習わされるなんて、さては港元の人間か?」
先程と同じ青年の声がした。
大当たりだ。そう、俺の使った港元製の魔術はあっさりと見破られていた。
古代ギリシアエンペドクレス式四大元素魔術と仏教式五大要素魔術。
どちらの魔術も世界的に見ればポピュラーな魔術だが、その併用を行った魔術というのは非常に珍しいはずだ。というのは、俺がその昔、魔術の最先端国家である港元市で覚えさせられた忌々しい魔術だからだ。単に火の灯りを懐中電灯代わりにする超単純な魔術で、攻撃機能は一切無い。だが、この魔術は流石は港元市で叩き込まれた魔術とも言おうか、灯り程度に使用するには贅沢なほど高性能な魔術だ。まあ、個人的に言うなら、それを見破ったお前の方が港元出身だと思うんだが。
とにかく、コイツが相当腕のある魔術師であることは理解出来た。これもまた、俺が魔術師としては全然ダメな存在だからかもしれないが。
かくして、じゃりじゃり、と地を鳴らして男が俺を見下ろし、見下す。
白い。
雪のように真っ白いトレンチコートとズタボロのジーンズを身に纏った若い男がそこには立っていた。
その肌は、日本人のそれとは違う白い肌。男にしてはやや長めの金髪とグレーの瞳。やや鼻の高い整った顔つき。つまり、西洋人が俺を見下していた。
男に見下されるのは好きじゃないんだ。せめて西洋美人であって欲しかった。が、彼はその西洋人特有の端正な顔付きを急変させた。
「……ん? あれ、君は衛紀くんか? いやあ、済まん済まん。これは失礼をした!」
「え……? 俺のことを知っているのか?」
そして、割りとフレンドリーに俺の名を呼んで、倒れる俺に手を伸ばしてきた。その手を掴んで立て、ということらしい。……罠か?
疑いはしたが、とりあえず、俺はそのご好意に甘え、立ち上がり、もう一度この男の詳細を確認する。随分と身長の高い男だということは分かったが、火の魔術が吹き散らされた今、星明かりだけで人を細かく認識するのは困難だ。
それでもコイツは俺の友人ではないことは分かった。というかそもそもの話として西洋人のお友達なんていないし。だが、その顔はやっぱりどこかで見たことがあったし、同じように声も聞いたことがあった人物だ。
その声が始め誰かを看破出来なかったのは、彼が普段使っている言語が英語かフランス語だからだろう。その意外にも流暢な日本語のせいで分からなかったのだ。まあ、そこまで言ってもコイツを直接見るのは初めてだ。テレビやパソコンの画面越しにしか見たことない。気付いた時は度肝を抜かれたよ。何たって、コイツはここ最近、その名を世界に広く知らしめている男だ。世界中の警察やマスコミが彼について付きっきりなくらいだからな。
俺は恐る恐る声に出して確認を取る。向こうも日本語で話しかけて来たのだから、俺の日本語だって聞き取れるだろう。
「お、お前は…………『統一協会』の大統領か?!」
すると、西洋人はニヤリと笑って首を振る。
そして、腕を組み、ドヤ顔で名乗った。
「大総統だよ、大統領じゃない。『統一協会』は確かにユナイトという語句を用いるけれど、何も合衆国じゃない。しかもフランスに位置する機関だし。果たしてご察しなのかは知らないが、僕は国際連合主要機関『統一協会』の大総統のフィリップだ。ほら、最近ニュースでよく見かけるアイツだよ」
俺の目の前の男は先日失踪したとされる『統一教会』の大総統。
つまり、フィリップ大総統であった……!