LVNH//O//2038/04/15/05/07//TE-01/2021/05/22/FCE
俺は、右手で握られた傷だらけの哀れなるスマートフォンを睨みつける。
そう、斬殺魔との戦闘の余波で九頭龍湖に沈没し、必要なデータを転送されている、スマホのことだ。どのボタンを押してもうんともすんとも言わない。
「父さんからのメール、か。澄鈴の悪戯だとは思うのだが、気になるな。もう少し時間があれば確かめられたんだがな……」
「単純に標的時刻になると発信された、いわゆる過去からのメールではないのですね。ただの冗談にしては、確かに、気になりますね」
現在時刻は、午前五時七分。早朝の中の、早朝と言った時間だ。
鈍重な白い霧が舞い降りる坂道を、俺とルナは頂上を目指して登る。戦蓮社村の四月の早朝とは、言うまでもなく寒いことは寒いのだが、それでも、辛うじて戦蓮社高校のダサいブレザーとブレザーの内側に着込んだベスト程度で我慢出来るくらいなのだ。
しかし、今日の朝は正に特別、異常と言ったところだ。指先を凍らせる白い霧が世界を支配し、頭上に浮かぶ大空もマジで雪降る五秒前と言いたげな色、丁度、灰色と白が八対二くらいの比率で染め上げられている。とは言え、この地域ならば四月に雪が降ってもそこまでおかしくはない。
だが、それでも、一昨日の散策という名の決死の行軍で分かったが、戦蓮社村より標高が数百メートルも高い位置にある果処無村でさえ雪は解け切っていたくらいだ。
と、まあ、あれこれ変な事を言わせてもらったが、全て「クソ寒い」の簡単過ぎる一言に集約出来る。そんな朝だ。クソ寒い。
「昨晩は状況が切迫していたから澄鈴のタチの悪い冗談だと一蹴したんだが……どうしても、気になる。どうしても、だ」
「ご主人様、いけませんよ。ソレの感度が異常に高いのは、既にお判りのはずです。私が、お預かり致しましょうか?」
ルナの言うところの「ソレ」とは、父の形見である銀色の指輪。
その名は宝具『暁月の環』。
俺が無意識的に、そして、意識的に使用し、俺の命を何度も今の今まで繋いでくれている切り札の中の切り札だ。
魔具というものとは一線を画す絶対的な力を有するこの指輪型の宝具は、何と、運命を自分の最も望む形へと捻じ曲げ、再現させるだけの知識を授けるという神のような魔術を引き起こす。
生憎、市販で販売されているような魔具とは違って取扱説明書が無いこの宝具の使い方については経験則でしか語れないが、大きく分けて二つの使い方がある。
一つ目の使い方というものは、与えられた知識そのものを「知覚」するだけで自身の望む運命を再現するという強力な知識を引き出す方法だ。
例えば、河川敷の端に自生する野草の名前を図鑑も使わずに知ったり、ルナや矢吹遥のバストサイズをメジャーも使わずに知ったりする使い方だ(ロクなことに使われちゃいねえ)。
一方で、二つ目の使い方というものが、与えられた知識に従って自分自身が「行動」することで自身の望む運命を再現するという知識を引き出す方法だ。
これは、普段俺が頻繁に使用している使い方で、この宝具をあの女から隠すのに使ったり、港元市の魔術師が打ち出す氷の槍を躱したり、結界の術式を破壊したり、セキエイシステムを開くコードを入力したり、と、こちらは割りとちゃんと使われているようだ。
この場合、前者の使い方に於ける知識を「高級な知識」と、後者の使い方に於ける知識を「低級な知識」と俺は呼んでいる。知覚するだけで運命を変える知識の方が高級なのは言うまでもないからな。
「……頼む、ルナ。無駄な魔力消費は控えたい。これで高級な知識を引き出しても、澄鈴の冗談だったら笑うに笑えないからな」
「畏まりました。このルナがご主人様の宝具を、責任を持って管理させて頂きます。ご安心を、必要な時はすぐにご主人様にお返し致します」
俺はそんな切り札の中の切り札を、人差し指から引き抜き、ルナの白い手の平に乗せる。俺にぴったり嵌る指輪だが、ルナにも似合いそうだ。
そう、そうなのだ。この切り札の最大の弱点は異常な程の感度の良さと、莫大な魔力消費にあると言える。
弱点である感度の良さについては何度も言ってきたと思うが、俺がふと知りたいと思った知識をもこの宝具は直ちにお届けしてくれるのだ。それと同時に、料金を支払えと言わんばかりに莫大な魔力を引き抜いてくれる。勿論、勝手に、引き抜いてくれる、のだ。
この押し売り染みた宝具の特性を俺は感度の良さと呼んでいるが、高級な知識を引き出す方法の場合、この押し売りで勝手に引き抜かれる魔力の量は馬鹿にならないのだ。
俺自身が保有している魔力の最大値を千とすると、高級な知識を引き出す方法で引き抜かれる魔力は、四百強程度だ。通常の魔術、例えば手の平に火球を生み出したり、俺の醜い肉片を浄化したりする魔術は、ざっと十から二十弱程度の魔力しか消費しない。こうして比較すると、高級な知識を引き出すだけで銀の指輪にどれだけの魔力を喰われるかが分かったはずだ。
だから言っただろう、高級な知識を引き出すのは二回から三回(三回目は無理っぽいな)までが限度だと。
それだと言うのに、たかだか澄鈴の冗談かもしれない情報を知るだけで四百強の魔力を使うのは愚かしいにも程があると言えよう。
仮にも澄鈴の冗談が冗談でないとしたら、四百強の魔力を使う価値はあるかもしれないが、現時点では余りに不確定要素が多過ぎる。
魔力の完全回復には時間が異常にかかるからな。無駄に四百もの魔力を捨てるのは、魔術師としては自殺行為にも近いのだ。たったそれだけで、約半分ものアドバンテージを港元市の魔術師や父の仇である斬殺魔、それから、あの女に与えてしまうことになる。
要は、使うべき時を見誤るな、というわけだ。高級な知識は有効活用出来れば、どんな敵でも倒すことが出来る力でもあることに違いは無いのだから。
因みに低級な知識を引き出すのに必要な魔力は、どんなに多くても、高級な知識に必要な魔力量の十分の一、四十程度だ。魔力四百を捨てるくらいなら、こっちを使った方がエコだよな。
だからこそ、高級な知識をケチケチするために、極力、宝具は使わずに知りたいことは地道に調べるという方針だ。
「そろそろ、到着だ。アレを使って、一時間くらいで最終目的地に辿り着く。これについては、計算済みだ」
「下準備は本来であれば私、メイドのお仕事なのですが……。申し訳ございません。ご容赦下さい……」
「いやいや、そんな謝らなくても良いからね? 所詮は時刻表見れば誰でも分かることなんだからね?」
数メートル先の視界をも塞ぐ白いカーテンは俺たちがこの坂道を登る度に濃くなっていくようにも感じられるが、この村の最北端を流れる九頭龍川に架かる橋を越えると、坂の頂上にある二つの建造物の輪郭が見えてくる。
一つ目の建物は入り口付近に立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされ、重機が二、三台ほど停まっている。この建物は、昨日の氷雪の魔術師と刀剣の魔術師の激突の余波で損壊状態にある戦蓮社村のショッピングモールだ。
たった二人の魔術師の激突で建物の一部が損壊するなんて日本の魔術師としては信じられないような緊急事態なのだが、港元市のナンバーフォーと日本の国家魔術師第二級所持者が激突すればこんな風にもなるのだろう。というか、よくもショッピングモールそのものを吹き飛ばさなかったと評価したい。
何たって、港元市の『術位序列階層』内の魔術師は大国の首都を一晩で陥落させる力を持つという噂だし、日本の国家魔術師第二級の資格を持つ者はたった一人で通常武装の一個連隊(魔術武装は例外の模様。魔術武装の場合は一個中隊程度だそうだ)を撃破する力を持っていると厳密に規定されている程だ。
あと、済まないが、何度も氷雪の魔女矢吹遥は港元市第四位の魔術師と言っているが、これは『暁月の環』から引き出した高級な知識に起因する。信憑性は俺が保証する。
というわけで、幸いなことに、ショッピングモールそのものが壊れているわけではなく、あくまでも例のイタリア料理店だけが立ち入り禁止エリアなようで、他の入り口は使えそうだ。
明日の午後から開かれるであろうお別れパーティー自体はあのショッピングモールのどこかのレストランで決行されるのだろう。良かったな、幹事燎弥。
「しかし、ご主人様のお手を煩わせるわけには行きません……」
「たまにはご主人様らしい役回りもさせてくれ。っと、ほら。もう着いたぞ」
そして、もう一つの建造物。
ショッピングモールの反対側にあるそれは、揺らめく白いカーテンから徐々に輪郭を露わにする。いわゆる、ログハウスのような建造物だ。
大きな木製の屋根の下には、同じく木製の大きな文字で、こう書かれている。
箱根登山鉄道戦蓮社村駅、と。
「あそこが、戦蓮社村駅。この村に設置されている唯一の駅だ。アレで、戦蓮社村から出て、小田原市まで行く」
***
港元市の魔術師からルナが、掠め取ってきたUSBメモリ。
USBメモリの中身のデータとは、肝試し実況の皮を被った陰惨たる猟奇事件の断片、の皮を更に被った先進魔術国家である港元市と田舎の中の田舎である果処無村の繋がりを暗示したものであった。
そこに映し出されていた対港元市用のアイテム『咒殺子凾』という、名前からしてヤバそうな「函」の製造法こそが、港元市と果処無村の繋がりのキーとなると俺とルナは踏んでいる。
また、そのキーこそが、現在起きている斬殺事件や忌まわしい儀式、港元市の『例外』、それから、あの女の罪を炙り出すための手段となれば良いな、と俺は考えている。
一方で慎重なルナはそこまでの推測は立てておいて問題は無いが、あくまで推測は推測であり、信じきるのは軽率であると進言した。妄信癖のある俺には本当に最高なメイドだ。助かる。
そんな俺たちの今日の目的は第一に、函の製造法の記された古文書を旧滝沢邸から頂戴してくることにあるのだが……実は、それには二、三の問題が残っている。
それは、港元市の魔術師が奪ってきたUSBメモリに入っていたデータ、URL先のページの残りを未だに閲覧してないのだ。ルナはこの残りのページに関して全て閲覧してから旧滝沢邸に向かうべきだと言ったが、それについては俺も同じように考えていることだ。
函の製造法の記された古文書のある場所が分かったことは良いものの、結局のところ、一年前に起こった猟奇事件に関しては何の情報も無い。一年前も果処無村の麓である戦蓮社村で過ごしていた俺だが、そんな猟奇事件など一ミリたりとも聞いたことがない。
しかも、これが最も重要な案件だと思うのだが、例の猟奇事件と今起こっている斬殺事件やあの儀式との関連性も無いのだ。何と言っても、俺たちを殺そうとした斬殺魔はゴスロリなんて着ていなかったからな。
そんな訳で、俺たちはUSBに記された残りのページにはその猟奇事件や今起きている事件や儀式のヒント、みたいのがあるのではないだろうかと考えている。お浚いは以上だ。
だから、俺たちは港元市の魔術師から奪ってきたUSBメモリ内部にある残りのページを閲覧するために、携帯を修理しなくてはならないのだ。この、俺自身の手によって。
『暁月の環』の高級な知識を使えば一発で済むのだろうが、あくまでも、今の俺の保有魔力では一発しか使えない。どころか、一発使えるか使えないかのギリギリなラインだ。さっきも言ったであろう、高級な知識を得るためには莫大な魔力が必要なのだ。だから、ケチケチ調べごとをするという方針の元、自力による携帯の修理が急がれるわけだ。
しかし、携帯の修理なんて素人には出来ない至難のワザだ。そこで登場するのが、またしても『暁月の環』だ。但し、使うのは高級な知識ではなく、低級な知識だ。こっちは割りと気楽に使えるからな。かくして、低級な知識は、俺の元に下された。
「なるほど、『暁月の環』はそのような知識をご主人様にお与えになったのですね。それはつまり、携帯電話の修理に必要なパーツを買いに行け、ということですね」
「どうにも、そういうことらしい。この命の危機も懸かっている局面で電気屋や工具屋にお買い物だなんて笑っちまうよな……」
低級な知識が俺に与えた知識、それはお買い物だ。
この溺死した携帯を俺自身の手で蘇生させるには、いくつかの部品や工具などが必要なのだろう。それらを売っている電気屋や工具屋などという洒落たお店(洒落てはいないとは思う)なんて、この寂れた戦蓮社村には一切無いからな。父が年に数回、セキエイシステムを内包した自作パソコンを修復するために小田原の電気屋へ通っていたのを思い出したが、正にそうしろということなのだろう。流石は父の形見と言ったところだな。
確かに、小田原にまで降りていけば大型の電気屋の一つや二つもあるはずだからな。とは言え、そんな言う程の都会じゃないんだけどね。横浜と比べれば、同じ神奈川県内だとは考えられないくらいだ。
というわけで、俺たちは戦蓮社村唯一の駅のホームで始発を待っているのだ。
俺たち以外の乗客のいない索漠としたホームは設置されている自動販売機が妙な音を立てているだけで、それ以外に余計なものは何一つとして存在していない。
その妙な寒々しさはやけに昨日のトイレでの嘔吐事件と喉元をブチブチと切り裂く嫌な感覚を彷彿とさせるので、それら悪夢を払拭するように半ば無意識でスニーカーの爪先でホームをコンコンと叩く。ああ、クソ。眠いのだろうな、目を覚ませ、藤原衛紀。
「にしても、寒いし、眠くなってくるな。これは、冬眠の本能かもしれない」
「今朝の起床は大変早かったですからね。今夜は早めに寝られると良いのですが……」
先ほども言ったが、今日の俺は異常な程の早起きという偉業を成し遂げたのだ。現在時刻が午前五時十一分なのだから、実際に起床した時間は午前四時半くらいということだ。自宅から徒歩で駅までは数十分掛かるからな。
この俺が、こんなにも早起き出来ることにこの世に生きる衆生の方々はみな度肝を抜いているであろうが、一番驚いているのは他ならぬこの俺自身だ。こんなに早く起きたのはいつ以来だろうか。
これも偏に同じベッドで寝ていたあの女への異常な程の黒い疑念が為すワザなのかもしれない。昨晩は本当に地獄のような夜を過ごしたものだ。ここ最近の日課でもある檻と少女の夢さえも見なかった程だからな。
今、斬殺事件と忌まわしい儀式の起こる果処無村の謎や、港元市から派遣されてきた魔術師たちとの闘争を念頭に置くべき俺としては、あの女との戯れなど記憶することにさえ値しない愚かな行為と言えよう。
昨晩のことで覚えていることを強いて挙げるのであれば、どういうわけか足元のシーツがぐしょぐしょに濡れていたことと、俺に毒を盛った殺人未遂犯のあの女が何事も無かったかのように「ずっと衛紀くんの側にいたい」だとか「私の引越しを引き止めてはくれないのか」だとか甘ったれたような泣き言を垂れてきたことくらいだろうか。俺はそれが無性に腹立たしいというよりは、寧ろ、気色悪く思えて、無視してさっさと寝てやったのだった。
俺の知っている本当の滝沢玲華は、決してそんな弱音を吐かない完璧な少女なのだ。
滝沢玲華は、俺を大事に大切に、愛してくれるだけの俺にとって完璧な少女なのだ。
だから、滝沢玲華は、絶対に、俺に嘘を吐かない。絶対に、俺を傷つけたりしないのだ。
そんな役目を忘れた偽物には断罪の鉄鎚を下し、その場を追放し、その代わりとして俺の優秀なメイドを据え置かねばなるまい。
何と言ったって、お前は、港元市の魔術師を呼び込んだ元凶なのだから。
「ご主人様……歯が、ガチガチ鳴っていますよ? お寒いのでしたら、私めの衣服をお貸し致しましょうか?」
「はっ……。い、いや、結構だ。大丈夫、そんなに寒くないからね。というか、ルナこそ、和服だけじゃ寒いだろ」
しまった。指先を凍らせる異常な寒さのせいか、あれこれ考えて込んでしまったが、何を考えていたか忘れてしまった気がする。いかんな。これ以上、ルナに心配をかける訳にはいかないのだ。
っつうか、ルナの和服を俺に着せたらお前が寒さと恥辱で死んでしまわないか心配だぞ。如何にこの時間のホームには誰もいないとは言っても野外は野外、流石にご主人様の俺でもメイドに野外で下着姿を晒せと命令する程鬼畜ではない。
昨日の入浴時もその和服の下にどんな下着を着用しているのかを確かめ損ねた以上、和服を脱がせてしまったら最悪、全裸になってしまう可能性もあるので、俺は首を勢い良く横に振る。
下着姿にせよ、全裸にせよ、他の第三者に見られたらどうするつもりだ。俺は監禁罪以外の罪までをも背負うことになってしまうではないか。
あ、それと、言い忘れていたな。ルナ個人の切符を買うという都合で、現在、彼女は幽星体の魔術を限定的に解除してくれている。ルナという俺のメイドの存在があの女にバレなきゃ良いだけなんだから大丈夫だろうさ。
とりわけ、始発ともなればすれ違う人は乗務員と他の駅で乗ってくる乗客くらいだから問題あるまい。戦蓮社に住まう村人たちとはほぼ全員の顔と名前が一致するものの、他の駅を使うような隣町の人々は顔と名前が一致しないどころか、顔見知りでさえない。大丈夫だ。
「ご安心を。ご主人様に余計なお気遣いはさせません。この和服、実は特別製なのですよ」
「確かに、魔術製だったな、その和服。羨ましいものだ」
運命の夜明けでも目を逸らしつつも観察していたが、我がメイドのルナが着用している紅の和服は魔術製なのだ。その光景はまるで、バトルに駆けつけた制服の少女がリボンいっぱいの魔法少女に変身するかのようであった。
彼女を包む紅の和服は袖の元へ向かうに連れて桜の木をデザインした金色の刺繍が多く見られ、紅を締める帯はそれこそ刺繍ではなく本物の桜のような趣のある和色だ。芳しい髪には可愛らしい桜の花弁の髪飾りが微かな風に揺れる。
そんな純日本の古き良き伝統と、異国の美しい黄金色の長髪を靡かせる彼女は、何というか、実にイイトコ取りが上手だなあと感慨深く思う。俺も美少女になったら是非とも着てみたいものだ。来世に期待しよう。死ねない魔術師の俺に来世なんてあるのかは知らんが。
「始発電車の到着は午前五時十八分。もう少しですね。私、電車というものには初めて乗るので実は少し楽しみなのですよ」
「電車に乗らないで、どうやってこんな山奥の村にやってきたんだ、お前は……。ギリシア神話みたいに水の泡から生まれてきたんじゃねえだろうなあ」
「愛と美の女神アフロディテでしょうか。ご主人様からの……お褒めの言葉、ありがたく思います。風情のある言い方ですね、恐れ入ります」
まあ、そんな意図はまるで無かったんだけどね。
俺はホームの向こう側、白い霧の向こう側に輪郭だけを見せるショッピングモールを細目で眺め、損壊しているイタリア料理店の壁にかかっていた西洋画を思い出す。
如何に世界史の知識が同じ文系である燎弥と比べて遥かに劣っていようとも、流石にその神話の一ページを元にルネサンス時代の誰かさんが裸の女と貝殻の絵を描いたことくらいは知っている。
こんなのは世界史の範囲というより(それもそのはず、高校の世界史は未だにローマ帝国滅亡以降の歴史を学習していないのだから)、中学校の歴史で習う内容だからな。まあ、作者の名前も絵のタイトルも忘れちまったんだがな。
だが、ルナがアフロディテという固有名詞を使ったんだから、どうせアフロディテの春だとか、創造だとか、誕生だとかそんなタイトルなんだろう。
「ルネサンス期のフィレンツェの画家サンドロ・ボッティチェリは"Nascita di Venere"という原題を、つまり、『ヴィーナスの誕生』と名付けました。ヴィーナスはローマ神話の女神です。しかし、ローマ神話は本来、ギリシア神話を模倣したものなのですよ」
「ああ……そう言えばそんなのを聞いたことがあるな。アフロディテがギリシア神話の女神で、それをパクったのがローマ神話のヴィーナスだっけかな。うん、パクリはいかんな」
と、無知な俺に格好の良いフィレンツェ語で(後になって分かったのだが、俺がフィレンツェ語だと思っていた謎過ぎる言語はどうやらイタリア語のことだったらしい)あの裸の女が描かれた絵の元のタイトルを発音し、両神話の解説を始めてくれた。
実際のところ、ルナの解説はどこかで聞いたような話で、両神話の関係性についてはこの場で特筆すべきような話題でもない。だが、俺が敢えてこれから記すのはそのギリシア神話におけるアフロディテとかいう愛と美の女神の誕生の仕方であった。
ローマ神話におけるヴィーナス、つまり、ギリシア神話における愛と美の女神アフロディテのその誕生とは、海を漂っていた神様のぶった切られた男性器から生まれたというものだった。この話自体もこの場に相当記したくもない話だが、更に面白くないのがその男性器がハルパーという鎌刀によってぶった切られた天空神ウラノスのモノであったということだ。
ハルパーですかあ……どっかで聞いたことがあったよなあ。俺は無意識に夕焼けを跳ね返す黄金色と、痛烈な喉の詰まりを感じて咳き込む。また、トイレでの嘔吐事件を思い出してしまったじゃないか。
「と、言いましても、ローマ神話がギリシア神話を真似たように、アフロディテ自体も元々は古代オリエントやアナトリアの豊穣神や地母神に起因します。俗に言うキュベレイという地母神でしょうね」
「アナトリアというワードをここ最近でよく聞く気がする。いや、しかし、うん……そんなエロい出自を持つ女神であるとお前を言いたかったわけじゃないんだ。許してくれ」
更に聞けばアフロディテは愛と美、それから性やら生殖を司る女神というではないか。ルナの口からはちらほらとアフロディテという女神が複数の男性と肉体的な関係を持ったという神話のストーリーも聞き取れるではないか。
俺は何だか、ご主人様に全身全霊の奉仕を尽くしてくれているメイドに失礼なことを言ってしまったのではないかという罪悪感に襲われる。
しかも、健気なルナはこの猥褻要素過多の解説を、電車待ちでお暇を持て余しているご主人様のために捧げる高貴で優雅な余興、いわば業務の一環として取り組んでいるのだ。俺は彼女の職務への態度に対して更なる罪悪感を胸に植え付けられる。それを、彼女はご主人様からのありがたい褒め言葉だと言ったのだ。お、俺はそんなことまで彼女に気を遣わせていたというのか……。
「そのような事はございません。それに私は、ご主人様にお仕え申し上げるメイド。ご主人様の命とあらば、その……そういうことにも、積極的に励む所存です。この私に、何なりと申し付けて下さいませ」
「なっ……な、な、何て事を急に言い出すんだ、お前は! し、心臓と脳髄、それから下半身に悪いことを言わないでくれ! これ以上の罪など背負いたくない!」
「ご主人様はたとえ格下であるメイドにも分け隔てなくそのお優しき心遣いをなさってくれます。故にご主人様が私にそのような命令がしにくいということは心得ております。しかし、メイドたる私がメイド本来の役目を遂行することを、どうか拒まないで下さい」
僅かに視線を下ろして頰を染めたルナはその大きく柔らかな二つの起伏を和服越しに両手で挟み、微かに上下に動かしながら、そのセクシーでアダルティ極まりない爆弾発言をぶちかます。
予期せぬ爆弾発言を我が忠実なる耳目に直撃させてしまった俺は反射的に顔をそっぽへ向けようとするものの、我が眼球だけはその和服からぐにっという効果音を上げて飛び出そうな柔らかい起伏をしっかりロックオンしたままだった。なるほど、昨日の入浴時に学習したではないか、我が耳目はあくまで俺の性欲に忠実であるということなど。
当然ながら、その爆弾発言をぶちかました張本人のルナは顔を背けても絶えることのない俺の熱い視線に気付き、この性欲を滾らせる悲しき獣に職務という名を被ったなかなかに非倫理的でスリル全開のご命令を待っていると言ってのけた。
その、背徳的で甘美な誘いが誰もいないホームという雰囲気の整った場に木霊し、俺は下半身の猛る疼きを抑えようとする。今、この誰もいないホームで俺が下半身を露出させれば彼女はまず間違いなく頰を赤らめて微笑みながら、彼女の言葉を借りるのであれば、文句一つ言わずに彼女本来の役目を遂行するのであろう。こ、これは、やばい。目が回ってきたぞ。
「ご安心下さい。私はご主人様だけの専属メイドです。他の者どもに従うことは一切ございません。私、ルナの身体はご主人様だけのものです。ご主人様だけが、この私の身体をいくらでも、性欲の捌け口として使うことが出来ます」
「……始発の到着時刻だ、ルナ。ほら、さっさと乗っちまおう。お前、初めて乗るんだから好きな席確保しろよな。多分、この時間ならどこの席でも座れるはずだ」
「こ、これが皇国日本の電車なのですね! 素敵です! クールです! 流石はご主人様のお住まいの国です!」
間一髪、と言ったところか。監禁魔から露出狂にならなくて済んだ。
ルナは俺の言葉に翠玉の瞳をキラキラと輝かせ、視界の西方に広がる険しい山、丁度、果処無村や九頭龍湖の方からゆっくりと降りてくる赤と白に彩られた四角形の乗り物に釘付けだ。
興奮で地団駄を踏む彼女の下駄からはカンカンと明るくコミカルな音が弾む。流石にここまで可愛らしく美しい異国の少女がはしゃぐ様は見たことがないのだが、駅のホームにゆっくりと滑るようにやってきた四角い乗り物に好奇な眼差しを向ける旅行客が多いのは確かだ。
今はもう四月の中旬で、更に始発ということもあって乗客も俺たち以外には誰一人としていないのだが、先月は全国で春休みのシーズンだったので家族連れやカップルなど、多くの観光客(この場合の観光客というのは、ここ戦蓮社村で降りる観光客ではない。ここ戦蓮社村は観光スポットとは無縁なもので)が見られる。
現在進行形でエメラルド色の好奇の視線に晒されている件の四角形の乗り物の大きさはそれほどもなく、車両もわずか二車両しかない。
四角形の乗り物の形は長方形というわけではなく、この激しい山岳地帯の斜面に沿った平行四辺形のようになっており、車内も傾斜に合わせた階段状となっている。
もう、お気付きであるとは思うが、この乗り物はルナの言うところの「電車」という乗り物ではない。
「悪いが、ルナ。これは、特別な車両なんだ。ケーブルカーという、電車とはまた違うものでな……」
「ご主人様! ここの席に座りましょう! この、一号車の先頭の席ならばいち早く新しい景色を見ることが出来ます!」
「お、お気に召したようで何よりでございます」
俺の言葉も聞かずにまるで子供のようにずっしりとふかふかな椅子に座ったルナは、隣の席をぱんぱんと叩いて俺を隣に座るように促す。言われんでもその席に座るつもりだよ、ルナ。正確には、お前のお尻を意図せず感じられるお前の隣にな。
ルナはスルーしてしまったが、この平行四角形の乗り物はこの箱根の山岳地帯を走る鋼索線、即ち、ケーブルカーというものだ。ルナが言うような皇国日本の大都会を巡る長方形で速度の出るような電車はこんなデコボコだらけの山岳地帯では走ることが出来ないのだ。
日本も魔術の進んだ国家(一応、日本も世界的なレベルで見れば魔術先進国である)であるが故に、首都である東京を始めとして横浜や大阪、名古屋と言った大都会には国営の同質空間配備魔術の大結界が置かれており、その国営の大結界が設置されていない中程度の諸都市に関しては二元的絶対零度魔術を利用したリニアが走っている。よって、大都市やそれに準ずる中程度の諸都市の交通の便が整い、一応、人と物の移動は活発になったと言える。
だが、そうは言っても魔術技術が全国津々浦々に浸透し切っているという訳ではなく、このようなロクに人が生活していない田舎にはハイテクで豪奢なマシーンなど存在しない。
というわけで、同質空間配備魔術の大結界もリニアも、果てには電車も無いような関東地方の山奥にはこのケーブルカーが古くからの伝統を守るように走っている。
何でも、このケーブルカーは国内でも二番目に建設されたケーブルカーであり、関東圏に至っては最初に建設されたそうだ。俺たちの立つここ戦蓮社村駅も長い歴史を誇る駅舎なのだよ、と言いたいが、実際、この戦蓮社村駅とその上下二、三の駅の路線については十年程前の拡張工事でようやっと建設された比較的若い路線らしい。
これはまだ存命中であった頃の滝沢脩さんが教えてくれたことなのだが、この鋼索線の拡張工事が行われる以前は村に駅が一つも無く、数百メートル上をゴンドラが悠々と運行する様を眺めることしか出来なかったようだ。ゴンドラは戦蓮社村や果処無村を素通りしてしまうため、村の人々は徒歩でわざわざ下の村まで歩いて駅を利用したようだ。そう考えると、カビ臭い伝統に縋り付いているケーブルカーにも感謝せざるを得ない。
「そろそろケーブルカーの発車時刻です! 楽しみですね、ご主人様!」
「はいはい、良かったですね、ルナさん。俺も楽しみですよ」
勿論、俺が楽しみにしているのはお前のはしゃぎ回る愛くるしい姿と、その柔らかく暖かいお尻の感触だ。
ルナが後ろを振り返って窓に張り付いて興奮していると、更に彼女の興奮に火を焼べるような起爆剤が投与された。それは、このケーブルカーが主要な駅を発車する際に鳴らす発車メロディだ。この戦蓮社村には観光スポット自体は存在しないものの、この山岳地帯中唯一のショッピングモールがあるので、他の村から食材やら生活用品を買いに来る人はそれなりにいるようで、この路線の中で主要な駅として認定されているようだ。
その箱根八里とかいうこの地域特有の民謡をファンシーめいた曲調でアレンジした発車メロディが車内に流れると、ルナは更にエメラルドの瞳を輝かせてぐるぐると辺りを見回した。
そして、同じく一号車の先頭に乗っている乗務員のオッサンはハムスターのようにはしゃぐ和服の外人さんのために気を遣ってくれたのか、普段は使わない出発の号令までしてくれた。その格好良い号令によってルナはもう朝からテンションマックスで「ご主人様、ご主人様!」と呼んでくれる。何と愛くるしいお姿でしょうか。おっぱいさんが上下左右に揺れていますぞ。
だが、済まないな、ルナ。乗務員のオッサンがその「ご主人様」という言葉の真意に気付きそうだから、そろそろ止めて欲しいのだ。ほら、オッサンの顔に浮かんでいたさっきまでの笑顔が明らかに怪しげな視線に変わってきているぞ。
確かに、こんな時間に目付きの悪い根暗男が和服の金髪美少女を引き連れているというのは実に変な話だ。観光客という言い訳も、俺の着用している戦蓮社高校の制服のお陰で使い物にならない。
おいおい、これで警察なんて呼ばれたら今日の計画が朝から台無しになるし、俺の喉元に突きつけられている監禁罪というナイフが喉に沈み込んでしまう。
ただでさえルナは幽星体を限定的に解除しているんだから、厄介事は勘弁願いたいぜ。そんな厄介事を起こすくらいなら、ルナの切符代なんぞ払わないで幽星体のままでいさせれば良かったという悪い考えもちらつく。
何せ幽星体の殻を被ったルナは俺の脳内にしか存在しないレベルにまで世界への干渉レベルを引き下げることが出来るくらいなんだ。まさか魔術のプロでもない鉄道関係者にバレることは無いだろうが、万一、俺のミスでバレて、たかだか切符代をケチって逮捕されるなど洒落にならん。
とりわけ、魔術犯罪は道徳的、倫理的にもマズいしな。俺は道徳を守る男、藤原衛紀だ。如何なる戦場にも守るべきルールというものはあるものだ。
だが、そのような俺の甘ったるい倫理観、道徳観、希望的観測を、この世界は絶対に赦してくれないのだ。俺はまたしても、この悪に満ちた世界の紡ぎ出す権謀術数によって、大ハズレを引いた、ように感じた。
「ま、待つが良い、眼臟穿つ蛇竜よッ! 真紅桜闇の化身の娘である余のッ、余のッ、余のためだけに仕えよ! これは余からの勅命だ! さすればその命だけは我が名に於いて保証しようではないかッ!」
闇黒の疾病。
厨二病、ここに極まれり。
息を切らしたガキの、最高に恥ずかしい叫び声が聞こえてきていた。黒歴史そのものである叫びは駅の改札の方から響き渡り、つかつかとパンプスがコンクリートを叩く音が聞こえて来る。
俺自身はその黒歴史生成機を直接見てはいないものの、その発現内容から察して、明らかに親しくなってはいけない人間特有のソレだと分かる。間違いない、厨二病患者だ。この、聞いている者自身がとんでもなく恥ずかしくなってしまうようなことを容易く言ってくれやがるのは厨二病患者によくよく見られる症状、というか、病そのものだ。
俺は、非情なる無視の儀式を執り行う。誰にでもこういう時期はあるものだが、そこに妥協してはいけない。社会や大人からの妥協や甘えこそ、厨二病に罹った者の温床となってしまうのだからな。
故にこそ、俺はその哀れなる患者に向けて精一杯のエールである、凄まじいまでのガン無視を決め込む。厨二病患者の君もそうやって、社会を学ぶと良いだろう。社会とは、大人とは、時間とは、遅れた者を決して待たぬものだと。早く、元いた現実世界へ戻って来ると良い。
俺は乗務員のオッサンに早くケーブルカーを出発させるように睨みつけるも、乗務員は俺からの視線を無視して遅れてやってきた厨二病患者のためにドアを一時的に開放し、ソイツを招き入れてしまったのだ。一体全体、何てことをしてくれているんだ、このオッサンは!
「はあ……はあ、はあ……。ク、ククク、そ、そうだ、それで良いのだ。心得たか、悪竜、人間ども。汝らは余の勅命に従うだけの、地を這う醜き下僕であれば良いのだ。余は遍く世界を愛する唯一神の化身の娘、人間も、悪竜も、虫螻どもも同じように愛し、下僕として遣わす慈悲に満ちた存在なのだから!」
ああ、コイツは……ヤバイ。相当、ヤバイぞ。
ついつい、視界に患者を入れてしまった。不遜過ぎて逆にコミカルチックな演説会を意図せず披露してしまった厨二病の患者は、金髪の縦ロールと血のような赤い瞳が特徴的な異常に色白な美少女だったのだ。
血液を二つ零したような赤い瞳は、オッドアイを持つ霧谷優梨のルビーのような輝きのある右目とは違い、石榴石、つまり、ガーネットのような光を吸い込む深い赤色の瞳だ。俺が最初に用いた血液のような赤い瞳とは、正に言い得て妙というものであった。
また、どこか暗いのは彼女のガーネットの瞳だけではなく、その金髪についても同じことが言える。その金髪はルナの持つ暁月のようなオレンジ色が混ざる輝きのある金髪ではなく、色がくすんで錆びたような、輝きの無い金髪なのだ。
そして、錆びた金髪から生えている彼女の最大の特徴である縦ロールは、こめかみの辺りにくっ付いている黒いリボンから流れ落ち、肩より下まで伸び、最終的には腰まで届く長さがある。
しかし、注意すべき点は、この縦ロールがアニメや漫画で良く見かけるドリルのような巻きの強い典型的な縦ロールではなく、非常に緩やかな螺旋を描いているタイプのものであるということだ。
血のような暗く赤い瞳、錆びたような金髪、アニメや漫画では見かけないタイプの緩やかな縦ロール。以上の三つの特徴はある意味、アニメや漫画、日本のサブカルチャー界隈における厨二病キャラの持つ特徴とは似て非なるものである。日本のサブカルチャー界隈における厨二病キャラとは、輝くような赤い瞳に金髪、巻きの強い縦ロールなどが特徴的であるのだから。
つまり、だ。この少女は、そこら辺に蔓延る厨二病を患ったコスプレイヤーの域を遥かに通り越した存在なのである。彼女の身体的特徴は完全なるゴシックロリータの体現者、まるで古い洋館に置かれている球体関節を持つ西洋人形のようなのである。
要するに、彼女はルナと同じように外人さんなのだ。その暗い赤眼も、錆びた金髪も彼女が生まれながらにして所有していたものだろう。赤い瞳は滅多にお目にかからないが(昨日初めて会ったが、アレは魔的なものだ。天然モノはこれが初めてだ)、実際の西洋人の金髪とはアニメのようなキラキラした金髪ではなく、こういう暗く錆びたような金髪が多いのだろう。
「ククク、余のために玉座がどこもかしこも空いているではないか。人間にしては良い心掛け、褒めてやろうではないか」
だが、この厨二病少女のヤバイ要因は、そんなところじゃない。
彼女に対して最も警鐘を鳴らすべき点は、彼女が厨二病を発症する適齢期を大きく下回っている点だ。
つまり、最も語弊の無い言い方で言うと、彼女は少女というより、いわゆる、幼女ということなのだ。
「しかし、余のためにこうも沢山の玉座を空けてもらうと、選ぶのに困ってしまうではないか。ククク、実に良い気分だ。初めは人間如きのお使いに従うものかと思ったが、早起きとは案外、良いものではないか」
俺は今座っているが、立ち上がれば俺の胸板に丁度幼女の顔面が当たるくらいだ。だから、ええと、どのくらいだ。燎弥より一センチ低いという俺の醜い身長が一六九なのだから、厨二病の幼女の身長は大体三◯センチ下と考えて、一四◯センチくらいだ。
ほら、胸だって見てみろ、明らかにぺったんこじゃないか。彼女はいわゆるダスターコートで身体を包んでいるものの、それでも胸が落莫とした更地を表しているのが分かってしまう。
彼女の胸は、玲華や霧谷優梨のような貧乳というカテゴリーから大きく外れ、無乳や虚乳という表現こそ相応しいように感じられる。いや、乳というワードさえ似つかわしくないのだから、単純に「虚」や「無」と呼ぶのが正しいのだろう。
この身長や虚無の胸部から考えると、年齢は十歳か十一歳くらいだろうか。小学四年生、若しくは小学五年生、そんなところだ。
って、……しょ、小学四年生、五年生だと。ロリロリのロリじゃないか。
このような身体的特徴を見ておいて、厨二病の彼女を幼女、或いはロリ、ロリータと言わずして何と言おうか。彼女は紛れも無い幼女、正真正銘、真性の幼女だ。
「何だ、人間。余の肢体を包む闇の具現、我が魔剣『誘滅の誓契』が気になるのか。これは我が一族に伝わる宝具の一つ。部外者には教えられんな、ククク」
厨二病の少女は真正面で青褪めた表情の俺に気付き、更にありがたいお言葉までおかけになってくれたが、俺はお前に対して驚嘆と絶望の眼差ししか送っていない。
しかも、彼女が着込んでいる衣服はそんな闇の具現だとか、ワケの分からん神話上の武器(魔剣を着るってどういうことなんだろうか。魔剣は着るものじゃなくて、切るものだろう)なんかではなく、漆黒のダスターコートと同じく漆黒のシルクの手袋、それから漆黒のパンプスという厨二病らしい漆黒尽くめだ。
ダスターコートは小学五年生の体躯には少し大きかった、というか相当大きかったらしく、身体全体がすっぽり覆われてしまっている。加えて、西部劇のガンマンのようにコートの前面を開けることはせずに、金色のボタンで全て前を閉じてしまっている。それ故に、彼女の身体はそのダスターコートで覆われて細かい観察が出来ない(おっぱいが無いのだけは良く分かる)。
恐らくだが、厨二病的観点に立って考察するに、彼女は吸血鬼が身に付けているマントのような出で立ちをしたかったのではないだろうか。低身長の彼女には大き過ぎるそのコートを身に付ければ、確かにマントのように見えなくもない。
にしても、どうして前面を晒さないのだろうか。個人的に言わせてもらうと、ヒラヒラしている方が厨二病っぽいと思うのだが。それともアレか、ラスボスは最後の最後まで姿を隠すみたいな。ふむ、これは部分破壊アクションが期待出来ますね、って、誰が幼女の衣服を剥いで楽しむものか。俺はロリコンを撲滅する側の存在だ。
「……ああ、クソ、走るの疲れたんだし。よっこいしょ」
目の前に座った幼女は厨二病スピリッツを忘れてしまったのか、彼女本来の口調「だし」を交えて独り言を零した。しかも、この幼女、なんとも運の悪いことに俺の真正面の席に座りやがった。
多分、俺がこの幼女のダスターコートやら身長を見つめ過ぎていたから、彼女のお気に召してしまったと言ったところだろう。本当についていない。疫病神でも取り憑いているのだろうか。俺に取り憑くのは最高のメイドルナだけで充分なのだ。
俺が幼女に気付かれないように小さく舌打ちをするが、俺は気付いたのだ。言い方が曖昧で、やや混乱を招くのは承知の上で言わせてもらうが、彼女はギャップ萌えの要素が凄まじいのだ。
分かりやすく言うと、彼女は暗く赤い瞳やくすんだ金髪という厨二病レベルの高い天賦の贈物を授かっている割には、後天的な厨二病レベルが著しく低いのだ。
厨二病にレベルもクソもあったもんじゃないが、彼女の話し方にも、服装にも、まだ厨二病に成りきれていない未熟さが溢れているのだ。そのすっぽり着込んでいるダスターコートもやっぱりそうだ。襟の辺りの黄金のストライプとボタン、肩の辺りのダスターコート特有のひらひらみたいのは厨二心を擽る仕様なのだが、シスター服やゴスロリ、ナチス軍服なんかに比べたらまだまだなのだ。包帯やロザリオ、眼帯、ヘッドドレスと言ったアクセサリーも付いていない。彼女が身に付けているアクセサリーと言えば、大き過ぎるダスターコートのせいで余りにも目立たなくなってしまった黒のパンプスにちょこんと付いている黒薔薇の飾りだけだ。コサージュとでも言うのだろうか。ファッションには疎いからツッコミは勘弁だ。
要するに、だからこそ、厨二病の彼女には数多くのギャップ萌えが生じ、加えて年齢での大きなギャップも加わり、この幼女は、異常に、可愛いのだ。
「やっと発車のようですね、ご主人様。今日も頑張って行きましょう!」
「お、おう。今日も宜しくな、ルナ。一緒に事件を解決しような」
真隣では白い霧と木々の中を流れる景色にはしゃぎまくりの困ったメイド、目の前には何故か俺に向けてドヤ顔を送り続けて来る厨二病幼女、加えて女好きのオッサンを乗務員とする最悪の運行が始まってしまった。
今更待ったをかけようにも、既に、ケーブルカーは険しい山々の間をゆっくりと、しかし、確実に降り始めていった。もう引き返すことは出来ない。
はあ、困ったものだ。今日の計画、絶対にしくじりたくないんですが……。




