LVNH//O//2038/04/14/20/03//TE-01/2021/05/22//FCE
まず初めに言っておこうか、ルナは俺の自室に縛り付けておいた。自室に何故かルナを巻くのにぴったりな麻縄が置いてあって良かった。
俺は『暁月の環』の知識でホグタイという名の緊縛術でルナを縛り上げた。初めてこんな縛り方をしたが、ものの数秒でルナを縛り上げることが出来た。流石は暁月先生だ。
というか本当に何で部屋に麻縄があるんだよ。まるで俺が日頃からそういうプレイを好んでいるみたいじゃないか。断じて好んでないからな、女の子を縛るのはこれが生まれて初めてで最後だからな。誓おう。
縛った理由は明快単純。今は玲華と夕食の時間なのだ。ルナに今朝のように隣で謝罪ラッシュをされると困るからな。まあ、一番気に食わなかったのは縛られる側のルナ自身が縛りやすい体勢になってくれたことか。ドMメイドめ。
かくして彼女の身勝手な行動を封じることが完了した。世間ではこういうのを監禁とでも呼ぶらしいが、知ったことではない。
……いよいよ監禁への言い逃れが出来なくなってきたな、藤原衛紀。私、今にも泣きそうです。
「さっきは大声で叫んでいたけど、どうしたのかな、衛紀くん? どこか痛むのかな。私、衛紀くんの股間はまだ切断してないんだよ?」
「いや、別に、何でもない。お前には関係ない」
というわけで、今は玲華と二人だけの夕食。テーブルには椅子が三席分あるのだが、昨晩から一席だけ空席のままという事実が心に空白を生む。俺は玲華の作った今晩の夕食を食べる。
そう、今週は玲華のお気に入りの料理を作る週だからな。しかも、今日は何だか昨日の唐揚げとは違って玲華の意気込みみたいのが感じられる。余程の自信作なのだろう。
その自信作というのは、昨夜のほっくほくの唐揚げから関連付けて、今晩は若鶏のグリルという料理だ。玲華がいつしか嬉しそうに買ってきた何か特別らしい鍋に入れて作ったようだ。ガーリック風味のそれは目を見張る程美味しい。
しかし、暖かくてとろけそうな程の若鶏のグリルと対照的な冷たくて鋭利な視線が目の前のサファイアの瞳から伸びている。まさかこんな剣のような禍々しい視線を放つ少女がこの若鶏のグリルを作ったとは到底考えられない。
でも、屈さないぞ、この視線に。俺はその鋭い視線を無視するように目の前でガーリックの香ばしい若鶏のグリルにがっつく。うん、いっぱい運動した後の飯は実に美味しい。
「そう……。あ、衛世さん、今晩も帰って来ないのかな。衛紀くんは何か聞いてないのかな、出張があるだとか何だとか……」
「駅前のコンビニバイトの分際で出張もクソもあるかよ。俺は何も聞いてねえよ。メモも何も無かったろ」
玲華は口に何か含んでいるような感じで話す。セリフ自体に違和感はないが、発音というか声の感じに違和感がある。口に食べ物を入れて話しちゃいけませんよ、玲華さん。マナーですよ、マナー。
因みに、俺がルナに吠えた後、自室から飛び出して苛々をぶつけるかの如くスクバの中で溜まっていたいらない印刷物やビニール袋、今日食べられなかった玲華の作った弁当の中身のおにぎりやら唐揚げやらをゴミ箱にぶち撒けといた。
最高にスッキリしたね。やっぱり、掃除は偉大だな。ゴミが溜まったままでは煩悩や雑念を積もるというものだ。これで明日から綺麗な気持ちと綺麗なスクバで通学出来る。
ストレス解消を兼ねてスクバに溜まったゴミをゴミ箱にぶち込んだ後は、本当は今朝するべきだった父親からの遺言や置き手紙などを探し回る業務に専念した。玲華が俺より先に父親の遺書なんて見つけていたら大変だからな。俺が彼女に隠していることがあっという間に知られてしまうから本気で探さないといけない。
それに、衛世には『暁月の環』の事やフィリップ大総統のこと、そして、ルナの事。とにかく聞きたいことだらけだ。今は父の残したメッセージを何より求め欲した。
だが、そんな俺の努力を嘲笑うかのように父親の残したメッセージの類はたった一文も、たった一文字も発見出来なかった。やはり、彼が残したメッセージは俺の背中にバナナのラベルで貼り付けられた防水メモに記されたIDとパスだけだ。極め付けに『暁月の環』によるとこの藤原家内には藤原衛世の残した遺書は一切無いという運命報告を受け、更にこのやり場の無い怒りを声に変えて再び吠えた。後ろから付いてきたルナがその度に謝りながらびくびく肩を震わせていたくらいだ。
もう、肩を震わせたいのは、本当はルナじゃなくて俺なんだぞ。せめて衛世がメモか何かでお前さんのことについて書き残してくれていれば、玲華にお前を紹介してやりたいくらいだ。意味不明な俺の監禁の疑いも衛世視点から晴らされただろうに。
この奇行ばかりは玲華の目にも付いたが、単純に衛世が何かメモを残してどっか行ったかもしれないと誤魔化しておいたのだ。そして、ありもしない衛世からのメモを玲華に探させている間に、俺は衛世の「相棒」を探してきた。といったところだ。
「あうぅ、そっかあ。メモも無かったからなあ、心配だよ……。今晩帰ってこなかったら、警察に届け出しとくね」
「そうだな」
俺は玲華の言うことを無視してひたすらに料理を腹に詰め込んだ。彼女の言葉なんて耳に入っても、右から左へ抜けて、何も考えなかった。頭に止めようと思わなかった。
藤原衛世は俺を、滝沢玲華を守るためにあの日本刀を携えた想像するのもおぞましい殺意に塗れた男、斬殺魔と果敢に戦った。そして、結果的に斬殺魔の白銀の剣閃の前に斃れた。
この女はもう、一生、藤原衛世の顛末を知らなくて良いんだ。それだけじゃない、彼女は俺の隠している昨夜の事件そのものを知らないで良いんだ。俺もこの女にあの事件の事を一生話さなくて良いのだ。
俺は彼女に何も語らず、彼女は俺の事を何も知らずに港元市にでもどこにでも引っ越して俺の目の前から消えてしまえば良いのだ。俺と彼女の間にあの夜の事は何も無かった。そういうことなのだ。だから、俺は彼女に隠れて事件を調査するし、俺は彼女を騙して調査のために行動するし、彼女に話すことなんて何一つとしてないのだ。この秘密を胸に抱いて墓まで持っていく。そういう覚悟をしたんだ。
「最近は物騒だからね。戦蓮社の地方新聞の担当記者も行方不明だって学校で聞いたよ。やっぱり、これも、斬殺事件の影響……なのかな。案の定、今日は一報も知らせが来ないし……」
「へえ」
戦蓮社の地方新聞の担当の記者の行方不明。
木っ端微塵にされたカメラと共に頭から腸を掻っ捌かれた残骸。異常な程滑らかな切断面と暗く深い血溜まり。
決して思い出して良い事ではなかった。特に食事中なんて問題外だ。俺は胃に転がる物、というか溜まる物を吐き出さないように、極めて冷静に努めた。
玲華が聞いた行方不明になったという新聞記者は言うまでもないだろう。昨晩、俺とフィリップさんが果処無村の入り口の鳥居で発見した斬殺死体の一つだ。新聞記者の彼は陰惨たる斬殺事件の起こる村に張り付いて取材を続け、真実を求めた。
しかし、真実に近付き過ぎたその男の結末とは、正に天に近付き過ぎたイカロスのようだった。俺とフィリップさんの推測では、彼は惨殺事件の真実にして張本人、あの日本刀を持った斬殺魔に対面し、殺されてしまったというものだ。
ああ、これはあくまでも推測だからな。もしかしたら、新聞記者や県警を殺害したのは日本刀を持った斬殺魔ではなく、目の前で白々しいセリフを吐く女なのかもしれないのだから。
「お昼もショッピングモールで魔術犯罪に遭ったし、河川敷でも発砲事件に巻き込まれるし……。一体、この村で何が起きているのかな……?」
「さあな」
それは俺が、今、一番知りたい事だ。
だが、俺の考えをお前に言う事は絶対に出来ない。
今、この村では多くの人間が各々の思想を持って動いている。
ルナは言った。藤原衛世様からご主人様を任された、と。
フィリップ大総統は言った。日本と港元市間のパイプ役、と。
港元市の魔女たちは言った。数ある『例外』の一つ、と。
天草燎弥は言った。港元市の狙いは滝沢玲華の転校とその成功、と。
滝沢玲華は言った。目に見えることが全てではない、と。
もう、戦蓮社村やその周辺に港元市が一枚どころか、二枚三枚と噛んでいるのは火を見るより明らかだ。しかし、これだけのヒントではまだ足りない。もう一ピースだけ、足りないのだ。それは、港元市が斬殺事件やあの異常な風習とどう関わっているのか、ということだ。
一見、港元市側の問題と果処無側の問題は全くのバラバラ、独立した別々の事件のように思える。そりゃあそうだ、あんなインチキまやかしだらけで非近代的な風習が蔓延る閉鎖的な田舎の果処無の事件と、最新鋭の魔術技術と科学技術が大いに発展した国際的な戦禍の渦の中心点である港元市の事件が組み合わさる訳がない。ミクロとマクロ、立脚しているフィールドが違い過ぎるのだ。
俺は余りのスケールの違いように軽い目眩を覚え、吐き気が込み上げてくる。喉の辺りがチリチリするような、咳が出そうで出ない感覚に襲われる。
「衛紀くんは、どうかな。昨日から何か考えて、思い付いたかな?」
「何も」
フィールドの違う、相反するはずの果処無村と港元市。
だが、その可能性を否定したものが、父である藤原衛世が死の間際にルナに託したというあのお札だ。アルファベットのような欧州の文字と漢字が人間の血液によって記された忌まわしいお札。琥珀と紅玉のオッドアイ少女が言うには、お札の効果は人間の脳の神経伝達物質を異常に放出させて脳のリミッターを素早く、深く解除するという身体強化の一つ。
俺が察するに、その身体強化魔術の実態こそ、昨晩の動かないはずの子供の身体を操り人形のように無理やり動かす、という倫理観の欠片もない魔術。これまた霧谷からの受け売りだが、このお札はお札ではなく、呪符、正真正銘の呪い、だそうだ。
んで、別にここで注目すべきことはこの呪符の効果自体ではない。そんな非人道的な魔術以上の問題点というのは、この呪符に記された最も新しい血液が斬殺事件開始の日と一致し、且つこの呪符が描いている魔法陣の中心部があの忌まわしい儀式の行われていた祭具殿ということ、つまり、斬殺事件と忌まわしい儀式を繋ぐ鍵であること。
そして、港元市の魔女たち、とりわけ透視の力を持つ霧谷が俺の持つ道具の中で真っ先に「この呪符を取り出せ」と言ったことだ。俺の制服のポケットの中には宝具と呼ばれる『暁月の環』という(使い方が異常に難しいが)運命を操作するとんでもない代物を隠し持っていたというのに、だ。
彼女が俺の最強の宝具について何か呟いたのも今となっては何かの伏線と思わなくもないが、わざわざ呪符を選び取ったのには理由があるはずだ。
「私は少し斬殺事件について考えてみたんだよ。聞いてくれるかな?」
「いや、今少し忙しいから」
しかも、霧谷優梨は自身の術式解析機能という手の内を晒してまで呪符について言及したんだ。絶対に、この呪符、延いては果処無村の一連の事件と港元市の『例外』との間には何かがあるのだろう。
彼女らの『例外』の内の一つ、ルナが掻っ攫ってきたUSBメモリ。あの中身のデータについては一旦置いておくとして、彼女らの『例外』が一つでないのは分かっている。
まだ俺の知らない『例外』が一つないし二つ以上あると仮定すると、自身の名前さえも隠していた霧谷優梨(矢吹遥は名前を隠していたようには思えない)がわざわざ魔眼の特性や機能をバラしてまで呪符について言及するということはオカシイのだ。明らかにあの呪符に関しての『例外』があると考えるのが妥当だ。
もし、あの呪符が彼女らの『例外』と無関係で、彼女らの言う事がブラフであったとしたら、霧谷優梨のEEMCソフトを用いずに術式を解析するあの魔眼の特性をバラすのは愚かしいにも程がある。
奴らは建国以来、魔術技術は勿論、来年で百周年を迎える第二次世界大戦やそれ以降の戦争でほぼ全ての敵戦力を屠ってきた遠隔石油点火技術を隠している港元市のすることじゃない。分かるか、約百年も科学技術を隠しているんだぞ?
以上の理由より、彼女ら港元市の魔女の『例外』の一つないし二つ以上に呪符と関わるものがあると断定出来る。良いか、これは断定だからな。断定だ。
次に、呪符自体と関係がある果処無村の忌まわしい風習や斬殺事件とも『例外』は関係していると推定出来る。良いか、これは推定だからな。推定だ。推測と言っても良い。
一。呪符と『例外』は「絶対」に関係がある。
二。呪符は果処無村の風習、若しくは斬殺事件と「絶対」に関係がある。
三。よって、果処無村の風習、若しくは斬殺事件と『例外』は関係があると思われる。
……幾ばくかの推測が混じっているし、互いの包括関係も曖昧で、ソクラテス殺しの完全な三段論法とは言えないが、まあ、こんなところである。カラスの脳みそ並みの俺の頭脳でよく頑張ったと褒めて欲しい。
でも、今更言うのもアレだが、俺はさっきからUSBメモリ以外の『例外』だと仮定したけど、ぶっちゃけUSBメモリの中身がダイレクトで呪符、そして果処無の一連の事件と関係する可能性も拭えない。頼むからガバガバの論拠に杭を打ち込まないでくれ。痛い、痛いです。
「衛紀くん、お昼ご飯はしっかり食べられたのかな……?」
「まあ、それなりに」
ああ、もう、柄にも無い事をあれこれ考えていたものだ。とりあえず、今後は果処無の事件や風習と港元市は何らかの繋がりがあると仮定して行動しよう。
はは、俺がツンデレな世界さんによってこの仮定をどうやって踏み抜くかじっくり見ていると良い。世界は異常に俺に冷たいからな。藤原衛紀は今後、希望的観測をしません。
だが、俺の思う通りにならないツンデレ世界に絶望した俺は、イカサマを使うことにした。つまり、『暁月の環』先生と全部答え合わせするってことだ。これで俺のガバガバな論拠も、いまいちな三段論法も関係なく、全てを知ることが出来る。
今日はわざわざ九頭龍川の下流から上流まで遡るだなんて実に遠回しな作戦をしていたが、この指輪の能力が分かった以上、俺は部屋に籠りながら全てを知ることが出来る。こうして頭脳明晰なニートが出来上がるのだ。
最高かな、絶対的な力を持つ宝具 『暁月の環』。これがあれば玲華の罪も炙り出せるし、あの日本刀を携えた殺意に塗れた男の素性も調べることが出来る。これで事件も解決。俺の大勝利への方程式完了。
俺は『暁月の環』を今すぐ使いたいのに使えないという現実を恨めしく思う一方で、宿題の最後の問題を前にしたような妙な高揚感を感じていた。まあ、正直な事を言うと、今日は無理だ。魔力の回復が間に合いそうもないからな。明日の昼ごろかな。
俺は怪しい微笑みが顔に浮かばないように堪えていたが、無理そうなので咳をして誤魔化すことにした。丁度咳が出そうで出ない感覚に襲われていたしな、都合が良い。口に何か入れてくっちゃべっている玲華と違って俺はマナーが良いからな、手で口を塞いで上品に咳をして誤魔化す。
「衛紀くん、咳込んじゃって大丈夫? 今日の私の料理、とっても美味しいでしょう?」
「大丈夫、大丈夫。料理は美味しいぜ。……あ、あれ?」
液体。
手の平に何か、霧吹きのように散布されたような液体を感じた。
わずかに粘性のある暖かい液体。最初は、汚い話で済まないが、痰が咳と同時に吐かれて手に付いたと思った。
しかし、その割に粘性は本当にわずかだ。痰ではない、勿論、ただの唾液ではあるまい。
「どうしたのかな、衛紀くん? 今日の私の料理、とっても美味しいでしょう?」
「こ、これは……ッ!」
真紅。
ズゾゾゾゾッと手の平に付着した真紅が蒸発した。
この感覚は、俺の「醜い残骸」を嫌悪することで発動する浄化の魔術。
俺はその嫌悪感で更に咳き込む。腹に溜まったままの何かを吐きそうになる。
「どうしたのかな、衛紀くん? 今日の私の料理、とっても美味しいでしょう?」
「あ、ああ、美味しい。美味しいよ……だ、だけど」
間違うものか、あの浄化の魔術で消えた赤い液体は血だ。何度も経験しているからな、この俺が間違うはずがない。これ、喀血とでも言うのだろうか。俺は咳と同時に血液を吐いていた。
出血場所は、咳をする直前に喉にチリチリする感覚があったから、喉だろうか。それとも、胃か。或いは、胃と喉その両方か……?
そして、口腔内にもあった僅かな違和感に気付いたので舌で前歯の裏側を横一文字になぞる。やはり、鉄のような味がした。俺はその鉄のような味のした液体に再び嫌悪感を抱くと、口の中を覆っていた暖かい液体もズゾゾゾっと浄化され口内から消え失せる。
俺はその感覚に再び吐き気を覚えた俺は吐き気を抑えるようにわざと咳き込むと、ぱっと赤い飛沫が手の平に散布されるのが見て取れた。
間違いない。
この液体は血液だ。
だが……一体、何なんだこれは。
今、俺の口内から吐き出された異物。
異様な金属光沢を放つ金色の破片は。
「な……何だ、これ」
「どうしたのかな、衛紀くん? 今日の私の料理、とっても美味しいでしょう?」
口から吐き出された物体は、同じように吐き出された血の中に細々と二、三粒ほど混じっていた。しかし、俺の嫌悪感をトリガーに発動する浄化の魔術で消えたのは血液だけで、この破片は消えなかった。それどころか、物体に付着していた俺の血液がなくなり、部屋の照明を反射してより一層金色にキラキラと輝いた。
もはやいちいち言わなくても、この破片が金属の時点で分かりきったことだが、この金色の破片は俺の身体を構成していた物体ではない。つまり、この金属の破片は体外から取り込まれた明らかな異物、ということだ。
「で、でも……これ、一体、これは」
「どうしたのかな、衛紀くん? 今日の私の料理、とっても美味しいでしょう?」
「え、な、何だって……?」
そこで、俺は、初めて目の前の少女の存在に気付いた。
退屈そうに頬杖を付いて、圧倒的な負のオーラを放つ少女。
いや、俺の対面に滝沢玲華がいるのは分かってはいたが、全くと言って良いほど意識していなかった。どういうことだ、港元市や果処無村の事件に没頭し過ぎたのか?
「聞こえなかったノカナ、衛紀クン?」
闇が口を開いたような二つの暗い空洞。俺は最初、それが彼女の持つ異邦人のように美しい二つのサファイアの瞳であることに気が付かなかった。
だから、玲華の前に出ている彼女の分の若鶏のグリルが一口も食べられていないことも今、初めて知った。
彼女は闇の瞳を真っ直ぐこちらに向け、感情の無い冷たい同じ問いをひたすらに繰り返す。
「……ダカラ、今日ノ私ノ料理、トッテモ美味シイデショウ?」
「あ、ああ。お、美味しい。美味しいよ、美味しい。だ、だが……ちょ、ちょっと、口切っちまったから、洗ってくるな」
俺は玲華の返事を聞くよりも前に脇目も振らずに椅子を蹴倒し、部屋から駆け出した。脇目も振らなかったから、玲華がどんな表情をしていたかは見ていない。見たくもなかった。
だが、彼女の声を押し殺したような笑い声が聞こえてきた気がした。
***
トイレの電気スイッチを叩いて照明を点灯させると、ぱぱぱっという数度の点滅の後に白い光が灯る。俺は明かりが点くのなんて待たずに即座に便器に向かって喉に刺さった何かを吐き出すように思い切り咳込む。
しかし、思い切り咳込んでも喉の違和感の次にやってきたのは安寧ではなく、喉の内側をブチブチと裂く峻烈なる痛みだった。俺は己の首を強く抑えて悶絶する。何か繊維状の血液の塊が喉をぬめりと滑るのを感じる。
散布された鮮血は水面を境界に形を柔らかく、怪しげに崩して水に溶けていく。それと同時に唾液は口内からダラダラと便器に流れ落ち、唾液に混じった金属の破片が便槽に沈む。
この金色の金属片、間違いない。お昼ごろに九頭龍川の河川敷であの女が俺の首を数ミリ切った黄金色の鎌状の剣、『神をも断ち斬る苛虐の鎌刀』、その破片だ。
どういうわけか、『神をも断ち斬る苛虐の鎌刀』の刀身を砕いた破片が、なんと、俺の喉に突き刺さっていたのだ。
「グッ……グォェッ…………ッ! ヴッ……ゴアァッ……ガアアアアアッ!」
俺が喉の痛みを紛らわすように喉を震わせて呻き声を漏らす。駄目だ、凄まじい激痛だ。喉が焼けるように痛む。喉の傷自体の再生はもう完了しているはずだ。しかし、傷が再生したって、喉をブチブチと引き裂いていく焼けるような激痛は治らない。
便槽に散布された血液が未だに浄化の魔術で消えない。俺の魔術の発動が鈍っているのだろう。当たり前だ、今、俺はいちいちそんな事に気など向けていられない。
しかも、喉の痛みに加えて更に酷いのが来た。俺を支える両腕の力が徐々に失われ、この腕が本当に俺の身体と繋がっているかが分からなくなってきたのだ。崩した脚も同じだ。これが本当に俺の脚なのかが認識出来ない。
中枢神経及び末梢神経の障害によって四肢などの運動機能や感覚が鈍り、または完全に喪失する恐ろしい症状。一般的に、人はこれを麻痺と呼ぶ。俺は今、全身が麻痺しているのだ。
「て、て……手が。ダメだ、ち、力が、は……入ら、ない」
俺を支える腕は俺の意思とは無関係に力を失い、俺はそのまま冷たいタイルに頭をゴチンと打ち付ける。都合良く頭部の神経は生きていたようだ、滅茶苦茶痛い。俺は反射的に起き上がろうとするも、身体はうんともすんとも動かない。
「クソ……な、何で、動か、ねえんだ! 早く……立、た、ないと……」
……実は、強い不死性を帯びた化け物じみた人間の藤原衛紀の一番の弱点は、こういう麻痺みたいな類のモノなのだ。この強い不死性は俺の知る限り、ミニガンで身体をズタズタにされても、断頭台で首を刎ねられても、高火力の魔術で全身を焼かれても、身体中を巡る血液を凍らされても、心臓や脳髄を銃弾で撃ち抜かれても、ましてや核ミサイルを打ち込まれようとも、呼吸をするかの如く簡単に身体を再生出来る。
だが、俺の特性は不死。あくまで身体を死なないようにするものであって、俺が健康に生きられる状態にするものではない。
だから、俺は身体の損傷を再生させられても痛覚を無くせないし、身体の損傷による異常な疲労や眠気を払うことも出来ない。同じように、今、俺の身体で起きている麻痺という状態も死なない程度にしか無くせない。
何故俺がこんなことを知っているかって? おいおい、自分の身体を知っておくのは常識だろう? なーんてな、全部、あの市が教えてくれたことなんだよ。本当に迷惑だ。
だから、麻痺という状態も経験済みだ、良く知っている。そして、こういう状態を引き起こす方法だって知っている。そうだな、大抵は劇物や毒物というものを使うんだ。
ひた。
ひた。
ひたひたひた。
ほら、これだけで済むワケがない。
そんな甘い展開など無い。有り得ないのだ。
劇物なのか毒物なのかは知らんが、あの女はこうして俺の自由を確実に奪えたんだ。まさか毒を食わせて、はい終わり、だなんてことはないのだ。
特に、あの女はやる時はやる女だ。お昼のインスタント水素爆鳴気自転車を思い出せば分かることだ。手加減や手抜き、そういうのが嫌いなタチだからな、アイツは。
ひたひた。
ひたひた。
ひたひた。
ひたひた。
木で張られた廊下を、裸足でゆっくり、ゆっくり、ゆっくりとこちらに向かってやってくる。ひたひたという音が耳の中でも這いずり回っている。
俺はもう彼女に麻痺という弱点を晒した。殺されることはなくとも、殺された方がマシと思うような事が待っているのかもしれない。
俺はその時点でようやくジャージのズボンのポケットに『暁月の環』があるのを思い出し、人差し指に嵌めようとする。だが、悲しいかな、腕は勿論のこと、指の一本も感覚が無くなる程に麻痺していた。
つまり、完全なる袋小路。チェックメイトだった。
あの女が、トドメを刺しにくる……!
ひた。
ひたひたひたひたひた。
ひたひたひたひたひたひたひたひたひた。
ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた。
ひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひたひた。
あ……あれ、我が家はキッチンルームが一体化したダイニングルームで食事をするんだが、そこからこのトイレってそんな歩かなくても着くはずなんだけどな。演出のためにわざわざ遠くから回って廊下を歩いているのか? 悪質過ぎだろう。
だが、それは少しオカシイ。まさか、手加減や手抜きが嫌いなあの女がまさか遠回りして階段側の端から廊下を歩いてくるわけがない。一体、どういうわけだ……?
心許ない寒々しい白い電球に灯された小さな部屋。
麻痺した身体を押し込むようなその狭い部屋。
俺は、もうこの小さな小部屋に閉じ込められてしまったのだ。
目だけを動かして室内を見るが、目に付くのは自らの手で鍵を掛けた一枚のドアと、影の影響で濁って見える味気ない便器だけだ。
実に、殺風景な部屋だった。俺はこの部屋で全てを奪われてしまうのかと思うと、言い表せないほどの恐怖が湧き上がってきた。
小さな、小さな、部屋。
今、ドアを手ずから閉めて施錠をした自分が憎くて仕方がない。
視界が明滅し、端々に灰色のカーテンが掛かっていく。瞼が、意図せず閉じられてしまうのだ。これも麻痺の影響か。
だが、耳だけは相変わらずひたひたという音を聞き続けている。もう聞きたくない、今にも耳を塞いでやりたい。早く、この小部屋から出たい。早く、抜け出したい。早く、抜け出してやりたい。
だが、無残にも、終わりの時は、やってくる。
ひた。ひた。ひた。
ひた。
それから、ぴったり四歩。
もう、足音の主はドアの前、まん前だ。
別に偶然だとは思っても、どうしても四歩というその歩数に不吉な想像をしてしまう。
頼みの綱の鍵が、カチン、と頼りない無機質な音を立てて外されてしまう。
もう、俺とあの女を隔てるものは隣に張られた薄っぺらい木の板しかない。
この木の板の向こう側にはあの女がいる。無表情で突っ立っているのだ。
ほら、目だけを動かせばドアの下の隙間からあの女の裸足が見えるだろう?
ドアの下の隙間……そこから見えるのは、生白い裸足。
ではなく、赤い布、だった。それしか、見えなかった。
鈍色のドアノブがゆっくりと、クルリと回る。
そして、
「ご主人様、この私めがお助けに参りました……。失礼します」
十円硬貨を持った和服金髪碧眼のメイドが入ってきた。
その名は、ルナ。恥ずかしいことに俺が付けた名前だ。
彼女は狭い小部屋に入り、丁寧にドアを閉めて鍵をカチリとかけ直す。そのまま彼女は身動きの取れ無い俺を支え、ゲエゲエ言う俺の顔を再び便器に向けさせる。俺はそのまま、体内の毒物を、可能な限り排出しなくてはならない。
しかし、俺は舌まで微妙に麻痺していることに気が付き、言葉らしい言葉が紡げない。仕方なく、ジェスチャーを取ろうとするも、ジェスチャーこそ身体が麻痺している俺には出来ない行動であった。俺は舌を用いないで、ただ空気を喉から絞り出す声とも呼べぬ音を発する。
頼む、ルナ。今、俺は、自分の力で、この毒物を吐き出すことさえもままならないのだ……!
「畏まりました、ご主人様。少々荒々しいやり方ですが、どうかご容赦を」
彼女は俺の意思を汲み取ったように頷き、右の振袖をビュンと振り下ろし、袖を捲りながら繊細な人差し指と中指をピンと伸ばす。そのまま、彼女は躊躇うことなく美しく真白い人差し指と中指を血と唾液で汚れた醜い俺の口腔内、その奥に突っ込む。喉の奥に突っ込まれた彼女の繊細な指は俺の唾液と血液で塗れた汚らわしい舌の付け根をグッと押さえ付けた。
それが合図だった。胃を逆流する金属の破片が再び食道や喉をブチブチと再び引き裂き、胃液の強烈な味が痛みを残して再生する喉を夥しく焼く。繊維状の血とも肉とも付かない何かが喉の奥で蠢く。
そして、吐き出される食物とそれに混じる毒物と金属の破片は醜い音を立ててボトボトと便槽に落ちていく。あんなに美味しそうだった玲華の作った若鶏のグリルは、今や胃液に混じってぐちゃぐちゃの塊となって浮かび、やがてわずかな気泡を浮かばせて沈む。鼻にツンとくる胃液の臭いが次の吐き気を呼び起こす。
俺の不死性の法則、と言う程でもないが、体外から侵入した異物で死に至らしめる可能性のあるものは体外へ排出されるという法則がある。だから、アンチマテリアル弾や致死性のウイルスは体外無理矢理にも排出される。それと同様に毒も体外へ排出されるから血流を巡ることはない。
ただ、この場合の体外というのは字義通りの意味であるらしく、胃や食道、腸なんかも空洞、つまり体外と認定されるらしい。お陰で飲まされた毒物は一度体内に侵入した後、不死性によって体内から排出され、体外である俺の胃に溜まってしまったのだ。「人間とはちくわ構造である」と言った戦蓮社高校の生物教師もなかなかウマい事を言ったもんだ。
勿論、一度の嘔吐のみで胃に溜まったモノの全てを吐き出すことは出来ない。一旦吐き終わる度にルナはその繊細で美しい指を俺の吐瀉物で汚しながらも舌の付け根を押さえ、胃に溜まる食物の残骸と毒物を吐き出させた。
彼女は俺が吐き出せる限りのモノを吐き出すまで指を突っ込んだままにし、嫌な顔一つせず繊細で美しい指を俺の醜い吐瀉物に浸した。そして、醜く汚された彼女の繊細で美しかった人差し指と中指はドロドロとした胃酸や唾液の糸を引いて俺の口から引き抜かれた。
「ご主人様、一応、この処置はここまでに致しますね」
俺は朦朧とした意識を何とかルナの汚れた人差し指と中指へ向け、浄化の魔術を発動させるも、それは上手く機能しない。意識だけで発動できる魔術なのに、集中を欠いているために上手に機能しないのだ。
ヌラヌラとした俺の胃に転がっていた汚らわしい唾液や胃液、血肉、それに混じる食物や毒物の残骸が付着したままの人差し指と中指を……彼女は、自身の桜の花びらのように美しい唇に運び、ロウソクの火を消すように息をふっと吹きかけた。浄化、解毒……何かしらの魔術か。そうして、そのまま、彼女は……俺の体液と混じった吐瀉物が付着する指を口に咥えて、汚れを舐めとった。勿論、嫌がる素振りは一切無い。
桜の刺繍の施された振袖、紅の和服に身を包まれた雪のように白い肌。
白い肌に嵌め込まれたエメラルドのような瞳。
浮かび上がる桜のような薄い唇。
朦朧とした意識の中、吐瀉物に塗れた醜い彼女の指が美しい唇に咥えられ、引き抜かれ、美しく艶やかに唾液の糸を引く彼女の指を眺めていた。
俺はその光景にある種の相反した芸術性を感じていた。俺は、もう、末期かもしれない。その指に毒物が混じっているかもしれないという、ごく当たり前の懸念さえ抱かなかった。だけど、その光景は本当にどうしようもなく、とても、とても美しかったのだ。
「では、ご主人様。続いて毒消しの魔術を行使します……失礼します」
だが、ここから先はそんな芸術に浸っている余裕など微塵も無かった。
俺の顔面は便槽の方からルナの顔の方へぴったりと向けられ、ルナの口から僅かに糸を引く指の先、そこに青い輝きが灯るのを見る。
ち、近い、滅茶苦茶、彼女の顔が近いのだ。
ヤバイ、余りの緊張で心臓がバクバクと激しい鼓動を鳴らす。これでもし不死性が無くて、毒物が血流を流れていたら一発でお終いだぞ。
しかし、彼女の態度は今までのお仕置きを要求した態度のそれとは一変して大真面目のそれであった。彼女の真剣なエメラルドの瞳がこちらを覗き込み、本当に今更ながらこんな真面目な顔も出来るのだな、だなんて思った。
『”IRYM” from "The Infancy Gospel of Thomas Chapter 16 XVI" …… "The Serpent Burst"』
ルナは艶やかな唇を開き、まるで日本の詩歌や和歌を口ずさむように英語の詠唱を紡ぐ。紡がれた詠唱は彼女の人差し指に灯る青色の輝きをアルファベットを散りばめた文字列に変換し、ただの魔力を形の在る具体的な魔術へ変化させる。
青白いアルファベットを散りばめた文字列は彼女の人差し指を這い、糸を引く唾液を伝って薄い唇にまで運ばれる。そして、青白い文字列は彼女の唇に触れると手の平に乗った雪のように浸透して目に見えなくなった。
唇に魔術を這わせたルナは左手で顔を押さえている俺に向け……その唇を少し開く。俺はバクバクと心臓の鼓動を激しくしたまま、為す術もなくルナの自由になるしかなかった。
いや、俺の顔がルナの顔へピッタリ向けられた時点で少しはそういう予感もしていたが、まさか、本当にするつもりなのか?
ルナの青白い術式が浸透し、魔術の起動を感じる彼女の唇が徐々に俺の唇に近付き、もう、今にも接触しそうだ。
おいおい、マジかよ、マジかよ、マジかよ。俺、今さっき吐いたばっかりで口の中が汚物まみれの地獄なんだぞ。まだ、自分の口腔内にさえ浄化の魔術を発動させていないのだ。それなのに、このメイド、正気なのか。本当に、キスをするつもりなのか?
まあ、俺の吐瀉物の付着した指を色っぽく舐め回し、挙句舐めとるくらいなんだから驚かないけど……って、驚くに決まっているだろうが。俺の口腔内には未だに吐瀉物の残骸は言うまでもなく、血液や胃液も残っているのだぞ……。
ルナはエメラルドの瞳を細め、雪のように白い肌を紅色に染める。彼女の金髪がはらりと垂れ、彼女の左手で押さえられた俺の頭部に当たる。その感覚が実にもどかしい。
俺の唇と彼女の唇。
距離にしてもう五センチもない……ぞ。
彼女の甘い息遣いが俺の唇に伝わって来る。
これ、もう、キスするパターンだろう。一体全体、どうしてこうなったんだ。俺は、この後、どうしたら良いのだ。誰か教えてくれ。頼むから。
「ご主人様、お口をお開き下さい。そうでないと、入りません……」
お、お前は出会って間も無い男に、しかもその男が目の前で吐いたばかりでレベルの高い接吻を要求するというのか。
でも、入れる、ってつまりそういうことなんだよな。仲の良いと言えるような彼女がいた時期がほぼゼロの俺でも分かっている。それは舌を入れるディープキスというヤツだろう。そんくらい知っている。
って、そんな事言っている場合じゃない。俺が放心してしまっていると、見兼ねたようにルナが遂に自身の薬指で俺の口を開かせた。
ほ、本当にルナとディープキス、してしまう……。
そして、その窄められた唇がみるみる距離を縮め……。
「ふーっ」
息を、俺の開かれた口に向かって吹き付けただけだった。彼女はそのまま唇を離し、ややそっぽを向いて髪を手で梳き始めた。嫌がっている素振りではない、俺に失礼の無いように勤めて冷静にしているのだ。それでも俺には分かった。彼女は恥ずかしがっているのだろう。
彼女の唇から放たれた甘い吐息は俺の口腔内から食道、胃、腸まで届き、妙な温もりを感じた。まるで、毒に侵された俺の体内を洗い流すような浄化の吐息だ。
なるほど、彼女のキスまがいの行為、それは毒消しの魔術の行使だったのか。いや、まあ、彼女は予め毒消しの魔術をする、そう言っていたんだが……。
って、何落ち込んでいるんだ、俺は。一体、何に期待していたんだ。
そこまで来て、ようやく思い出した。
彼女の起動した毒消しの魔術。"The Serpent Burst"。
日本語名、毒蛇を粉砕する神の吐息。通称、『毒蛇粉砕』。
何の聖書だかは忘れたが、イエスさんが毒蛇だかマムシに噛まれた人に息を吹きかけると毒蛇だかマムシが破裂し、その人を脅かす毒も無くなったんだとかいう奇跡があるそうだ。
んで、『毒蛇粉砕』という厨二感溢れる魔術はそのイエスさんの奇跡、聖書の再現を行う第Ⅱ種魔術群に位置付けられる魔術だ。第Ⅱ種魔術群ってのは、毎度お馴染みのローゼンクロイツ的弁別法によるところの、宗教を軸に据えた梵的魔術のことだ。
そして、彼女の口ずさんだ詠唱の冒頭の四文字は「IRYM」。元々ある文章を簡略化し、短縮化し、素早い詠唱を可能とする一種の世界共通の記号のようなものだ。特に、ヨーロッパやアメリカの魔術師の詠唱の際にはIRYMはもう呼吸をするかのようにバンバンと用いられるポピュラーなものだ。
というのも、この「IRYM」とは"I rent your miracles."という一文を簡略化したもので、その英文の直訳が「私は貴方の奇跡をお借りします」というものなのだ。そして、この文中の"your"、つまり「貴方の」とは"Lord’s"、「神の」を意味する。
もう、どうして欧米の魔術師共が頻繁に「IRYM」という詠唱を使用するかが分かるだろう。その通り、これはキリスト教をベースにしたキリスト教系、十字教系魔術で頻繁に使われる、いわゆる枕詞みたいなものだからだ。
港元市ではIRYMのような簡略化された記号を詠唱切片だなんて呼んだり、単純に切片とだけ呼んだりする。まあ、切片だけだとインターセプトとしての切片と間違うから避けろって言われたが。
しかも、この毒消しの魔術だが、どうやら麻痺の解除も微力ながら同時に行えるらしい。毒消しの奇跡が記された聖書の拡大解釈を行い、麻痺の解除を含む魔術を起動したのだろう。その甲斐あって四肢を蝕む麻痺は消え失せ、ようやく俺の腕や脚が俺の身体にくっ付いているものだとはっきりと意識出来た。
俺は買ったばかりの商品の品質を確かめるような感覚で腕を振ったり、手を叩いたりした。ひとまずは、問題無いようだ。ちゃんと動く。
俺が麻痺から解放された身体を何とか自分の力で起こすと、髪を梳いていたルナはすぐに俺を見て顔をぱぁっと満面の笑みを見せた。恥ずかしがっていた彼女だが、俺のことをやっぱり心配してくれていたのだ。
心配してくれる人がいる。しかも、それが美少女である。やはり、男としてこれほど嬉しいこともなかなか少ないだろう。勿論、俺だって男だ、めちゃくちゃ嬉しい。
だが、それでもな、ルナにお世話をされるのは恥ずかしいのだ。ルナはあくまでも俺というご主人様にお仕えするメイドだ。そんなメイドに助けられてばかりなだらしないご主人様がいるだろうか。
ご主人様とはメイドの上に立つ者。上に立つ者は下の者に面目のないよう、恥ずかしくないようにしなくてはならないのだ……。
「お、お前なあ……。俺がせっかく部屋から出てこれないように慣れない縛り方で縛って、解けないようにしておいたのに……」
「もう、お身体の麻痺が解かれたのですね。本当に良かったです」
クッソ、ご主人様が咳き込みながらもお話しているというのに、このメイドは何も聞かない。今俺が言っていたのは解かれた麻痺じゃなくて、解かれたホグタイの事だ。
それにしても、ああ、もう……全く、俺はどうして素直にありがとうも言えないのだろうか。逆にそれ自体も情けない。父の死の時もそうだったのを思い出してしまった。
ルナはそんな俺の様子をまるで頼りない弟を宥めるお姉さんのような口調で返事をする。彼女はそのまま手を伸ばして、俺の吐瀉物の沈んだままのトイレを流した。俺はそれをすっかり流し忘れていたのだ。
この女、完全に俺の事を可愛がってやがる。管理していやがる。トイレまでメイドに流されるとか、もう、ご主人様としての威厳が、立場が無い。だ、だから、メイドに頭を下げてありがとうだなんて言うのも情けない。恥ずかしい。 絶対に頭だなんて下げるものか!
「あ、ありがとな、ルナ……。はい、言った。今、お礼言ったからな」
だから俺は、さっきのルナみたいにそっぽを向いてお礼を言った。頭は絶対に、下げない。矛盾はしてないはずだ。
しかし、横見でルナを伺っていると、彼女は一瞬動揺したようだ。そんなに俺がお礼を言わない薄情な男だと思ったか……。まあ、思われても仕方ないんだけど。
動揺から戻ったルナは頰を朱色に染め、慈しみに溢れた笑みを浮かべる。梳いた金髪を手で軽く抑えて、気品の漂う声で返答する。
「良いのですよ。ご主人様に快適な生活を与え、ご主人様を不快にするモノを薙ぎ払うのが私、ルナの役目でございます。ですから、いくらでも私をお使い下さいませ」
「くっ……悔しい。お前はそうやって、俺の事を何でも見透かしたように……!」
「ふふ、今朝も申し上げましたが、私は何でも知っていますよ。特にご主人様のことなら、何でも」
ふんっ……まだ言うか、このメイドめ。
少しは、立場を弁えるのだな。おっと、とんでもないブーメランが。
麻痺の治りが少しずつ進行している俺はルナの支えを借りてそのまま無言でこの窮屈過ぎる部屋を脱出しようとするが、そこで俺は更に妙なものを見てしまう。
ルナはまだドアに背を向けているので気が付いてないようだが、俺の視線がやけに固定化されているのに気が付いたようだ。彼女は振り返って、眉を顰める。
やっと、やっとこの狭い白い部屋から抜け出せるのに、俺は、前に進めない。
「ドアが、開いているぞ」
「おかしいですね。私、このお手洗いに入る時は鍵をしっかりかけたのですが……」
暗黒の闇を覗かせる、二センチの漆黒の空白。
ドアが……二センチほどの狭い隙間を残しているのだ。
どうやら、鍵は愚か、ドア自体閉まってなどいなかったらしい。ドアノブに取り付けられた金属板のような鍵は綺麗に縦方向となっており、薄っぺらいドアが生んだ二センチほどの間隙がある。その奥から何かおぞましい闇が霧状になってこの部屋に流れ出ているようだ。
目に見えぬ霧状の闇、それを感じた瞬間、嫌な感覚が背をぞわぞわとナメクジのように這いずり回った。身体全体に衝撃が走り、ぞわぁっと鳥肌が立った。嫌な感覚というか、悪寒というか……上手く言葉では言い表せない。こう、何というか、非常に漠然と気持ち悪い、気に食わない、おかしいなあ、嫌だなあ、という感じだ。古文で習った「うたてし」という単語が一番しっくり来る。
再び麻痺に襲われてしまったのかとも思ったが、これは完全に自分の身体の生理反応だ。だが、それこそが、逆に俺が酷く狼狽させられている証拠だった。
俺はその闇の奥を覗き込んでしまった。真っ黒い闇の奥、廊下の床には零したような液体の跡が……。
「き、気味が悪いですね……! さ、ご主人様、お口を濯いでお部屋に戻りましょう?」
「お、おう……。そうだな、玲華に見つかる前に早いとこ衛世の相棒を動かしたいからな。良い加減、あのパスワードとID、それからUSBを何とかしたい」
いつまでもドアの向こう側の闇に怯えている俺に代わって、ルナがバンと勢い良くドアを開け放ち、その液体の跡のような上に立ってしまった。ルナはそそくさと俺の背中を押して洗面台の方に向かわせる。
まあ、どうせ俺の見間違いだろう。第一、それを裸足で踏んでしまったルナが何の反応も示さないのだからな。チキン過ぎる俺が見せた幻影だろう。
気にするなよ、藤原衛紀。お前はいつもチキンだろう。ああ、はいはい、そうですよ。煩いなあ。毒入り、そして刃物入りチキンなんて吐き出しといて正解だったぜ、クソッタレ。




