005 職場
■職場■
それからというもの、石橋は和人を益々強く意識するようになった。彼女は自分の感情を積極的に出すタイプではなかったので、社長の真紀以外は石橋の変化に誰も気づかなかった。
「和人さん、その資料でしたら・・・」
どきどき・・・
「ありがとうございます」
にこっ。
どっき・・・ん。
(ふーーーん。やっぱりかぁ・・・。石橋、和人に相当入れ込んでいるわねぇ・・・)
真紀は二人を注意して見ていた。
(1年経つも、進展なしか・・・)
ところが、当の本人はそれにまったく気づかなかった。
(和人のニブチンめ・・・)
和人はハイキング以来、石橋を特に意識をするようなこともなかった。専門学校の学生時代に、通学電車の中で思いを寄せていた、例のポニーテールの女の子へその想いを1年間打ち明けることもできず卒業していた。その影を、完全には拭いきれずにいたのだ。
(そういえば、あの娘どうしてるかなぁ。松原の言うとおりだよ。あれこれ悩んでばかりいては、なんにも変らないよなぁ・・・)
そういうわけで、気の毒なほど、和人は石橋に仕事仲間友人以上の関心がなかった。
しかし、事務所では石橋と和人の会話が、わずかずつではあるが、次第に増えていった。
「あは。和人さん。おっかしい。ふふふ」
「そ、そうですか?」
和人は石橋の方を振り返った。
「そうですよ。だって、だって、ご飯粒、ほっぺにくっついたままです」
--- ^_^ わっはっは! ---
「は、恥ずかしい・・・。あはは」
「ふふふ」
真紀は、注意深くそんな2人を目を細めて見守った。
「最近、楽しそうじゃない、石橋?」
和人と話す石橋はいつも楽しそうだった。
「ここんところ、大分明るくなった・・・」
俊介は、石橋から視線を外し、姉を見つめた。
「けどねぇ・・・」
和人というと、全然変わらなかった。
俊介も姉の意見に賛成だった。
「和人のヤツ。いい加減、石橋のこと気づいてもいいのになぁ。ありゃ、どうみても、どうぞって感じだぞ。もったいない・・・」
--- ^_^ わっはっは! ---
「俊介、その言い方、下品よ」
「こっちから言ってやらんと、ヤツはわかんないと思うぞ」
双子の弟、常務の俊介はPCに向かう和人を見つめながら、真紀に言った。
「あなたから言うのはダメ。ここはまかしてよ」
「あいつらの生産性が上がるんなら、そうしてくれ」
「生産性ですって?俊介、あなたビジネスのことしか頭にないの?」
真紀が憮然として言った。
「だから会社も倒産せずにやってんじゃないか」
俊介は『なにを言うか』という顔になった。
「はいはい」
(それも一理あるわね)
真紀は抗議するのを止めた。
国分寺姉弟にとって、和人と石橋の関係は微妙であった。予想外に早く恋が実って石橋が早々に寿退社となっては困るし、うまくいかなくなってどっちかが辞めてしまうことになっても非常に困ったことになる。しばらくは、良いお付き合いができる友達以上恋人未満の関係でいてもらうのが、一番よかった。
どきどき・・・。
「あの、あの・・・、和人さん・・・」
「はい、石橋さん、なんでしょう?」
ばくばく・・・。
「い、いえ。なんでもありません・・・」
にこっ。
「あは。用もないのに、名前を呼ばれるのもいいですよね?」
「え?」
「女の子なら許しちゃいます」
「本当ですか・・・?」
きゅん。
(和人さん・・・!)
「って、二宮先輩なら、さらりと言うんだろうなぁ。あは」
--- ^_^ わっはっは! ---
(えーん。なんなんですか、それぇ・・・)
石橋は不満そうに和人を見つめた。
もとより、和人たちの会社には、常務の俊介と二宮と和人しか男はいなかった。和人が入る前は俊介と二宮しかいなかった。その俊介も、二宮が来る前は男1人、女8人だったのだ。
(おっ、この会社、男は常務とオレだけか。ふふふ・・・)
二宮は俊介に無試験即日採用され、入社時にはそれを大いに喜んでいた。
「どうだ、二宮、うちに来ないか?」
「うっす。お世話になります!」
「おお、来てくれるか・・・!およよよ・・・」
--- ^_^ わっはっは! ---
俊介が涙ぐんだのは大袈裟でもなんでもなかった。
会社の創業社長が真紀のためなのか、社員は圧倒的に女性が多かった。開発部マネージャーの岡本と経理部マネージャーの茂木は、学生時代は真紀の同窓生であり、しかも、同じチアリーダー部だった。岡本はその時のキャプテンで、真紀が弟の俊介と株式会社セレアムを立ち上げた時、茂木も誘い、二人して真紀についてきた。
3人は会社の中心的な存在であり、彼女たちによりセレアムの社員は女性が増えていったのだ。俊介がはたと気づいた時には、男女比率は1対8にもなっていた。俊介は事務所で肩身の狭い思いをしていて、そんな中、二宮は大きな期待を持たれてセレアムに入ったのだった。
しかし、二宮は事務所近くのコンビニの店員、喜連川イザベル(キツレガワ・イザベル)に一目惚れした。その後、二宮の通うカラテ道場の女子部に新たな黒帯が入門し、それがイザベルだと判明すると二宮は狂喜した。これがセレアムの女性たちの格好のターゲットになったのだ。
(お、10時だ!)
がたっ。
二宮は時計を見て席を立った。
「出かけてきまぁす」
二宮が事務所から外回りに行こうとした。
「いってらっしゃーーーい」
事務所の女性たちが一斉にコーラスした。
「うーーーす」
セレアムでは、だれかが出かける時には『いってらっしゃい』で気持ちよく送り、戻る時には『おかえりなさい』と暖かく迎えた。みんなで声をかける習慣は社長の真紀の提案だった。
しゃぁーーー。
二宮は事務所を出るとまずコンビにに寄った。今日は、この時間にイザベルがローテーションに入っている日だった。
しゃあ・・・。
きんこーん。
「いっらしゃいませ」
二宮を迎えたのはイザベルだった。
「ちわぁ・・・」
「二宮さん・・・」
にっこり。
「お、おす・・・」
二宮はたちまち熱したフライパンの上のバターみたいになった。
とろぉーーーり・・・。
「おはようございます」
にこにこ・・・。
「おす。今日もステ帰すっね・・・。あはは・・・」
でれでれ・・・。
「道場じゃないんだから、『おす』はいいんですよ、二宮さん」
「おす。でも、イザベルちゃんは黒帯っすから・・・」
にこっ。
「必要ありませんよ。ここでは二宮さんはお客さまです」
「おす。そ、そうっすかぁ・・・」
「はい」
でれでれぁ・・・。
(いいなぁ、いいなぁ、イザベルちゃんの笑顔・・・)
「てな具合で、30分やそこらはあそこで潰すわよぉ」
--- ^_^ わっはっは! ---
「へぇ、噂は本当だったんですか・・・?」
「そうなのよ。知らなかった、和人?」
真紀が笑顔で和人に答えた。
「いくらなんでも、会社のすぐ前だし・・・」
「そうよねぇ。普通じゃ遠慮するところだけど、そこが二宮よ」
「先輩、一途なんですね。すごいですよねぇ・・・」
「仕事もそうあってもらいたいもんだ」
--- ^_^ わっはっは! ---
にやっ。
「常務・・・」
いつのまにか常務の俊介がそこにいた。
「おまえも今日出かけるんだろ?」
「は、はい。Å社に」
「今日は何時戻りだ?」
「はい。なにごともなければ、3時頃には・・・」
「ふむ。なにごともなければねぇ・・・」
「どうかしたんですか?」
「いや。なんでもない」
そい言うと、俊介は自分の席に戻っていった。
「?」
数日が過ぎ、その石橋も、真紀の励ましで、今日こそはデートせんものと勇気を振り絞って、和人にアプローチを試みていた。
どきどき・・・。
「和人さん、あのぉ・・・」
「はい。なんでしょうか?」
がたん。
(あーーーん。和人さん、もっと、わたしに関心を持ってください!)
--- ^_^ わっはっは! ---
がっくり。
(だめだめ、もっと頑張らなきゃ!)
ぴしっ。
和人の何も感じてなさそうな声に、石橋はがっかりしていたが気を取り直した。
「和人さん、スパークリングワインが好きなんですよね?」
「そう。シャンパンとか、カヴァとかです」
「あの、教えてください。シャンパンバーとか。わたし、行ったことないんです」
石橋は、精一杯の勇気を出して言った。
「あ、いいですよ。金座には何軒か知ってるところがあるし」
和人は簡単に言った。
どきどき・・・。
(さぁ、可憐、突撃よ!)
ぱっぱ、らっぱ、ぱーーー!
--- ^_^ わっはっは! ---
「じゃ、今日は、どうかなぁと思ってるんですけど・・・」
石橋はカマをかけた。
「うーん、今日は、ちょっと。まだ、やりたいことが残ってるんで」
がっくり・・・。
(第一次隊、撤収だわ・・・)
(ファイトぉ!おーーー!)
その時、石橋は真紀が応援してくれてるような気がした。
(そうよ!予想してた答えじゃない。第二次隊、進撃よ!)
ぱっぱ、らっぱ、ぱーーー!
--- ^_^ わっはっは! ---
「そ、そうですか。じゃあ、明日」
「明日ですか・・・」
「いえ、それなら、和人さんの都合のいい・・・」
(あーーーん。第二次隊、撤収だわ・・・)
ぱっぱ・・・らっぱ・・・、ぷすん・・・。
--- ^_^ わっはっは! ---
(ど、どうしよう・・・)
おろおろ・・・。
「和人!いるかぁ?」
「あ、先輩。どうかいました?」
石橋がぐずぐずしていると、そこに二宮が割り込んできた。
「和人、いたいた。助かったぜ」
「まだ、助けていないですけど・・・」
--- ^_^ わっはっは! ---
和人は少々不安になった。
「わりぃ、和人。B社の件だけどさぁ、代わりに行ってきてくれよ。頼むよぉ・・・。な、このとおり」
二宮は、手を合わせて拝んだ。
(二宮さん!強敵だわ。ああ、もう、だめ。全軍、撤収よ・・・)
ぱ、ぱ・・・、ぱ、ぱ・・・。
--- ^_^ わっはっは! ---
「そんなこと言われても、オレにも都合ってもんが・・・」
「今日だけは、今日だけは、どうしてもダメなんだ。宇都宮大明神様!」
「B社って・・・」
「特急でたったの1時間10分だよ」
--- ^_^ わっはっは! ---
「どうしても外せない用事ができたんだよぉ・・・」
ぱんぱん・・・。
二宮は手を合わせたが、和人にはその魂胆は見え見えだった。
「イザベルさんですね?」
「こら、声がでかい、バカヤロー・・・」
二宮は口に人差し指を当てた。
「頼むよ!道場の帯研の打ち合わせが入って・・・。なぁ、オレの一生を助けると思って、頼むよぉ・・・」
すりすり・・・。
二宮は、両手を摺り合わせた。
「帯研?二宮先輩、確か茶帯でしょ?」
--- ^_^ わっはっは! ---
「次期黒帯候補も入ってるんだよぉ」
「わかった。飲みでしょ、道場の・・・?」
「そうとも言うな・・・」
--- ^_^ わっはっは! ---
「師範から、面子の召集と会場の係を指名されて・・・」
「メンバーにイザベルさんがいたんで、自分で幹事を買って出たというわけですね?」
「ぶっ殺すぞ、和人!」
--- ^_^ わっはっは! ---
『たまには道場でそろって飲みでも』という師範の言葉に、喜連川イザベル初段が反応し、6時半から道場の面々が飲み屋に集まることにまっていたのだ。場所は未定だった。二宮はこれを昨日の晩に師範から聞き、今日はB社の件が気になって仕方なかった。
(このチャンスを逃がしてなるものか!)
二宮の弱みを確信した和人は、要求を通すことにした。
「はいはい。いいですよ。ロイ・ルデレールで」
「このヤロー、足元見やがって!」
(今よ、可憐、反撃開始!)
ぱっぱ、らっぱ、ぱーーー。
「ロイ・ルデレールって高いんですか?」
石橋が勇気を出して割り込んだ。
「いえ。安いもんですよ。ねぇ、先輩!」
「うっ!」
「そうだ。石橋さんも飲んでみたいですよねぇ?」
(え、援軍到着よ!)
ぱっぱ、らっぱ、ぱーーー。
「ホント、わたしも飲んでいいんですか?」
--- ^_^ わっはっは! ---
にわかに、石橋の声が明るくなった。
「和人、てめぇ・・・」
「2本で手を打ちましょう」
「く、くっそう。わかったよ。そのかわりブリュットだぞ」
「いいえ、クリステア」
「クリステアって・・・。おまえ、1本いくらすると思ってんだ!」
「金座で、石橋さんも一緒に・・・」
「ふざけんな!」
「じゃぁ、なしです。オレも重要な用事を置いといて、石橋さんとの打ち合わせも置いといて、往復3時間、打ち合わせ2時間。最低でも5時間を提供するんですよ。二度と返ってこない貴重な時間なのに、全部、先輩のことを優先するんですから。それなりの代償はお支払いください」
「そうね。時間は貴重だわ。二宮、もう二度と、イザベルとそんなチャンスは訪れないかもよぉ・・・」
真紀が面白そうに笑いながら口をはさんだ。
「真紀さん」
二宮は声を上げた。
「さぁ、さぁ、どうする、二宮?」
茂木もからんできた。
「ブリュット2本!」
二宮が妥協案を出した。
「金座のシャンパンバーで!」
和人が念を押した。
「和人、きさまぁ!」
「はい、わたし証人ね」
茂木が笑った。
「わたしも」
真紀も笑った。
「二宮先輩のおごりだって、石橋さん」
「あ、ありがとうございます。ご馳走になります!」
「石橋ぃ・・・」
ぱっぱ、らっぱ、ぱーーー!
--- ^_^ わっはっは! ---
(やったわ。和人さんと!この際日取りは後回しよ!)
和人の笑顔に、石橋も思わず微笑んだ。
「今回の交渉。二宮の負けね」
真紀が結論を出した。
「今月はだめ・・・。来月・・・」
にまぁ・・・。
「けっこうです」
和人はにんまりして、石橋にVサインを見せた。
「うふふふ」
「証人はわたしに、茂木ね」
「はい!」
「あは。という訳で、今日は本当に行けなくなりました・・・」
和人は石橋に謝った。
「ううん。和人さん、お仕事ですもの。そっちを優先してください」
「すみません」
ぽっ。
石橋はさらに顔を赤らめた。
--- ^_^ わっはっは! ---
がたん、ごとん・・・。
ぷわぁーーーんっ。
和人は、B社があるY市まで私鉄特急に乗っていた。
「しかし、二宮先輩、無茶苦茶だよ。こんなことなら、さっさと石橋さんとシャンパンバーに出かけとけばよかった・・・」
「お絞りです。どうぞ」
特急乗務のアテンダントが、熱いお絞りを和人に渡した。
「はい、どうも」
(時間を無駄にしたくないよなぁ)
和人はそう自分に言い聞かせると、いつものPCを取り出した。
(さてと、とりあえず今日のいいこと日記でもつけるか)
「ユティス、今日は二宮先輩の代わりにB社に行くことになった。5時間提供するんだからって言ってみたら、代わりに最高級のロイ・ルデレールを2本奢ってもらえることになった。やったね。先輩もイザベルさんと仲良くできればいいよね。ありがとう、ユティス」
ぴっ。
和人はそう書くと、すぐに打ち込んだ。
一方、それを読んでる人間たちがいた。
「エルド。またですわ!」
にっこり。
長いダークブロンドを頭の後ろでポニーテールにまとめた若い娘は、嬉しそうに言った。
「例の『ユティスありがとう日記』かい?」
エルドは空中スクリーンを見つめた。
「リーエス(はい)。先輩にデートの時間が取れるように、お仕事を代わってさしあげたんですわ」
「ほう、それは感心だ。けど、それのどこが『アルダリーム(ありがとう』なんだい?」
「お礼に極上のロイ・ルデレールをいたけるんですって。ステキですわ。よく知りませんけど・・・」
--- ^_^ わっはっは! ---
「あははは。それじゃ等価交換じゃないか?」
「それもそうですわ。でも、ちゃんとデートがうまくいきますようにって、先輩のことをお祈りされてますのよ」
「なるほど。それは確かに立派な精神だ」
「リーエス(はい)」
「それで、彼にメッセージは送ったのかい?」
「リーエス(はい)」
「気づいてくれるといいな」
「リーエス(はい)。きっと気づいていただけますわ」
「えらく自信ありげだね?」
「だって、『気づいてくださいね』て書き添えましたもの」
--- ^_^ わっはっは! ---
「わっはっは。本気で書き添えたのかい?」
「リーエス(はい)。うふふふ。で、ライセンスの取り戻しの方は?」
「約束通りだよ」
「リーエス(はい)。なんとお礼を申しあげたら・・・」
「きみの実力だよ」
「アルダリーム・ジェ・デーリア(ありがとうございます)、エルド」
ユティスは嬉しそうにエルドに会釈した。
「パジューレ(どういたしまして)。礼には及ばんよ」