私が親に見放された理由
私は失意のまま、人通りの疎らな町の中を歩いていた。
夕暮れも過ぎて、半月が空に浮かんでいる頃になっても、私はねぐらにしている祠に足を向ける気にはなれなかった。
私が一番信頼していた親友の吐露を聞いて以来、私の頭はインフルエンザと貧血が同時に襲ってきた時のようにボーッとしていた。足元さえおぼついていないのだから、人間が如何に精神に依存する生き物であるかどうかが良く分かる。
ふと見上げると、丁度街灯が灯る時間であった。俄に町灯りが広がっていく。
足を止めて近場の街灯の真下を見ると、アスファルトに点々と、妙な赤黒い跡がついている。どうやら血痕のようだ、と気がついてから私は今自分が何処にいるかを思い出した。
「……あの黒猫と会った場所だ」
ここは私があの黒猫と運命的出会いを果たした場所で、私が猫を踏み殺しかけた場所で、私が猫に変えられる切っ掛けを作った場所だ。
私はあの時自分にわき起こった激情を思い出し、身の毛がよだった。
何故、私はあれ程恐ろしい事が出来たのだろうか。嫌いな動物に顔を傷つけられたのは、確かに腹が立つ。今でもそれに違いはない。
でも、体の上に乗った猫を張り倒すだけで良かったんじゃないか。なんで私はそれを追いかけて蹴り飛ばし、何度も何度も念入りに踏みつぶしたんだろうか。
あの時の私には、それこそ熟達のエクソシストが三日三晩かかっても対処し切れないほど強大な悪魔が取り憑いていたとしか思えない。気の迷いとか、それまでの鬱憤とか、そう言う要員が全て重なって、私を残虐な凶行に走らせたのだと思いたい。
アスファルトと石垣に飛び散った血痕を見やって、私はそれに前足を重ねてみた。
「………………」
あの黒猫は、今の失意に落ち込む私を見たら何と言うだろうか。
嘲笑うだろうか。嘲笑ってくれるだろうか。私がどれだけ醜い化け物なのか、と罵ってくれるだろうか。……いや、黒猫はそんな事をしない。あの猫が私の望む事をしてくれるとは、私には思えない。
「典子ぉ……私、私……」
今まで典子が私の隣で感じてきた感情を、僅かでも心に留めたかった。同じ目に遭って、彼女の痛みを思い知りたかった。
自己満足甚だしい贖罪だと、自分でも分かっている。でも、今の私は猫だ。
私が典子にどれだけ頭を下げても、どんなに心を込めた贖罪の言葉を吐いても、彼女には届かない。もし仮に人間に戻ってから私が彼女に頭を下げても、私の言葉は本当に届くだろうか。
自信がない。彼女が私の反省を受け止めて、私への印象を改善してくれるかどうか、分からない。私がまた典子を知らぬうちに見下してしまうかもしれない。
多分典子は普段通り私と接してくれるだろう。表面上では変わらぬ友情でも、心の奥では舌打ちするかもしれない。
それが、どうしようもなく怖い。想像するだけでこの世の全てに見放されたような気分になる。いっそ、このまま猫として過ごしてしまえば、典子とは顔を会わさないで済むんじゃないか。
「………………」
私は自分の顔面を研いでないせいで太くなってしまった爪で引っ掻いた。
こんな事ではいけない。何の為に生き延びたんだ。私は人間に戻りたいんじゃないのか。私は首を振って、妙な考えを追い出した。
今日は少し嫌な事が多かった。神宮司先輩の事も、典子の事も、どちらも私の心を深く抉り取っていった。
だが、こんなものは一過性の傷に過ぎない。
先輩の事は残念だが、単なる失恋。典子との事だって……毎日のように喧嘩してた頃もあったじゃないか。一回本音でぶつかり合って、ちゃんと話し合えば悪い結果以外の道が見えるかもしれない。
そうやって自らを何とか奮い立たせながら町を放浪する私は、一軒の家の前で自然と足を止めた。顔を上げてその家の表札を見て、私は驚いた。
「私の家だ……」
ここは、私の家……ねぐらにしている祠ではなく、人間として住んでいたときの自宅である。
帰巣本能というものは人間にもあるのだろうか。特に意識して歩いていた訳では無いのだが、自然とここに向かってしまっていたのだろう。
自宅のリビングの窓から明かりが漏れている。今日は日曜日だから、恐らく父も居るのだろう。
今となっては、仕事に実直な父は勿論、あのカバのような"母らしき何か"さえも懐かしい。親と一週間近く顔を合わせていないと言うのは、意識して振り返ると少し寂しい気分になった。
あの唾棄すべき母親の醜悪な顔さえも一目見たいと思ってしまうのは、ある意味では呪いか何かではないかと私は思う。その呪いの名は、家族。互いが無条件に共に寄り添い、無条件に愛し合わなければならないと言う、素晴らしく強固な呪いの鎖である。
「父さんも母さんも、どうしてるかなぁ」
窓の中が気になった。
植物状態となった私を見て、父や母はどう感じているのだろうか。一体今、どんな気分なんだろうか。
私には当たり前だが夫も娘も居ないので、良く分からない。
でも、父や母が事故に遭って意識不明、などと言われたら、多分私は赤ん坊より遥かに大きな声で泣きじゃくる。あの役立たずの穀潰しである母でさえも、亡くしてしまったら私は向こう三日間は呆然としていられる自信がある。
なんだかんだ言っても、家族の事は大切だ。父は勿論、母の事さえも私は心の何処かでは愛情を抱いていたのかもしれない。無償で自分を愛してくれる唯一無二の存在なんだから、大事に思うのは当然である。
当然母もそう思ってくれているのだろう、父もそう思ってくれているだろう。
そんな確信めいた期待を胸に抱いていた私は、気づけば家の塀を飛び越えて、縁側に腰掛けた。自宅の懐かしく、ちょっとだけ温かい雰囲気を味わいたかったのだろう。窓にはカーテンがかかっているため、中の詳細な様子は窺い知れないが、耳を窓に押し付けると、中の生活音は聞こえてくるはずだ。
「……?」
私が聞き耳を立てている部屋はリビングである。
普段なら誰が見てる訳でもないのに常時つきっぱなしのテレビの音が聞こえてくる筈なのだが、物音は聞こえてこない。怪訝に思っていた私が、窓の冷たさを我慢してさらに耳を強く押し当てる。
幽かに、女の声が聞こえてきた。
「今、なの?」
幼い頃から聞き続けてきた、聞き間違いようがない母の声だ。
「今だからこそ、だ」
母の言葉に、父が答えを返す。会話の端々からは、妙な緊張感が漂っていた。私は更に窓に耳を強く押し付ける。
「なにもこんな急に……あの子があんな状態なのよ? なんでこんな大変な時に」
「今話さないと、多分俺はずっと話せない」
母の疑問を遮る父の声は、どことなく苛立っているように聞こえた。こんな父の声は初めて聞いた。私の父は普段から温厚で、苛立ちなんて言葉は辞書登録していないとばかり思っていたんだが。
「後はお前が判を押すだけだ。それで、離婚が成立する」
「みゃおおぉ!?」
突拍子もない、なさ過ぎる父の言葉に、私は思わず鳴き声を発してしまった。
「……外に何か居るみたいだな」
「ねぇ、ちょっと貴方。そんなのどうでも良いわ。
それよりも離婚だなんて……どうして今になって」
そうだ。どうして今更離婚なんて考えるんだ。確かに母はどうしようもない人間だ。家事をしない専業主婦、つまりニートだし、見た目も悪いし、性格も横柄で良い所を見つけるのが難しい。
でも、父さんは、そんな母さんと結婚したじゃないか。
私を産んで、十五年も育ててくれたじゃないか。
それなのになんで離婚なんてするんだ。
恐らく、私と母は同じ事を考えていた。父は、一体何を考えていたのだろう。
「もう随分昔から、我慢なんて出来てなかったよ。
お前は家事もしないし、子育ても碌にしない、駄目な母親だ。
俺がどれだけ苦労してきたと思ってるんだ。
あの子がいなかったら、とっくに離婚してる」
……あの子、と言うのは私の事、だろう。
あの子が居なかったら、とっくに離婚してる……って、ちょっと待て。私は今、事故に遭って意識不明と言う事になっている……つまり、病院に入院していて、まだ生きているんだろう。なのに何で離婚の話が始まるんだ。
居なくなってないよ。私、まだ生きてるのに。
「……あの子はまだ生きているわ。
お医者さんも、奇跡的に外傷は殆ど無くって、意識がないだけで」
「なら何であの子は目を覚まさない!
意識が戻らない原因は、医者にも分からないそうじゃないかっ」
父が半ば怒鳴るように言っている。貧乏揺すりしている様が見えるような気さえする。
「入院費だって馬鹿にならない。
俺の稼ぎだけじゃキツいって前から言ってるのに、お前はパートにさえ出ねぇ」
「そんなの別に私の知ったこっちゃないわよ」
「……お前って奴はいつもいつもそうやって自分の事ばかり考えやがって」
「なによそれ。貴方だって仕事仕事って、そればっかじゃないの」
離婚の話が、段々と夫婦喧嘩の様相を呈し始めた。
二人の罵り合いを聞くのは、そう言えば随分昔、まだ私が物心ついた位の頃以来な気がする。私が小さい頃は二人は良く喧嘩していた。内容はあまり覚えていないが、食器や小物が飛び交うような激しい喧嘩もあった。
その度私は大声で泣くのだが、二人はまるで構ってくれず、寂しい思いをした事を少しだけ思い出した。泣いても無駄だと気づいた私は、それ以来しばらくは大人しく過ごしていたんだと思う。父と母に好かれるように、自分なりに試行錯誤した結果、静かにしているのが一番良いんだ、と気づいたのだろう。
私が一番最初に猫被りを覚えた瞬間である。今に思えば、私の八方美人にもちゃんとしたルーツがあるらしい。
お陰で昔から手のかからない子だった、と良く言われていた。
私は二人の会話をこれ以上聞き続ける事に躊躇いを覚えたが、結局窓から耳を離す事はなかった。会話の内容が再び離婚、そして私の話題に戻り始める。
「いいか……俺はお前と離婚する。絶対に離婚してやる。今すぐ別れてやる。
養育費だけは払ってやるよ。けどな、慰謝料は勿論、入院費も出さんからな」
「え……な、何でよ。貴方、あの子が病院から追い出されてもいいの?」
「知るかっ。そうしたくなきゃお前が働け。
俺はもう、死んだも同然の娘の事なんか知らん。お前一人で育てろ」
父の興奮したような声が聞こえてくる。
今、私は一体どんな表情をしているんだろうか。怒ってるのか、憎んでるのか、そんな顔だったらいい。泣き顔なんかになっていたくない。悲しみを背負いたくない。
……私は頑張ったもん。何にもしないお母さんの代わりに、家の事はやったし、勉強だって頑張ったし、それに……頑張ったんだもん。駄目なお母さんと結婚してしまったお父さんのためにも、泣き出したいのを必死で堪えて、逃げ出したいのを必死で耐えて、手のかからない子に育ったのに。
なんでおとうさんはそんなことをいうんですか?
おとうさんは、わたしがきらいなんですか?
わたしは、ふたりとも、すきだったのに。
「な……! 貴方、それ本気で言ってるの? 貴方、仮にもあの子の親でしょ?」
「うるさい! 大体な、俺は最初からあの子を産むのには反対だったんだ!」
「何を今更……できちゃったんだから仕方ないでしょ! 私だって、最初は堕ろすつもりだったわよ!
でも世間体ってもんがあるでしょ!
それに初孫だからって舞い上がったウチの家族が近所に言いふらしちゃって、もう後に引けなくなってて……」
「さっきから言い訳ばっか吐きやがって! もう我慢出来ない!
ほれ、さっさとサインしろ! 判子もここにあるから、さっさとやれ!」
私は未だに窓に張り付いたままだった耳をどけて、そのまま家の塀を飛び越えた。
頭では考えまい考えまいとするが……駄目だ、どうしても二人の言葉が耳から離れない。
産むのに反対? できちゃったから仕方ない? そんなの知らないよ。じゃぁ私は何? 何で産まれてきたのよ。一体誰に望まれて産まれてきたんだよ。
今、私は驚いていた。
好きだった神宮司先輩には弄ばれ、親友と思っていた典子には心の底から憎まれ、挙げ句無償の愛をくれていると勘違いしていた両親から見捨てられ、ようやく気づいたのだ。
この世が如何に私に対して、残酷に作られていてるかを。
私が如何ににこの世に取って、必要のない存在なのかを。
気づくのが遅過ぎた。或いは、死ぬまで気づきたくなかった。
客の冷たい目線を感じ取れない盲目のピエロのまま、舞台で踊り続けている方が遥かにマシだった。
「……帰ろう」
家の方は最早振り向かずに、私は尻尾を下げたまま、私のねぐらである祠に向かった。
もう私の帰るべき家は、この家ではない。人間としての私が帰るべき場所なんて、もうこの世にはないのだ。だから私は野良猫として野良猫らしく、腐った床板の上でゴキブリの内臓を喰らうのがお似合いなんだ。
帰り道は暗かった。街灯の明かりは頼りないし、月も半分しか出ていない。住宅街の電気も、妙に疎らだった。でも、私の眼は猫の目だ。随分先まで見通す事ができる。
出来る筈なんだが、あまり先が見えない。全てを飲み込んでしまいそうな暗闇がひたすら広がっているように見える。私はそんな中、足を止めずに歩いて行く。たとえ途中で道が分からなくなっても、それはそれで構わなかった。




