私が友に裏切られた理由
叫ぶと多少スッキリした。
突然昼の往来のど真ん中で大きな鳴き声を発したこの白い猫を見て、通行する人々は怪訝な顔をする。それらに少し刺のある視線を返して追い払った私は、一つ大きな溜め息を吐いて、顔を上げた。
「えぇい、失恋くらいなんぼのもんじゃい」
そうだ。たかだか一回恋に破れたくらいで何を落ち込んでいるんだ、私よ。
大体、あんな男に引っかかってたら碌な目に遭わなかっただろう。それを考えれば傷は浅い。それに私はもっと大変な目に遭ってるじゃないか。なんせ、人間としての尊厳を全て奪われて猫として生きているんだから。
衣食住どれもままならぬ生活を送る私にしてみれば、失恋くらい……いや、駄目だ。結構ショックデカいよコレ。想像以上だ。
たとえ相手がどれだけのクズであっても、私の好きな人だった事に変わりはないんだ。神宮司先輩への失望。そして落胆。ついでに外山先輩への憎悪と羨望。そんな感情が私の心にこべりついている。風呂場のタイルに蔓延る頑固なカビを剥ぎ取るよりも苦労しそうだ。まるでダイソンの米国仕様掃除機でも向けられているのかってくらいの勢いで生きる気力が吸い取られていく。
やばい。こんな事ではまた死にたくなる。なんとかしてポジティブな事を考えなければ。
こんなとき、普通の人間だったら大体は同性のモテない親友に慰めてもらうのが常道と言えるだろう。そう言えば、こんな私にも同性でモテない親友がいる。
「典子は元気にしてるかなぁ……」
私の幼馴染みで同じ高校に通う、空手部所属の飯山典子は、私の親友と呼んで差し支えない存在である。
ちょっとヅカ系っぽい顔に短く切りそろえた髪の毛を乗っけた、男前で爽やかな笑顔を思い出し、私は酷く懐かしい気分を味わった。
思えば私は、本当に彼女とよくつるんでいる。
小中高と、私はそれなりに広めに交遊範囲を広げてはいたのだが、典子だけは常に私の隣にいた。何というか、私は彼女と居ると安心するのだ。ライナスの毛布……とまでは言わないが、彼女が居なくなるとちょっとした不安を覚える。
接する人によってキャラをコロコロ変える私なのだが、そのキャラを作る上での全ての基本は典子にある。私が典子と接している態度を基準として、そこから愛想の振りまき方や態度、会話の内容なんかに変化をつけてキャラを作っていくのだ。典子が居ないと、私がちゃんとキャラを作れているかどうかが分からなくなる時があるのだ。
だから典子は、私の核を為す部分に非常に大きく関わっている事になる。これを親友と呼ばずになんと呼ぶ。
今なら、典子が男だったら婿に貰ってやってもいい気分である。
「あー……どうしてるのかなー……」
典子の事を色々と考えていたら、なんだか無性に彼女の顔を見たくなった。なんせ五日も彼女の顔を見なかったなんて事は、彼女と出会って以降の私の人生では一度だって無いんだし。
なにより、この失恋の傷心の慰めになりそうな人間は、彼女以外には他にいない。
「今日は日曜だし……部活かなぁ」
腰を上げた私は、一旦私が通う藪蛇高校に足を向ける事にした。
*
藪蛇高校の校舎の時計を見るに、現在の時刻は十二時半。
学生達の比率は、午前の部活が終わって帰宅し始める生徒三割、午後の部活の為にやってきた生徒七割、と言った所だろうか。私はどこかで身を隠しておくべきかどうか少し迷ったが、元々私の白い体毛は目立ちすぎる。
むしろ堂々と、この高校の招き猫やってます、くらいのふてぶてしい態度で、私は校門の上に箱座りして、高校に出入りする学生達を見つめていた。
時折私に気づいた学生達が、校門に寝そべる私に向けてそっと手を伸ばしてくる。
「可愛い〜」
「全然逃げないね、この子」
少し頭の悪そうな女子高生二人組が私を撫でながら目を輝かせている。
逃げようとしない私の顎の下を撫でて頬を綻ばす彼らを見ていると、一体どう言うつもりなのか、と真剣に疑いたくなってくる。だって野良だよ? 私がどんなに不潔な動物かまさか知らない訳でもないだろうに、良く平然と私を撫でられるなお前ら。その可愛らしいお手てにシラミが住み着いても私は責任取らないからな。
「……みゃあああぁぅ」
「あ! 鳴いた! 鳴き声も可愛いなぁ」
撫でられるがまま私は視線を左右に振って学校周辺を見回す。
空手部は基本的に午前中朝早くから練習を始め、正午には終わると典子が言っていたのを覚えている。振り返って時計を見上げると既に一時近い。
例え部室で駄弁ってるんだとしても流石にそろそろ場所を移すだろう。もしかして今日、部活休み? ……可能性はあるにはあるけど。兎に角、ここで待っていても駄目だ。そろそろ私を撫でる二本の腕が鬱陶しくなってきた頃だ。
「あ、猫ちゃん何処行くの?」
校門から飛び降りた私の背に、先程の女子高生の声がかかるが、無視する。
私はこれ以上面倒な目に遭わない為に、人に見つからないように慎重に校内の薮の中を進んでいく。
空手部の活動場所は体育館下に作られた畳敷きの道場だ。空手部と柔道部と剣道部の活動スペースの他、体育の授業にも使われるため、そこそこの広さがある。もっとも、三つも部活がひしめいてる上に部員も多いから狭い、と典子がよく愚痴を零していたが。
幸いにも道場は学内の隅で、薮に埋もれるようにして建造されている。私は誰にも見つからぬうちに道場の非常口前に到達した。
本来なら部活動をやっている武道家達の掛け声が聞こえてくるのだが、今はそれも聞こえてこない。二階の体育館から、バスケットボールをドリブルする音が幽かに聞こえてくるだけだ。恐らく、空手部の部活は終わってしまっているのだろう。
ならば部室か、と思って私が腰を上げて、部室に向かう為に道場の脇を薮を掻き分けながら歩いていると。
「…………ん?」
女の笑い声が道場の影になって見えない所から聞こえた。大体三人から四人くらいだろうか。こんな細かい所まで判別出来るんだから、猫の聴力も中々捨てたもんじゃない。
気になった私は、薮の中から目を覗かせて、そちらを窺った。
ウチの高校のジャージ姿の女子が四人。誰も彼も髪は、精々肩にかかる程度に短く切っている。そして、その女子の中に、典子がいた。地面の上に胡座を掻いて座って、道場の壁に寄りかかっている。
彼女達は全員、笑っていた。誰が何を言って笑っているのかは分からないが、それ以前に、どうして彼女達がこんな薄暗い場所でたむろしているのかが分からない。この場に典子が居る、と言う事は彼女達は多分、全員空手部の部員なのだろう。
ただ話をしているだけなら部室でやれば良いし、そもそも、こんな不良の溜まり場とか、カツアゲの際に連れ込まれる場所のような人気無い場所に集まる意味も無い。
そんな私の疑問を、その怪しい集いに居る一員である、他ならぬ典子が証明してくれた。典子がジャージのポケットから何かを取り出す。手に握られているせいで良く見えなかった、と思ったのは一瞬。
典子のちょっと大きな手から覗くそれは、間違いなくタバコの小箱と百円ライターだった。
「みゃああぁぁぁ!」
「うぉ! ……びっくりしたぁ、猫か」
思わず叫び声を上げてしまった。典子がそれに気付き、肩を跳ねさせるが私を見て、安堵の溜め息を吐いた。
「田嶋の奴かと思ったよ……心臓に悪いなぁ」
そう言って彼女は箱をはたき、出てきたタバコをくわえ、慣れた手つきで点火する。その動作があまりにも手早く、そして様になっていたので、私が何か言う暇はなかった。
「ははは、典子ビビり過ぎじゃね?」
「大丈夫だって、今まで一度も見つかってないんだし。……つーか、なんで田嶋?」
「アイツの声、なんとなく猫っぽくないっすか?」
「あー、わかるわかる。見た目も茶色いデブ猫って感じだし」
周りもわかるわかる、と頷きながら、それぞれ慣れた様子でタバコを取り出し、吸い始めた。そして四人とも、少し首を上に向けて、肺に吸い込んだ紫煙を満足そうに吐き出す。
すごく自然な流れだ。あまりにも自然で、一瞬だけこの場が公園の隅に設置されているサラリーマン達の喫煙所に見えた。
いや、でも、違うだろ。アンタら高校生だろ。タバコは二十歳になってから、だろ。なんでタバコ持ってるんだよ、なんでタバコ吸ってるんだよ、不良かよお前ら。
私は思わず薮から飛び出して、典子の胸元に飛び込んだ。
「ふしゃああぁぁぁぁ!」
「うわ、危ね!」
タバコを挟んだ手を高く掲げた典子が、煙とともに言葉を吐き出す。
その煙をもろに吸い込んだ私は咳き込んだ。嗅覚も人より優れ過ぎているせいか、ちょっとした煙の匂いでも息苦しい。
だが、こんな所で負けてたまるか。私は典子の指に挟まれているタバコに向けて飛びかかった。典子は反応出来ない。私は彼女の手から前足でタバコをはたき落とした。
「あ! この猫!」
「ははは! 『タバコは止めるにゃー!』とか言ってんじゃね?」
先程典子から先輩、と呼ばれていた背の高い女が笑いながらおどけた。まさしくその通りだ。
タバコなんて、百害あって一利無し。健康は害するし、依存性もある。ただでさえ値段が上がった今、買い続けるのは経済的にも宜しくない。典子が二十歳を過ぎているんだったら私だって何も言うつもりはない。好きにすればいい。
だけど、まだアンタ高校生じゃんか。ましてやスポーツマンなのに、肺を汚してどうするんだ。私はそんな戒めと怒りを視線に乗せたんだが、典子はそのアイコンタクトを受け取ってはくれなかった。
典子は落ちたタバコの火を消して、今度は立ち上がって私の手が届かない所でタバコに火をつける。
「一本無駄にしちゃったなぁ」
「ま、猫に腹立ててもしゃーないっしょ」
「まぁ、そうっすけど……」
私はジャンプして典子のタバコを奪い取ろうとしたが、妙な悪寒を感じて躊躇した。四人が私を見下ろしていた。少しもニコリとしていない、苛立ったような睨みだ。
この場で暴れるのはマズそうだ。殺気を感じ取った私は、大人しく典子の隣で座り込んだ。
目立たないように体を縮めている私から視線を離した彼女達は再び話し始める。最初に口を開いたのは、ずっと口を閉じていた、奥の方に座る赤毛の女だった。
ジャージの色を見る限り、その子は一年生で、私や典子の同学年だ。見た事はないから、他クラスの子だろう。
「……って言うか、典子。アンタ、こんなトコでグダってて良いの?
見舞いとか、行っといた方がいいんじゃね?」
見舞い、と言う言葉に私は反応する。
一方の典子は、タバコの煙で輪っかを作るのに挑戦するのに夢中で、片手間に返事をする。
「見舞い? 誰の?」
「あの子。……ええっと、名前何て言ったっけ。
アンタと良く一緒に居た子。ぶりっ子してる奴」
「あぁ……アイツか」
典子は少し遠い目をして、もう一度大きくタバコの煙を吸い込んで、吐き出した。
ぶりっ子で通じるんかい、と突っ込みたいが、まぁ確かに私はぶりっ子だ。ここは我慢して口を閉じておく。紫煙が立ち上って空に消えていくのを眺めながら、典子は呟くように言った。
「別に、行きたくないし」
典子の声は冷たかった。私の体を冷やすには十分過ぎるくらいに。問うた女子も怪訝に思ったのか、質問を重ねる。
「なんで? 重体って聞いたんだけど、心配じゃないの?」
「……………………」
典子は答えない。
嫌な予感がした。動物に宿った第六感と言う奴だろうか。兎に角、この場から逃げたくなったのだ。何かとてつもなく大きな物が崩れ落ちるような気がしていた。神宮司先輩の時よりも大きな何かが。私はその恐怖に縫い付けられて動けない。典子の反応を窺うように、その場の三人も動かない。時だけがゆっくりと進んでいた。
「…………こんな事言ったら、引くかもしんないけどさ」
やがて典子が口を開く。足元で震えている白猫の方を見ながら、自嘲するように薄い微笑みを浮かべていた。私はそれに、脅えた視線を返す。止めて、引くような事なら、言わないで良い。そのままでいて。貴方は私の親友でいて。
私を、貴方の親友でいさせて。
「ぶっちゃけアイツが事故ったって聞いて、私ちょっと嬉しかったかも」
空気がざわめく。その場にいた三人が目を見開いて典子を見つめていた。
私は、と言えば……大して変わらないだろう。黙って典子の顔を見上げていた。もう聞きたくはなかった。でも、理由を聞いてみたいと思う心も確かにある。駄目だった部分を直して、彼女との友情に縋りたい、と確かに思っていた。
「……典子、仲良かったじゃん」
「確かに、仲は良かったよ……うん。でもさ……たまに思っちゃうんだ。
もしアイツがこの世に居なかったら……なんて事」
典子は静かに呟く。
「アイツは可愛いし、頭も良いし、要領が良くって、私とは大違い。
私はガサツだし、入試もラインギリギリだし、ぶきっちょだ。
一応、私なりに頑張って努力したつもりだけど……全然駄目、追いつけない。
小さい頃から何をするにも一緒で、だからこそいつも比べられてきた。
いっつも私はアイツの後ろ。何をするにも私より遥かに上手くやってのけて、後ろから来る私を見て笑ってやがる。
だから……ずっとそんな奴が側に居て……正直、辛かった」
典子は顔を俯けている。誰も何も言わない。息を呑んで、典子の独白に耳を傾けている。
「それなのに、向こうは私に親友面して近寄ってくるんだ。
……馬鹿にしてるとしか思えなかったよ。
『私は出来損ないの貴方のような人でも親友だと思える程心が広いんだよ』って言ってるようにしか見えなかった。
裏で絶対私を馬鹿にしているとしか思えなかった」
……何を馬鹿な。何を馬鹿な事を言ってるんだ、典子は。タバコの吸い過ぎで脳味噌が腐ったんじゃないか?
いつ私がアンタを馬鹿にしたんだ。そんな事、一度だってないのに。
そんなの、私は関係ないじゃないか。ただただ典子が卑屈になって、勝手な被害妄想で私を悪者にしてるだけじゃないか。私は別に典子の事を下に見たりした事は……。
「事故る前の日さ、昼休み、一緒に弁当食ってたんだ」
典子はタバコの煙を吸い込み直す。すっかり禿びたそのタバコを地面に投げ出し、火を踏み消す。
「いつも見たいに、馬鹿みたいな話をしてたんだよ。
動物がどうとか、モテるかモテないか、とか。そんで、私がモテないって話になった訳よ。
まぁ、別にそれくらいはいつも通りでさ、適当に流しとこうと思ったんだけど……ね。
アイツ結構猫被りでさ、そう言うの止めとけよっていったら『モテない奴の僻みにしか聞こえないわ』……ってさ」
そんな事を言ったかどうか、私は正直に言って、あまり覚えていない。
ただ、その言葉を今聞いても、別にどうとも思いはしない。親友同士で戯れ合っている時の言葉なんだから、大した意味はない。だが、どうやらそう思っていたのは私だけのようだ。
見上げた先にいた典子は、拳を握って歯を食いしばって震えていた。無感情で、氷塊で作ったかのような、冷たい目をしている。
「私だって、言葉だけ聞いたら単なる冗談だと思って流してたと思うんだけどさ。
人を見下してる笑顔だったよ。アイツのあの表情は。
駄目な人間を蔑み笑うような、汚い面で私を見てた。
何となく気づいてた事だけど、それで確信がもてたよ。
アイツに取って私は、自分が優位に立っているのを確認するための存在なんだ。
貴族が奴隷を見て自分の恵まれた境遇を実感するような感じさ」
典子の言葉に、私は頭をハンマーで殴られたように打ちのめされていた。
私は反論の言葉を思い浮かべる事さえ出来なかった。
反論が出来ない。違う、と言い切れない。言い切れない自分の卑屈さが、情けなくてたまらない。自分の心に素直に生きる。今、"そう言うキャラを作っている私"は、自分の心の汚さに吐き気さえ催しかけていた。典子は私にとっての基準だ、と私は考えていた。核の一部である、と考えていた。つまりそれは、私が典子の事を『自分より劣った存在である』事を前提に考えているのだから。
私は自負のある八方美人だ。自分の心が澄み渡っているとは思っていない。
でも、私は私が無意識であるうちに、随分と心を汚してしまっているらしかった。
典子の事を対等に考えようともしていないのに、典子は親友だ、等と自分すら気づかないうちに甚だしい勘違いを犯していたのだから。
「………………」
場の空気が張りつめている。誰も、何も言わない。何も言えなかったのだ。顔を上げた典子は、顔を凍り付かせている空手部の同僚達に向けて、慌てて苦笑いを向けた。
「や、やだなぁ。そんなマジな話じゃないっすよぉ。冗談、冗談だって」
今更そんな事を言ったって、誰が信用するものか。
私だって、無理だ。冗談であればどれだけいいか、と思っても、そう思い込む事はもう不可能だ。
あれだけ真面目な顔で、真面目な声で語られちゃぁ……もう、無理だよ。
私の足元に典子が投げ捨てた、まだ長いタバコが落ちてきた。典子はそれを踏み消し、溜まり場に背を向ける。
「あ、じゃ、私帰るんで、また明日」
典子はそう残し、走り去って行く。溜まり場にいた赤毛の同級生は、その背中を見て一つ呟く。
「……典子も、結構苦労してんだね」
大した感慨もなく、溜め息混じりに発せられたその声は、タバコの煙と一緒に空に立ち上ってすぐに消えてしまった。




