私が猫になった理由
それからの私の生活は、それはもう酷い物であった。
あの黒猫を負かせるにはどうすればいいか、と考えてみるものの、現時点で分かる事は説得が不可能と言う事。そしてこの丸まった四肢では、碌に道具を使う事も出来ない。勿論黒猫を陥れる為に罠を張る事も出来ない。加えて、あの黒猫はやはり化け猫らしく気配に敏感であった。
例えば食事中。あの黒猫が捕らえた鼠を丸飲みにしていた場面で、後ろから飛びかかると。
「よっと」
飛びかかった私の前足を掴み取り、いとも簡単にそのまま背負い投げ(柔道技)に以降。受け身を知らない私は腰を強か打ち付け、悶絶した。
猫のくせにどうして背負い投げなんて会得しているのか分からない。昔の主人が柔道家なのかもしれない。だが、私が負けた事に違いはなかった。
ならばと思ってあの黒猫が就寝中に襲いかかってみる。
「ほらよ」
飛びかかった私に合わせて黒猫もジャンプ。攻撃を意識したあまり防御姿勢なんて考慮していない私の腹に向けて思い切り頭突きをぶちかます。
はい、私の負けー、と。
埒があかない。不本意だけどしかたないな、と奴がトイレの最中に襲いかかったら、どうなったかを記す。
「ていや」
飛びかかった私に、黒猫自身の糞尿が浴びせられた。
思い切り目の中に猫の糞が入った私が痛みのあまり悶絶していると、黒猫は私の無防備な腹にジャンピング・エルボー・ドロップをぶちかました。
10カウントなんて必要無い。アイムルーザー。
とまぁ、こんな具合で、日々はまるでビデオの早回しのように経過していく。
私は、一日一回は黒猫に挑みかかり、敗北して昏倒。翌朝頃に気絶から覚める……と言った、戦後間もない頃のプロボクサーよりもハードな日々を送っていた。そんな生活を三日も続けた頃である。
私は重大な事に気がついてしまった。
「……お腹空いた」
食糧問題である。
ここ三日程は人間に戻る事に夢中なあまり、碌に食事を取る事も考えなかったが、流石に三日も飲まず食わずのでは体力も落ち込むというものだ。
だが、今の私は小腹が空いた時にコンビニで気軽にオヤツを買える事の出来る女子高生ではない。天涯孤独の白い野良猫である。
金なんて勿論無い。でも、腹は減った。飯を食わねば生きていけないのは生物の理である。猫の理として、猫が食うものと言えばキャットフードであるが、私は一応人間である。こんな形をしてはいるが。
取りあえず山にキャットフードやコンビニ弁当が転がっている事はまずないので、私は山を下りる事にする。黒猫との戦いは一旦休憩だ。
「おい、何処行くんだ、お前」
黒猫の声が私の背中に浴びせかけられる。今日は挑んでこないのか、と言いたげな不満そうな声だ。
私はそれには返事をしてやらない。自分でも悲しくなる程ささやかな反攻だが、これくらいが今のやせ細った私には限界である。
薮の間を縫うようにして、私は祠を、そして祠のある山を後にして、町に降り立ったのである。飯を食って精をつけて、その後は覚えてろよ、と内心で黒猫に吐き捨てながら。
*
私の住む町は、県内ではちょっと田舎な部類に入るかもしれない。
人口がどの程度か、とかそう言う細かな部分は知らないが、電車に乗らないと映画館すらない程度には田舎だ。
そんな私の住む町では今、小さな小競り合いが密かに行なわれている。
古くから地域住民に密着してきた商店街と、最近出来た一部上場企業のスーパーマーケットが客を取り合っているのだ。
スーパーマーケットは大量入荷で仕入れのコストを下げる事で実現可能な安売りを目玉にして客を引く。対して商店街側はスーパーに比べれば割高ではあるが、値切りOKやオマケ付き等のサービス面をメインに客足を伸ばそうとしている。
進退の方は今現在ややスーパー有利、と言った所で、商店街の組合は更なるサービスを身を削る思いで捻り出している頃である。
私は、そんな苦心している商店街に足を踏み入れていた。
道路の真ん中に座り込んでいては自転車に轢き殺されるかもしれないので、狭い路地の間に体を捩じ込み、商店街の様子を見回して愕然としていた。私が何を期待して商店街までやってきたか、と言えばそれは勿論、食事にありつく為だ。肉屋か魚屋から猫の体でも食べられそうなものを掠めとる心づもりだったのだ。
普通に万引きだけど、生きる為なんだから仕方ない、と覚悟してきたが、私の期待はものの見事に裏切られる形となった。
「………………」
ガラスケースの向こう側に陳列されたマグロの切り身を見て、私は頭を抱えたくなった。
畜生、そんな頑丈そうな檻に入れられたマグロさんが可哀想じゃないか! という現実逃避はこの程度にしておこう。
マグロだけではない。その魚屋は売っている魚全てがガラスケースの向こう側にあるのだ。よくよく考えれば、今のご時世、魚を野ざらしにして売っているのなんて築地とかの魚市場くらいなものだろう。
たかだか商店街の一角のショボイ魚屋なんて、ガラスで魚をカバーしないとそこらの鴉とか、私のような猫に魚をかっ攫われたりしてしまう。こんな事町に住んでれば分かるだろ、と自分でも思うが、まさかこんな目に遭うなんて思いもしないのだから仕方ないじゃないか。
そもそも私はスーパー派なのだし。……と言う言い訳はこの辺りにして、だ。
今、グゥー、と腹の虫が鳴いた。猫でも人間と同じように腹が鳴るらしい。腹が減っている事に変わりはない。私は、どうしたって食事にありつかないといけない。
そこで私は思い出す。押して駄目なら引いてみな、である。昔の人は偉かった。
路地から足を踏み出した私は、魚屋の前で足を止め、座り込む。
見上げると、魚屋のガラスケースの中には様々な魚が色鮮やかに鎮座していた。マグロやタイ、サバなどのメジャーな魚を押しのけて、季節もののサンマが砕かれた氷の上に並んでいる。
少し唾が出てきてしまったのは、余程腹が減っているせいか、はたまたベタに猫の性か。
「はーい、らっしゃいよー」
今の時間は午後一時。昼時も過ぎて、夕食の買い物には少し早過ぎる時間。
商店街のアーケード街は人通りも疎らである。魚屋の中年の店主も店のカウンターに座って、やる気なく呼び込みをしていた。店主は店の前に座り込む一匹の白い猫に気づいていないらしい。
私は意を決して声を上げた。
「みゃあふぅ」
「ん? ……なんだ、ネコか」
どうやら私の言葉は人間には全て猫の鳴き声になって届くようだ。……まぁ、ここまでは予想通り。猫の声帯で人間の言葉を話せたらそれこそ金に困らない珍猫になれるし、自分の境遇を訴える事もできる。あの意地汚い黒猫がそんな逃げ道を作る筈がない。
私の存在に気づいた店主は、行儀良く座り込んでいる私の方を眺めて、少し顔を顰める。野良猫は魚屋の天敵だ。良い感情は持たれていないだろうが、ここで挫けてはいけない。
私はわざと弱ったような猫撫で声を上げてみせた。
「にゃー……」
「なんだお前、腹でも減ったか?」
私は大きく頷いてみせた。人間でなくても、こうすれば意思の疎通は可能だ。
私の頷きを見て、店主は目を丸くする。どうやら私がただの猫でない事に気づいたらしい……と、思ったのだが。
「へぇ、まるで頷いてるみてぇだ。おもしろい猫だな、お前」
「ふしゃあああぁぁぁ!」
頷いたんだよ馬鹿親父、と罵ってみるが通用しない。
店の親父はもう私への興味を失ったのか、私から目を逸らしてアーケード街の客足を見つめる。いや、待って。ここにお腹をすかせた可愛い子猫ちゃんがいるんだよ。何かご飯を恵んでくれよ。
「にゃー、みゃー」
「……五月蝿いネコだなぁ」
店主が煩わしそうに言う。あまり良い印象は抱かれていないようだが、無視され続けるよりマシだ。五月蝿いネコだ、これやるからさっさとアッチ行けよ、と言ってサンマの一尾でも投げてくれるかもしれない。
なんて期待した私は本物の馬鹿である。
「あー、もう! シッ、シッ!」
「にゃああぁぁぁぁ!」
「……ったく、面倒くせぇ」
店主が立ち上がって、店の奥に引っ込んだ。何か食べ物を持ってきてくれるんだ、と期待に胸を膨らませる私に。
「ほれ! さっさとあっち行きやがれ!」
物干竿が突きつけられる。
カウンターの向こう側から長過ぎる長柄武器を、魚屋の店主は容赦なく私に向けて振り回した。
不意に私の足元数センチ先に突き立てられた物干竿がアスファルトとぶつかって、ガツンと言う音を立てた。
私は全身の毛が逆立った。こんな重いもので下手な所を突かれたら、無事で済まないのではないか。私は慌てて退散した。氷の上のサンマは名残惜しいが、命に代える事は出来ない。
*
次いで私が訪れたのは、先程の魚屋から十軒程離れた肉屋である。
こちらの店主は優しそうな中年の恰幅の良い女性。昼下がりであるせいか、魚屋の店主同様に少し惚けた表情で道行く人々を眺めている。
肉は魚以上に管理されている。当然ガラスケースの向こう側。盗み出すのは不可能だ。
先程と同じ轍を踏まないように、私は先程よりも少しだけカウンターから身を引いて待ち構えている。三十秒程その肉屋の女店主を眺めていたのだが、私に気づく様子はない。
もしかして私は存在感が薄いのだろうか、と言う懸念とともに、私は声を上げる。
「……みゃぁ」
先程よりも弱々しく、か細く震えた声を上げる。全身の毛を寝かせ、少し俯き加減で、弱々しさを存分にアピールする。
こうやって同情を引いたりする演技は私の得意分野である。伊達に猫を被って生きていない。今は本当の猫になっているけども。
「おや……」
「……みゃーん」
女店主が私の存在に気がつく。その目はまさしく、弱った子猫を労る慈愛に満ちた目。これは期待大だ。私は更に畳み掛けるように、カウンターに向けて歩み寄る。
「にゃー……」
わざと大きく震えながら足を進める。弱ってますよアピールだ。
幸い……とは到底言えないが、今の私はそこらの野良よりよっぽどやせ細っている。ガリガリの猫だ。
私の命は風前の灯火ですよ、さぁ、救えるのは貴方だけですよ、どうするんですか?
……と私自身でアピールする。
「あらあら……可哀想な猫ちゃんねぇ。お腹空いてるの?」
「みゃぁ」
女店主は同情の声を上げる。ここまでくれば、もうあと一押し。
私は最後の力を振り絞って……いるように見せかけて、よろめきながらガラスケースに前足をかける。決して爪は出さない。ここでガラスを傷つけてしまっては元の木阿弥だ。肉球で、慎重にガラスケースを撫でるように叩く。
この向こうの肉が欲しいにゃん。でも、ガラスが邪魔で肉が食べれないにゃん。どうだ、私はなんて可哀想な猫なんだにゃん?
コト、コトと言う弱々しくケースを叩く私を見て、女店主は哀れに思ったのか、遂にカウンターから立ち上がった。そして、ケースの中側から揚げ物の一つをトングで摘んで、小皿に乗せて私の目の前にそれをおいた。
「お昼の売れ残りだから、たんとお食べ」
「にゃぅ」
勝った。
私はガッツポーズを取れない代わりに、一つ鳴いた。ささやかなる勝利の雄叫びである。
私はこの女店主の同情を引いて、食糧を確保する事に成功したのだ。野生の野良が、人間様の食物を獲得したのだ。黒猫に私に差し出されたこの黄金色に輝く肉塊を見せびらかしてやりたかった。
ざまぁみろ。私をこんな境遇に落としても、私はちゃんと人間の食事を取る事が出来るのだ。
勝利の美酒ならぬ勝利の美揚。私はその少し冷えてしまっている揚げ物にかぶりついた。丸くて厚い円盤状のその揚げ物は、どうやらメンチカツらしい。
猫は基本的には肉食だ。確かにこれならば問題無く食えるだろう。コロッケじゃなくて良かった。そう思いながら三日ぶりの食事を全力で噛み締め、飲み込む私。
どうやらこの肉屋、ハンバーグも売っているようだ。カウンターを見れば分かる。メンチカツにしては少々大き過ぎるこのメンチカツは、恐らくそのハンバーグを揚げたものだ。
先程からシャリシャリと言う食感から、私はタマネギが交じっている事に気づいたのだ。
ハンバーグは主婦層向けで、メンチカツは恐らく買い食いする学生向けなのだろう。なるほど、さすがサービス精神旺盛な商店街勢だ。需要がよく分かっていらっしゃる。私が人間に戻ったら、今度からはこっちに来る事にしよう。魚だけはスーパーで買うけどな。
……と、ここまで考えてから、私の脳裏に何かひやりとした懸念が通過した。
懸念の原因は、他ならぬ私の口の中で食感の違いを楽しませてくれる野菜にある。前述の通り、猫は基本的には肉食だが、野菜を多少食べても恐らく問題はない。
でも……タマネギって食べて大丈夫だっけ。
「おや、猫ちゃん、どうしたんだい?」
女店主の声が遠くに聞こえる。夢中でメンチを貪っていた私が急に動きを止めて、驚いているらしい。
私は必死で思い出していた。猫とタマネギ、猫とタマネギ、猫とタマネギ……なにか、あった気がする。一体、なんだっけ。食べたらヤバいんだっけ。いや、ヤバいと見せかけて、それは民間伝承で、実は問題無し、だったっけ。うなぎと梅干しの食べ合わせ、みたいな感じの。
どっちだどっちだ、と頭を巡らせていると、不意に私の背中の方から声がかかった。
「あら、お肉屋さん。猫飼ってるの?」
その人は恐らく、肉屋に買い物にきた主婦だろう。買い物にきているだけなのに、綺麗に髪を巻いて、化粧までしている。
見栄を張った若奥様、といった感じだ。年の頃は三十代前半くらいに見えた。
「あぁ、ごめんなさいね。この猫、野良みたいでねぇ。
あんまりにもお腹空かせてるみたいだから、余り物食べさせてるのよ」
女店主は立ち上がって、カウンターの中に戻っていく。
主婦はあまり良い顔をしていない。それもそうだ、どんな病気を持っているか分からない野良に餌をやる肉屋なんて、あまり歓迎されるべきでない。子供がいるであろう主婦なら尚更そう思うだろうが、主婦は「気にしてないですよ、全然」と取り繕っている。
これは私の勝手な推測だが、彼女は八方美人だ。私と同じ匂いがする。仮面を被っている者独特の匂いが。
……とまぁ、そんな事は別にどうでも良くて。私は、私の餌皿を見て驚く主婦の言葉に体が強張った。
「ね、お肉屋さん。おたくのメンチカツ、タマネギ入ってなかった?」
「入ってるけど……ありゃ、マズいのかい?」
入ってなかった? ……と聞いたと言う事は、つまり、猫の体にはやはり良くないのだろうか。
良くない、と言っても程度の差はある。食ったら即死レベルのヒ素並みにヤバい代物か、はたまた銀杏のように馬鹿みたいに食べ過ぎなければ問題無いものなのか。私は高鳴る心臓を押さえ込みながら、祈るような気持ちで主婦と肉屋の会話に耳を傾けた。
「えぇ。タマネギって猫にとっては猛毒なんですって。食べると死んじゃう事もあるとか」
「あらららら……そうなの? ごめんね、猫ちゃん」
女店主はあくまでも呑気だ。
ごめんねじゃねぇよこの馬鹿女。
私は激昂するが、それ以上に戦慄した。タマネギは猛毒。食べると死ぬ事もある。その二つの言葉が、私の脳内をグルグルと駆け巡る。
私はその場から脱兎の如く駆け出した。背中から女店主の声が聞こえるが、完全に無視した。
狭い路地に飛び込んで、奥に向かう。電気屋と喫茶店の間の、極々狭くて、誰も来ないだろう狭くて日の光も碌に届かない袋小路の最奥で立ち止まる。
私は体を前に倒した。そして、猫の小さな口の中に、強引に自分の前足を突っ込んだ。
「……! …………!」
…………一応、私も女であるので、流石にこれ以上の描写は勘弁してもらいたい。
*
結局食事にありつけた矢先に胃の中身を空っぽにした私はその後何も食べる気が起きず、何の収穫も得られぬまま再び山の祠に帰って来ていた。
ここは犬の縄張り、と黒猫は言っていたが、犬は一向に姿を見せない。もしかして、方便だったのだろうか。それか、あの恐ろしい黒猫のせいで犬さえもその縄張りを明け渡した、とか。
有り得ない話ではないが、いずれにしろ、寝床に困っていた私には有り難い話である。
祠の中が私と黒猫の寝床であった。黒猫と一緒に眠るのは最初は怖かったが、今は然程眠れる。
奴は私から喧嘩を吹っかけない限り、襲いかかってくる事はないのだ。そのくせ普通の猫の何倍も強いのだから、寂しく一人でいつ何に襲われるとも思えない場所で眠るよりはこの猫の隣で寝る方が遥かに安全なのだ。
それともう一つ。……なんだかんだ言っても、まともに話し相手になっているのはこの黒猫だけだ。この町には、殆ど野良猫がいない。今日町を巡ってみて、改めてそれが分かった。恐らく、保健所に回収されてしまったのだろう。いかなる結末が待っていたかは想像に難くない。
故に、今の私の言葉にちゃんと返事を返してくれるのは黒猫だけなのだ。
私を猫にした張本人に助けられているというのも業腹だが、今はコイツを頼って生きるしかない。何としても人間に戻る為に。
……と言う私の決意も、今やすっかり萎んでいた。
「…………うぅ」
私は祠の穴だらけの板床に体を投げ出して、呻いていた。
先程私はメンチカツを半分程平らげていた。すぐさま吐き出しはしたが、胃の中には恐らくまだタマネギが残っていたのだろう。それの消化が始まったから、だろうか。私は段々と気分が悪くなっていた。
頭がクラクラする。視界がはっきりしない。貧血の症状によく似ていた。
この空腹に貧血は辛い。加えて言えば、水も碌に飲んでいないので、体全体が乾いていた。肉球もしなびているし、本気で体が動かない。
あぁ、もしかしたら……もしかしたら、私はここでこのまま死ぬのかもしれない。
このまま目を瞑って、そのまま死ねたら、楽になれるだろうか。それとも、まだ簡単には死ねないのだろうか。飢えと乾きで気が狂いながら、苦痛の断末魔を上げてようやく死ねるのだろうか。
だったらいっそ殺してくれ、こんな惨めに生きていても辛いだけだ、と思ってしまうのも無理はない……私は諦めた。
生きる事を、人に戻る事を諦めて、目を瞑る。
「おい」
耳も塞ぎたかった。しかし、猫の短い前足と丸っこい手先では、大きな耳は塞ぎ切れない。
私は再び目を開けて、目の前の黒猫を見やった。月光を思わせる二つの眼差しが、薄暗い祠の中で輝いていた。私はそれを見つめ返す。さぞかし力無い視線だったのだろう、黒猫の耳が少し垂れるのが見えた。
「これ、食え」
黒猫はぶっきらぼうにそう言って、前足を前に押し出す。
私は視線を下げて、押し出されたものを見て、背筋を寒くした。
それらは、普段この黒猫が口にしていた獲物の数々だった。尻尾を掴まれて逃げられない鼠。ひっくり返って死んだゴキブリの死骸。羽をもがれて動けないトンボ。
私の体が元気だったら、全力で飛び退くであろう、それら不気味な代物の数々が私の目の前にあった。黒猫は、私が聞こえていなかったと思ったのか、もう一度口を開く。
「これ、食えよ」
「…………やだ」
私は自分でも驚く程か細い声で断った。
食え、と言われても、こんなものは食べ物ではない。
人間にしてみればゴミだ。全て害。ゲテモノの極地だ。口の中に入れるなんて、想像しただけで体が寒気に包まれる。私は人間だ。猫にしてみれば食い物かもしれないが、私は猫じゃない。私にゴミを食えと言うのか。
黒猫はただ、私を黙って見つめている。ちゅぅ、と言う鼠の小さな声が聞こえた。
「…………死ぬぞ」
そんなコトは分かっている。今であろうが、いつであろうが、私は恐らく数日以内に死ぬ。この碌に動く事も出来ない衰弱した体では、もう町まで降りる事は出来ない。もう死は覚悟した。私は視線に乗せて黒猫にそう言った。
「……俺は一度、死んだ事がある。死は恐ろしい。
衰弱死は、衰弱していた時の何倍も苦痛を味わいながら死ぬんだ」
「……聞きたくない」
「全身が痺れ、やがて体のそこかしこが悲鳴を上げる。
穏やかな死なんてとんでもない。全身を腐敗に引き裂かれて、気が狂う程の痛みに侵されて死んでいくんだ。
真綿で絞め殺されるように、ゆっくりとゆっくりと、ただひたすら破滅に向かっていくんだ。
お前、それで良いのかよ」
「じゃぁ、殺せばいいじゃない」
黒猫の言葉が端的で迷いないのと同じく、私も言葉を真っ直ぐに吐いた。しかし、黒猫は首を横に振る。
「お前、心の底からそう思っているのか?」
「うん」
「それは嘘だな」
黒猫は残酷に私に言い放つ。死に体の私に顔を、獲物を捕らえているのと反対の足で踏みつけて、蔑むような目を向ける。
「心の何処かでは『生きたい』と思っている。
死にかけの私に同情して、黒猫が元に戻してくれるんじゃないか……と、僅かにだが期待している。
この化け猫なら、人間の食べ物を用意してくれるんじゃないか……なんて甘い考えをまだ捨て切れていない」
私は返す言葉がなかった。今、確かに私は死にたいと思っていたが、黒猫が言った言葉もまた、頭の片隅に残っていた。
当たり前だ。私はまだ高校生だ。交友関係も部活の成績も恋愛も順調で、それらに連なる希望溢れる未来が私の目の前に横たわっていた筈なんだ。こんな所でそれら全てを投げ捨てろ、諦めろなんて言われても、多分私はどんな目に遭わされても絶対に100%捨て切る事なんてできやしない。
死にたくなかった。黒猫に、助けてほしかった。だが、黒猫の態度は何も変わったりしない。
「だが俺がお前に差し出す答えはこれ以外有り得ない。
これが、俺達野良猫にとっての食事だからだ」
「……なんで、私に?」
ふと沸き上がった疑問。
私の事を憎んでいる筈の黒猫が、何故私に食事を差し出すんだ。黒猫は瞬時に答える。
「猫は気紛れな生き物だ。
今の俺は、死にかけているお前を見て、哀れだと思っている。
あ、コイツに死んでほしくないかも、と少しだけ思っている。
だから、これをお前にやるのも良いか、と……思っている。それだけだ」
黒猫は一切淀む事なくそう答えた。その二つの目からは、何かを偽るような色は見えてこない。
私のような人間とは全く違う。猫のくせに、この黒猫は全く猫を被っていない。
多分、私は馬鹿なんだ。人間としてはそこそこ賢く生きてるつもりだったけど、きっと猫としても人間としても、最上級に馬鹿なんだ。嘘偽りで自分を塗り固めて自分さえ偽って、それを誰かに見抜かれて、ようやく気がつく。
私は、生きたい。どうしようもなく生きたい。どんなに惨めでもいいから、生きていたい。死にたくない。生きて、人間に戻りたい。そんな自分の中の本心を認めるしかなかった。
「だから、これ、食え」
黒猫がもう一度そう言った。
私は多分、泣いていた。体はカラカラだったから、涙は出なかったけど、多分泣いていたんだと思う。
私は力無く口を開き、羽をもがれて床に這いつくばっていたトンボにかぶりついた。
…………これ以上は最早語るに値しないだろう。人間にとっては、吐き気のする話でしかない。
ただ……私はこの日、生き延びた。苦痛でしかなかったけど、己の心に眠る本音を発見したこの日を、生き延びたのだ。そして私はこの日一旦人間を辞め、猫になった。それだけは、確かだったと思う。




