私が猫に謝った理由
「よぉ、人間様」
水面に映る、目を丸くして口を開けて呆然としている白い猫を見つめる私の背後から声が聞こえた。
まるで地響きの様に低く空間を揺らす男の声だった気がするのだが、気が動転している私に細かい状況把握能力は備わっていない。一先ず池から顔を上げ、後ろを振り返る。目線の先にあったススキの草むらを掻き分けて、一匹の猫がひょっこり顔を覗かせた。
その猫には見覚えがある。
黒い毛並みに、二つの金色の巨星を思わせる猫目。なによりも、尻尾の先端が真っ二つに割れているのが目を引く。昨日踏み殺した猫……いや、生きているのだから、踏み殺しかけた猫、と言うべきだろうか。その猫がそこに座っていた。
「どうだい、猫になった気分ってのは。案外良いもんだろ」
「ひぃっ!」
黒猫は私に歩み寄って、目を細めてにゃぁ、と一つ鳴いた。
しかし、その鳴き声は意味を持っていた。私の耳には、その猫の鳴き声は、あたかも人間の言葉を喋っているように聞こえたのだ。
猫が、人間の言葉を喋っている。その事がまず驚愕である。人語を解すならまだしも話しかけてくるなんて、そんな馬鹿な話があってたまるか。
私は首を左右に振って、辺りを見回す。声当てしている誰かが居るのではないか、なんてこの後に及んでまだそんな事を考えていたのだ。
「周りにゃ誰もいねぇよ。ここら一帯は犬の縄張りだ。本来なら猫は出入りを禁じられてる」
全くもって、何の事やらサッパリわからない。
犬の縄張りだろうが猫の縄張りだろうが関係ない。私は人間だ。絶対人間だ。猫の姿が水面に映ったのは、ちょっとした幻覚なんだ。
「な、な、なんの事よ。と言うか、コレは何? 私はどうしちゃったの?」
「説明する必要があるかい?」
黒猫は大きな眼を半分だけ閉じて、口元を僅かに上げる。まるで人間のように笑っていた。
まるで私を蔑むかのような目で見ているのが苛立って、私は頭を低くして口を大きく開け、尻尾を振って黒猫を威嚇した。
もうこの時点で私はどう考えても猫そのものなのだが、認めない。断じて認めてたまるか。
「アンタは何を知ってるのよ……言えよ、クソ猫」
「言葉が下品だねぇ、人間様」
黒猫は呆れ果てたようにそう吐き捨てて、草むらを掻き分け、私のすぐ横を通り過ぎ、池の水に口をつける。
どうやら水を飲んでいるらしい。私はその猫が水を飲み終え、次の言葉を吐くのを律儀にも座して待つ。ぴちゃ、ぴちゃ、と言う音を立てながら、黒猫は舌で水を救い上げ、器用に口に運んで行く。
そう言えば、私も喉が渇いた。
隣で水を啜る猫を真似たくなったが、踏みとどまる。こんなミドリムシやらゾウリムシやらが無数に生息していそうな池の水なんて、到底飲めない。唾を飲んで我慢した。
私のその様子に気づいたのか、黒猫がこちらに目を向けている。中々耳が敏い奴だ。
「……ねぇ」
「あんだよ」
「私、何でこんな姿なの? って言うかそもそも、私が人間って知ってるって事は……」
「やったのは俺だからな」
黒猫は水を飲みながら、投げやりで面倒臭そうに、尚かつ実につまらなそうにそう言い放った。
「……やったのはって?」
「俺がテメェを猫に変えてやったのさ」
水を飲み終えたらしい黒猫は、顔を上げてこちらを向きながらそう言った。
太陽が東から昇る、と言う当たり前の真理を吐くような真顔で、言いやがったのだ。もう既に頭の中は混乱の極地にあったのだが、諦めて私が猫と化したと言う仮定で話を進めよう。
となると、私が猫となった原因はどうやらこの黒猫にあるらしい。
「変えてやったってアンタ、意味分かんないわよ。アンタって化け猫か何かなの?」
「並の猫がこんな事出来るんなら、人間は絶滅してるだろうよ」
それもそうだ。
猫の一存でいちいち人間が猫化してしまえば、地球上で最も優位に立つ動物は人ではなくて猫だと言う事になりかねない。
という事は、隣に居るこの黒猫は、もしや本当に化け猫なのだろうか。
「物わかりが悪いな、お前。ほれ、俺の尻尾見りゃわかるだろ」
立てた尻尾を左右に振ってみせる黒猫の尾先は綺麗に二つに割れているが……これはまさか。
「どっからどうみても猫又だろうが」
「………………」
猫又というのは、人間に化けたり、人を喰ったりと、兎に角ただの猫に化け物らしい特徴を足したような妖怪だ。最大の特徴はその尾である。私が見聞きした記憶では、猫又は尻尾が二本あるから猫又と言う……んだったが。
黒猫の尻尾は一本だけだ。先が分かれて二本になっているが、まさかコレで猫又を名乗る気なのだろうか。
そもそも、その尻尾の先は私が踏みつぶして裂けてしまったのではないのだろうか。
試しにそれを問うてみると、黒猫は後ろ足で首の後ろを掻きながら、大あくびをしたあとようやく答えた。
「人間に踏まれた位で尻尾が裂けたりするもんかい。
先っぽが潰れて血が出たのは確かだけどな。本当に痛かった」
黒猫は右に前足を上げ、手首を少し傾けて、招き猫のようなポーズをとる。
そして上げた前足から少し黄ばんでいるが、艶がある三本の爪が覗いてた。
「そのあとも執拗に踏みつけてくれたよなぁ。久しぶりに命の危機を感じたよ」
「……アレはアンタがいきなり私に……っ」
黒猫が一歩脚を前に進め、私は口を噤む。
言い訳が通用しそうにはない。私がこの猫を踏み殺しかけたことには違いないのだ。
恐らく私はこの黒猫に、あの鋭利な爪で死ぬ目に遭わされるのだろう。町で絡んできた不良がナイフを取り出したときとか、目の前の車から黒服の男が降りてきたときと言うのははきっとこんな心境なのではなかろうか。経験はないが。
このままではマズい。何とかして逃げなきゃ。
私は猫から一歩後ずさる。
動物には背を向けて逃げるよりもこうして目を合わせながら後ずさりするのが効果的である。長年動物との接触を回避してきた動物嫌いの私だからこそ得たこの極意、果たして化け猫にはどこまで通じるのだろう。
それは分からないが、抵抗するからには最大限だ。全力で逃げ切るしかないのだ。
黒猫が一歩進むと、私は二歩下がる。それを繰り返して、私は徐々に黒猫から遠ざかっていく。四肢の動かし方はまだちょっと慣れないが、間接筋肉共に人間より遥かに柔軟であるためか、動きに違和を感じる事はない。
大丈夫、きっと逃げられる。私は内心でほくそ笑みながら、一歩、また一歩と後ずさる。
「……おい」
「…………何よ」
黒猫が不意に口を開く。今更遠ざかっている事に気づいたか。所詮猫、オツムの程度はたかが知れいている。
私が今後ろに振り返って、猫ではなく脱兎の如く駆ければこの生い茂る山中で、黒猫よりも更に一回り小さな身体の私を見つける事は出来まい。黒猫が歩みを止めて立ち止まった。尻を地面につけて、尾を立てて、少し首を前に突き出して私の様子を窺っている。
追跡を止めたこの一瞬の隙を見逃す訳にはいかない。私は後ろを振り返り後ろ足を思い切り蹴り出して跳ねた。ビックリする位身体が軽い。碌に勢いもつけていないのに、私は自分の数倍の高さ、長さを跳躍する自分の脚力に驚愕していた。
なるほど、猫の身体と言うのはこう言う時に限って言えば便利かもしれない、と頭の片隅で思っていた矢先。
ふと私は着地地点に視線を落とし、前足の置き場を探す……が、しかし。
「…………遅かったか」
黒猫の声が聞こえた。確かに遅かった。もう少し早く行っておいて欲しかった。
今私達は池の縁で言葉を交わしていた。池は私の右手側にあったのだが、その池が真円形とは限らない。後ずさった先にも、池がないとも限らない。
私の身体は美しいフォームを描いて、真っ逆さまに池に落下する。
「うひゃあぁ!」
自分でも素っ頓狂だと思う奇怪な声を上げて、私は全身を包む冷水に凍えた。
水の温度もさることながら、この池は案外深いらしく、私の短い脚では底につかない。
脚を必死にもがいて顔を浮かばせようとするが、この身体では上手くバランスがとれない。人間の頃は脚がつかない場所で泳ぐ事くらい造作も無かったのだが、猫として泳ぐのは始めての事。
頭の混乱さえ未だに抜けない私に、猫の身体で器用に犬かきしろ、だなんて無茶以外の何物でもない。私は、池の縁で水飛沫を上げてもがく私を見つめる黒猫に顔を向けた。
「た、助け、ゴボッ、助けてぇ!」
「助けて? 誰が? 誰を?」
黒猫の、蔑むような声が私の耳に届いた。
いや、この場に溺れている人がいたら助けるのが人情って物だろ。このクソ猫め、私を見捨てる気か。
「テメェなんか助けても、俺は何にも得しねぇだろうが」
「何言って、普通、助けるでしょ! 困っ、てる、人、見捨て、るの!?」
「見捨てるさ。それが猫だ」
黒猫は残酷にそう言って、ひたすらに溺れる私を見て目を細めている。
実に楽しそうだ。こちとら今まさに命の危機に瀕していると言うのに。
……しかし、よくよく考えなくったってそれは当たり前かもしれない。私は理由はどうあれ、この黒猫を殺しかけたのだ。
私だって、もしも私に向かって刃物を振り回してきた様な輩がいて、ソイツが池で溺れていたとして……果たして助けるかどうか。
……いや、やっぱりきっと助けるだろう。それが理想の人間像であるからだ。
自分を殺そうとした人間を身を呈してまで救出する。なんともヒロイックな展開だ。それが正しい人間の姿なのだ、と偉い人は述べるだろうし、周りの人間も、私の心の広さを褒め讃えるだろう。
つまり、人を助けた事が、私と言う人間の株を上げる事に繋がるのである。
「あの人は良い人だ、なぜなら自分を殺そうとした人間すら救い出すのだから」と言った具体的エピソードを交えた賛美が私を待っているだろう。
情けは人の為ならず、と言うが、まさしくその通りである。
「俺は猫だ、人間様。情けなんかかけりゃ、野良猫の社会では生きていけねぇ」
「そんなの、知らない! お願いだから、助けてよぉ! 何でもする! 何でも言う事聞くから!」
「嫌だね」
黒猫は傍観に徹している。
まるで自分には関わり合いのない事だと言わんばかりに、首を脇に反らしている。
この畜生風情が生意気を言いやがって。絶対に報復してやる。例え私が死んだとしても、それこそ化けて出てやる。
段々と身体の力が抜け始める。口の中を通して飲み込んだ筈の水が、食道を逆流する。息が苦しい。前が見えない。なにも分からなくなっていく。
こんな訳の分からない死に方をするのか、私は。猫になって、池で溺れて、そんな馬鹿げた死に様を晒すのか。
息が止まる。酸素の供給が止まり、身体が麻痺する。視界が汚い池の水に覆われていく。
そして遂に、私の意識は途切れた。
*
目を覚ました私は、一瞬だけ自分が自宅のベッドで跳ね起きる夢を妄想した。
あぁ、やっぱり私は人間だったんだ。踏み殺した猫は普通の猫で、あの猫の呪いで猫になったりなんて事は全く無かったんだ。あれは単なる私の罪悪感が生んだ幻想だったんだ。そんな夢だった。そう、夢であったのだ。
所詮。
「やっと起きたか、人間様」
悪夢のような声が地面を伝って私の鼓膜を揺さぶる。
霞がかっていた意識が瞬く間に覚醒し、私は声の主に目をやって、絶望に打ちひしがれた。私は祠の境内の石畳に四肢を身を投げ出していた。
白い毛は濡れぼそって灰色がかり、身体のあちこちに藻が付着していて、今の私の毛並みはさながら斑緑猫と言わんばかりの奇怪な容姿をしているだろう。黒猫がそんな横たわっている斑緑猫の顔を覗き込んで、いやらしい猫撫で声を上げながら、右前足で私の頭を掻いている。
「もしかして、助けてくれたの?」
「……よくよく考えたらよ」
素直に「うん。俺が助けました」と言ってくれる訳ではないらしい。私は黒猫の次の言葉を、唾を飲み込んで待つ。
「ここでテメェに死なれちゃ、面白くねぇよ。もっとテメェで遊びてぇ」
「え、何言って」
不意に私の頭を撫でていた右前足が大きく振りかぶられ、私の鼻先に叩き付けられた。
思い切り体重の乗せたその一撃は、猫のものとは思えない程重く、私の顔面をひしゃげるには十分な威力だった。痛みに悶絶して転がる私の脇腹に、黒猫は俊敏な動きで飛び乗った。
そして容赦なく追撃を加える。私の顔、腹、胸、四肢、尻尾全てに、化け猫パワーの乗った猫パンチや引っ掻きが加えられる。暴漢が一切の容赦なく少女を襲っている、と言えば聞こえは最悪だが、今現実にそれが起きている。
猫の戯れ合いなんて生易しいものではない。完全な暴力であった。
「よくもあれだけ腹踏んづけてくれやがったなぁ、人間様」
「や、止め……」
「お返しだ」
既に溺れていたときの疲労と全身の痛みのせいでまともに身体の動かない私の後ろ首をくわえた黒猫は、後ろ二本脚で立ち上がる。そしてそのまま飛び上がり、祠の前に高くそびえ立っていた鳥居の上に飛び乗った。
私の身体は鳥居の上で宙ぶらりんにされた。今黒猫が口を離せば、私は為す術無く石畳に叩き付けられる。
碌に抵抗する体力もなかった私は、再び訪れた命の危険を前に、泣きながら黒猫に懇願する。
「お願い……助けて……お願いします……死にたくない……お願い……」
「……………………」
黒猫は何も答えない。口を開けば私を離してしまうのだから、それは当然かもしれない。
答える代わりに、黒猫は時折くわえている顎の力を緩める。今にも落としてやるぞ、と言わんばかりだ。
「お願いします……お願い……殺さないで……!」
視界の下に広がっていた祠の境内の全貌が、急激に近付いてきた。私の身体は既に落下を始めていた。風を切って、瞬く間に視界に石畳が広がっていく。
黒猫は非情だった。
紐のないバンジージャンプ。パラシュートのないスカイダイビング。急に足元を掬われるトランポリン。
どれとも喩えられるが、そのうちのどれだってマズい。死ぬ。
地面に叩き付けられる間際。私は首を持ち上げて、黒猫の方を窺った。
そしたらあの猫……今あの顔を思い出しても腹が立つ。
その時あの猫は、猫とは思えない程口を大きく裂けさせて、ケケケ、と言う擬音でも聞こえてきそうな程の満面喜色の笑顔を浮かべていやがったのだから。
……唐突だが、一つ豆知識を話しておこう。猫の身体は極めて衝撃吸収能力に優れている。
柔らかい関節は緩衝材としての役割を果たすし、身体の大きさの割りに、体重は小さい。
身体を大きく広げれば、高い所から落ちても身体がパラシュートそのものとなるため、高所から落ちて死ぬ事はほぼないらしい。高所から落ちたら、身体を大きく広げて勢いを殺す。これは恐らく全ての猫に備わった本能なのだろう。
今の私は野生の猫のご多分に漏れない普通の猫であった。
鳥居から落下して四肢を石畳の上に落下させても、全く怪我がない私は、それを悟ってしまった。同時に、黒猫が私をからかっていた事と、黒猫に物凄い醜態を晒していた事も。私は鳥居の上でこちらをニヤニヤと眺めている黒猫を睨みつけた。
「……騙したわね?」
「なんの事やら」
別に私は騙された訳では無い。
自分の身体の何十倍も高い所から落ちれば、死に至る。それは人間の感覚だ。猫の常識ではない。黒猫は私が死なない事を知っていた。そして恐らく、私が恐怖に脅えて命乞いをする事も知っていた。
あのクソ猫は、私が泣きながら命乞いをしているのを、座して嘲笑っていたのだ。
「久しぶりに良いもの見れたぜ、人間様。ありがとよ」
「…………どういたしまして。
それよりも、もう満足したんなら、早く元に戻してよ」
鳥居から降り立った黒猫にそう言ってやる。
私も今散々死ぬ目に遭ったのだから、これでもうオアイコだろう。後顧の憂いなく、私の元の人間の姿に戻して欲しい。もうこの黒猫に関わり合いたくない。
何より、私は人間なのだから、人間としての人生を全うしたい。猫生なんて送る気は鼻っからない。
「嫌だね」
「………………」
黒猫は私の希望を両断した。「出来ない」と言われるよりはマシだが、どちらにしろ同じ事だ。
「嫌って……そんなの私嫌よ! 私、人間なの!」
「今は猫だ」
「アンタのせいでね! だから元に戻せよ!」
黒猫は前足で顔を洗いながら、面倒臭そうな声を出す。
こちとら必死だ。この心境を共有しろとは言わないが、私の怒りを逆なでするような仕草をとるのは止めて欲しい。
「テメェを猫に変えるのって、結構大変だったんだぜ?
元に戻すのだって疲れるんだ。だから、嫌だ」
「……それで理由になると思ってんの? ふざけんな!」
私は黒猫の狭い額に頭突きしてやった。結構な速度で突進したのだが、黒猫は対してダメージを受けた様子もない。逆に黒猫に押し返されて、私はひっくり返ってしまう。
「これは俺の復讐だ。化け猫の祟りって奴だよ、人間様。
人間風情がこの俺に楯突いた罰だ。これからテメェは死ぬまで猫として生きるしかねぇんだよ」
黒猫がドスの利いた声で冷たく言い放った。
正直、怖い。化け猫の身体が少し大きく見えるのは、この猫の放つ威圧感のせいだろうか。
しかし、言われっぱなし、やられっぱなしで気が済む程私は人間が出来ていない。起き上がった私は、再び猫にヘッドバットをぶちかましてやった。
「猫として生きるなんて冗談じゃないわ! 私はね、動物が嫌いなの!
猫みたいにグウタラで恩知らずで自己中心的な動物は特に嫌いだわ!
私を元に戻せ! 人間に戻せ!」
「うるせぇんだよ、馬鹿」
猫に押し返されて宙に浮いた私の身体は、背中から地面に叩き付けられた。
背骨が軋みを上げる。鳥居に落ちたときとは比べ物にならない位痛い。私はもう一度立ち上がって猫に突進するが、またしても上手くいなされて、白い身体が宙を舞う。合気術でも使われている気分だ。
再度地面に叩き付けられた私を見て、黒猫が小さく呟く。
「化け猫に普通の猫が勝てると思うのかよ……」
「五月蝿い! 知らない! 元に戻せ!」
死ぬまで猫のままなんて、絶対に嫌だ。死んでも嫌だ。しかし、この抵抗は虚しいものであった。蟷螂の斧を振りかざすよりも弱々しい私の猫パンチでは、化け猫どころか単なる猫にすら到底太刀打ち出来ないだろう。
喚きちらしながら化け猫にぶつかっていっても無駄だ。
私は人間なのだから、頭を使わないでどうする。どうにかしてこの猫の機嫌を取って、何とか平和的に人間に戻る手段を考えよう。
「お願いします……私を、元に戻して下さい」
「何度も言ってるだろうが。嫌だってな」
低頭平身作戦は失敗。
「分かった。貴方の言う事を一つだけ聞いて上げるから」
「テメェにぁ何も期待してねぇよ」
ランプの妖精作戦も失敗。
「人間に戻してくれたら、貴方を家で飼う! だからそれで」
「………………」
「ね、ね? いいでしょ?」
「…………俺を殺そうとした奴の家で飼われるのは嫌だな」
飼われる事自体は案外まんざらでもないらしい。今度は惜しい所まで行ったかに見えたが、ダメだった。
化け猫家畜化作戦も失敗。どれもこれもダメダメダメと、我が儘な猫だ。これ以上何を望むと言うのか。
もしかしたら本当に元には戻れないのだろうか。
そう思うと、自然と涙が零れ落ちた。つい昨日まで人間として生きてきたのに、今は猫として、猫に虐められている。
このまま生きていく自信なんてない。帰りたい。典子と話がしたい。外山先輩と話がしたい。神宮寺先輩と一緒に居たい。この際奥田先輩でもいい。
「……ねぇ、どうしたら元に戻してくれるの?
このまま猫として生きていけ、って言われたって、そんなの酷過ぎるよ……。
私にだって、私の人生があったのに。
友達だっているし、家族だって一応居る。それに、恋人だって出来てたかも知れないのに……」
「……………………」
「私が、悪かったです。ごめんなさい、猫さん。
だから、っ、お願いします……私を、元にっ戻して、下さい」
こう言ったつもりだったが、自信がない。泣きじゃくりながら無我夢中だったから。
土下座した。猫に頭を下げるなんて、普段の私なら考えられなかった。しかし、確かに悪いのは私だった。自分勝手にこの猫の命を弄んでしまった。殺されかけて怒り心頭なこの猫に与えられた仕打ちも仕方のない事かもしれない。
最早諦めかけていた時、私の頭に黒猫の前足が乗っかった。
そのまま地面に押し付けられるのかと私は脅えたが、黒猫はそのまま前足を左右に振って私の頭を撫でる。幼い頃一度だけ父にやってもらって以来、そんな経験はなかったため妙に新鮮で、しばらく呆然と為すがままにされていた。
「……なにやってるの?」
「いや、人間ってのは面白ぇ奴だなって思ってさ」
答えになっていない。頭を撫でている理由を聞いているのに。
「高々一回頭下げんのにどんだけ時間がかかってんだ、人間」
「………………」
「始めから一言「ごめんなさい」って言えば、痛い目に遭わずに済んだのによ。
こう言うの「驕り」とか言うんだっけか。昔の俺の主人が良く言っていた」
黒猫は前足を私の頭からどかす。黒猫は先程とは別種の、慈愛に満ちた微笑みを私に向けていた。黒猫の望みは、どうやら最初から私の謝罪だけだったらしい。
それに気づかないとは、私も中々自分勝手な人間である。回り道と手痛い犠牲は払ったものの、私は安堵していた。許されたのなら、もう猫でいる必要はないだろう。
「……なにか勘違いしてるらしいな?」
「え?」
希望を前に微笑んでいた私の頭を、再び黒猫の前足が捕らえ、今度は石畳に押し付けられる。痛い、苦しい、等と言う暇もなく、黒猫は言葉を続ける。
「謝れば許すなんて一言も言ってねぇぜ、俺は。
呪いは解いてやらねぇ。テメェは猫として生きていけ、人間」
「そ、そんな……!」
あまりにも外道。逃げようにも、身体の節々が痛くて、碌に抵抗出来ない。黒猫は前足を私の頭にグリグリと押し付けて、楽しそうに唸っている。
「お願い! それだけは!」
「ま、そうだな……それじゃあまりにもテメェが哀れだ。
……よし、良い事を思いついたぞ。お前に取っても朗報だぜ、人間」
「…………どんな報せ?」
どうせこの碌でなしが吐く言葉なのだ、碌でもない事に決まっている。もう段々自分の不幸に慣れが生じ始めていた私は、正直どうでも良かった。しかし、次の猫の言葉を聞いて、そうも言っていられなくなる。
「もしもこの俺と喧嘩して、勝てたら人間に戻してやるよ。簡単な話だろう?
ここらは最近、野良が少なくなっちまって、歯向かってくる奴も減ってなぁ。
俺も退屈してたんだよ。
挑戦はいつでも受け付けるぜ。例え寝込みだろうが、飯の最中だろうが、クソしてる時だろうが」
確かに朗報である。人間に戻れる手段を提示してくれたのだから。……だが。その条件を満たす事なんて、果たして出来るのだろうか。
今の私は一介の猫。相手も一介の猫であるが、化け猫である。人間を猫化させるような妙な力を持っている猫なのだ。
もしも私が歯向かって、この化け猫に鼠にでも変身させられてしまえば……。
背筋が震える。鼠と化すのも吐き気がする程嫌だが、為す術無く捕食される未来が瞼の裏に映るようだ。
正攻法で挑んだ所で、勝てる筈がない。と言うか、既に何度も抵抗して、その度負けを見ている。なんとか相手を油断させつつ、尚かつ化け猫を殺さない程度に負けを認めさせなければならない。
……あれ? 無理じゃね?
「……そんな無茶な」
「だがそれ以外の手段は提示してやらねぇ。
人間に戻りたきゃ、俺の屍を超えて行きな」
猫は前足を上げて、私を解放する。
ふらつきながらも立ち上がった私は、せめてもの抵抗……殆ど負け惜しみなのだが、威風堂々としている黒猫を睨みつけてやった。黒猫は私のその挑みかかるような目を見て、ニヤリと微笑んだ。
「……ほぅ、早速やるかい。威勢のいい奴は嫌いじゃないぜ?」
「え、いや、えっと……えぇい!」
そんなつもりはなかったのだが、喧嘩を買われてしまったのだから仕方ない。
私は結局また黒猫に向けて、猪張りに単純な突進を繰り出す。結果は……まぁ、言わなくても分かるだろうから、省略する。吹き飛ばされて祠の柱に激突して、意識が霞んでいく。本日二度目の気絶だった。
「……精々頑張んな、人間」
黒猫の声が、何故か少し優しく聞こえた気がした。




