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私が猫に呪われた理由

 練習終了後、私は一人、夕暮れ過ぎの家路についていた。

 吹く風は秋風と言うには少し冷たく、部活疲れの私の身体には芯から響く。

 陽光煌めく青春の夏の日々はテニスの練習に費やされたお陰で、とうの昔に終わってしまっている。日が落ちる時間も段々と早くなっているのが日々の夕空を眺めるだけで実感出来る。足元で舞い上がる出身地不明の木の葉を踏みながら、私は疲労とは裏腹に一人、顔をニヤケさせていた。

 理由はたったの一つ。私の制服の胸ポケットに突っ込まれている舞台劇のチケットである。

 なんといっても一緒に観劇するのは校内でもトップクラスのイケメン。しかも顔だけではなく、頭が切れる上に性格も温和で紳士と、非の打ち所の無い理想の男。

 彼のファンクラブの存在こそ邪魔であるものの、そんな男性とお付き合いが出来るであろう私は、世界幸せランクのトップ100くらいにはランクイン出来そうな気さえする。そんなランク無いだろうけれど。


「次の日曜日か……」


 今はまだ火曜日。日曜日は五日後。それまで私は悶々とチケットを眺めながらにやけ、ファンクラブ対策を嬉々として練る事しか許されない。なんという焦れったさだろうか。なんという、幸福な焦れったさだろうか。

 作り慣れていない清楚で淑やかな後輩キャラを演じてきた苦労も報われた達成感と相まって私は胸を躍らせて、半ばスキップ状態で街灯が照らす薄暗い道を駆ける。

 その時不意に、一陣の風が少し強めに吹き付ける。


「きゃっ!」


 普段より練習が終わるのが遅かったせいだろうか、或いは単に気圧配置が悪い日だったのか、風は私のスカートを捲るのに必死なのかと言ってやりたい位に冷たい空気を乗せて続けざまに吹き荒び始める。

 早めに帰って、家でシャワーを浴びて暖まろう。私がスキップを止めて、本格的に駆け出して、三歩目の事であった。


「ぐにゃ!」


 足元からヒキガエルが鳴いたような、不細工な声が聞こえてきた。

 次いで右足の裏に返ってくる、アスファルトとは違う感触。まるで粘土でも踏んだような、ちょっと柔らかめの感触だ。

 何かを踏んだ、と言うのは直感的に理解出来た。慌てて右脚を持ち上げて、通り過ぎてしまった道を振り返って足元を見る。

 そこには黒い塊があった。真っ黒のその塊はアスファルトに溶け込んでいたせいか、私の眼に入らなかったのだ。少し身を屈めて、その塊の正体を見極める。よくよく見ると黒い塊は、黒い毛に覆われた何かのようであった。


「なぅ……」


 黒い塊が音を発した。一体なんだろうと手を伸ばすと、その黒い塊は身じろぎを始めた。


「んみゃああぁ」

「うわぁ」


 普通ならもっと早く気づくべきだろうが、生憎今は薄暗いので物体の判別が出来なかったのだ。

 黒い塊は一際大きく鳴き声を上げ、丸くて金色に輝く二つの双眸をこちらの方に向ける。私は伸ばしかけていた腕を引っ込めて、地面にうずくまっているそれ……黒い猫としばし睨み合った。

 体毛はアスファルトと宵闇に溶け込む黒一色。満月を思い起こさせる二つの金色の目。細い六本の髭のみが白く街灯を反射していた。

 首輪がない所を見ると野良らしいが、その割に毛並みは美しく、まるで手入れされているかのようにさえ感じられる。

 私の足が踏みつけた物体は、どうやらこの猫だったらしい。


「……ふううぅぅ」


 道ばたで猫が横たわっていると言う事がまずよく分からないのだが、踏んでしまったのは事実である。踏まれて怒り心頭な猫が、立ち上がって毛を逆立て、ついでに尾先も天に向けて威嚇してきた。

 よくよく見るとその尾先は先端で、芽生えたばかりの植物の二葉のように裂けている。アスファルトには僅かに血が付着しており、どうも尻尾が裂けたのはつい最近らしい。

 もしかして踏んだ時に、と懸念した私が靴の裏を見ると、案の定であった。ローファーの踵の辺りに少し血がついている。おそらく、この猫のものだ。踵で猫の尻尾の先端を、踏みつぶしてしまっていたらしい。


「あっちゃぁ……」


 この時私の頭に思い浮かんだのは、猫への謝罪の気持ちではなく、靴に付いた血痕への嫌悪であった。動物の血……私の嫌いな、触れるのも嫌な、動物の血がこべりついているのだ。多少嫌な顔をするくらいは許されるだろう。

 私は身を屈め、威嚇を続ける猫を強く睨み返してやる。猫はこうして相手を威嚇し続け、そのうちに喧嘩に発展する習性があるらしいのだが、この時の私はそんな事を知る由もない。

 十秒程互いに睨み合いを続けた後、私が喧嘩を買ったと判断したのだろう。黒猫は私の懐に俊敏な動きで飛び込んできた。


「ひぃ!」


 情けない声を上げた私は飛びかかられて尻餅をついてしまう。そして猫はそのまま私の腹の上で前肢を屈めて、すぐさま顔面に突進してきた。


「ふしゃあぁ!」


 到底猫とは思えない咆哮を発した黒猫は、右前足から爪を覗かせ私の顔面に猫パンチを繰り出した。

 咄嗟に顔を避けようとしたが、無理だ。私の反射神経はプロボクサーのように鋭敏な訳ではない。

 頬の辺りに鋭い痛みと熱を感じた。

 確認しなくても分かる。猫に引っ掻かれた。

 野良猫風情が、人間様の、しかも嫁入り前の娘の顔に傷をつけた。つけやがった。

 この時の私の激情たるや、筆舌に尽くし難い。急激に視界が狭まり、私の眼には最早憎き野良猫しか映っていなかった。


「この!」


 私は、腹の上に乗っかっているその猫を鞄で、全力で殴りつける。

 殴られたその黒い猫は面白いように横に吹き飛び、アスファルトの上で二三回横転した後、こちらに背を向けた状態で倒れ伏した。私は立ち上がってそれを追いかけて、倒れている猫に向けて、思い切り足を振りかぶり、そのまま振り抜いた。

 猫は案外重く、サッカーボールのように吹き飛ぶ事はなかったが、宙に浮かされた身体はブロック塀に激突、猫の身体は再びアスファルトに叩き付けられた。

 そこに追い討ちをかけるように、私は無抵抗に倒れているその猫の脇腹を、思い切り踏みつけた。


「この、この、クソ猫! この!」


 一度だけではない、二度、三度、四度……幾度となく、猫を踏みつけた。体重を乗せて、全力で。リズムよく、テンポよく、何度も何度も、猫の痛みなんて考えずに、激情に任せるままに猫を踏みつぶす。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 気付いた事には、既に遅かった。

 私の右足……猫を踏みつけていた方の足を上げて、猫の様子を窺う。

 猫は四肢を投げ出して、微動だにしない。目は半開きで生気がなく、猫の小さな口からは血が垂れている。

 足先で猫の腹を突ついてみるが、猫は何の抵抗も示さない。

 猛烈に嫌な予感がした。今まで頭に上っていた沸血が一気に冷め切っていた。

 ヤバイ、これはヤバイ。いくらなんでも殺すつもりはなかった。

 この辺りは住宅街で、人通りもそれなりにある。誰かに見られていたら一大事だ。来た道の方、誰もいない。行く道の方、同じく人はいない。良かった、なら、さっさと逃げよう。

 私は慌てて立ち上がり、未だにグッタリと横たわっている黒猫を見ないように目を離して、再び家路に着く。

 猫の自業自得だ。道ばたなんかで眠ってて、勝手に私に襲いかかってきて、私の顔に傷をつけたのだ。それに反撃して何が悪い。猫如きが人間様に逆らうのが悪いのだ。猫の命より、乙女の顔の傷の方が重大に決まっているじゃないか。

 私は悪くない。そう、悪くない筈だ。

 自分にそう言い聞かせながら、私は息を切らせて必死で街灯照らす住宅街を駆け抜けた。




  *




「ただいまー」


 「あら、お帰りー」なんて返事があるのが一般的な家庭なのかもしれないが、生憎我が家はそれには当てはまらない。別に家に誰も居ない訳ではない。その証拠に、家の灯りは灯っているし、鍵だってかかっていない。

 母親が家に居る筈だ。

 しかし玄関を開けて出迎えてくれるのは、室内の寒々しい空気と電気の付いていない真っ暗な廊下だけである。

 今はそれが幸運だった。

 未だ猫の殺害で動揺していた私は、出来るだけ誰とも顔を合わさずに、靴に付いた血と顔に付いた傷を処理して、先程の事を忘れようと必死だった。恐らく母親は奥のリビングで夕方再放送しているドラマに夢中なのだろう。

 私は靴を脱ぎ、右側だけ持って上がり、リビングの扉を素通りして、風呂場の洗面台で鏡を見る。


「うわぁ……」


 左の頬に二本の短い裂傷が入っている。傷の深さはうっすら血が滲んでいる程度であることが幸いだった。

 靴を洗面台脇に置き、顔を洗う。冷たい水が左頬の傷に良く染みる。少し痛むそこを特に念入りに荒い、私はもう一度顔を上げる。


「……目立つなぁ」


 傍目では分からないかもしれないが、近くに寄れば頬に赤い二本のラインが入っているのが見える。

 痕にならないかどうかも不安だが、それ以上に不安なのは、来週の日曜日の事である。神宮寺先輩とのデートを控えていると言うのに、頬に絆創膏を張る羽目になりそうである。かさぶたか何かになってしまえば、化粧で隠すのも少々難しい。

 だからといって断るつもりはないが……畜生、あのクソ猫。余計な心配事増やしやがって。


「……っと、そうだ」


 傷に気をとられていたが、私の靴裏には猫の血が付いている。

 量は本当に僅かであり、アスファルトに赤い足跡をつけてきた訳ではないので、私が猫を踏み殺したと言う事実が露呈する事はないだろうが、万全を期する必要がある事に変わりない。念入りに洗い落としておく必要があるだろう。

 少し多めの量の水を流し、雑巾で擦って完全に血を落とす。少し朱に染まった水が排水溝に消えて行くのを見送る。

 これで私とあの猫を繋ぐ線は頬傷のみとなったが……こちらは幾らでも言い訳が効く。ちょっと転んで切っちゃった、とでも言っておけば大半の人は納得するだろう。少し大きめの絆創膏で傷を覆えば、傷が裂傷であるかどうかも判別することは出来ないのだし。

 私は安堵の溜め息を吐いていた。この間、リビングに居る母親は、私が目まぐるしい証拠隠滅を行なっていた事に気づきすらしない。いや、そもそも私が帰宅した事も把握していないかもしれない。

 私は靴を玄関に戻し、頬傷を消毒して絆創膏を貼る為に薬箱を求めて、母親が居るリビングに向かう。


「………………」

「………………あら、おかえり」


 ソファに寝そべった、ウェーブがかった髪の、太った中年女性が呟くようにそう言った。

 私ではなく、テレビの方を向いたままである。

 今テレビ画面に映し出されているのは新作の菓子のCMであり、別段母が興味を惹かれるようなものではない。単に私の方を向こうとしないだけだ。

 私はその女……悲しい事にその女は私の母なのだが、彼女の挨拶には何も返さず、一目散にテレビ脇の戸棚の最上段に手をかける。


「ちょっと、テレビ見えないわよ」

「………………」


 私は無言のまま、彼女の言を無視してテレビの前に立ちはだかり、棚に入っていた薬箱の中から消毒液とバンドエイドの箱だけを取り出す。そして母とは一言も会話を交わさないまま、私はリビングから歩き去って行く。

 ここ最近、私と母はずっとこの調子であった。

 大きな喧嘩をした訳でもない。ただ、私が母を一方的に嫌っているのだ。

 これは単なる反抗期と言う言葉で片付けられる程単純な問題ではない事を先に言っておく。母を嫌いになる理由なんて、私には三秒もあれば五万と上げられるだろう。

 取りあえず真っ先に思いつくのは、そのカバを思わせる容姿である。

 ふくれた顔、ふくれた腹、ふくれた腰回りとふくれた脚。ドラム缶でももう少しメリハリのある体型をしているんじゃないだろうかと思う程球体に近いそのある種近未来的なフォルム。体重は聞いた事はないが、聞きたいとも思わない。これ以上彼女を嫌う要素を増やしても仕方ない。太っているだけならまだしも、何故か常に不機嫌そうに眉間に寄る皺と細い目が彼女の醜悪さに拍車をかける。顔には染みやニキビが一大集落を築いており、彼女はそれを減らそうとする努力すらしていない。母の昔の写真を見ると、これがどうにも私と瓜二つで「私の将来がこんなのか」と深い絶望に陥ったのは記憶に新しい。

 二つ目に、家事をしない事。

 今は夕暮れ過ぎであり、一般的な専業主婦であればそろそろ夕食の支度に取りかかっているだろうが、母は別だ。炊事だけではない。洗濯掃除なども、何もしないのだ。パートで仕事に出掛ける事すらない。やっている事と言えば一日中家のソファで寝転がり、光合成も出来ないくせに日光を浴び続ける事だけだ。現に今彼女が着ているのは、朝も着ていたパジャマである。

 そして更に悲しい事なのだが、母の存在を無視しても、私達家族……両親と私の三人の生活は全く問題無く運営出来るのだ。私が家事を覚えたのは小学校低学年程度。十年近く家事をやっている私はそこらの新婚さんのちょー幸せ一杯花嫁修業って何ですか? ってな嫁よりもよっぽど主婦をしているに違いない。家事は私と父で7:3に分担して行なっている。今日は私が夕食の当番だから、そろそろ夕食を準備しなければならない。当然不満はあるが、母に料理を作らせた所で名状し難き物が生まれるだけなので、その部分は諦めた。もう、本当に彼女は何の為に存在しているのだろうか。ひからびて死ね、と思ったのは一度や二度ではない。

 三つ目に、態度が悪い。

 こんだけ場所と年を食ったニートのくせに、彼女は一丁前に母親を気取っていやがる。横柄な態度は、年々と肥大さを増して行くばかりで、おさまりを知らない。私が無視している事に関しても説教を垂れる事がしばしばあるが、お前にだけは言われたくないと内心ではいつも反駁している。

 これ以上はきりがない。

 とどのつまりは私はこの態度と身体のデカいグウタラなカバらしき何かが嫌いなのである。だから私は、せめて私はこうはなるまいと抵抗する意味を込めて、母の存在を無視しているのだ。


「…………あ、そろそろ夕食お願いね」


 背中にかかったその声に、手を振って返してやり、私は自室へと引っ込んで行く。

 どう足掻いても彼女は私の母親で、健気な父の愛する人である。父も不運な人だ。何故こんな女と結婚を決意し、なおかつ離婚せずに生活しているのだろう。幾ら面倒臭いと思っても作らねばならない食事のメニューを勝手に考える頭の片隅で、私はひたすらに現状を憂いていた。




  *




 今現在、私を取り巻く環境で特筆すべき事は精々この程度だ。

 細かい友人関係を突き詰めて行くと、まぁ、色々あるのだが、正直物語上関係あるかどうかは判断しかねる。

 とりあえず私が、結構エグい性格の上に猫を被って生きている人間である事は薄々分かって頂けた……かな。素を出して接している人も中にはいるのだが、そういう人は往々にしてどうでも良い人、或いは気の置けない人だ。

 しかし、それも当然だと思う。人間、常に自を出しすぎては生きていく事は出来ない。

 出る杭は打たれるのだ。だから、出る杭にはならない。たとえ出たとしても、自分から飛び出て行く事はない。そうやって自分の本性をひた隠しながら生きていく。

 それが人間である。やっぱり、猫を被らない人間なんて、どこにもいないのだから。




  *




 何だかんだと夕食を作り、そして母と別々に食事を取って入浴、その日は残業しているらしい父の帰りを待たずに就寝。頬の傷の事は寝る寸前までずっと私の心の中で管を撒いていたが、殺した猫の方は既に頭の中から消え始めていた。

 そして、その翌朝。

 私は身体に吹き付ける少々冷たい風を受けて意識を覚醒させた。

 風なんて受ける筈がない。自室の窓は締め切っていたし、私は昨晩は普段以上に低い気温に身を震わせながらベッドに潜り込んでいたのだ。最も寝惚けて窓を開け、そして掛け布団を蹴り飛ばしたと言う可能性だってゼロとは言い切れないが。

 ……流石にゼロか。私は寝相は良い方だと自負しているし、理由なく窓を開けるような夢遊病の気さえない。であれば一体どうして私は朝からこの寒さに震えさせられているのだ。

 原因を確かめる為に、ゆっくりと目を開く。


「……あれ?」


 おかしい。視界が異様にぼやけている。まるで霧でもかかっているのかと思う程、周りが良く見えない。

 何度か目を擦って、もう一度見回す。視界が悪いのは相変わらずだが、何とか周りの状況は把握できた。

 目の前には所々が欠けた石畳の道。その石畳の道の両脇に銀杏の木が立ち並び、落ち葉が辺り一面に散らばっている。

 後ろには、柱の殆どが腐りかけて、なんとかギリギリ形を保っている木造の建物。

 顔を前に向けて見上げると、無骨で荒く切られた花崗岩で作られた鳥居が私を見下ろしている。


「ここは……」


 幼い頃の記憶を検索すると、一件だけヒットがあった。

 ここは私の住む町の郊外。野山の中腹にひっそりと佇んでいる無人の神社……いわゆる祠である。小さい頃は鬼ごっこやらかくれんぼやらで近所の友達とこの辺りまで遊びにくる事も稀にあったのだが、当時はもう少し整備されていた筈である。

 最も、誰も参拝しないのだから汚れてゆくのは当たり前かもしれない。私だってこんな遠くまで来て名も知らぬ神を祀った祠を掃除しようというボランティア精神は持ち合わせていない訳だし。と言うかそもそも、今は懐かしさに浸るよりも先にもっと考えるべき事がある。

 なんだって私はこんな所で寝ているんだ。

 私の家からここまでは子供の脚で一時間近くかかる程遠い。例え私が夢遊病患者となったとしても、一時間近くも夢遊する程の重症であるとは、幾ら何でも信じられない。


「……兎に角、帰ろう」


 原因は兎も角として、私がここで寝ている事は事実。それは事実として受け止めよう。

 今の時間は分からないが、肌寒さと太陽の低さから考えて、朝なのは間違いない。

 今日も学校があるのだし、何より朝食を作らないと。母はどうでも良いのだが、父が可哀想である。急いで立ち上がろうとした時、私は更に衝撃的な光景を目の当たりにしなければならなかった。


「………………」


 立ち上がる時、不意に顔を下に向ける。そして私の眼に飛び込んできたのは、妙に白い毛の塊であった。


「……ぅん?」


 おかしい。私の身体があるべき所に、白い毛の塊がある。

 脚があるべき所にも白い毛の塊が転がっている。

 腕があるべき所も同じ。そして、胴があるべき場所も、全身の何処もかしこもが白い毛の塊だった。

 昨晩着たパジャマはブルーの水玉模様。下着は上下共に白だったが、まさか下着がこんなに肥大する訳がない。

 よくよく目を凝らしてその白い毛の塊の正体を探ると、私の脚は確かに脚だ。腕も確かに私の腕だ。胴も。動かしてみればそれに応じて上下するのだから。

 立って見下ろそうとして、バランスを崩し、転ぶ。腕も脚も異常に短くなっていた。指の感覚が妙だ。指が開かない。


「っていうか……」


 どう見ても私の四肢、そして胴体は人間の物ではない。人間がこんなに毛達磨な筈がない。

 そこにいたのは白い獣だった。顔が青ざめていくのが自分でもよく分かる。感覚鋭い聴覚が、私の高鳴る心音を的確に捉えていた。

 これは何だ。私は人間だ。こんな白い毛に覆われた動物じゃない。


「…………これって……」


 上手く立ち上がれないので、私は四つん這いで前に歩みを進める。

 むしろ普通に歩くよりも自然に脚が進んだ。まるで赤ん坊のように視界が低い。背の高い草に阻まれて遠くが見えない。飛び交うバッタやらコオロギやらに何度も道を阻まれながら、私はあてどなく駆け回る。

 おかしい。おかしいおかしいおかしいおかしい。

 明らかに異常な事態に、眠気は完全に吹き飛んだ。草の根を掻き分ける事に違和感がない今の自分の行動が不可思議極まりなかった。

 これは何だ。なんのドッキリだ。誰が得するドッキリなんだ。飽くまでドッキリと言う可能性を捨て切れない私は、最後の確認として姿見を探し求める。

 鏡はないが、祠のすぐ側には池があった。私は池を前に、少し怖じけ付く。

 確認してしまえば、何かが音を立てて崩れてしまいそうだった。最後の理性の砦が崩壊してしまう気がしていた。このドッキリをドッキリとして認める事が出来なくなるのではないか、と今更な不安を抱く。

 しかし、見た。勇気を出して、決着をつけるため、池を覗き込んで写った自分の顔を見る。


「………………おかしいよ」


 自然と口をついて言葉が漏れた。

 おかしい。

 おかしいおかしいおかしいおかしい。

 おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい。

 おかしいってコレ。幾ら何でも、滑稽だ。

 こんなものは事実として認められる筈がない。やっぱり夢だ、コレは夢なんだ。

 私は早く夢から覚めたくて、自分の手……と言うか前足に生えた爪を立てて、自分の顔を一度、思い切り引っ掻いた。

 痛い。昨日の黒猫に引っ掻かれた時のような熱い痛みが頬に迸る。もう一度引っ掻く。同じだ。痛い。猛烈に痛い。白い毛に血は良く映えて見えた。

 痛みが引く気配はない。夢が覚める気配がない。

 むしろ時間が経過すればする程、強くなる痛みが嫌がおうにも今が現実であると文字通り痛感させる。


「……なんなのよ」


 水面に映った私らしき何物かは、小さな口を開けてそう呟く。

 私が右の前足を上げると、映った私も同じ動きをする。左を上げても同じ動き。首を左右に振ってみせても、映った私は完璧に私の動きをトレースしていた。

 つまり、今この池の水面に映る私の姿こそが、今の真の私の姿だ。

 その現実に、私は意識が遠のきかけるが、踏みとどまってしまった。いっそ気絶したほうが気が楽だった。

 水面に映っている白い毛並みの獣が、半分目を空けて頭をフラフラとふらつかせている。その時の私の心境を言葉にして言い表すのであれば……そう。


「……なんなのよコレェ!」


 朝起きたら自分の身体が白い猫になっていた時のような心境、と喩えるだろう。

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