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私が猫を被る理由

 動物、とは動く物と書く。猿だろうが馬だろうが麒麟だろうが象だろうが、猫や犬や狸や狐や兎や鼠に至るまで、生きとし生けるものであっても人間でない者は即ち、物であるのだ。

 物は者となれず、者は物になれない。

 どれだけ頭のいいチンパンジーがいてもそれは所詮チンパンジーであり、人間足り得ない。狼に育てられた少女も、それは少女だから、狼として生きる事は出来ない。

 人は人と交わるのが自然なのだ。

 さて、何故私がこんな面倒で回りくどい話をしているかと言えば。


「私、動物って嫌いなのよね」


 私が真理に極めて近い結論を述べると、私の目の前で席に腰掛けて弁当のおかずを箸でついばんでいた少女が、妙な視線を向けてくる。


「……いきなり何?」


 確かに今私達は二人とも黙っていた。黙々と、この高校の昼休みの時間に、騒がしい教室内で机をくっつけ合って、弁当を頂いていたのだ。会話の発端として動物嫌いをカミングアウトするのは少々唐突過ぎたかもしれない。でもいいじゃないか。思った事を口にして何が悪い。私の前で弁当を食べる少女は、私の結論に疑問を投げかけ、そのまま押し黙って白米を口の中に運んでいく。私は購買で買った日替わり弁当に入っていた小さな唐揚げを取り上げて、そのまま私の弁当から彼女の弁当箱に移し替える。


「と言う訳で、動物を食べるのも嫌な訳」

「動物嫌いじゃなくて肉が嫌いなだけだろ」


 私に対して、少し乾いた声で割と苛烈な言い分をする彼女は、しかし別段嫌がる様子無くその唐揚げを一口で飲み込んだ。私は肉は嫌いであるが、ちなみに動物が嫌いと言うのも本当であり、肉と動物であれば動物の方が嫌いと言える程度には動物が嫌いだ。


「唐揚げ、もう一コあるけど食べる?」

「マジ? いただきまーす」


 餌をねだる雛鳥のように口を開けて上を向く彼女の口の中に、私は代わりにプチトマトを放り込んでみる。気づかずに彼女は二三度噛み、口の中で広がる独特の酸味を味わって、そこでようやく口の中の物体を判別したようだった。


「……嘘つき」

「ごめんごめん、間違えた」


 そう言って私は、苦手ながらも唐揚げを半分だけ齧る。何だかんだと理屈をこねた所で好き嫌いが肯定される事はないのだから、直す努力を怠ってはならないのだ。

 もっとも、もう半分は食べずに未だに開きっぱなしの彼女の口の中に放り込む訳だが。二個目の肉塊を咀嚼し、飲み込んだ彼女は、食べ終えた弁当を包み始めた。


「ふぅ、食った食った、と」


 今更ではあるが、私の目の前で弁当を食っていた少女は、飯山典子(いいやまのりこ)と言う。

 彼女は藪蛇高校に通う一年一組の生徒で、空手部に所属する私の同級生だ。

 女子としては少々無精で、まるで男子の様に短く切りそろえた髪は大して手入れも行き届いておらず、ボサボサとあちこちに跳ねている。しかし、高めの鼻に切れ長の目と眉を兼ね備える、素材だけは優秀な女である。磨けば宝塚の男性役として活躍出来そうだ。

 事実彼女は、女子からは良くモテる。中学時代から通算すると、彼女の下駄箱の中には三通のラブレターが入っていたのだが、その全てが女子からのものであったと言うエピソードがそれを裏付けている。案外そっち系の女子とは居るものらしい。ちなみに男子からは……推して知るべきだろう。具体的には、今の「ふぅ、食った食った」等と言う台詞から漂う中年臭辺りから。全体的にガサツであるが逞しい彼女を好む男子もそれなりにいたのだろうが、そういう強気で姉御肌な女子を好む男子は往々にして引っ込み思案で、女子への告白なんてとんでもない、と言わんばかりのチキン共なので、今現在、飯山典子に浮いた話は一つもない。


「……今、なんか失礼なこと考えなかった?」


 典子が私を睨んでいる。

 何故バレた、と考えてみるが、彼女にとって私の機嫌や思考の機微を読み取ることなど造作も無い。

 彼女とは付き合いが長いのだ。どの程度かと言われれば、私がランドセルに黄色い交通安全カバーをかけていた頃からの仲と言えば、程が分かるだろうか。十年来も友人をやっていれば自ずと相手の考えもアバウトには読み取れるようである。


「典子って、モテないよね」


 今更包み隠す事も無いので、私は正直に言ってやる。典子は片眉を上げて何か言いたげに身を乗り出したが、やがてゆっくりと身体を机に伏せる。


「……んな事ぁ、身近でアンタを見てる私にゃ、よぉく分かってるよ」


 自分で言うのもなんであるが、私は確かにそこそこモテると言う自負がある。容姿は上の下程度から中の方に片足を突っ込んだ程度のレベルと自負しているのだが、それだけではない。

 簡単に言えば、私は性格が良いのだ。

 ……と言うと完全に性格が悪い奴みたいになってしまうのだが、実態は違う。


「世の中間違ってるよなぁ。アンタみたいに悪しき心を偽りの笑顔で包み隠してる奴がモテるなんて」

「失礼な」


 悪しき心とは随分な言われようである。

 確かに笑顔を偽っているシーンは、止まったら死ぬマグロみたいに一本気な性格をした典子からしてみれば遥かに多いだろう。しかし私は常に周りの目に気を配り、穏やかでたおやかな言動を心がけているだけである。何も悪い事はない。


「アンタ、私の前だと偏屈で計算高い素が出るよね」

「偏屈って……計算高いってのはまぁ、事実かもしれないけど」


 人には好き嫌いがある。明るい人が好き、静かな人が好き、真面目な人が好き、など、好みの属性なんて無限にある。

 人間の性格なんてそう簡単に変わる訳も無いので、その理屈で行くと誰とでも仲良くするのは不可能である。よって、己の性格を偽る事こそが解決する唯一の手段となる。

 誰々の前では明るく振るまい、誰々の前では口数を普段より減らしてみたり。これ位は意識すれば誰にでも出来る。私はそれを人一倍多めにやっているだけだ。


「そう言うの、八方美人とか、猫被りって言うんだよ」

「知ってる」


 典子に言われなくても、そんな事は百も承知だ。

 八方美人と言うと聞こえが悪いのだが、現実的に考えると、八方美人程性格の良い人間は居ない。なにしろ「八つ方向の何処から見ても美しき人」なのだ。誰に対してでも分け隔てなく接し、共感を得てやるのが八方美人である。より良い人間関係を構築し、人間社会で生きていく為にこれ程有効な性格はない。


「いつか墓穴掘るよ、そういうどっち付かずな性格ってさ」

「モテない奴の僻みにしか聞こえないわ」

「黙れ馬鹿」


 刺のある声が飛んでくるが、この程度は日常茶飯事。

 この程度の言い合いは喧嘩にすら届かない、いわゆる冗談の応酬、単なる親友同士の戯れ合いだ。典子は気にした風も無く机から身を起こして、立ち上がり、弁当箱を持って自分の席に帰っていく。それを見送った後、私は自分の弁当の残りを再び突つき始めた。




  *




 時間は一気に放課後まで駆け抜け、私は自分の所属している女子硬式テニス部の部室で制服から練習着に着替えていた。

 今は十月。温かかった気温も下がり始め、練習着の上に長袖ジャージを羽織らねばならない季節が近付いてきている。練習用のユニフォームに袖を通し、肩の辺りにかかる髪を簡単に手櫛で整えた丁度そのとき、背後の部室の戸が軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。

 振り返ってみると、朗らかで人懐っこい笑顔を浮かべた制服姿の、ショートヘアの女性が立っていた。


「よぅ!」

「あ、外山先輩。こんに……お願いします」

「おいおい、もう入部して半年だぜぃ。いい加減、挨拶くらい身につけろよ」


 我が部では先輩への挨拶は「お願いします」で統一されている。先輩に指導を頂きたい、という懇願の念を込めた格式高い挨拶らしいのだが、未だに「こんにちは」と言ってしまう事があるのは、私がこの挨拶に常々疑問を抱いているからに他ならない。

 何故私よりテニスが下手な人にテニスの教えを請わねばならないのだ、と。

 勿論、そんなささいな事で顔を顰める私ではない。こちとら、伊達で八方美人やってる訳ではないのだ。笑顔の取り繕いなんて朝飯前である。


「すみません、私って物覚え悪くて……」

「ははは、まぁ気にすんな。アタシも身につけんのに一年かかったしな!」


 外山先輩は、頭を掻きながら申し訳なさそうに身を縮めている私の心情なぞ悟る気配もなく、バシバシと背中に平手を打つ。この私の(へりくだ)りが如何なる意図をもってして行なわれているかなんて、むしろ悟られては困ってしまうけれど。

 彼女……外山菜穂(とやまなほ)は藪蛇高校の二年生で、女子硬式テニス部の部長である。

 たった三言の発言であるが、彼女が豪快な性格をしている事は何となく察せるのではないか。その証拠に、部室の扉が半開きなのに、制服のブレザーのボタンを外し始めている。外から着替えが丸見えになる事が分からないのだろうか、それとも単に無頓着なのか。

 私が黙って部室の扉を閉めると、気づいた外山先輩は振り返った。


「あ、ごめんな」

「いえ」


 既に上は全て脱ぎ去っていた外山先輩に、私は短く答えてやる。

 別段彼女の着替えを誰が見ようが私はどうだって良いのだが、こうやって先輩に細かな気配りをしておくと、色々と都合が良い。相手が部内最大の権力を握っている部長ともなれば尚更である。恐らく彼女の目には、「良く気の利く真面目で先輩想いな後輩」が写っているだろう。上の人間から好かれる典型である。


「そういえばさ」

「はい?」

「さっき神宮寺がお前の事、探してたぞ。えらくそわそわしてたな。だからありゃ多分……」


 外山先輩は私をニヤつきながら見つめた後、指を鳴らしてこちらに突きつけた。ウィンク付きのオマケ付きだ。しかしブラジャー晒して下がスカートと言う情けない格好でそんなドヤ顔をされても困る。


「デートの誘いだな」


 決め顔で言う事じゃないだろ、それ。内心ではそう言っているのだが、私が顔に浮かべたのは、少し困ったような、眉尻を下げた笑顔である。


「え、そ、そんな……」

「おうおう、赤くなっちゃってぇ、初心だねぇ可愛いねぇ」


 羞恥に頬を染めて、手で顔を覆う私の頭を指で突つきながら、外山先輩は心底楽しそうな声を上げる。だが、残念。それは演技なのだ。

 むしろ神宮寺先輩からの誘いが少々遅過ぎるくらいだ。私が入学した当初から私に近付いていながら、今ようやくデートの誘いだと? 始めからもっと来れば良いのに、全く面倒臭い男である。


「良かったねぇ、相手はウチの高校で五本の指に入る美少年だぜ?」

「で、でもでも、本当にデートの誘いかどうか分かんないし……」


 この場にいないのだが、軽く神宮寺先輩の事に触れておこうと思う。

 神宮寺祐介(じんぐうじゆうすけ)、と言うその男は、男子硬式テニス部の二年生の先輩である。

 見た目は外山先輩の言った通り。日本人離れした背丈と顔立ちに爽やかな笑顔を絶やさない柔和なジャニーズ系の男で、一度だけ某ファッション雑誌の読者モデルとして起用された事もある程の美男子であり、学内にはファンクラブまで存在している人気の男子生徒だ。見た目だけでなく、成績もトップクラス。運動神経の方は、男子硬式テニス部にて個人戦で唯一人だけ全国大会に出場した、と言えば大体把握出来るだろう。

 人当たりも良く、厳しい所は厳しいが、緩める所は緩められると言う、先輩としても理想的な存在である。


「もしかしたら、単なる部活のお話なんじゃないでしょうか……?」

「いや、それは無いでしょ流石に」


 呆れる外山先輩の言う通りだ。そんな馬鹿な話があってたまるか。部活の話なら外山先輩に話す筈で、まかり間違っても私に標的が向く事はない。一年生の私に用事があるとは、つまり色恋沙汰以外に考えうる要素なぞ存在しないのだ。


「今部室前に居るから、話を聞いてやんな」

「近っ!」


 思わず少しだけ素が出てしまったが、外山先輩は気にした様子はない。幸いだった。

 しかし、幾ら何でも近過ぎる。下手をすればこの部室内の会話も駄々漏れである。別に聞かれて困る話があった訳では無いが、なんというか、今冷静な語り口を装っている私も実のところテンパっているのは否めない訳であり、つまり恥ずかしい。

 胸に手を当ててみれば返ってくるちょっと強めの鼓動。それを叩いて何とか沈めようと試みるが、無駄な抵抗である。


「ゲホッ」


 叩き過ぎた。ちょっと咳き込んでしまった。そんな私の失態を外山先輩は微笑ましい者を見る視線で眺めている。未だにブラジャー一丁のくせに生意気な、と思ってみても、今はどう足掻こうが私に分は無い。


「ほれほれ、早く行ったれや」

「わ、ちょ、痛!」


 碌に使った事も無い関西弁を使う外山先輩に背中を蹴り飛ばされ、私は部室の扉に頭から叩き付けられた。頭上で鳴った、何かが軋む音は木製の扉から出たのか、或いは私の頭から出たのか。粗暴と言わざるを得ない外山先輩の蛮行に腹が立つが、私は澄ました顔で先輩に振り返る。


「蹴るなんて酷いですよ……」

「はは、悪ぃ悪ぃ。ちょっとイライラする事があってさ」


 半分笑顔、半分真顔で外山先輩がそう言った。

 イライラとは一体何を指しているのだろう。私があまりに優柔不断であるため、短気な先輩は腹を立ててしまったのだろうか。少々演技が過ぎたようだ。これ以上この場に留まっていても外山先輩から虐待を受けるばかりだと気づいた私は、早々に立ち上がりドアノブを握る。


「んじゃ、ちょっと行ってきます」

「おー、さっさと行ってきな。練習、先始めてっから」


 外山先輩はようやくTシャツに袖を通して、おざなりにそう言った。

 動物でも追い払うように手を振ってソッポを向く外山先輩は、言っては何だが、らしくない。少々違和感を覚えてはいたが、今は自分の事で精一杯だ。構っている余裕は無い。

 一度深呼吸をして、心を落ち着けたつもりになった私は意を決して部室のドアノブを捻った。


「うわっと!」


 少々勢いを付け過ぎていたせいだろうか。扉が開かれるのと同時に男の狼狽える声が聞こえてきた。そして私の眼に飛び込んできたのは。


「いてて……」

「あ……す、すみません、先輩!」


 情けなく尻餅を付いていた私の目の前に居る男こそが、神宮寺祐介である。

 先程から話題に上がっていた男であり、人となりは既にそこそこ紹介しているため、詳細は省きたい。考えなくても扉に押されて尻餅をついたのだろうが、なにゆえ扉に押される程こちら側に寄っていたのか。

 もしや話を聞かれていたのだろうか、と危惧する私の不安げな顔を見て、神宮寺先輩は少し眉を下げて微笑んだ。こんな軽い微笑みさえ一陣の夏の風のように爽やかなんだから、イケメンと言うのはやはり女を幸せにする生き物だ。


「はは、ごめんよ。あんまり気になったんで、ちょっと聞いてたんだ」


 普通、そんな事していれば変態扱いされても全く文句は言えないだろうが、それを唱える者はこの場にいない。私もそれには言及せず、先輩が私を探していた理由を問う。


「あぁ、それでなんだけど……次の日曜日、空いてるか?」

「はい、空いてますけど」

「そうか、良かった……ならさ、これ、一緒に見に行かないか?」


 神宮寺先輩が制服のポケットをゴソゴソと漁り出した。

 恐らく何かしら渡されるのだろう、と言う私の見当は当たっており、それは最近やたらとテレビで宣伝をしている舞台のチケットであった。

 ここまではおおよそ予想通り、と言える。展開を予想していたお陰か、私の暴れていた心臓は段々と平常に脈を刻み始めていた。この際チケットの種類は問わない。映画だろうが野球観戦だろうが、要するに彼は私とのデートをご所望なのである。

 私は少しだけ顔を俯けて、悩む振りをする。

 答えの方はとっくに決まっているのだが、ここで焦って即決するのは愚である。


「ええっと……二人で、ですよね」

「あぁ……もしかして、嫌か?」


 神宮寺先輩が少し残念そうな顔をしている。

 まぁ落ち着けよ先輩、と言ってやりたいのを必死で押さえ込んで、私は「うーむ」と小さく唸り声を上げる。神宮寺先輩の前での私は「淑やかで、ちょっと異性が苦手な後輩」を演じているのである。

 このキャラの選択は正しかった。神宮寺先輩は爽やかなで清潔なイメージの割りには案外肉食系らしく、何度か他の女生徒……往々にして大人しい女生徒との交際が学内で噂された事もある。

 そう言う男は大抵の場合、少し攻略が難しそうな……例えば異性が苦手そうな女性を落とす事に達成感を覚える。私自身のキャラ作りは既に手慣れたもの。後は素の魅力の問題であったのだが、こちらはどうにかクリア出来ていたらしい。

 結果として、最早交際直前と言える程度の間柄まで発展できたのだ。

 内心では良くやった私、とガッツポーズの一つでも取りたいのだが、キャラ崩壊にも程があるので何とか踏みとどまる。少し困ったように視線を泳がせて、辺りに誰も居ない事を確認する振りをして、私は小さく、まるで勇気を振り絞って声を出したかのようなか細い返事を返した。


「……私となんかで、良いんですか?」

「勿論だ。いや……君とが良い」


 神宮寺先輩は真っ直ぐこっちを見る事無く、蚊の鳴くような声でそう言った。

 今の台詞は流石にこちらも素で照れる。「君とが良い」とは、最早愛の告白も同然である。

 ……なのだが、ここはいっそストレートに「君が好きだ」くらい言ってくれれば良いのにと考えていた私は、内心少々落胆しつつも、笑顔を浮かべて頷いてみせる。


「分かりました。是非、ご一緒させて頂きます」


 満面の笑みを作ってそう答えると、神宮寺先輩は不安そうな表情から一転、普段通りの爽やかな微笑を私に向ける。


「ありがとう! いやぁ、断られたらどうしようかと思っていたよ。

 じゃ、そろそろ練習の準備しなきゃならないから、またな!」


 私の手にチケットを一枚手渡し、先輩は早々に部室棟をかけていく。恐らく女子部の部室が並ぶこの棟に長居したくないのだろう。

 遠のいていく先輩の足音を聞き届け、私は手の中にあるチケットを眺める。どうやら恋愛物らしい。なるほど、デートで見るとしたら、妥当と言えない事もないか。しかし舞台劇とは渋いチョイスだ。単に好きだからなのだろうか、或いは別に意図があるのか。

 私には分からないし、重要なのは二人で見に行くと言う事である。

 舞台劇を見終わってしばしその余韻に浸った後、恐らく帰り道すがらにて彼から告白されるのだろう。彼と付き合うのは願ったり叶ったりである。神宮寺先輩は先にも述べた通り、魅力的な男だ。彼よりも理想的な恋人は恐らくこの高校には存在しない。

 しかし一応、問題もある。

 その原因は、その神宮寺先輩が理想的な恋人として挙げられる事にこそある。

 仮に私が彼と付き合うとしよう。しかし、当然付き合うとなれば他の誰かに見られる可能性もある。周りに二人の関係が知られる。その時、神宮寺先輩に憧れを持っていた女生徒、特にファンクラブに所属しているような熱心な彼のファンは一体何を思うだろうか。当然私に怒りの矛先を向けるだろう。私達の神宮寺祐介を独り占めにするなんて許せない、と激昂するのは想像に難くない。

 なお悪い事に神宮寺祐介ファンクラブには、私の中学からの友人もそこそこ所属していたりするのだ。

 彼女達との良好な関係を崩さずに、尚かつ神宮寺先輩と恋仲になる。

 私に課せられた使命は難題である。しかし、どちらか一つを選び取ろうと言う気には到底なれない。

友達は友達として上手に付き合っていきたいし、神宮寺先輩のような素敵な彼氏を手に入れるチャンスをみすみす逃すなんて馬鹿な話はない。


「上手く誤魔化しながら……か」

「……何をだ?」


 私の背中から低い男の声がかかった。

 神宮寺先輩の声を真夏に吹く爽やかな海風と喩えるのなら、こちらは鬱蒼と茂る冬の林の奥地にある沼地から沸き上がった沼気である。この声の主が誰かなんて考えるまでもない。この残念な意味でオンリーワンな声の持ち主は、知り合いに一人しかいないからだ。

 まぁた面倒な奴が来たな、と内心では歯軋りしながら、私は後ろを振り返る。


「……奥田先輩、こんにちわ」

「先輩への挨拶は、お願いします、だろうが」


 後ろに立っていたユニフォーム姿の男は、ワカメみたいに長い前髪を指で掻いて分けながら、眉間に皺を寄せたまま私の頭を平手で軽くはたいた。そしてそれきり男は何も言わずに、ただひたすら私の眼を見ている。私は張り合うのも嫌なので、早々に先輩の要求に応えた。


「お願いします、先輩」


 男子とは部活動が別なのだから、お前に教わる事なんて何もねぇよ。なんて事が言えたら気も楽になるのだが、流石に男子硬式テニス部の部長に弓を引く勇気はない。私が素直に頭を下げるが、奥田先輩は私を無視して、女子テニス部の部室の扉に目をやる。


「……外山は居るか?」

「居ますけど……って」


 私が答えるや否や、奥田先輩は全く躊躇無くドアノブに手をかけた。

 当然中には着替え中の外山先輩が居る訳で、入室なんて許可出来る筈が無い。私は慌てて奥田先輩と扉の間に身体を捩じ込んで、奥田先輩を押し返す。


「何してるんですか!」

「何って……今日のコート割りの話だ。今日は男子が二面使う日なのに、先に来ていた女子が」

「そうじゃなくって、ですね……今、外山先輩は着替えてるんですよ」

「……待てって言うのか? 面倒臭ぇ……」


 ぶつくさと陰鬱そうにそう言った奥田先輩は、部室棟の壁に背を預けて腕を組み、そのまま黙り込んだ。どうやらここで待つつもりらしい。

 私は早々にこの場を去りたくなったが、また奥田先輩が部室に突入する可能性があるため、目を離したくはなかった。よって私は部室の扉を背に、つまり奥田先輩の隣に、彼と同じように寄りかかった。

 しばしの沈黙が我々二人の間に流れる。別段話すつもりもないし、話す話題も無いので、それで妥当だったりする訳だが。

 さて、暇なこの時間、私の隣の男の紹介でもしておこうかと思う。

 彼は奥田和也(おくだかずや)。男子硬式テニス部の部長である。その性格は無愛想、と言う言葉一つで説明がついてしまう程に無愛想である。基本的に無口な上、彼の顔面に張り付く表情の七割がしかめっ面と言う剣呑な男で、その強面(こわもて)っぷりから男女問わず怖れられている。

 特に女子からの嫌われ具合が半端ではない。

 理由は……今のように勝手に女子部の部室に入ろうとしたり、平然と女子である私に手を上げたりする彼の行動から察して頂きたい。彼は女子部員のほぼ全員から毛嫌いされており、恐らく彼とまともに口を聞いているのは私と外山先輩のみである。外山先輩は彼に如何なる感情を抱いているか分からないが、部長と言う立場柄、彼を嫌う訳にもいかないだろう。

 私は、と言えば……持ち前の八方美人の延長線上だろうか、他の女子程露骨な嫌悪を表にする事が出来ないでいた。誰にでも良い顔をする、と言う私の本能にも近いモットーが、彼と私の間柄においても発揮されてしまったのだ。別に彼に嫌われても私の他の交友関係及びこれからの交友関係に影響があるとは思えないのだが、全く八方美人と言うのも楽ではない。

 ちなみに私は特にキャラ作りをせずに彼と接している。今後付き合っていく予定のない人に対しては、流石にキャラを新調する気にはなれなかった。


「……まだか?」

「……さぁ、分かりません」

「催促しろ」

「……はいはい」

「はい、は一回で良い。これも外山に言われてんだろ」


 あぁもう面倒臭いしうっとおしい! 苛立ちを隠す事もせずに、私はしかめっ面で部室の扉をノックする。


「外山先輩ー、奥田先輩が待っ」


 言いかけた私の言葉は、勢い良く開いた部室の扉が私の身体を吹き飛ばした事で中断された。後に聞いた話だが、外山先輩は部室前の私達に流れていた不穏な空気を察知していたらしく、慌てて飛び出したのだそうだ。期せず扉を顔面に強打した私は、一瞬だけ遠のいた意識を何とか繋ぎ止めて、いつの間にか倒れていた身体を起こし、二人を見上げる。

 何でこんなに私は満身創痍なんだ畜生、と愚痴をこぼしても私を責められる人はいないだろう。

 吹き飛ばした加害者の外山先輩は言わずもがなであるが、奥田先輩も僅かに眉を下げて私を見下ろしている。程度の違いこそ雲泥の差があるが二人とも心配の色を顔に含ませていた。


「ご、ごめん! 大丈夫?」

「……だ、大丈夫です」


 本当は頭が少々ふらついているし、鼻なんかへし折れたんじゃないかって位痛い。

 しかし、まさか「痛ぇじゃねーか馬鹿野郎!」なんて言える訳も無く、私は健気にも微笑んでみせた。わざわざ手を借りる必要も無いが、私は外山先輩から差し出された手を頼って立ち上がった。


「ありがとうございます、先輩」

「いいのいいの、アタシが悪いんだもん。それよりも……」


 外山先輩は一度私の頭を撫でた後に、隣で未だに腕組みをして佇んでいる奥田先輩に向き直る。彼に、まるで悪魔を前にした勇者のような険しい視線を投げかけながら彼の胸倉に掴み掛かる。


「アンタねぇ! ちょっとは悪いと思わないの!?」

「……はぁ?」


 肉迫された奥田先輩は訳が分からない、といった表情で外山先輩を睨み返す。

 ……流石にこれは外山先輩の理屈がおかしい。

 奥田先輩はただ扉の脇に突っ立っていただけで、悪いのは全面的に外山先輩である。だが、こんな理屈をこねて奥田先輩を弁護してやろうなんて気はさらさらないので、私は黙って事の成り行きを見守る。


「俺は全く関係ねぇだろうが」


 胸倉を掴んでいた手を強引に引き剥がした奥田先輩は、いつも通り憮然とした顔でそう吐き捨てた。


「アンタが事前に察知してればこんな事には」

「俺はエスパーかよ……こんなコントにいつまでも付き合う程暇じゃねぇんだ。

 今日のコート割り間違ってんのかわかんねぇが、早く来てた女子がウチの分のコート整備してんぞ」

「ありゃ? ……あれ、今日って男子二面?」


 とぼけた顔をしてみせる外山先輩に、奥田先輩は容赦なく詰め寄った。


「昨日二面使ったのはテメェらだっただろうが……ったく」

「あはは……悪かったよ。めんごめんご」

「気ぃつけろよ」


 外山先輩が頭を掻いて苦笑いしても誤魔化されてくれない奥田先輩だったが、それ以上の追求は無駄と判断したのだろう。私達に背を向けて、ゆっくりと部室棟から歩き去っていく。先程の神宮寺先輩とは対照的だ。

 その背中が完全に見えなくなってから、外山先輩は溜め息を吐く。


「アイツの相手は疲れるねぇ」

「そうですね」


 私は外山先輩の相手も結構疲れるのだが、確かに奥田先輩程相手にしたい人間はいない。

 見た目通り陰鬱だし、なにより彼と同じ空間に居ると空気が妙に張りつめる。概ね爛漫かつお気楽で、周りとの不和に細心の注意を払って生きてきた私は、恐らく彼のような常に周りとぶつかっているような人間とそりの合う事はないだろう。

 別にそれを残念に感じたり、逆にラッキーと感じたりする事はない。心底どうでも良いからである。


「私らも早く行かなきゃね」

「……それもそうですね」


 私は一年生であるので、本当なら早めにコート整備組に加わらねばならないのだが、今日は色々ハプニングがあったから見逃してもらえそうである。本当に外山先輩と言う人は都合が良い、もとい、人の良い先輩である。




  *




 そして、まもなく決定的な事件が起こる。

 もしもこの世にタイムマシンがあれば私は迷わずその瞬間までタイムスリップをして今すぐ歩みを止めさせただろう。或いはもしも私に未来予知能力が備わっていたら、この時私は家路にこの道路を選び取る事すらなかった筈だ。

 それ程までに後悔するような事は後にも先にもない。私はそう言い切る自信がある。

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