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私が人になりたかった理由

 私は石段を駆け上がった先の花崗岩の鳥居を潜って、そこでようやく足を止めた。

 息切れしていたが、顔は下に向けない。目を辺りに走らせる。

 ここは、私が猫として目覚めた最初の場所。町外れの山の中腹にある小さな祠である。

 黒猫に虐められ、黒猫に助けられ、黒猫と別れた、嫌な思い出も良い思い出も無理矢理押し込まれた、小さな山中の静謐なる空間。祠の脇にある池の周りに生い茂っていた草はすっかり枯れていて、崩れかけの祠の屋根にはまだ僅かに雪が残っていた。

 私はここで、黒猫を探していた。彼と会えるかどうか、なんてちょっと考えれば分かる事だ。でも、どうしても私は黒猫に会わなければならない。もし会えるとしたら、と考えたら、この場所しかなかったのだ。


「よぉ、人間様」


 ふと、頭上から声が聞こえてきた。太い男のような声。聞き違えたりしない。

 なんで今、ここにいるんだろう。どうしてこう都合がいいんだろう。そんな言葉は今はティッシュにくるんでゴミ箱に放り投げてしまえばいい。

 私は振り返って、鳥居の上に目を向けた。


「随分薄汚れたな、お前。野良らしくなってきたじゃねぇか」


 余裕の笑みを顔に貼付けた、尾先が二股に裂けた化け猫が鳥居の上でせせら笑っている。

 態度がデカいのは相変わらず。挑発的な荒っぽい口調も、懐かしささえ覚えてしまう。私を化け猫に変えた黒猫さんが、私の方を蔑むような目つきで見つめていた。


「……誰が野良猫だ」

「…………あぁ? 聞こえねぇよ」

「聞こえないんなら降りてきなさい! 死ぬ程聞かせてやるわよ!」


 私の怒鳴り声を聞いて、黒猫はますます口を広げてニヤつく。歯の間で、涎が糸を引いていた。実に妖怪染みた恐ろしい表情だが、私は少しも臆さなかった。

 黒猫は素直に鳥居から降り立って、私の方に近寄ってくる。


「まさか、お前がここにまた来るとはねぇ」

「……私だって、アンタが本当にここに居るとは思わなかったわよ」

「ま、そんなのはどうでもいいじゃねぇか。ここに二匹とも居るってのが、事実だ」

「二匹じゃない。一人と、一匹よ」


 私は飽くまでも強気な態度を崩さないように黒猫と相対する。

 黒猫は馬鹿にしたように吹き出して、すぐに私に牙を剥いて見せた。前肢を屈めて、尾を振って挑発する。


「おやおや、どう言う風の吹き回しなんだい?

 子作りまでねだってきた色情狂の白猫ちゃん。

 まさかたぁ思うが、今更人間に戻りてぇ、だなんて言うつもりじゃねぇよなぁ?」

「今更人間に戻りたい、なんて言うつもり」

「……へっ」


 黒猫の笑顔は揺るがない。私の返答なんて、私がここに現れた時点で……いや、それよりも前から知っているだろう。だからこそ私達は再会出来た。私が全身の毛を逆立てているのを見て、黒猫は逆に落ち着き払ったように溜め息を吐いてみせる。


「やれやれ、前にも言ったけど、俺ぁテメェを人間に戻すつもりなんて」

「そんなのを聞く必要、あるの?」


 会話のおさらいなんて時間の無駄でしかない。

 黒猫に何を言われたとしても、私も自分の意志をこれ以上捩じ曲げるつもりはなかった。

 湾曲し過ぎて見るに耐えない私の心が、果てしない遠回りの果てに、やっと一つだけ答えを見つける事が出来たのだ。これを投げ出せだなんて、それこそ今更な話である。

 相変わらず私の心の底まで見透かすような黒猫の目が、一瞬だけ細くなった。


「最初の約束通りだ。俺に喧嘩で勝てれば、テメェを人間に戻してやる。

 男に二言はねぇ。いつでもかかってきな」


 私も黒猫と同じく、牙を剥く。

 黒猫は強い。かつて私が襲いかかっても、全てを軽くいなされた。

 私はと言えば、弱い猫だ。狩りの経験も乏しく、最近は人に飼われていたせいで、運動神経も鈍っている。

 喧嘩の為に修練を積んで来たわけじゃないし、猫を陥れる策略を持っているわけでもない。

 竹槍を持った一揆兵が鉄の甲冑に突進をかけるような、無謀な戦いかもしれない。

 でも、それでも私は。


「ふしゃああぁぁぁ!」


 飛び出た爪を振りかざして、私は黒猫に飛びかかった。

 黒猫は一瞬だけ驚いたように身体を強張らせるが、すぐに身体を翻し、私の飛びかかりを後ろ足で弾き飛ばした。

 体勢を崩された私だったが、宙返りして着地、一呼吸の間もなく、すぐさま特攻を再開する。


「へへっ、良い気合いじゃねぇか」


 黒猫は実に楽しそうだ。私を虐めていたときなんかとは、比べ物にならない位生き生きと、溌剌としていた。

 顔だけは笑ったまま、黒猫が自分から私の方に仕掛けてくる。私と同じように頭を突き出して走り出し、私と正面から衝突をする。まるで、ガツン、なんて音が聞こえてくるような気がする程の衝撃が私を襲った。


「……って!」

「う……」


 私の目の中で星が舞い踊っている。乗り物に酔ったような気持ちの悪さと血が流れる度に響いてくる鈍痛が同時に襲ってくる。

 足元がおぼつかない私の視界の端に、何故か二本足で盆踊りでも踊っているような千鳥足の黒猫の姿が映った。

 当然だ。私が喰らった痛みと同じだけの痛みを、黒猫だって喰らっている。何だってわざわざ自分から自爆してやがるんだ。いつも通り、ひらりひらりと受け流しながら相手を制する合気道みたいな体術を使えばいいじゃないか。

 馬鹿か。いや、間違いない。コイツ馬鹿だ。


「……ふ、ふふへへへへ」


 黒猫が怪しく笑う。焦点の合っていなかった縦長の瞳が大きく膨れ上がった。


「どうしたんだよ……おい、もっと来いよオラぁ」

「い、言われなくても……」


 まだ足元は怪しいけど、私は必死で身体を直立させる。黒猫も同じようにして、私に正対する。

 一瞬だけ睨み合い、再び私達は全力で駆け出した。結果はもう言わなくても分かるだろう。

 二度目の交通事故だ。


「く、お、ぉ……」

「あ、ふ、ぅ……」


 黒猫はひっくり返り、額を前足で抑えて、後ろ足と尻尾を祠の参道の石畳に叩き付けている。

 私も黒猫と対して変わらない。頭に響く鐘の音が二重になった。綺麗に裏拍子を取ってきやがる。目に映る黒猫までも二倍になってるけど、私は何とか踏みとどまっていた。二の足で、もとい、四の足で立っていた。


「おぉ、いてぇいてぇ……」


 黒猫は呑気な声で立ち上がる。ムカつく顔まで二倍に見える。鬱陶しいったらない。

 苛立ち紛れに、私はまたしても駆け出した。ドンキホーテもビックリな特攻精神をどうとるかは勝手にして頂きたい。

 三度目は三輪車同士の衝突のような、何とも弱々しいぶつかり合いだった。

 もう痛いというよりも、辛い。このままぶっ倒れて気絶したらどれだけ楽なんだろう、と言う弱気な考えが頭を掠める。

 しかし、駄目だ。ここで寝たら、黒猫はまた何処かに行ってしまうかもしれない。絶対にここで、今この場で、私は黒猫を負かせなければならないんだ。

 生まれたての子鹿よりも酷く震える四肢で無理矢理身体を起こそうとするが、上手くいかない。

 一方の黒猫は、頭から血を垂れ流しながらも、堂々と立ち上がり、悠然と私を見下ろしている。

 そして私の頭を踏みつけて、そのまま地面に擦り付けた。

 砂が口の中に入ってくる。顔の毛が石畳に巻き込まれて、音を立てて千切れていく。

 痛みをこらえる間もなく、黒猫は私の身体を蹴り飛ばした。二転三転と吹き飛んだ私を、黒猫は追いかけて、全体重をかけて踏みつぶす。

 首に噛み付いて私を持ち上げ、濡れタオルのように振り回して、何度も地面に叩き付ける。

 トドメに高々と放り投げられた私は、受け身を取る事も出来ずに地面に落下した。


「……か……ふっ」


 叫ぶ事も出来なかった。

 全身がくまなく痛い。息が碌に出来ない。片目が見えない。音がちゃんと聞こえない。

 骨が何本も折れている気がするけど、確認する勇気も、力も、暇もない。黒猫はまだまだ、舌舐めずりしながら狂気染みた笑いを浮かべつつ、私を見下しながら歩み寄って来ているのだ。


「おい……もっと来いよ。何寝てんだよ、コラ。

 勢い余って殺しちまうかもしれねぇぞぉ?」

「う、ぐ…………ぅぅぅ」


 黒猫の楽しそうな、威圧的な声。出会ったときと何も変わらない。

 あの時もこうやって打ちのめされて、自分の無力を思い知って。

 人間に戻りたい、って喚き散らしたっけ。今と、何が違うんだ。何も変わっていない。これじゃぁ、何も違わないじゃないか。

 それでいいのかよ。そんな訳ないだろ。


「私は……」

「あぁ?」

「私は……!」


 もはや足は立たなかった。体全体が痛みで危険信号を知らせてくる。意識を引き止めるのだけでも一苦労だった。

 しかしそれでも私は、這いずり回って黒猫の方に向かう。

 もう碌に前も見えない。首も据わらずに、視界があちこちに泳ぎ回る。

 それでも黒猫のちょっと驚いた顔だけは常に視界の端に入っていて。

 私は今この瞬間、多分この世で最も無様だ。今の私は私が一番嫌いなケモノを体現するような、血と埃にまみれた動物だ。

 そんなになってまで、私は何でこんなに必死になれたんだ。


「私は絶対に……」


 人間に戻って何がしたいんだ。


「人間に戻らなきゃいけないの……」


 猫にされて傷ついて、好きな人に裏切られて傷ついて、大切な親友に裏切られて傷ついて、親にまで見捨てられて、傷ついて。


「こんなとこで……」


 ボロボロになった心の中で、人間に戻る価値なんてないって、そう思ってた。この世界に私の居場所はないって思っていた。それでも、私はここに来たんじゃないか。


「這いつくばってる場合じゃない……」


 こんな私に居場所をくれる人が居て。その人は、ずっと私を待ってくれていて。だからどうしても人間に戻りたくなって。


「もう絶対に……」


 死ぬ程辛い目を見て、死ぬより苦しい目に遭って、それでもやっぱり私は人間じゃなきゃ、我慢が出来なかったんだ。


「決心を曲げたりしないって……」


 どうしても、奥田先輩にありがとうって言いたいって。自分の気持ちを自分の口で伝えるんだって。


「誓ったんだ……」


 たった一つだけのか細い、吹けば消える程儚い希望だ。人によってはくだらない、なんて笑い飛ばすかもしれない。このままのうのうと生きた方が楽だ。人間に戻れば辛い生活が待っているのに、何で戻るのか。たった一つの感情なんかに身を任せるなんて、馬鹿じゃないか? 奥田先輩の事なんて、単なる便利な飼い主くらいに捉えればいいじゃないか。


「ありがとうって……」


 ふざけんな。感謝するのは何よりも大切な事じゃないか。ありがとうって言葉を伝えられるのは、人間だけに許された特権なんだ。猫には出来ない、この世でもっとも尊い事だ。


「心配させてごめんって……」


 あの人は、私を求めてくれていた。なら、私がこの感謝を示すのにすべき事は一つしかない。人に戻って、彼に感謝の心をぶつけることだけだ。


「もう大丈夫だから泣かないでって……」


 目の前で黒猫が私を、惚けたような目で見ている。私に初めて見せる、間抜け面だった。


「言わなきゃいけないんだ……!」


 私は、そのまま這うようにして、黒猫の腹に一発だけ猫パンチを見舞う。

 これが精一杯だった。こんな、ノミ一匹さえ殺す事も出来ない、弱々しいパンチが、私の限界だというのか。

 最後の力の一滴まで振り絞った私は、最早動く事さえ出来なかった。

 駄目だった。私はやっぱり人間にはなれなかった。

 ごめんなさい、奥田先輩。私、本当に最低な奴です。こんな私の事なんて、さっさと忘れて下さい。死んだら化けて出るんで、その時に謝らせてもらいます。

 多分間もなく降ってくるだろう黒猫の最後の一撃を待つ私は、断首台に寝転ぶ死刑囚のような気分で目を瞑った。


「………………」


 黒猫は何も言わないし、何もしない。私は、もう何も出来ない。

 何故か、時間が静かに流れていた。冬の冷たい風が、私の傷に良く染みて無理矢理意識を覚醒させる。

 なんだろう。黒猫はなんで何もしないんだろう。確認しようにも、もう身体は指一本動かない。

 段々と繋ぎ止めていた意識も薄れかけてきていた。私が気絶するのを待ってくれているのだろうか。それならちょっとだけ優しいかもしれない。と、考えていた私の耳には、意外過ぎる言葉が飛び込んで来た。


「うわー、やーらーれーたー」


 黒猫の、間抜けな棒読み声が頭上から響いてきた。

 あまりにも咄嗟の事に意味は分からなかったが、黒猫はそのまま棒読み口調で続ける。


「まさかこの俺が喧嘩で負けるとはー」


 何を言っているんだろう、この猫は。

 勝敗は誰の目から見ても明らかじゃないか。どう見ても私の負けじゃないか。

 そんな抗議の言葉を吐こうにも、私は口を開く事が出来ない。やっぱり、自分の言葉が吐けないのって、つまらないな。


「だから、お前を人間に戻してやらなきゃなー。残念だけど、仕方ないよなー」


 黒猫のその言葉を契機に、ふいに身体の痛みが嘘のように抜けていく。

 体全体を生温い風が包んでいるようだった。身体と空気の境目が薄れていき、全身から感覚が消え始める。

 一体、何が起こっているんだろう。黒猫は、なんであんな事を言ったんだろう。

 なんで、私を人間に戻そうだなんて思ったんだろう。私は、回復した目を開いて、黒猫を見つめる。

 黒い身体に、二つの月。黒猫は相変わらず、全くブレない佇まいで、私の方を見つめていた。


「気紛れだよ。

 お前が人間に戻れなくて、可哀想だなって思った。

 人間に戻りたいって聞いて、ちょっと動揺させられちまった。

 お前を人間に戻してやっても良いかもなって思っちまったんだよ。

 だから、人間に戻してやる。それだけだよ」

「……そう」


 そうか。気紛れか。まぁ、いいさ。猫は気紛れな生き物なんだ。

 気紛れな、その場限りの感情に身を任せて、刹那的に生きているのが猫というものなんだ。

 だったら、それでいい。如何にも、この黒猫らしい言い分じゃないか。


「元気でな、人間様」

「あのねぇ、人間様って呼ぶの止めてよ」


 そうだ。思えば今の所、誰も私の名前を呼んでない。

 なんでだろ。みんな私に興味薄いのかな。……って、ネガティブに捉えちゃ駄目だ。これからが大変ってのは間違いないんだし、もっと前向きに生きていかなきゃ。


「黒猫さん、お世話になったわ。ありがとう」

「止せよ気持ち悪ぃ。礼なんて言われる筋合いはねぇ」

「でも、ありがとう、だよ。やっぱり、うん。ありがとう」


ありがとうって思ったんだ。だから、ありがとうなんだ。何も間違っていない。

黒猫は、無表情のままで私の言葉を聞いて、やがて背を向けた。


「じゃぁな……人間様。いや……人間。

 ……結構楽しかったぜ」

「うん……また、会えたら良いね」

「……けっ! ごめんだね! また踏みつけられちゃ、かなわねぇや!」


 黒猫は吐き捨てるようにそう言った。声が震えているように感じるのは、私の気のせいだろう。黒猫は猫なんだし。

 事の発端は黒猫の怨念だ。ここで爽やかに清々しくお別れと言うのは、黒猫の感情が許さないのだろう。だから、諦める事にする。いよいよ、身体の感覚が消え失せた。残っているのは、聴覚と視覚だけだ。

 多分、これから人間に戻るんだろう。どんな過程を踏むのか全然分からないけど、多分分かっても意味ないし、興味もない。


「……ったく、お前のせいで俺まで人間みたいになっちまったじゃねぇか」

「ん? 今、何を?」

「…………んでもねぇ! もう猫を虐めたりすんなよな!」


 黒猫の溜め息混じりのその言葉を最後に、私の意識は途切れた。

 一番最後に黒猫が何の事を言っていたのか、良く分からなかったけど……って、これはちょっと意地悪かも。

 いずれにしろ、あの黒猫とはまた会える気がする。今日だって会えたんだ、いつでも、きっと会う事もあるだろうさ。

 今度は、人間として。その時、ゆっくり聞いてやろう。

 最後の最後で、ちょっと素直になれなかった黒猫さんの口からさ……なんちゃってね。

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