私が猫になれなかった理由
そんな事があって二日程経過した。
どうやら私は、奥田先輩以外の奥田家の人々からは歓迎されていないらしい。
廊下を歩き回っていた私の首根っこを捕まえて自室に飛び込んだ奥田先輩は、焦った顔で私に言い聞かせる。
「あんまり出るなよなぁ、野良猫拾っただなんてお袋にバレたらぶっ殺されちまう」
私が良く見ていたあの険しい表情をする奥田先輩。猫に注意した所で普通は意味がないのだが、生憎私は人の言葉を解する事ができる。
奥田先輩も何となく私の賢さに気がついているようで、言い聞かせれば分かってくれると本気で信じているようだ。
しかし、トイレやら運動不足解消の散歩やらと、やはりどうしても外に行かねばならない。残念だが、奥田先輩の我が儘はあまり聞けそうになかった。
奥田先輩はやはりと言うか何というか、猫飼いとしても乱暴な性格を露にしていた。本格的に飼うつもりはないのだろうか、猫用トイレも爪磨ぎ器も猫じゃらしも持っていない。餌に関してはキャットフードを買う事を覚えたようで、お徳用の安いキャットフードを大量に押し入れに隠し入れている。風呂には一度だけ入れられた。奥田先輩のぎこちない手つきに全身をまさぐられたのを思い出すと、体温が上がってしまう。これは単なる羞恥であって、特別な意味はない。絶対に無い。
……さて、妙に必死な否定は取りあえず置いておいて、だ。結論から言えば、私は今までの劣悪な生活環境よりは遥かに良い暮らしをしている。食事も寝床も完全に確保できているし、この部屋に居る限り身の安全も保障されている。
私は今ようやく穏やかで幸せな日々を手に入れた。私を可愛がってくれている人も居ると言う事実だけで、私の心は至上の喜びに満ちていた。もうこのまま奥田家の飼い猫として一生を終えても良いかもしれない。寝ているのか起きているのかあやふやなまどろみの中で、私はそんな事さえ考えていた。
そんなぬるま湯に浸かり切った日々を送っていた、ある日の事。
その日は土曜日で、学校も部活も休みらしい奥田先輩は、午後になってようやく眼を覚ましたと思ったら、そのまますぐにいそいそと服を着替えはじめた。ジャンパーまで着込んだ所を見ると、何処かに出掛けるのだろうか。私はジッと彼を見上げていると、彼は私を一瞥した。
その時の彼の顔はいつもどおりの剣呑な表情をしていたが、何だか少し寂しそうに見えたのは、私の眼の錯覚か。
部屋を後にした彼と母親の会話が、ドア越しに聞こえてくる。
「……あら、アンタ何処に……の?」
「病院」
「また……ちゃんのお見舞い?」
「……………………」
会話は切れ切れにしか聞こえなかったが、要点を抑えると、どうやら彼は誰かの見舞いに行くらしい。
ほう。あの諸悪の根源の塊のような男でも、誰かを見舞ったりするのか。……って言うのは冗談。実は、痩せた野良猫に餌を与えてそのままうっかり飼い馴らしてしまうくらいに優しい人だって事を、私は既に知っている。
机の上に飛び乗り、そのまま窓際に飛び移って、家を出て道を歩いていく奥田先輩を見送る。
家を出た彼の顔色はあまり宜しくない。俯き加減はいつもの事だが、背中から黒い瘴気が立ち上っているようにも見える。
あの景気の悪い顔で見舞いに行けば、見舞われた側も迷惑なんじゃないか?
私は若干失礼な事を考えながらも、彼が出掛けた先が気がかりになった。猫は好奇心で動く生き物だ。今の私は例外なく猫であり、すっかり生活も安定した今では物事を考える余裕もできてきた。
私は前足を上げて、鍵を解錠し、窓を開けた。
そして窓から飛び降りて石塀をひとっ飛びで超え、私は先輩の背中を見やる。
「みゃふぅう?」
「あ? ……ったく、この猫は……」
先輩は私に一度振り返ったが、すぐに目を逸らして再び歩き始める。
私は彼の横について、そのまま歩調を合わせて少し早めに歩く。始めは奥田先輩も迷惑そうに顔を顰めていたが、すぐに諦めたようで、ついてくる私に何かアクションを起こす事はなかった。
*
見舞いと言えば病院である。病院と言えば清潔である。衛生面に関しては飛行機の税関よりも厳しいと言って差し支えないだろう。
そんな場所に埃の塊のような野良猫であるこの私が入れるかどうか、答えを言う必要が果たしてあるだろうか。いや、ない。反語法を使ってでも絶対的に否定されるべき事実だ。
私は病院の裏手にある広い公園のベンチで、空に向かってそびえ立つ白い巨塔を見上げながら、一人寂しく惚けながら飼い主を待つ羽目となってしまった。
奥田先輩が病院に入ってから、既に一時間くらい経っているが、彼は中々出てこない。
別に待っている必要もないのだが、ここまで着いてきてしまった以上、待っているのが飼い主への忠義というものだろう。それだとなんか犬っぽいけど。
私の周りでは小学生くらいの男の子達がサッカーボールをサッカーの体裁すら取り繕えずに、無邪気にボールを蹴り合っている。流石風の子、威勢がいい。
「あ、猫だ!」
一人が私の存在に気づき、指を指して声を上げる。周りの子供達も私の方を見て、楽しげにはしゃぎ出した。
それだけだったら別に良かったのが、一体どう言う神経をしているのやら、子供達は足元のボールを私の方に蹴り飛ばしてきやがった。
「にゃっ!」
「おぉ、避けた。かっけー」
「すっげー、猫なのに」
歓声が上がる。全員が全員、感心したように笑っていやがる。
「にゃああふぅぅぅぅぅ!」
反駁してみても所詮猫語だ。人間様には通じますまい。
だから私は代わりにそのボールを後ろの両脚で全力でガキ共に蹴り返してやった。
足元に転がってきたボールを見て、ガキ共はますます感激したようで、再び私にボールを蹴り飛ばしてくる。
意味が分からん。なんなんですか、コイツら。躾がなってない。親の顔見せてみろクソガキが。動物虐待してんじゃねぇ。
悪態がポップコーン製造機みたいにポンポン飛び出してくるが、猫の声帯を通すと全て鳴き声に変換されてしまう。
それでも烈火の如く怒り狂う私の憤怒は伝わったらしく、子供達は一瞬私を見て怯んだ。
よろしい、今からお前達の可愛らしい顔を一回ずつ引っ掻いて回るからそこに立っていろ。冷静になって考えると結構鬼畜な事を考える私がベンチから降り立つと、子供達はまるで蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまった。
「あ、ちょっと……」
みんな、私から逃げていく。
その背中を見ると、心に小さな待ち針でも突き立てられたような気分になった。
流石、嫌われ者の私である。出会って数秒の見知らぬ小学生にさえ嫌われるとはね。
なんだか急に怒りが静まってしまった私は、ベンチの上に転がっていたサッカーボールを蹴り飛ばして、ベンチの上に寝転がった。
「なにやってんだろ、私」
あんな子供達にムキになって、馬鹿みたいじゃないか。っていうか、馬鹿だ。
段々と頭が悪くなっているのが自分でも分かる気がする。日に日に考えが短絡的になっているのだ。脳味噌が猫だからか、なんて事も考えてしまったが、何の事はない。私は苛立っているのだ。
自分の言葉を吐く事も許されない現状に満足出来なくなってきていた。
今だって、あの子供達に伝えられたのは私の怒りだけ。本当は反省して欲しかったし、謝って欲しかった。でも、子供達は私の威嚇に脅えて逃げてしまった。
私がしたい事はあの子達を怖がらせることじゃないのに。
あの子達はもう、町で出歩く私のような野良猫を見ても、微笑む事はないかもしれない。そう考えると、人間が如何に対話と言う手段で自分を伝えているかがしみじみと分かる。とはいえ、今更私がそんな事を思っても、どうせ人間には戻れないのだけれど。
「……まだいたのか」
奥田先輩の声が聞こえてきた。
顔を上げると、落ち込んだ表情をしている死神のような男が立っていた。奥田先輩は私の隣に腰掛け、そのまま天を仰いで、呆然としていた。
一体どうしたのか。見舞い終わりなら「あぁ、あいつ結構元気だったなぁ」的な清々しい笑顔を浮かべるべきじゃないのだろうか。訳を聞きたいが、私の身体では無理だ。
どうするべきか、と悩んでいると、思わぬ場所から声がかかってきた。
「あ、あの……」
私と奥田先輩の前に、先程私に向けてボールを蹴り飛ばした男の子が立っていた。服の裾を握りしめて、眼に零れそうな涙を一杯浮かべて、小刻みに震えている。
奥田先輩は怪訝そうに眉を顰める。怖い顔が更に怖くなるが、男の子は怯まずに頭を下げた。
「さっき、その猫ちゃんを虐めました。ごめんなさい」
「………………」
「にゃあん」
奥田先輩は訳が分からない、と言いたげに一度私の方を見やるが、私は一鳴きするのが精一杯だ。飼い主の登場に、流石に罪悪感が刺激されたのだろう。素直な子供で私も嬉しい。
飼い主より私に謝ってほしいが、そこまで要求するのは高望みし過ぎだ。どうでもいいし。
首を傾げたままの奥田先輩だったが、やがて一つ嘆息した後に、男の子を睨みつけた。
「おい、坊主……」
「は、はい!」
「もういい……どっか行け」
奥田先輩はそう言ったきり、顔を俯ける。
今度は男の子の方が怪訝な顔をする番であった。急に声を潜ませた奥田先輩を眺めていた男の子は、少し慌てたようにたたらを踏む。
「あ、あの、お兄さん」
「いいから、さっさとどっか行け」
男の子は、俯く奥田先輩の後頭部を見ながらも、ボールを拾って退散していった。
取り残されたのは、私と奥田先輩。
奥田先輩は、悔しそうに拳を握って震えていた。彼の手に、私は自分の前足を重ねる。
「……慰めてんのか?」
「にゃ」
「変な猫だな、お前って奴は」
奥田先輩は溜め息混じりに私を撫でる。
結局、何も分からない。彼が何を思っているのか、聞き出す事が出来ない。
酷くもどかしかった。聞いて答えてくれるかどうかは分からないが、聞く事すら許されない私は、なんと情けないんだ。猫の身として甘んじている自分が情けない。そんな考えをするのは久しぶりだった。
どうにか出来ないだろうか。私は必死に頭を捻る。
……そして、奇跡的な事が起こった。
「なんか、お前……本当に言葉が分かるみたいだなぁ」
しみじみと、奥田先輩がそんな事を言う。
私は、首を縦に振ってみせた。何度も、何度も。感情を伝えるために。奥田先輩はそれを見て、驚く素振りも見せずに私と正面から見つめ合う。
「……珍獣、ってか」
今度は首を横に振る。まさしく、人間の挙動をする私に、奥田先輩は少し口を噤んだ後、ポツポツと話し始めた。誰かに言いたくなったのだろう。でも、彼には彼の被っている猫がある。陰気な皮の奥に、優しさを押し込んでいる。人には言えないから、猫に言う。きっと、彼は自分でも無意味だと分かっている。でも、言わなければ耐え切れない。だからこんな不気味な飼い猫に話してくれたんだろう。私としては、久しぶりに対話を出来たような気がして、嬉しかった。
「俺の部活の後輩でよぉ……もうかれこれ三ヶ月くらい前に事故に遭った奴がいてな」
部活の後輩……三ヶ月前、事故……? なんだか、凄く身近にそんな奴がいたような……。
「意識不明の重体で……結局今日もずっと眠ったまんまでよ……。
碌に外傷もないんだ。ただ、意識だけがなくって、寝たきりの状態でよ……。
本当に、ただ眠ってるだけみてぇなんだよな」
どう考えても私ですね。これは。二ヶ月前に事故って眠りっぱなしって事になっているらしいし。
……って言うか、ちょっと待てよ? つまり、奥田先輩って、私の見舞いに来てたの? 嘘でしょ? だってあんなに女子にも私にも冷たかったあの人が。いや、嘘……でしょ?
「ったく……この俺が何回見舞いに行ったと思ってやがんだ」
口振りから考えると、既に何度も見舞いにきてくれているらしい。うん。信じられないけど、本当だと言う事にしておこう。人は見かけによらない訳だし。この人こう見えて野良猫とか拾っちゃう人だし。
なんだか照れる。そうか、この人、私の為にこんな寒い中を……と思うと、彼の心の中にある私への感情も何となく予想がついてしまい、どうしようもなく照れてしまう。そして、それ程私の事を考えてくれているのだと思うと、感激のあまり涙がこぼれそうになる。そして永遠に目覚める事ない私は、罪悪感のあまり、抑え切れなかった涙が溢れ出した。
「息は細いし、部活で少し焼けてた肌も今じゃ雪みてぇに真っ白になっちまった。
メシも食えねぇせいか、元々結構痩せてたんだけど、今じゃガリガリでよ。
……なんか、見てるのが辛いぜ」
「みゃああぅぅ……」
「代わってやりてぇ」
奥田先輩は呟くように言った。
「なんでアイツなんだよ。なんで俺じゃないんだよ。
アイツが何をしたってんだよ。確かに生意気な奴だし、口答えもするけどよぉ。
でも……クソったれ。畜生、なんだってんだよ」
「………………」
「なんで……本当に、なんでアイツがこんな目に……!」
奥田先輩は顔を俯けてしまった。
やがて、ベンチにポツリポツリと、水滴が落下し出す。
奥田先輩が泣いていた。長い髪の向こう側で、私の為に、彼は歯を食いしばりながら泣いてくれているのだ。
始めに来たのは、驚愕。
私には……と言うか、誰に対しても冷たく当たる奥田先輩が、まさか他人の事で泣き出すなんて、私には到底信じられなかった。
次にやってきたのは、苦痛。
こうして泣いている奥田先輩を慰める事さえ碌に出来ない。クヨクヨするなと叱咤する事さえも出来やしない。私は私としてちゃんと、ここに生きている。だから、泣かないで。心配しないで。
伝えたい。私の存在を、私の気持ちを伝えたい。
そんな簡単な事も出来ないのか、私は。私の為に苦しんでいる人が居ると言うのに、私はこんな所で奥田先輩の涙を見つめて、何をしているんだ。
もどかしさ。そして、無力感。今すぐに死んでしまいたい、と考えるけど、奥田先輩の事を思うと、そんな自分さえぶっ飛ばしたくなってくる。
死んだように干涸びていた心に、雨が降っていた。
拾ってくれてありがとう。ご飯をくれてありがとう。撫でてくれてありがとう。暖めてくれてありがとう。お見舞いにきてくれてありがとう。悲しんでくれてありがとう。泣いてくれてありがとう。
こんな私に、希望をくれてありがとう。
とても、嬉しかった。そして、悲しかった。
人間の私の事を大事に思ってくれている人が、まだここに居た。でも、その人は悲しんでいる。私が不甲斐ないばっかりに。
畜生、そんなの反則だ。ずるいじゃないか。私の事なのに、一人で勝手に泣き始めやがって。
そんな事されたら、心の中に押し殺してた物が、膨らみ始めたじゃないか。このまま半分野良猫、半分飼い猫として生きる事に甘んじる事が、我慢出来なくなったじゃないか。
「にゃぁ……」
「…………」
「みゃおおおおぉぉぉ!」
「あ、おい!」
奥田先輩の制止を振り切って、気がつけば私はベンチから飛び降りて、走り出していた。
宛はあるような、ないような。曖昧な確信という、矛盾した物を胸に抱えて、私は一目散に目的の場所に向かう。
分からない。全て、所詮叶わない夢かもしれない。でも、このまま我慢するのは絶対に耐えられない。耐えちゃいけない。
今の燃立つようなこの決意の火は消えないし、消せないし、消させはしない。空が薄暗がりになる町中を、私は四肢が千切れんばかりの速度で駆け抜けていった。




