私が彼に救われた理由
それから更に数日経った頃。
ねぐらとして丁度良い場所を探し求めて歩く私の足元は、すっかり雪に埋もれてしまっている。冬晴れ眩しかったあの日は夢だったのか、と思ってしまう程ここ最近の天気は荒れに荒れている。冬だと言うのに台風でもやってきたのかと思う程の暴風と豪雪が、寝床さえ用意していない私に容赦なく襲いかかった。
どこに行っても屋内には入れない私は、この身一つでその吹雪の日々をやり過ごさねばならなかった。今日は幸いにも雪も風もない為、私は散歩と狩りを兼ねて、人気の薄い昼間の町中を歩いている。
碌に身動きも取れなかったので、食う物も食えなかった。水分だけは雪を食えばで補充出来たのだが、身体が冷える事を考えると一長一短だ。空腹も辛いが、何よりも足元に積もった雪が辛い。足先が埋もれる位の積雪だが、足の裏が霜焼ける程冷たいし、フットワークも重くなる。このままでは狩りをするのもままならない。
一体どうやって食事をしようか、と考える私の脳裏によぎったのは、ツナとカニかまの和え物であった。あれが食べたい。腹がはち切れる程食べたい。そしてその後飽きる程眠りにつきたい。
食べ物に対する欲求が沸き上がったのは久しぶりだったと思う。それもこれも、あんな物を縁側の上で見せびらかしていた奥田家が悪いのだ。
「……まだ、やってるかな」
毎日のように縁側に置かれていた皿。私があの家から逃げ出して、まだそれ程経っていない。
もしかしたら、まだ私の為に皿が置かれているかもしれない。そんな事を考えてしまうと、もう止まらない。ちょっと見に行くだけ、期待しちゃだめだぞ、等と自分に言い訳をしながらも、私はついつい奥田家の庭に足を運んでしまった。
高い石塀の上で、私は庭の桜の木の影に隠れながら恐る恐る奥田先輩と鉢合わせしてしまった庭を覗き込んだ。剥き出しの地面、枯れた木々。
そして縁側の上にある、平たい皿。
その皿の上には鍋に入れるネギのように斜め切りされた魚肉ソーセージがあった。
私が食べないのは別にシーチキンやカニかまが嫌いと言う訳では無かったんだが、恐らく勘違いしていたのだろう。そんな事はどうでもいい。見た所、人の気配は薄い。時折家の奥の方から声が聞こえてくるが、縁側周辺には誰も居ない。
私は降り立った。そして、一目散に縁側に飛び乗って、皿を覗き込む。ソーセージは四切れ。最初の頃に比べれば量が格段に少ない。
私は慎重に皿に歩み寄り、覗き込む。
「……食べるべきか、否か」
腹は減っている。でも、中々勇気が出ない。食べたいけど……。
「……ううううぅぅぅぅ」
空腹の限界が近かった私は首を俯けて、奥田先輩の顔を思い浮かべた。
あの人は怖い。毒殺の可能性も否定出来ない位陰気な人間だ。
食べてもいいのか、どうなのか。これ程悩んだのは、正直産まれて初めてかもしれない。
……悩んだ結果、私は食べない事を選んだ。しかし目線だけは未練がましく皿の上のピンクの魚肉ソーセージを眺めていた。
長い事、真剣に悩んでいたからか、私は気がつかなかった。私の背後に迫っていた巨大な影の存在に。
「よっと」
身体が浮いた。ちょっと待て、なんでだ。いきなり私の身体にヘリウムガスでも封入されたと言うのか。なんて冗談を吐いている場合じゃない。なんで浮いてるんだ私。脇の下に突っ込まれた手は何だ、誰の手だ。
これはまさか。
「……軽いな、この猫」
後ろから聞こえてきた男のつまらなそうな声は、奥田先輩のものだ。私は奥田先輩に抱え上げられていた。それに気づいたのは、身体が浮いて五秒後くらいだ。
「ふみゃあああぁぁぁ!」
「おい、こら、暴れんなコイツ!」
やめて、怖い。やだ、もう人はやだ。触らないで、お願いだから、こっちにこないで。
なんて事を喚いてみても、人間相手には通じない。無理矢理身を捩って奥田先輩の手から離れようとするが、奥田先輩も私を落とさないようにしているのか、手を離そうとしない。そんな無差別級もビックリな体重差で争っていた私達の相撲は、唐突に終わりを告げた。
暴れていた私の爪が、偶然にも奥田先輩の腕を引っ掻いたのだ。
「って!」
奥田先輩が私から手を離した。
私は縁側に着地し、飛び退いて奥田先輩から距離を取る。
奥田先輩は右腕を押さえてうずくまっている。彼が着ていたセーターの袖を捲ると、長い引っ掻き傷から血が滲んでいるのが見えた。
「ってて……」
「にゃ……」
一旦手を離れてしまうと途端に冷静さが息を吹き返した。
恩知らずなものだ。餌を貰いかけておいて、その人に怪我を負わせるなんて。
「みゃううぅぅ……」
「頭下げてんのか? 変な猫だな」
お辞儀をする私に眉を顰める奥田先輩は、それ以上近寄ってくる事はなく、ジッと私の眼を見つめている。
やがて、しゃがんだままの姿勢で左手を上にした状態で前に差し出して、そのまま動きを止める。どことなく緊張した面持ちだが、それは私も対して変わらない。
左手の人差し指がピョコピョコと上下に動いている。猫じゃらしの代わりのつもりなのだろうか。
私は恐る恐るだが、奥田先輩の方に歩み始めていた。
なんでだろう。あれだけ人間が怖かったのに、私の方を構ってくれているこの光景を目の当たりにすると、自然と歩が進んでいた。それでも一歩進むのに五分くらいかかったが、奥田先輩は粘り強く指を猫じゃらしに見立てて、私の興味を惹こうとしている。
やがて私は、奥田先輩の手元に辿り着く。そして、差し出されている奥田先輩の左手に、震える左前足を軽く乗せてみた。
お手、である。
この私の行動には、固い顔をしている奥田先輩も破顔した。歯を見せる彼の笑顔は邪悪な気配さえ漂っていたのだが、しかめっ面よりは余程良い表情だった。
「ははは、犬じゃねぇぞ、おい。お前、本当に変な猫だな」
笑いながら奥田先輩は縁側に胡座を掻いて、私の顎を撫で始めた。
指の動きは固く、おっかなびっくりという様子だったが、それは撫でられる私も同じだ。身をガッチガチに強張らせ、猫の剥製みたいに硬直して、先輩の指先の冷たい感触を目を瞑って感じ取っていた。
久しぶりに撫でられている私は、カチコチに凍り付いていた心が一撫で毎に溶けていくのを実感していた。端的に言って、私は数ヶ月ぶりに満足感を得ていたのだ。
お互いがお互いを探り合うような、ぎこちない触れ合いは、たったの数秒間で唐突に終わりを告げた。
「和也ー! ちょっとー!」
「げ、やっべ」
家の奥から聞こえてきた女の大きな声は、恐らく彼の母親だろう。
奥田先輩はその声を聞いて、顔色を変えた。辺りを落ち着きなく見回して文字通りあたふたとしている。
もしかして、猫に餌をやっているのがバレたらマズいとか、そう言う事なのだろうか。私が惚けていると、奥田先輩は強引に私を捕まえて、セーターを捲りながら抱え込み、あっという間に私をセーターの中に押し込んだ。
いきなりの事に発狂して暴れそうな衝動に駆られたが、先程の奥田先輩の腕の傷を思い出して、必死に押さえ込む。身体を丸めて大人しく抱えられていると、先程の女性の声が今度は随分近くから聞こえてきた。
「和也ー? あ、ここにいたのね」
「な、なんだお袋。呼んだか?」
「うん。今日の夕飯の買い物頼みたいんだけど……って、どうしたの?
こっち向きなさいよ」
「買いもんだな。あとで行ってくる。ちょっと待ってろ」
「ねぇ、ちょっと」
奥田先輩は母親との会話を早々に切って、バタバタと駆け出した。
やがて襖が開く音と閉まる音が聞こえ、私はようやくセーターの中から放り出された。
転がり出た先は六畳くらいの畳敷きの部屋だった。部屋の隅は、教科書の物置と化している勉強机が鎮座しており、本棚には漫画や雑誌等が乱雑に並んでいた。大きめの箪笥が部屋のスペースを大きく占領していて、部屋は四人程がギリギリ座れる位の広さしかなかった。
普通の男子高校生の部屋、と言った感じか。他の男子高校生の部屋は知らないけど。
部屋の中は寒かったが、奥田先輩が机脇のガスファンヒーターのスイッチを入れてくれた。チープな電子音の後、ファンヒーターに火がともる。
「……ふぅ、あっぶねぇ。
って言うか、咄嗟に連れ込んじまったぜ」
奥田先輩は呟きながら、勉強机の引き出しから魚肉ソーセージを一本取り出し、端を千切ってビニールを剥がした。バナナのように剥いたそのソーセージを私の方に突き出して、上下に振っている。
「ほれ、ほれ、食うか?」
食べさせようとしているのだろうか。
私は魚肉ソーセージを振りかざす奥田先輩の顔色を窺った。
彼は、私が今まで見た事もない程穏やかであったのだが、口端が若干引き攣っていた。
まるで私を安心させる為に無理矢理作ったような優しい笑顔だった。また少しだけ、心が溶けた。
……大丈夫。流石に、毒を仕込む暇はなかった。食べても、死んだりはしない筈だ。
そう自分に言い聞かせた私は、なけなしの勇気を振り絞って、差し出された魚肉ソーセージの先の方を少し齧り、咀嚼する。
ピンク色の魚肉の塊が、私の口の中でバラバラに解れる。その一粒一粒が私の久しく眠っていた味覚神経を呼び起こした。美味しい。魚肉ソーセージがこれ程美味しい物だとは思わなかった。塩っ気が猫の舌には少し強かったが、それすらも一種の趣として楽しめる程、私は幸せな気分であった。多分端から見ればガツガツなんて擬音が聞こえてくるだろう。それ程私は夢中になって食べた。美味し過ぎる。あまりにも美味し過ぎる。止まる気配がない。
無我夢中で喰らう私を見て、奥田先輩は静かにソーセージから手を離した。
そして思い出したように右手を押さえて、立ち上がり、箪笥の上にある救急箱を手にとった。
「……案外浅ぇか?」
上のセーターを脱いで、傷ついた腕に消毒液を塗る彼の背中を見ていると、私は妙な気分になった。
この人は血も涙もない様な冷血漢だと思っていたのだが、慎重に傷を処置している彼はどう見ても穏やかな人間である。
彼は、どうして私の事を助けてくれたのだろう。当然のように思い浮かんでくる疑問である。質問出来ない自分がもどかしい。
「にゃあぁ」
「ん? ……もう食ったのか」
既に魚肉ソーセージは丸々一本私の腹の中に収まっている。
私は感謝を示すように、行儀良く座って頭を下げた。奥田先輩は私の挙動に釣られて、何故かお辞儀を返す。
笑ってしまいそうだった。この人も、結構可愛い一面を持っているらしい。
張りつめていた警戒心もいつの間にか大分薄れてしまったようで、私は頭を下げている奥田先輩の頭に右の前足を乗せて、撫でていた。先輩はすぐに私の足をどけて、訝しげな目で見下ろしてくる。
「……変な奴だな」
「みゃふ」
先輩はゆっくりと私の方に手を伸ばし、そして頭から背中にかけて撫で付ける。
彼も緊張して力んでいるせいか、身体を押さえつけられているようで少し重かったし、手もヒンヤリ冷たかったが、悪い気はしなかった。一撫でするたびに彼の手つきは柔らかくなっていき、私は心地よさに再び目を瞑った。
「へへへ……」
奥田先輩の邪悪な笑い声が聞こえてくる。
多分悪の総統のような微笑を浮かべているだろうから、私はそれを見ないように目を瞑ったまま、大人しく座っていた。
部屋の温かさと満腹のお陰か、私は段々とウトウトし始めていた。油断すれば、あっという間に意識が持っていかれそうな位眠たかった。
そうか、これは……私は、安心しているんだ。
周りに何も敵がいない、目覚めの保証されている眠りが私を柔らかく抱き締めているんだ。
「さて、そろそろ買い物行かねぇと……」
そう言いつつも奥田先輩の手は離れようとしない。
別に逃げたりしないから気にしないで行けば良いのに、と思いつつ、私は早々に意識を手放す事にした。奥田先輩のぎこちない優しさは、私が完全に寝付く最後の瞬間までずっと私の背中を包み込んでくれていた。




