犬猿の仲のあいつが記憶喪失になり、目を覚ますなり私の手を握って「お姉ちゃん」と呼んできた
神崎怜が交通事故に遭った。
幸い、大きな外傷はなく、身体の検査でも深刻な異常は見つからなかった。問題があったのは頭のほうで、担当医によれば、事故の衝撃による逆行性健忘が見られるらしい。言葉や一般常識、成人としての日常生活能力や判断力は保たれているものの、自分自身に関する記憶が大きく抜け落ち、とくに小学生以降の出来事がかなり曖昧になっていた。
さらに厄介なことに、家族や医師、看護師には強い警戒心を示すくせに、なぜか私にだけははっきりと安心した反応を見せるという。
犬猿の仲だった怜が事故に遭ったと聞いたとき、最初に浮かんだ感想は「いい気味」だった。ところが病院から電話がかかってきて、目を覚ましてからずっと私を探していると聞かされ、さすがに嫌な予感がした。
その後、成り行きでしばらく怜の面倒を見ることになった。
最初は、とんでもない厄介者を押しつけられたと思っていた。
まさか、自分から家に入れたことを後悔する日が来るなんて。
勘弁してほしい。
1
病院から電話がかかってきたとき、私は九条都市開発でプロジェクト会議の真っ最中だった。神崎怜、二十五歳。神崎ホールディングス株式会社の取締役兼事業戦略本部長であり、つい先週、私が半年かけて進めていた大型商業施設の再開発案件を横からさらっていった張本人でもある。
二時間前まで、私は心の中で「あいつ本当に最低」と悪態をついていた。それが二時間後には、都内の大学病院から直々に電話がかかってきて、今すぐ来てほしいと言われている。
最初は番号を間違えているのかと思った。
けれど、患者が目を覚ましてから何度も私の名前を口にしていると聞かされ、さすがに無視できなくなった。幼い頃からの付き合いに免じて、最後の人道的配慮くらいはしてやろうと思い、私は病院へ向かった。
個室のドアを開けた瞬間、人生で一、二を争うほど異様な光景が目に飛び込んできた。
普段ならレセプションのネクタイひとつにも隙がなく、会議で一言発すれば三部署まとめて残業に追い込むような神崎怜が、病院のベッドの上で色鉛筆を握っていた。私に気づいて顔を上げた途端、その目がぱっと明るくなる。
担当医に促され、私はいったん廊下へ出た。検査結果の入ったファイルを開きながら、医師は現在の状態を説明した。
「事故による逆行性健忘が考えられます。成人としての知識や判断能力、日常生活動作には大きな問題はありません。ただ、自分自身に関する記憶が広範囲に抜け落ちていて、情緒面にも一時的な退行が見られます」
私は眉をひそめた。
「それと私に、何の関係があるんですか?」
「目を覚ましてから、ご家族や医療スタッフにはかなり警戒しています。ただ、九条さんの写真を見せた瞬間だけ明らかに落ち着いたんです。彼の中に残っている数少ない『安心できる相手』なのかもしれません」
私は医師の顔を数秒見つめた。
「ついでに視力検査もしたほうがいいと思います」
病室へ戻ると、怜はずっと入り口を見ていた。私が姿を見せた途端、警戒していた顔が嘘みたいに緩み、こちらへ手を伸ばしてくる。
「お姉ちゃん!」
足が止まった。
二歩ほど後ずさりして、危うく壁に背中をぶつけそうになる。
冗談でしょ。
天変地異の前触れだと言われたほうが、まだ納得できる。
2
私と怜の因縁は、都内の私立幼稚園までさかのぼる。
私は怜より一つ年上で、家同士も昔から付き合いがあった。まだ幼かった頃だけは、怜も私を「美月お姉ちゃん」と呼んでいたらしい。もっとも、本人がそんな可愛らしい呼び方をしていた時期は長くなく、物心がついてからは顔を合わせれば喧嘩ばかりだった。
幼稚園では怜が私の積み木を奪い、私は昼寝中に彼の長めの髪を引っ張った。当時は少し長めの髪型をしていて、私のスマホには今でも、幼い怜が髪を結ばれている写真が残っている。
小学生になると、私が友達の宿題を参考にしたことを先生へ告げ口され、翌日、私は学校の池の近くで捕まえたカエルを怜の下駄箱に入れた。中学では生徒会長の座を奪われ、腹いせに「神崎ってバスケ部のキャプテンと怪しくない?」と友達の間で余計な噂を流したこともある。
大学時代については――やめておこう。
お互いの名誉のために。
卒業後は、もっとひどかった。神崎HDと九条都市開発は事業領域が一部重なっていて、私たちがそれぞれ家の会社に入ってからは、顔を合わせるたびに仕事でもぶつかった。
怜が私の顧客を取れば、私は彼のプロジェクトチームから有能な人材を引き抜いた。私が担当していた商業施設では、オープン直前に消防設備検査で指摘された不備を怜側に業界メディアへ知らされ、私はその仕返しに彼の新規出店予定地の隣接区画を先に押さえ、競合テナントを誘致した。
両家の親は、そんな私たちを見ては面白がっていた。
「そこまで毎日喧嘩してたら、そのうち本当に結婚するんじゃない?」
冗談じゃない。
私たちは本気で、相手が自分の仕事の前から永遠に消えてくれればいいと思っていた。
だから、病院の休憩スペースで怜のお母さんから「しばらく怜と一緒に暮らしてもらえないか」と頼まれたときは、自分の耳を疑った。
ガラス越しに病室を見る。看護師が薬を差し出すと、怜は警戒して少し身を引いた。ところが廊下にいる私を見つけると、ようやく肩の力を抜いた。
怜のお母さんは、見るからに疲れていた。
「美月ちゃん、無茶なお願いなのは分かってるの。先生からも、食事や入浴、着替えなんかの日常生活は一人で問題ないと言われてる。定期的な診察やリハビリへの送迎はこっちで全部するし、何かあればすぐ迎えに行くから……少しだけお願いできない?」
私はしばらく黙ったあと、指を三本立てた。
「三か月。それ以上は無理です。三か月経ったら、どこまで記憶が戻っていても私は手を引きます」
3
怜が私の家へ転がり込んだ初日、私はスマホいっぱいに黒歴史を撮りためた。
私は港区のタワーマンションにある2LDKで一人暮らしをしている。寝室とは別に普段使っていない洋室が一つあったので、そこを怜に使わせることにした。
ところが部屋へ入って三十分もしないうちに、彼は家中の設備を片っ端から触り始めた。最後には浴室の前にしゃがみ込み、自動湯はりのリモコンを真剣な顔で眺めている。
「お姉ちゃん、これ押したら勝手にお湯入るの?」
「むやみに押さないで」
次の瞬間、浴槽への自動給湯が始まった。
夜には、テレビをつけた途端、ドラマのキスシーンが映った。怜はしばらく画面を見つめたあと、不思議そうに私を見る。
「好きな人同士って、こういうふうにキスするの?」
私は反射的にリモコンを取った。
「チャンネル変えるよ」
「お姉ちゃん――」
今度は袖を引っ張られる。
いい加減、頭が痛くなってきた。
「それ以上『お姉ちゃん』って連呼したら、神崎家に送り返すから」
怜はすぐに黙った。
うつむいて、指先でTシャツの裾をいじる。そのシャツは、仕事帰りに商店街で適当に買った千五百円のものだった。
神崎家の御曹司といえば、昔から着ているシャツ一枚でも普通の会社員なら値札を見てためらうようなものばかり。正直、千五百円のTシャツを着ている姿を奈央に送って笑ってやろうとも思った。
ところが少しすると、怜がしきりに襟元を掻いていることに気づいた。生地が肌に合わなかったらしく、鎖骨のあたりが赤くなっている。
私は時計を見て、ため息をついた。
「行くよ」
怜はすぐについてきた。
「どこ?」
「銀座」
私だって九条家の人間だ。
三か月後、神崎家から「うちの息子を肌荒れだらけにして返された」なんて言われるのは御免だった。
店に入ると、担当スタッフの視線が怜の顔で一瞬止まった。さすがにプロらしく、すぐ何事もなかったように接客へ戻る。
私は適当にベーシックな白Tシャツを取り、値札を確認した。
三万八千五百円。
見なかったことにしたかった。
まあいい。
皮膚科へ連れていく羽目になるよりはましだ。
「これ、試してみて」
怜は何の疑いもなく服を受け取り、試着室へ入った。
一着目はダークグレーのジャケットスタイル。肩のラインがきれいに出て、腰回りもすっきりしている。カーテンの向こうから現れた瞬間、事故前の嫌味な神崎怜が戻ってきたように見えて、思わず息を止めた。
二着目はゆったりしたスウェットにデニム。
途端に数歳若く見える。
三着目は、ただの白シャツだった。
私は黙った。
どうしてこの男は、白シャツ一枚でここまで腹が立つほど似合うんだろう。
スタッフが微笑んだ。
「彼氏さん、スタイルがいいので何を着てもお似合いですね」
「彼氏じゃありません」
怜がすぐ私の袖をつまんだ。
「じゃあ、俺ってお姉ちゃんの彼氏じゃないの?」
「違う」
「じゃあ何?」
「面倒な居候」
結局、紙袋を六つも抱えて店を出た。
請求額については考えないことにした。一方の怜はご機嫌で、左手で私の手を握り、右手で紙袋を持ちながら駐車場までついてくる。
「お姉ちゃんって優しいね。俺もまたちゃんと働けるようになったら、お姉ちゃんにきれいな服買ってあげる」
私は横目で見た。
「自分の口座がどこにあるかも分からないくせに」
怜は少し考えてから、当然のように答えた。
「じゃあ、また稼ぐ」
鎖骨の赤みがまだ残っていたので、私は何となく指先で軽く触れた。
「まだ痒い?」
怜は一瞬きょとんとしたあと、嬉しそうに笑った。
「お姉ちゃんが触ってくれたら、もう痒くない」
すぐに手を引っ込めた。
失敗した。
4
一緒に暮らし始めた最初の夜、怜は意外なほど静かだった。
少なくとも、午前二時までは。
小さな物音で目が覚め、ベッドサイドの照明をつけると、怜が床のラグの上に丸くなっていた。薄いブランケット一枚を身体にかけているだけで、私が起き上がるのを見た途端、手首をつかんでしがみついてくる。
「お姉ちゃん、行かないで。置いていかないで」
私はぎこちなく背中を二度ほど叩いた。
「怖い夢でも見た?」
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いた。
「お姉ちゃんに、もういらないって言われる夢」
何とも言えなかった。
三か月前までなら、それは悪夢どころか、私たち二人の共通した願望だったはずだ。
けれど、その日から怜は時々、夜中に混乱した夢で目を覚ますようになった。結局その晩は、怜をベッドに寝かせ、私は端に寄ってどうにか朝まで過ごした。
翌朝、起きたときには身体中が痛かった。
隣ですやすや眠っている怜を見下ろしながら、私は心の底から思った。
一体いつになったら、この厄介者を返せるんだろう。
5
平和な週末はあっという間に終わった。
事故後、怜が担当していた業務は神崎HDの他の取締役と父親が一時的に引き継いでいる。本人は診察とリハビリ以外、しばらく仕事を休むことになったが、私はそうはいかない。
月曜の朝、靴を履いて出ようとした瞬間、脚に重みを感じた。
見下ろすと、怜が玄関の床に座り込み、私の脚にしがみついていた。見上げる顔は、家に置いていかれる大型犬そのものだ。
「お姉ちゃん、行かないで。一緒に行く。絶対邪魔しないから」
「会社は託児所じゃないの。朝から経営会議があるし、冷蔵庫に食べるものも入ってる。LINEも使えるようにしたから、何かあったら連絡して。火は勝手に使わない、知らない人が来てもドアを開けない。分かった?」
どうにか腕を外し、会社へ向かった。
午前中の会議が半分ほど進んだところで、机の上のスマホが立て続けに震え始めた。怜から送られてきたのは自撮り写真で、リビングのソファに座り、私の塩味ポテトチップスを頬張っている。
【お姉ちゃん、これ美味しい。もうすぐなくなる】
続いて、泣いている柴犬のスタンプ。
私は机の下で返信した。
【勝手に全部食べたら、今夜は床で寝てもらうから】
三分後、新しい写真が届いた。
袋はきれいに折りたたまれ、その横にはお行儀よく座っている柴犬のスタンプ。
【半分残したよ】
数秒画面を見つめているうちに、思わず口元が緩んだ。
顔を上げると、会議室にいる十数人が全員こちらを見ていた。
アシスタントが小さく咳払いする。
「九条本部長、空調の温度を下げましょうか?」
私はスマホを伏せた。
「結構です。続けて」
6
昼過ぎ、マンションの管理室から電話があった。
相手の口調は申し訳ないほど丁寧だったが、聞いた瞬間に嫌な予感がした。階下の住人から、うちのバルコニーから水が落ちてくると連絡があったらしい。
私は目を閉じた。
「……何色ですか?」
電話の向こうで、少し間が空いた。
「その……少しピンク色の泡が混じっているようでして」
私は会社を飛び出した。
玄関を開けた瞬間、強烈なイチゴの香りが鼻を直撃した。バルコニーの前には全身ずぶ濡れの怜が立っていて、床は泡だらけ。横には空になったボディソープのボトルまで転がっている。
私を見るなり、怜の顔が輝いた。
「お姉ちゃん、ベランダ洗っておいたよ」
鞄を握る手に力が入った。
殴ったら、こっちが完全にアウトだ。
やめておこう。
後片づけをしていると、ソファの隙間から折りたたまれた紙が出てきた。開いてみれば、朝七時からの予定らしきものが、あまり整っていない字で並んでいる。
7:00 起きる
7:20 お姉ちゃんの寝顔を見る
8:00 お姉ちゃん仕事
9:00 お姉ちゃんに会いたい
12:00 まだ会いたい
裏には不格好なハートまで描かれていた。
右下には、
【今日もお姉ちゃんが好き】
と書いてある。
私はしばらくその紙を眺め、また折りたたんだ。
この馬鹿は、自分が少し前まで私と顔を合わせれば喧嘩していたことを、本当に何も覚えていないらしい。
午後、小坂奈央が書類を届けに来た。
奈央は大学時代からの友人で、今はブランドコンサルティング会社に勤めている。九条都市開発の案件でも、外部スタッフとして関わってもらうことがあった。
玄関を開けた途端、怜が私の前に立ちはだかった。
「誰?」
「奈央。私の友達」
怜はゆったりした部屋着姿で、髪も寝癖だらけなのに、腕だけはしっかりドア枠にかけ、一歩も譲る気がない。
奈央は数秒怜を眺めて、吹き出した。
「美月、いつからこんな大きい犬飼い始めたの?」
怜がすぐに睨み返す。
「犬じゃない」
私はこめかみを押さえた。
「怜、どいて」
「嫌」
結局、私が無理やり引き剥がして、ようやく奈央を中へ入れた。
その後も怜は一時間近く、私のそばを離れなかった。奈央が書類を渡そうとすれば奪い取って「俺がお姉ちゃんに渡す」と言い、週末の予定を話せば「お姉ちゃんは俺といる」と割り込んでくる。
奈央がとうとう耐えきれなくなり、私の耳元で囁いた。
「記憶喪失の取締役を預かったんじゃなくて、嫉妬深い大型犬拾っただけじゃない?」
怜はまだ奈央を警戒していた。
けれど「記憶喪失」という言葉を聞いた瞬間だけ、表情がわずかに止まった。
7
その夜、私は書斎でオンライン会議をしていた。
途中、浴室のほうから突然大きな声が響き、カメラを切ることすら忘れて立ち上がった。
「お姉ちゃん!」
浴室では、泡だらけの怜がシャワーの下で震えていた。顔色まで悪くなっている。
「急に水になった」
私は慌てて給湯器のリモコンを確認し、温度を戻した。
そこでようやく、目の前にいるのが二十五歳の成人男性だという事実を思い出す。泡が肩から流れ、水滴が腹部を伝って落ちていく。
反射的に視線をそらした。
勘弁して。
昔から顔がいいことは知っていたけれど、こんな身体までしていたなんて聞いてない。
さらに最悪なことに、書斎のオンライン会議はまだ接続されたままだった。
戻ってみると、画面の向こうの部門責任者たちは、誰も何も言わないくせに顔だけが妙に楽しそうだった。私は残りの確認事項を無表情で済ませ、そのまま会議を終了した。
ちょうど怜が髪を拭きながら出てきた。
「温度調節、前に教えたでしょ?」
「忘れた。お姉ちゃん、髪乾かして」
「自分でやって」
五分後。
私はベッドの端に座り、怜の髪にドライヤーを当てていた。
本人は気持ちよさそうに目を細めている。指の間を通る髪からは、私と同じシャンプーの香りがした。
どう考えてもおかしい。
先月までこの男は、十数人の前で私の企画書を見て「大学のサークルが徹夜で作ったチラシみたいだな」と笑っていた。その本人が、今は当然のように私に髪を乾かしてもらっている。
「お姉ちゃんの手、柔らかい」
怜が少し後ろへ寄りかかった。
背中が触れそうな距離になる。
視線を落とした先には、少しはだけたバスローブの襟元。
急にドライヤーがやけに熱く感じた。
私は電源を切り、怜の手に押しつけた。
「続きは自分でやって」
そのまま部屋を出た。
8
それからしばらく、私の生活は「怜が何かする」「私が片づける」の繰り返しになった。
ところが、ここ数日は妙に静かだった。会社へついて行きたいとも言わず、家の設備を片っ端から触ることもない。ソファに座ったまま、どこか一点を長く見つめていることが増えた。
頭の中で、何かが少しずつ戻り始めているように見えた。
ある朝、コーヒーを持ってリビングを通ったとき、怜が呼び止めた。
「お姉ちゃん。俺、昔はお姉ちゃんにひどいことしてた?」
カップがわずかに揺れ、手の甲に数滴こぼれた。
怜は一台の古いスマホをテーブルに置いた。それは私が引き出しにしまったままにしていた予備端末で、中には昔のLINEの履歴が残っている。
退院時、医師からは一度に大量の過去の情報を見せて無理に記憶を刺激しないよう言われていた。そのため怜も普段は別のスマホを使っていたのだが、どうやらいつの間にか私の端末を見つけたらしい。
画面に並ぶやり取りは、まともな文章より嫌味と喧嘩のほうが多かった。
案件の話や社内事情までは理解できなくても、自分と私が仲のいい関係ではなかったことくらいは分かったのだろう。
私は何も言わなかった。
その日の夜、怜がなかなか浴室から出てこなかった。
様子を見に行くと、鏡の前に立ち、事故で残ったこめかみの薄い傷跡を指で触っている。
私はすぐに手首をつかんだ。
「触らないで」
怜はゆっくりこちらを向いた。
しばらく黙ったあと、私の手から自分の腕を抜く。
「何か思い出そうとすると、ここが痛くなる。……俺たち、昔はあんなに仲悪かったのに、どうして今はこんなに優しくしてくれるの?」
私はしばらく怜を見つめた。
「今の怜は、昔と違うから」
【課金ポイント推奨】
9
その一件以来、怜はむしろ以前より私にくっつくようになった。
歯を磨いていると後ろから腰に腕を回し、肩に顎を乗せて「お姉ちゃんの歯磨き粉、いい匂い」と言う。料理をしていると、頼んでもいないのにエプロンの紐を結びたがり、背後から腕を回してゆっくり蝶結びを作る。
一番ひどかったのは、ローテーブルの下に落ちた書類を取ろうとしたときだ。
突然背中から抱きつかれ、危うくテーブルに頭をぶつけそうになった。
「怜、降りて!」
「嫌。お姉ちゃん、太陽みたいな匂いする」
そんなわけない。
ただの柔軟剤だ。
夜、ソファでメールを処理していると、今度は顔を覗き込まれた。鼻先が頬に触れそうなくらい近い。
「お姉ちゃん、キスして。ドラマで、キスしたら痛いの治るって言ってた」
「しない。また頭痛いの?」
こめかみの傷が気になって手を伸ばした瞬間、怜が私の手を取った。
そのまま掌に、軽く唇を落とす。
「できた」
盗み食いに成功した猫みたいに笑っている。
私は自分の掌を見つめた。
まんまとやられた。
その夜十時、私は寝室の鍵をかけた。
五分後、ドアの隙間から一枚の紙が滑り込んでくる。
【お姉ちゃん、開けて。俺は抱き枕です】
横には、意味の分からない顔まで描いてある。
私は付箋に書き返した。
【あなた二十五歳でしょ】
すぐに紙が戻ってきた。
今度は泣き顔だけ。
私はドアにもたれ、放っておこうとした。
すると外から、どさっ、と鈍い音が聞こえた。
まさかと思って覗くと、怜は枕を抱えたまま、本当にドアの前へ座り込んでいる。
「好きにすれば。廊下で寝たいなら寝ればいいでしょ」
夜中に水を飲みに出たとき、ドアを開けると、怜は本当に枕を抱いて丸くなっていた。
私はしばらくその場に立ち尽くした。
本当に勘弁してほしい。
10
怜の頑固さは、私の想像をはるかに超えていた。
それから何日も、毎晩枕を抱えて寝室の前に陣取った。夜中に混乱した夢で目を覚ますこともあり、ドア越しに気配が伝わってくる。
四日目の夜。
とうとう私が折れた。
「……入っていいよ」
怜は、私が気を変える前にとでも言うような速さで布団へ潜り込んだ。
しばらくすると、当然のように身体を寄せてくる。顔は鎖骨の近く、呼吸は温かく、ミント味の歯磨き粉の匂いが近すぎる。
「お姉ちゃん、あったかい。好き」
身体が固まった。
昔の怜がそんなことを言ったなら、きっと最後に「なんて言うと思った?」くらいはついていたはずだ。
今は違う。
ただ私にくっついたまま、すぐに眠ってしまった。
胸の奥が妙に落ち着かない。
私は怜を少し横へ押しやり、天井を見上げた。
まずい。
これはかなりまずい。
翌朝目を覚ますと、ベッドの大半を怜に占領されていた。
私は彼の腕を枕にして、そのまま胸の中に抱き込まれている。本人はぐっすり眠っていて、普段の刺々しさはまるでない。
もう片方の手は、私の腰に乗っていた。
そっと身体を離そうとする。
すると怜が目を閉じたまま腕に力を入れた。
「お姉ちゃん、逃げないで」
掌が、寝巻きの裾から少し出た腰に触れる。
動けなくなった。
目の前にある寝顔を数秒見つめる。
どうかしていたんだと思う。
私はそっと顔を寄せ、怜の唇の端に一瞬だけキスをした。
直後、一気に目が覚めた。
幸い、怜は起きていない。
少なくとも、そのときの私はそう思っていた。
11
毎日相変わらず「お姉ちゃん」と呼ばれてはいたものの、怜の記憶が少しずつ戻っているのは分かった。
ある日の深夜、水を飲もうとリビングへ出ると、窓際に人影があった。
怜がこちらに背を向け、東京の夜景を見ている。
立ち姿も、横顔も、まとっている冷たい空気も、事故前の神崎怜そのものだった。
私は足を止めた。
怜が気配に気づいて振り返る。
一瞬だけ、昔の鋭い目がこちらを射抜いた。
心臓が沈む。
けれど私だと分かった途端、その視線が柔らかくなった。
「お姉ちゃん?」
私は気づかれないよう、小さく息を吐いた。
怜はこちらまで歩いてくると、額を私の肩へ預けた。
数秒沈黙したあと、小さく笑う。
「お姉ちゃん、俺が記憶を取り戻すの怖い?」
私は答えなかった。
リビングには、空調の低い音だけが残った。
12
三か月という期限は、あっという間にやってきた。
怜が出ていく日は大雨だった。
玄関に立つ彼は、仕立てのいいダークスーツを着て、ネクタイも乱れなく締めている。毎晩枕を抱えて私の寝室の前に座り込んでいた男など、最初から存在しなかったように見えた。
医師から記憶がほぼ戻ったと判断され、段階的に仕事へ復帰することも決まった。
目の前にいるのは、昔の神崎怜だった。
「九条さん。この三か月、いろいろ迷惑かけた」
礼儀正しく、よそよそしい声。
私は壁に寄りかかり、無意識に指先を握り込んだ。
「別に」
怜はキャリーケースを引いて玄関へ向かう。
ドアを開ける直前、ふと止まった。
「……それだけ?」
私は無理やり口元を上げた。
「回復おめでとう」
怜は数秒こちらを見つめた。
やがて鼻で小さく笑い、そのまま外へ出た。
ドアが閉まった瞬間、部屋が驚くほど静かになった。
私は壁に背を預けたまま、ゆっくり床へ座り込んだ。
頬に触れると、指先が濡れた。
おかしい。
喜ぶべきことなのに。
13
その後しばらく、九条都市開発と神崎HDには直接競合する案件がなく、怜と顔を合わせることもなかった。
生活は事故前に戻ったように見えた。ただ、私のポテトチップスを勝手に食べる人はいない。浴室のリモコンをむやみに触る人も、枕を抱えて寝室の前で眠る邪魔な大男もいない。
ある晩、仕事から帰ると奈央からLINEが届いた。
【今日、神崎が経営会議で部長二人を完全に黙らせたらしいよ】
どこから手に入れたのか、写真までついている。
会議室に座る怜は、冷たい顔でネクタイを緩めていた。
何となく拡大した。
そこで、左手の薬指に銀色のリングがあることに気づいた。
しばらく画面を見つめる。
恋人でもできた?
指が先に動いた。
【あの指輪――】
途中まで打って、全部消した。
スマホを閉じ、怜が使っていた部屋の枕へ顔を埋める。
当然、もう匂いなんて残っていなかった。
それでも、ひどく面白くなかった。
14
それから三か月後。
避けようのない業界レセプションで、私は再び怜と顔を合わせた。
会場は丸の内のホテルだった。
怜はドリンクカウンター近くに立ち、黒いスーツ姿で取引先の話を聞いている。落ち着いた表情、必要な分だけ浮かべた笑み。私の脚にしがみついて出勤を止めようとしていた男の面影など、どこにもない。
私は視線を外し、グラスへ口をつけた。
ほどなくして、背後から聞き慣れた声がした。
「九条さん、お久しぶりです」
振り返る。
「神崎さん」
怜はウイスキーグラスを持ったまま、ほんの一瞬私の顔を見つめた。
「元気そうだな」
「おかげさまで」
口元がわずかに動く。
「三か月も世話させたわりには、ずいぶん元気そうで安心した」
私たちは大勢の人の中で、仕事相手らしい当たり障りのない会話をした。
あの三か月については、どちらも一言も触れなかった。
まるで最初から、何もなかったみたいに。
15
レセプションが終わる頃、外は土砂降りだった。
私はホテルのエントランスで会社の車を待っていた。
ふと誰かの視線を感じ、横を見る。
数メートル先で、怜がジャケットを腕にかけ、スマホを見ていた。
照明が左手を照らす。
薬指には、あの銀色のリング。
私はすぐ視線をそらした。
それでも怜は、こちらへ歩いてきた。
「傘ないの?」
「車がもう来るから」
「そっか」
そのまま立ち去るかと思ったのに、怜は私の隣に残った。
二人で黙って雨を眺める。
しばらくして、怜が左手を少し持ち上げた。
「これ、婚約指輪」
バッグの持ち手を握る指に力が入る。
「おめでとう」
怜が横目で私を見る。
「相手、聞かないんだ?」
「神崎さんのプライベートには興味ないので」
ちょうどそのとき、迎えの車がエントランスへ入ってきた。
私はまともに挨拶もしないままドアを開け、そのまま乗り込んだ。
16
しばらくすると、怜が婚約したらしいという噂が業界内で広がった。
神崎家は大企業の創業家で、怜自身も以前から経済誌や業界メディアに取り上げられることが多い。左手の薬指にリングをしていたこともあり、「相手はどこの家の令嬢だ」と関係者の間で好き勝手に話が膨らんでいった。
なぜか私の名前まで候補に挙がった。
知人から来るメッセージに何件か返事をしただけで、さらに気分が沈んだ。
失恋しただけでも面倒なのに、本人かどうかまで問い詰められるなんて冗談じゃない。
奈央はそんな私に、ずいぶん古典的な解決法を提示した。
「男を忘れる一番早い方法は、次の男を探すこと」
私は聞き流した。
奈央は本気にした。
週末、食事に誘われて店へ行くと、知らない男性が一人座っていた。
水野悠真、三十一歳。
都内の私立大学文学部で講師をしているらしい。物腰が柔らかく、話し方も穏やかだった。
奈央が満足そうに私を見る。
「似てない?」
私は警戒した。
「何が?」
「記憶なくしてた頃の神崎。まあ、神崎ほどお金持ちじゃないし、顔も少し負けてるし、身体はたぶん――」
「もういいから」
水野さんは私たちが何の話をしているのか分かっていないらしく、少し困ったように笑った。
食事が始まり、私がぼんやりしていると、彼が静かに声をかける。
「九条さん、お仕事でお疲れですか?」
一瞬、言葉に詰まった。
事故前の怜なら、きっと「食事中までぼーっとしてるなんて、九条都市開発はよくこんな人間に案件を任せるな」と嫌味を言ったはずだ。
記憶を失っていた頃の怜なら――。
そこまで考えたとき、店の入り口が少し騒がしくなった。
怜が数人の取引先と一緒に入ってくる。
私は反射的に視線を落とした。
奈央が小声で言う。
「こっち見た」
横目で確認すると、怜の足が一瞬止まった。
ちょうど水野さんが、私の髪に何かついていることに気づいたらしい。手を伸ばしかけたところで、怜の視線がそこに固定された。
数秒後、そのままこちらへ歩いてくる。
「偶然だな。九条さん、デート?」
私は顔を上げた。
「友達と食事」
奈央が真正面に座っているのに、怜の目には入っていないらしい。
視線が水野さんへ向く。
「こちらは?」
水野さんが自己紹介しようとした瞬間、奈央が先に答えた。
「美月の彼氏」
危うく水を吹きそうになった。
怜の笑顔が一瞬だけ消える。
けれどすぐ、何事もなかったように名刺を取り出した。
「神崎怜です」
「水野悠真です」
名刺を交換した直後、怜はなぜか空いている椅子を引いて座った。
連れの取引先は少し離れたところに残されている。
頭をもう一度診てもらったほうがいいんじゃないだろうか。
水野さんも空気の妙さに気づいたらしく、取り皿に分けられていた甘めのだし巻き卵を私のほうへ寄せた。
怜が小さく笑う。
「九条さん、甘い卵焼き苦手ですよ」
水野さんの手が止まった。
私は箸を置いた。
「神崎、いい加減にして」
怜はゆっくりシャツの袖口を整える。
視線だけが、水野さんから私へ戻ってきた。
「別に。ただ、好みがずいぶん変わったんだなと思って」
これ以上座っている気になれず、私は席を立った。
化粧室から出たところで、突然手首をつかまれる。
怜に人目のない通路の角まで引かれ、壁際で止まった。
ネクタイが少し緩んでいる。
「彼氏?」
「関係ないでしょ」
顔をそらした。
怜がこちらを向かせようと手を伸ばしてきたので、すぐ払いのける。
「婚約相手がいる人が、何してるの?」
怜は一瞬きょとんとした。
次の瞬間、なぜか低く笑い始める。
私はそれ以上聞かなかった。
「少しは節度持って」
それだけ言い残し、店を出た。
外へ出てから奈央にLINEを送り、水野さんには謝っておいてほしいと頼んだ。
17
夜九時。
スマホの画面が光った。
三か月間、一度も動かなかったトーク画面。
【お姉ちゃん】
数秒後、もう一件。
【頭痛い】
私はかなり長い間、画面を見つめていた。
結局、返したのは短い一言だけだった。
【薬飲んで】
すぐ返事が来る。
【前にお姉ちゃんが買ってくれた薬、なくなった。触ってくれたら治る】
思わず笑ってしまった。
馬鹿じゃないの。
直後、電話がかかってきた。
出ると、少し荒い息遣いが聞こえる。
「お姉ちゃん……本当に痛い」
久しぶりに耳にした呼び方だった。
しかも電話の向こうで、ちょうど救急車のサイレンが響いた。
頭が真っ白になった。
気づけば私は病院まで来ていた。
ところが、救急外来の入り口近くで、怜は壁にもたれてスマホをいじっていた。額には、どう見ても自分で貼ったとしか思えない曲がったガーゼ。
私に気づくと、笑った。
「やっぱり来た」
私はそのまま踵を返した。
すぐ後ろから追いかけてきて、人気のない非常階段へ引っ張り込まれる。
私は手を振り払った。
「何考えてるの? 私を呼ぶために救急車まで使ったの?」
怜は平然としている。
「普通に呼んだって、来なかっただろ?」
「婚約者は知ってるの? こんな馬鹿なことしてるって」
怜が小さく笑った。
「婚約者?」
私の手を取り、自分のスーツの胸ポケットへ触れさせる。
指先に冷たい金属が当たった。
怜は銀色のリングを取り出すと、非常灯の下で裏返した。
内側に、小さな文字が刻まれている。
――お姉ちゃんへ。
言葉が出なかった。
私の顔を見て、怜がようやく満足そうに笑う。
「三か月前にオーダーした。もう一つは、ずっと美月の家の空いてた部屋に置いてある」
数秒かかって、ようやく意味がつながった。
「じゃあ、婚約したって噂は?」
「俺が婚約したって、周りが勝手に言い始めただけ。否定しなかった」
怜が少し顔を寄せる。
「誰かさんが、少しくらい妬いてくれるかなと思って」
私は睨んだ。
「じゃあ、さっきの救急車は? その額も何?」
怜は悪びれもしない。
「救急車はたまたま通っただけ。額は駐車場で転んだ」
何も言えなくなった。
本当にどうかしている。
結局、怜はそのまま私の家までついてきた。
私はリビングのソファに座らせ、額の傷をやり直すように手当てした。最初のガーゼはあまりにも曲がっていて、見れば見るほど血圧が上がる。
「そこまでして、何がしたかったの?」
怜は大人しく顔を上げ、私がテープを貼るのに任せていた。
「美月が焦ったときだけ、他人みたいな顔するの忘れるから」
テープを切った瞬間、後頭部へ手を回される。
一気に距離が縮まった。
「そろそろ認めてくれる?」
「何を?」
「俺が寝てるとき、キスしたこと。それから――美月も俺が好きだってこと」
手が止まった。
寝たふり。
あの日、こいつ起きてたの?
怜の額が軽く私の額に触れた。
次の瞬間、唇が重なる。
今度は、すぐには押し返さなかった。
三か月間、枕を抱えて寝室の前に座り込み、「お姉ちゃん」と私を追いかけていた怜と、目の前にいる憎たらしい神崎怜が、ようやく一人に重なった気がした。
私はシャツの襟をつかんだ。
「怜、本当にむかつく」
彼は笑った。
「知ってる」
そのまま身体を抱き上げられる。
「まだ色々、精算してないから」
「何を?」
「俺のこと知らないみたいな顔してた分。それと、他の男とデートしてた分」
私は足で蹴ろうとした。
「水野さんは彼氏じゃないってば」
「じゃあ、それは大目に見る」
「最悪」
またキスされた。
その夜のことは、これ以上思い出さないことにする。
とにかく翌朝――というより、目を覚ましたときには昼近くになっていた。
スマホを手に取る。
一番上にニュースの通知が出ていた。
【神崎HD取締役・神崎怜氏、九条都市開発・九条美月氏との交際を認める】
記事に使われていたのは、よりによって大学時代に二人でイベントへ参加したときの写真だった。
一気に目が覚めた。
ちょうど浴室のドアが開き、怜が髪を拭きながら出てくる。私のスマホをちらりと見て、余裕たっぷりに笑った。
「気づくの、思ったより遅かったな」
私は枕をつかんで投げつけた。
「誰が勝手に認めていいって言ったの!」
怜は難なく受け止め、そのままベッドの縁へ片膝をつく。
嫌な笑い方だった。
「お姉ちゃん」
それだけで、言葉に詰まる。
ずるい。
その呼び方は、本当に反則だ。
怜がわざと顔を近づけてくる。
「昨日の夜は、そんなこと――」
私は即座に口を塞いだ。
「黙って!」
怜の目が楽しそうに細くなる。
その顔を見ながら、私はようやく一つの事実を認めた。
記憶を失っていても。
全部思い出していても。
私は結局、怜の「お姉ちゃん」には、どうしても弱いらしい。




