横笛の貴方
横笛の貴方
梅鶯邸と呼ばれる屋敷がある。ここは都で一番に美しい紅梅が咲くことで知られており、雅楽の宴も頻繁に行われる、今が盛りの内大臣のお屋敷である。しかし今日は入内している一の姫の懐妊に伴う宿下りで、雅と呼ぶには慌ただしい、浮ついた雰囲気が漂っていた。
「大和。私は今日は女御に付きますから、姫様の取次は任せましたよ」
「かしこまりました」
礼をとると、先輩女房は浮き足だった様子で、一の姫の様子伺いに行ってしまわれた。
私、大和は二の姫付きの女房である。年頃になった姫様は梅鶯邸に因んで鶯の君と呼ばれ始め、声の美しい姫がいるらしいと大変評判だ。文も訪いも暇なくやってくる。大殿様も、どの君達が良いか決めあぐねているようだが、女房の間でも葛葉の蔵人は姿が良いらしいとか、年は上だが兵部卿の宮も捨てがたいなど好き勝手に品定めをしていた。私は……、私は密かに横笛の君と呼んでいる左近衛少将をお慕いしていた。
私の横笛の君は、牛車の軋む音と横笛の音色でいらっしゃる。まだ姫様とは御簾越しの文のやりとりで、直接言葉はいただいていないらしい。そこで横笛を吹いて思いを伝える。私は来客時は自分の房で控えているが、高く低く甘い音色がいつもはっきりと聞こえてきていた。どのような方だろう、きっとこの笛の音のように素敵な方に違いない、と恋しく想っていたのだ。今宵もお通いになるだろうか。お姿を垣間見えるだろうか。
日が落ちたころ、牛車の軋む音と共に慣れ親しんだ横笛の音色が聞こえてきた。あのお方だ。急ぎ外に迎えに出る。牛車の中の彼の人は御簾越しのうえ、扇で顔を隠していたが、華やかで甘い香りが漂っていた。姫様に合わせた梅花の香りだろうか。途端に姫様にお通しするのが惜しくなってしまう。
「姫様は今宵、先客がございますれば。お会いすることは叶いません」
たまらず袖で顔を隠し、震える声で告げていた。
——しまった。言い直そうと口を開く前に横笛の君の深い声が落ちてくる。
「左様か。『忘れじの 行く末までは かたければ』」
名残惜しそうに上の句を呟き、小雨が降り始めるなか、また横笛を吹きながら帰っていく。その音は物悲しく聞こえ、私は胸が塞がれる思いで頭を下げ続けたのだった。
そのようなことがあったため、しばらく理由をつけて宿下りをして戻ってくると、早々に噂好きの先輩女房に袖をつかまれ、その房に引き込まれた。
「あなたがいないあいだ、大変だったのですよ」
「お休みをいただきましてありがとうございました」
頭を下げるが小言を言いたいというより、何かを伝えたいという様子でしきりに扇を閉じたり開いたりしている。不意に鳥の羽ばたく音が聞こえ、扇を閉じた先輩女房は一つ息を吐くと私を見てきた。
「その、気を落とさないで欲しいのですけれど。あなたが取次した少将殿があれ以来、お出でにならなくて。雨に濡れられて風邪をこじらせ儚くなったとか、物怪に取り憑かれたとか噂で持ちきりなのですよ」
続けて「あなた、気にいってらしたでしょ」と言ってくる。私は目の前が真っ暗になって何と応えたか分からぬまま、気づけば自分の房の脇息にもたれていた。
それからというもの、雨の夜には横笛の音が聞こえてくる気がしてならなくなった。あの方は露と消えてしまったが、雨音に乗せて姫様に想いを届けているのだろうか。姫様にもあの方にも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。私の執着が怨霊を呼んだのかもしれない。いや、私が怨霊になる日も近いのか。消え惑いたいと願いながらも徒に時間が過ぎ、雨が降ると私の袖も濡れる日々を過ごす。
あるはなく なきは数添ふ 世の中に
あはれいづれの 日まで嘆かん
知らず古歌を口ずさみ、また袖を濡らした。
水無月の間、鬱々と過ごすうちに蝉が鳴き始めた。
私が気鬱の病にかかっていると聞いたのか、姫様から七夕の宴の供としてお声がかかった。管弦を聴く気分ではなかったが致し方ない。普段は足を運ばない寝殿へ出向き、御簾の中からぼんやりと池に浮かぶ明かりの灯った船を眺める。大殿様は姫様の求婚者をあまねくお招きになったという話だ。本来ならこの中に横笛の君がいたかと思うと悲しさが込み上げてくる。
雅楽の演奏が始まった。あの方がいらっしゃれば、と考えていたからだろうか。雨も降っていないのに慣れ親しんだ音が幻のように聞こえてきた。
「あら。久しぶりに少将が来ているわね」
なんでもないことのように姫様が仰った。驚いて顔を上げると古参の女房にちらりと視線を送られた。
「若いものの間では不吉な噂など立てていたようですがね。長い物忌が明けたのでしょう。良かったですわね、姫様」
「ふふ、しばらく来られませんって父君にわざわざ文を届けてくれたのよ。——そうそう、あの時は大和が取次したのよね。断られて帰ったら穢れで物忌だったのですって。宿下り中の女御に難なくて良かった、助かった、取次の女房を褒めておいてほしいって仰られてたわよ」
「は……」
身罷られていなかった、生きていたという安堵とともに様々な思いが駆け巡る。無事で嬉しい、褒められて嬉しい、二人の仲が変わらずで嬉しい、——だけど、私個人は見てもらえてなかった、私がしたことは誰も知らない。罰せられなくて……悲しい。頭が冷えたように血の気が引いていき、ふらりと崩れる。
「あら。血の道かしら?」
姫様の気遣う声が遠く聞こえる。何とか起きあがろうとするが力が入らず足元も心許ない。古参女房が私の肩に手を置いた。
「あなた、もう下がりなさい」
「は……。急な、病ゆえ、宿下りをお許しいただきたく」
「ええ、ええ。牛車をお使いなさいな」
出してもらった牛車が動き出し、ようやく息ができる気分になったが、まだ身体の力は入らない。だけど……あの方が生きていたのなら雨の日に聞こえていた笛の音は何だったのだろう? 罪悪感で聞こえないはずの音が聞こえていたのかしら? 肩の力が抜ける。自分で勝手に怪異と思っていたのだわ。
「雨が降ってきやしたね。夏の宴に雨とは残念ですな」
牛車を引く男が言った。パラパラと雨粒が牛車に当たる。
——また、どこからともなく笛の音が聞こえ始める。
笛の音だけが、大和を乗せた牛車に段々と近づいてきていた。
作中で引用した和歌の出典です。
忘れじの 行末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな
儀同三司母(新古今和歌集)
あるはなく なきは数添ふ 世の中に あはれいづれの 日まで嘆かん
小野小町(新古今和歌集)




