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第9話 安眠結界

 教会の奥、王族や貴族のみが立ち入りを許される特別区画の回廊には、いつにも増してむせ返るような重苦しい空気が漂っていた。


 磨き上げられた大理石の床が、ステンドグラスから差し込む色鮮やかな午後の光を反射している。

 等間隔に配置された見事な彫刻の柱や、壁を彩る荘厳な宗教画は、本来ならば見る者の心を清らかにするはずのものだ。

 しかし今の私にとって、この豪奢な空間は息の詰まる檻のようにしか感じられなかった。

 私の鼻腔を突くのは、自己主張の激しい香水の匂いが幾重にも混ざり合った悪臭である。


 少し離れた回廊の交差点に、豪勢な絹のドレスや金糸の刺繍が施されたコートに身を包んだ貴族たちが、まるで示し合わせたかのように集まっていた。

 彼らの手には繊細な模様が描かれた扇子や、磨き上げられたステッキが握られている。


 私は歩みを止め、彫刻の影に身を潜めた。

 これ以上前へ進めば、間違いなくあのドロドロとした諍いの渦中に巻き込まれることだろう。


 貴族たちは現状、大きく二つの集団に分かれて睨み合っていた。

 一方は、長年私を神輿として担ぎ上げ、その恩恵をたっぷりと受けてきた『旧聖女派』と呼ばれる保守的な貴族たち。

 恰幅の良い年配の伯爵や、古い血筋を鼻にかけるような重鎮たちが顔を揃え、その表情には既得権益を脅かされることへの焦燥と怒りが滲んでいた。


 もう一方は、最近台頭してきた若い貴族や、野心に満ちた新興の商人上がりたちだ。彼らは、若くてこの世界に無知な星羅様を擁立し、自分たちの思い通りに操って甘い汁を吸おうと企む『新聖女派』である。

 派手な色使いの衣服を纏い、古き良き伝統など知ったことかと言わんばかりの、挑戦的でねっとりとした笑みを浮かべている。


 新たな聖女セーラが現れたことで、国内の対立派閥が完全に二つに分かれて争うようになってしまったのだ。


 パチン、と旧聖女派の先頭に立つ伯爵夫人が、威嚇するように扇子を閉じた。その鋭い音が、張り詰めた回廊の空気を切り裂く。



「……お言葉ですが、新参者の方々には礼儀というものが備わっておられないようですね」



 伯爵夫人の声は、幾重にも絹で包んだ刃のように冷たく、そして鋭かった。



「我が国の象徴はレティシアーナ様おひとり! 出処の知れぬ小娘など認められません!」



 その背後に控える初老の侯爵が、顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。彼の首筋には青筋が浮かび、ステッキを持つ手がわななわと震えている。

 長年、私の魔力による治癒の恩恵を優先的に受け、それを自身の権力の証としてきた彼らにとって、私の価値が下がることは自身の没落を意味するのだ。

 彼らの剣幕に対し、新聖女派の先頭に立つ細身の若い子爵が、大袈裟に肩を竦めてみせる。



「おやおや。聖女伝説をお忘れか? 天から遣われし御子こそ、真なる聖女。これからの時代はセーラ様こそが相応しい!」



 子爵の言葉には、あからさまな嘲笑が混じっていた。



「レティシアーナ様の魔力も素晴らしいものではありますが、いかんせんお疲れのご様子。それに比べ、天から舞い降りたセーラ様のあの無尽蔵な治癒の御力……。民衆の心がどちらに傾いているか、もはや火を見るよりも明らかではありませんか?」


「な、なんだと……っ! レティシアーナ様を愚弄する気か!」


「事実を申し上げたまでです。旧き良き時代に固執するばかりでは、国は腐り落ちてしまいますよ?」



 繰り広げられる貴族たちの醜い口論に、私は彫刻の裏側で深々と頭を抱えた。

 まさか私のささやかな『引きこもり計画』が、王国の派閥争いに油を注ぐことになろうとは、思いもしなかったのだ。



「私の所為で、レティシア様にご迷惑を……」



 背後で不安そうに身を縮こまらせている星羅様が、涙ぐみながら呟いた。

 私は慌てて振り返り、彼女の肩を優しく叩く。



「違うのよ、星羅様。これは百パーセント私の所為だから気にしないで!」



 早く休みたい一心で後継者を急造したツケが、国政レベルの対立となって返ってきているだけなのだ。

 彼女に罪は一切ないし、むしろ被害者である。



「愚かな貴族どもですね。レティシア様の安寧を乱すというのなら、俺が少し『掃除』してきましょうか」



 斜め後ろから、本気度百パーセントの酷く物騒な低い声が降ってきた。

 見上げれば、ルークが剣の柄に手を掛け、二つのサファイアを氷のように冷たく細めて回廊の貴族たちを睨み据えている。

 彼の全身からは、私でも気づくほどの静かだが恐ろしい殺気が漏れ出していた。



「やめてルーク。物理的な解決は、事態を悪化させるわ」



 私は必死になって彼の腕を掴み、その暴走を止めた。

 王宮の回廊で貴族を斬り捨てれば、それこそ内乱が勃発し、私の睡眠時間は永久に失われてしまう。



「しかし、このままではレティシア様の心労が重なるばかりです。それに、あなたを蔑ろにする輩も、あなたから役目を奪おうとする者も、俺は到底容認できない」



 ルークは不満げに剣から手を離したが、その瞳の奥の暗い炎は消えていない。

 ふかふかのベッドで眠るどころか、このままでは内戦が起きて国が滅んでしまうかもしれない。

 私の平穏な引きこもり生活は、一体どこへ消えてしまったのだろうか。




 教会の自室に戻っても、私の安らぎはどこにもなかった。


 分厚い扉を閉めているというのに、廊下からは貴族たちの言い争う声が響いてくるし、扉の前で控えているだろうルークは私の「待て」をなんとか忠実に守っているものの、抑えきれない苛立ちに喉の奥をぐるぐると震わせているのが聞こえてくる。


 さらに教会前の広場からは、「私、祈ります!」とアイドルよろしく熱狂的に叫ぶ星羅様の声が聞こえていた。



「……うるさい。どいつもこいつも、本当にうるさいわ」



 おちおち昼寝もできやしない。

 自宅とは違う簡素なベッドの上、両耳を枕で強く挟み込み、私はギリッと奥歯を噛み締めた。


 限界だ。

 今だ睡眠時間が足りていないというのに、この騒音のオーケストラの中でどうやって眠れというのか。

 私の安眠を脅かすものは、たとえ後輩だろうが護衛だろうが、決して許さない。


 ベッドから跳ね起き、部屋の隅にある机へと向かった。引き出しの奥から取り出したのは、禁書庫の探索のついでにこっそり持ち出していた、結界術の魔術書である。



「こうなったら、力技で解決するしかないわね」



 私は羊皮紙にまだ慣れない陣を書き込むと、部屋の床に置き、その前に背筋を伸ばして腰を下ろした。

 目的は一つ。この部屋へのあらゆる騒音と物理的干渉を完全に遮断し、ついでに室温を睡眠に最適な状態に保つ、絶対的な『安眠結界』を構築することだ。


 召喚ほどではないものの、結界構築にはそれなりの魔力消費が必要なようで、今までは実践することができなかった。

 けれど、星羅様が仕事の一部を肩代わりしてくれるようになったおかげで、私は以前よりも魔力を温存することができるようになっている。


 試すなら、今が絶好のチャンスだ。

 私は目を閉じ、深く息を吸い込むと、魔力を静かに編み上げていく。



「……静寂よ、我を包め。外界の煩わしきすべてを断ち切り、永遠の安らぎをここに」



 両手を陣へと掲げ、神聖な祈りの言葉を紡げば、魔方陣から眩いほどの光が迸った。銀色の魔力は波紋のように広がり、半球状の光のドームを形成していく。


 結界が完成した瞬間、ぴたりと嘘のようにすべての騒音が消え去った。

 ルークや星羅様の声も、貴族たちの声さえも聞こえない。あるのは、私自身の穏やかな呼吸の音と、適度に保たれた清浄な空気だけ。



「……あぁ、なんて素晴らしい静けさなの」



 初めてにしては上出来だ。私は恍惚とした溜息を吐き、そのままベッドへと倒れ込んだ。

 ほんの数時間惰眠を貪るくらい、許されてもいいだろう。

 極上の静寂に包まれながら、私の意識は瞬く間に、深く甘い眠りの底へと沈んでいった。


 まさか私の放った魔力が、初めて故に注ぎ込まれ過ぎ、自室の壁はおろか教会の屋根すら突き抜け、王都の空を覆い尽くすほど巨大な銀色のドームとなって可視化されているなど夢にも思わずに――。




 私は小鳥の囀りすら聞こえない完璧な静寂の中、最高にすっきりとした気分で目を覚ました。



「よく寝たわ……。やはり睡眠こそ至高ね」



 大きく背伸びをし、乱れた白髪を整えてから、私は結界をふわりと解除した。

 と同時に、扉の向こう側から、ドタバタと尋常ではない数の足音と、怒声のようなものが雪崩れ込んでくる。



「レティシア様! ご無事ですか、レティシア様っ!」



 バンッ! と扉が弾け飛びそうになるほどの勢いで開かれ、飛び込んできたのはルークだった。

 彼の整った顔立ちは青ざめ、サファイアの瞳は血走っている。

 さらにその後ろから、目を真っ赤に腫らした星羅様と、教会の高位神官たちが、まるで世界の終わりを見たかのような悲痛な表情で続いた。



「え……な、何事かしら?」



 私がベッドの上でぽかんとしていると、ルークが長い脚でベッドサイドに歩み寄り、がくんと膝をつく。



「あなたという人は……! 俺という盾がありながら、なぜあのような無茶を! 王都全土を覆う『古代の絶対防衛陣』など、どれほどの命を削れば発動できると……っ!」


「……はい?」



 私は間抜けな声を漏らした。

 絶対防衛陣? 王都全土?



「レティシア様ぁぁっ!」



 続いて、我慢できないとばかりに飛びついてきた星羅様が、私の腰にすがりついて大号泣し始める。



「私、見ました! 空に広がった、レティシア様の銀色の光を! 争う人たちを憂いて、私たちを……王都の人たちを、瘴気からら守るために、結界を張ってくださったんですよね? ごめんなさい、私が不甲斐ないばかりに!」



 違う。全然違う。

 私はただ、あなたたちがうるさかったから防音壁を張っただけだ。

 魔力の出力を少し間違えて、範囲がバグってしまっただけである。


 神官たちまでもが、両手を組んで天を仰ぎ、ぽろぽろと涙を流していた。



「ああ、なんという慈愛。己の身を削り、国を憂いての奇跡の御業。この御恩、生涯忘れませんぞ、レティシアーナ様……!」



 彼らの瞳には、寝起きの私の乱れた姿が『魔力を使い果たし、疲労困憊でありながらも気丈に振る舞う聖女』として映っているらしい。



「ルーク、星羅様、これはその、ただの安眠のための……」



 引き攣った笑みで真実を告げようとした私の両手を、ルークが自身の大きな手で包み込んだ。



「何も仰らないでください。あなたのその深き御心は、王家にもすでに伝わっております。国王陛下も、あなたの自己犠牲の精神に酷く感銘を受けておられました」



 頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。


 王家に伝わっている? 国王陛下が感銘を受けた?


 それはつまり、私のこの「ただの防音結界」が、国のトップにまで「国を憂う偉大な聖女の奇跡」として報告されてしまったということだ。

 有能すぎると判断された聖女が、国から手放されるはずがない。


 どうしてこうも、世界は私に優しくないのだろうか。

 感動に涙する人々を前に、私はただただ、完全に引き攣った極上の笑みを貼り付けることしかできなかった。



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