第8話 生存戦略
思わぬ暴走事件から数日後。
私のささやかなる(しかし絶対に譲れない)引きこもり計画は、次なる段階――すなわち『実地研修を通した完全なる業務の引き継ぎ』へと移行していた。
王都の中心部から少し外れた、平民たちが暮らす下層区画。
そこへ向かうための装飾過多な神殿の馬車の中で、私はビロード張りの座席に深く身を沈め、ズキズキと痛むこめかみを指先で密かに揉みほぐしていた。
窓の外を流れる景色は、華やかな貴族街の白亜の建造物から、徐々に煤けたレンガ造りの長屋や、色褪せた木造の家屋へと変わっていく。
馬車の車輪が硬い石畳から未舗装の土の道へと乗り入れた瞬間、ガタゴトという不規則な振動が車体を揺らし、私の疲労しきった三半規管を容赦なく揺さぶった。
「レティシア様! 私、ついに外でのお仕事なんですね。すっごく緊張してきました!」
向かいの座席では、真新しい法衣に身を包んだ星羅様が、窓枠から身を乗り出さんばかりの勢いで外の景色を見つめながら、弾む声で叫んでいた。
彼女の艶やかな黒髪が馬車の揺れに合わせて揺れ、赤みがかった茶色の瞳は、初めて見る王都の城下町の風景にキラキラと好奇心の光を輝かせている。
遠足に向かう子供のようなその無邪気な熱量に、私は引き攣る頬を必死に抑え込み、聖女らしい穏やかな微笑みを貼り付けた。
「ええ、星羅様。今日は城下の広場で、簡単な治癒のボランティアを行います。最近、王都の周辺に微弱な瘴気が漂い始めているようで、その影響で体調を崩す平民が増えているのです。……貴女には、現場での魔力の調整方法を学んでいただきます」
「はいっ! 私、レティシア様の足を引っ張らないように、全力で頑張ります!」
星羅様は両手を胸の前でぎゅっと握り締め、鼻息を荒くして気合を入れている。
全力。その言葉の響きに、私は先日の大聖堂での、あの太陽を落としたかのような『光の暴力』を思い出し、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
「……星羅様。全力は困ります。魔法の基本は、あくまで対象に合わせた適切な魔力の供給です。暴走させないように、くれぐれも気をつけてくださいね」
「わかってます! レティシア様が隣にいてくれるんですから、絶対に大丈夫です!」
全幅の信頼を寄せるような、純度百パーセントの真っ直ぐな笑顔。
私は「ああ、胃が痛い」と内心で天を仰いだ。
彼女を立派な聖女に育て上げ、すべての公務を丸投げしてあのふかふかの特注ベッドに引きこもるという私の輝かしい未来への道のりは、想像以上に険しいものになりそうだった。
「セーラ様。あまり窓から身を乗り出すと危険です。それに、レティシア様の休息の邪魔になります。静かにしていなさい」
私の斜め向かいの座席から、氷のように冷たく、そして明確な苛立ちを含んだルークの低い声が放たれた。
彼は腕を組み、青い瞳を鋭く細めて星羅様を睨みつけている。
ただの護衛のそれを遥かに超えた、ピリピリとした独占欲と警戒心に、星羅様が僅かにたじろいだ。
「なっ……、別に大きな声なんて出してないじゃないですか! ルークさんこそ、ずっとレティシア様の顔ばっかりジロジロ見て、なんなんですか?」
「護衛対象の体調を常に把握するのは騎士の義務です。それに、レティシア様の美しい御尊顔を拝見することは、俺にとって呼吸と同じくらい不可欠な生存行動ですから」
「まぁ、その気持ちはわかりますけど……」
星羅様が納得したように座席に深く腰掛けるのを、私は不可解な瞳で見やった。
今のルークの言葉のどこに、共感できる部分があったのだろうか。
微かな笑みを浮かべてこちらを見つめる護衛騎士と、ぴたりと私へ寄り添う後輩聖女という理解不能な二人に挟まれながら、あと何時間この馬車に乗っていればいいのだろうかと、遠い目をして窓の外を眺めるしかなかった。
やがて馬車は、城下の下層区画にある少し開けた広場へと到着した。
軋む音を立てて馬車の扉が開かれると、初夏だというのに広場の上空にはどんよりとした灰色の雲が低く垂れ込め、空気を重く、湿ったものにさせている。
これが、最近報告されている『軽微な瘴気』の影響なのだろう。健康な人間であれば少し気分が沈む程度だが、体力のない老人や子供にとっては、風邪のような症状を引き起こす厄介な代物だった。
広場にはすでに簡易的な天幕がいくつか張られ、青ざめた顔で咳き込む人々や、怪我を負って包帯を巻いた平民たちが、藁を敷いた地面に力なく座り込んでいる。
私が馬車から降りようとすると、ルークが素早く先に降り立ち、泥濘んだ地面の上に、あろうことか自身の最高級の騎士のマントをバサリと敷き詰めたのだ。
「ル、ルーク……何をしているの⁉」
「昨夜の雨で、足元がぬかるんでおります。レティシア様の美しい純白の靴を、泥水で汚すわけにはいきません。さあ、俺の手を取って、このマントの上をお歩きください」
ルークは片膝をつき、完璧な王子のような所作で私へと右手を差し出してきた。
狂っている。たかが数歩の泥道を避けるために、支給品である高価な騎士のマントを泥除けの絨毯代わりにするなど、頭がおかしいとしか思えない。
「……結構よ。聖女が泥を嫌ってどうするの。それに、私はそんなにひ弱じゃないわ」
私は彼の差し出した手を無視し、マントのない場所をわざと選んで、ぬかるんだ土の上へと降り立った。
泥が跳ねて靴の先端が少し汚れたが、そんなことよりも、これ以上彼の過保護な奇行に付き合って周囲の注目を集める方がよほど精神的苦痛だった。
「ああっ……! レティシア様の御足が、穢らわしい泥に……っ、俺が不甲斐ないばかりに!」
背後でルークがこの世の終わりのような悲痛な声を上げているが、私は完全にそれをスルーし、天幕の方へと歩みを進めた。
そのすぐ後ろを、ルークへ可哀想なものを見るような視線を投げながら星羅様がついてくる。
私たちが広場に姿を現すと、どんよりと沈んでいた空気が一変した。
「お、おお……っ! 聖女様だ。レティシアーナ様が来てくださったぞ!」
「隣にいるのは、噂の新しい聖女様か? なんて神々しい……!」
苦しそうに咳き込んでいた人々が、藁のベッドから身を起こし、希望の光を見るような目で私たちを見つめ始めた。
彼らの瞳に宿る純粋な信仰心と期待の重さに、内心で深い溜息を吐き出した。
期待されるのは疲れる。さっさと終わらせて、帰って寝よう。
私は気を引き締め、星羅様を伴って最初の患者である、ぐったりとした少年の前へと進み出た。
「星羅様。まずはこちらの少年からお願いできますか? 症状は……瘴気による魔力酔いと高熱です。彼の体内の淀みを散らし、熱を下げるイメージで、慎重に魔力を流し込んでください」
「はいっ、お任せください!」
星羅様は真剣な表情で大きく深呼吸をすると、少年の額に小さな両手を翳し、カッと目を見開いた。
嫌な予感がした。彼女の『気合』は、往々にして魔力の暴走に直結する。
「待って、星羅様、魔力の出力は――」
私が静止の言葉を言い終わるよりも早く、まるで滝が逆流したかのような凄まじい光と爆音が、広場に響き渡った。
「きゃっ⁉」
私は思わず顔を両手で覆った。星羅様の両手から、太陽を直接持ち込んだかのような強烈な黄金色の光が爆発的に溢れ出したのだ。
強烈な熱風が吹き荒れ、粗末な布張りの天幕がビリビリと悲鳴を上げて引き裂かれそうになる。
足元の泥水がジュワッという音と共に一瞬にして蒸発し、周囲にいた患者たちが悲鳴を上げて転げ回った。
数秒後、嵐のような光が収まると、そこには自分の身体を不思議そうに見下ろす少年の姿があった。
高熱で苦しそうに荒かった呼吸は完全に落ち着き、青ざめていた顔には健康的な赤みが戻っている。
それどころか、彼の着ていたボロボロの衣服の泥汚れまでが、浄化の余波で綺麗に漂白されてしまっていた。
「ふぅ……っ! や、やりました、レティシア様。熱、下がりましたよ!」
星羅様は額に大粒の汗を浮かべ、肩で息をしながら、誇らしげに振り返った。
私は風圧で乱れた白髪を直しながら、引き攣る口元を必死に抑え込む。
たかが子供の高熱を下げるためだけに、どれだけの魔力を無駄に放出したというのか。
あれは治癒というより、もはや魔力による『洗浄』だ。
あんな出力全開の魔法を一人一人に乱発していれば、いくら規格外の魔力を持つ彼女でも、十人も治癒する前にガス欠を起こしてぶっ倒れてしまうことだろう。
「……星羅様。素晴らしい魔力量ですが、出力の調整が全くできていません。あれでは患者の身体が魔力の波に耐えきれず、逆に負担をかけてしまう危険があります」
私は努めて冷静な、指導者としての声でそう告げた。
「えっ……あ、すみません。つい、気合が入りすぎちゃって……」
星羅様がしゅんと肩を落とす。
「よく見ていてください。魔法の基本は、自身の魔力を誇示することではありません。対象の状態を的確に見極め、必要な場所に、必要な分だけの魔力を、最小の動きで届けることです」
私はそう言い残すと、次の患者である、建築現場の足場から落ちて腕の骨を折ってしまったという青年の前に進み出た。
さあ、私の『タイムアタック治癒』の見せ場だ。
青年の折れて腫れあがった腕に、そっと右手の指先を触れさせる。
「――癒えよ」
私が小さく囁くと、指先から冷涼な銀色の光が、すっと音もなく青年の腕へと吸い込まれた。
星羅様のように、眩い光も、周囲を吹き飛ばすような熱風も一切起きない。
ただの一本の細く鋭い銀の糸が、骨の折れた箇所に的確に届き、一瞬にしてその隙間に新たな骨を作りだした。
ものの二秒。青年の腕からは腫れが引き、骨は完全に繋がったはずだ。
「え……っ、あ、あれ? 痛くない……⁉」
青年が信じられないといった顔で腕を振り回すのを横目に、私は一つ息を吐き、すでに次の患者へと流れるような動作で歩みを進めていた。
高熱の老人には、首筋に触れて熱を散らす。
足から血を流している女性には、患部に手を翳して止血と組織の再生を同時に行う。
無駄な会話も、大袈裟な祈りのポーズも一切必要ない。ただ触れ、症状をコンマ一秒で把握し、必要最低限の魔力を流し込み、即座に次へ移動する。
長年、貴族たちから際限なく魔力を搾取されてきた私が、一秒でも早く公務を終わらせて自室のベッドに帰るために編み出した、極限まで無駄を削ぎ落とした究極の効率化。
これこそが、私の生存戦略だった。
「……すご、い」
私の背後で、星羅様が両手で口元を覆い、私の一挙手一投足を瞬きもせずに凝視していた。
「全く、無駄がない……。あんなに静かで、淀みなくて、美しい魔法……私、初めて見ました……!」
彼女の呟きが、静まり返った広場に微かに響く。
周囲の平民たちも、私の治癒のスピードと正確さに圧倒され、ただ口を開けて見惚れていた。
「ああ……なんというお姿だ。我々下賎な者のために、泥に汚れることも厭わず、舞うように癒しを与えてくださるなんて……!」
「まるで、慈愛の天使様が地上に舞い降りたようだ……!」
違う。そうじゃない。
私はただ、早く終わらせて帰って寝たいだけなのだ。
泥を気にする暇があれば一人でも多く治してノルマをこなした方が早いし、舞うように動いているのは、足元の水たまりを避けながら最速で移動しているからに過ぎない。
しかし、私の『限界まで効率化された作業』は、彼らの目を通すと『慈愛に満ちた洗練された神業』という、とんでもなく美化されたフィルターを通して変換されてしまうらしい。
「私、決めました!」
突然、星羅様が両手をぎゅっと握り締め、目をキラキラと星のように輝かせて叫んだ。
「絶対に、レティシア様のような、美しすぎる神業を使えるようになります! だから、もっともっと間近で、先輩の背中を見せてください!」
暑苦しいほどの熱意と、私への純粋すぎる尊敬の念。
彼女の瞳の奥で、私への評価が『すごい先輩』から『絶対に超えられない神のような存在』へと完全に昇華し、神格化されていくのが見えた。
ああ、まずい。
またしても彼女の依存度が上がり、「レティシア様がいないと私には何もできません!」という地獄のループから逃れられなくなっている。
私の安眠への第一歩であるはずの実地研修が、かえって彼女の自立を阻む結果になってしまったのだ。
私は内心で血の涙を流しながら、引き攣る笑顔で次の患者へと手を伸ばすしかなかった。




