第6話 絶対休みたい先輩聖女と、絶対離れたくない後輩聖女
神の御使いという、対外的な(そして私にとって非常に都合の良い)設定で無事に周囲を納得させた私たちは、大聖堂を後にしてクライン家の広い庭を歩いていた。
すぐ横を歩く星羅様は、見るものすべてが珍しいといった様子のキラキラとした瞳で、庭の花や飾られた彫刻をきょろきょろと忙しなく見回している。
彼女の着る法衣は、専用に作らせた特別製だ。
私のものとデザインは一緒だが、白に紺と銀色を差し色にした私とは違い、星羅様の差し色は淡い桃色と金にしてもらっている。
その分、控えめながらも彼女の可愛らしさを引き立てるものになっていた。
本当ならば、今すぐにでも彼女に『聖女』としての全権を委譲して、私は自室のふかふか特注ベッドに飛び込みたいところである。
しかし、いくらなんでも、この世界の常識も魔力の使い方も全く知らない彼女に、いきなり全ての公務を丸投げするのは気が引けた。
何の罪もない可愛い後輩を、魑魅魍魎が跋扈する貴族社会や過酷な治癒の現場に丸腰で放り込むような鬼には、流石になりきれなかったのだ。
「レティシア様、どこに向かっているんですか?」
少し弾んだ、遠足に向かう子供のような声で問いかけてくる星羅様に、私は歩みを緩めずに答える。
「庭の端に、少し開けた場所があるんです。まずは、聖女としての最も基本的な力……治癒と再生の力について、少しだけお教えしておこうかと思いまして」
「治癒魔法……! 私、本当に使えるようになるんでしょうか」
「ええ、もちろんです。あなたの中には、すでに素晴らしい魔力が眠っているのですから」
先程の派手な魔力を見れば、一目瞭然である。
彼女が緊張しないようにと、家人の目を避けて広すぎる庭の端まできたが、星羅様の楽しげな様子を見るに杞憂だったかもしれない。
「わぁ……っ、すっごく綺麗!」
星羅様は歓声を上げ、小走りで色鮮やかな薔薇のアーチへと駆け寄った。
端とはいえ、伯爵家の庭園だ。どこを見られても恥ずかしくないように専属の庭師が丹精込めて管理している。
私は彼女の背中を微笑ましく追いかけながら、この場に用意させたガーデンテーブルのへと向かった。そこから、葉が茶色く変色し、蕾が力なく首を垂れている小さな鉢植えを一つ手に取る。
「星羅様、こちらへ。魔法の基本は、自身の内にある魔力を感じ取り、それを形にすることです。聖女の力は、破壊ではなく再生。命の巡りを助け、本来の健やかな状態へと導く力です」
私は鉢植えを台の上に置き、枯れかけた蕾にそっと両手を翳した。そして静かに目を閉じ、呼吸を整える。
「見ていてくださいね」
ゆっくりと吐き出す呼吸に合わせて、両手のひらから、淡い銀色の光の粒子が立ち上る。
それは暗闇を強烈に照らす鋭い光ではなく、静かな月明かりのように優しい、仄かな温かさを帯びた光だった。
細い絹糸のように紡がれた光が、力なく垂れ下がった蕾へとゆっくりと降り注いでいく。
銀色の光が触れた途端、茶色く乾いていた葉が水を得たように僅かに震え、固く閉ざされ色を失っていた蕾が、ふっくらと柔らかく膨らみ始めた。
私はそこで魔力の供給を止め、手を引く。
目を開けると、星羅様が信じられないものを見るように、真ん丸に見開かれた目で蕾を見つめていた。
「これが治癒と再生の魔法です。さあ、次は星羅様の番ですよ」
私が場所を譲ると、星羅様はごくりと唾を飲み込み、緊張した面持ちで鉢植えの前に立った。
蕾に向かって不器用な手つきで両手を翳し、ぎゅっと目を閉じる。
「んんん……っ!」
力む声が漏れているが、彼女の手からは何も起こらない。
「星羅様、肩の力を抜いてください。魔力は、無理矢理絞り出すものではありません。あなたの中に流れる温かい川を想像してください。その川の水を、指先から少しずつ外へ流してあげるような感覚です」
私の言葉に、星羅様はゆっくりと深呼吸をした。強張っていた肩が下がり、顔の緊張が解けていく。
「……レティシア様、こうですか?」
一呼吸置いた彼女の両手のひらから、ふわりと、柔らかい黄金が混じる光が溢れ出した。私の銀色の魔力とは違う、陽だまりのように暖かく、どこか力強い光。
「ええ、そうよ。とても良い光です。ただ、魔力を一気に流し込んではいけません。対象がその力に耐えきれず、壊れてしまうことがありますから」
星羅様の真剣な横顔を見つめながら、私はその力を静かに導いた。
「細い糸を紡ぐように、ゆっくりと……対象の脈動を感じ取りながら、優しく、優しく包み込むのです」
私の声に合わせるように、光の量が変わり、細くきらきらと輝く糸のようになって枯れかけた蕾へと真っ直ぐに伸びていく。黄金色の光の糸が蕾をそっと優しく包み込むのが見えた。
「……あっ!」
光に包まれた蕾が微かな音を立てて震え始め、茶色く変色していた花びらの外側から、鮮やかな薄紅色が染み出していく。
内側へと向かって生命の躍動が駆け巡り、まるで長い眠りから目を覚ました妖精が心地よく欠伸を零すように、一枚、また一枚と優雅に花びらが開いた。
最後に中心の黄色い雄しべが顔を覗かせると、ふわりと甘く瑞々しい花の香りが私たちの間に広がっていく。
見事な開花だ。
「すごいです! 咲きました、レティシア様!」
星羅様はぱっと目を開き、咲き誇る薄紅色の花を見て弾けるような笑顔を見せた。その瞳には、自分が成し遂げた奇跡への驚きと、純粋な歓喜の涙が微かに滲んでいる。
「お見事です、星羅様。これで基本的な治癒と再生の魔法は完璧ですね」
私は心からの賞賛を込めて微笑みかけた。これで心置きなく彼女に仕事を任せて愛しのベッドへと向かうことができるという、極めて打算的で真っ黒な安堵感を胸に秘めながらではあるが。
「レティシア様のおかげですっ!」
「きゃっ⁉」
小柄な身体が弾丸のような勢いで私の胸元へと飛び込んでくる。軽い衝撃が走り、思わず数歩後ずさってバランスを取った私の腰には彼女の細い両腕がきつく回されていた。
「レティシア様の説明ってすっごくわかりやすいです。私、レティシア様と一緒なら、聖女のお仕事も全然頑張れちゃいます!」
胸に顔をぐりぐりと押し付けながら、星羅様が弾むような声で告げる。
その無邪気な懐きっぷりに、私は微かに苦笑を漏らしながら彼女の黒髪を優しく撫でた。
彼女は素直で、魔力の扱いにも長けていて、何よりやる気に満ち溢れている。これほど完璧な後継者がかつて存在しただろうか。
「えっ、あ、ありがとう……? でも星羅様が一人前になれば、私はお役御免で……」
「ええっ、嫌です!」
空気を切り裂くような、甲高い声が耳元で響いた。私の腰に回されていた星羅様の腕の力が、ギリッと骨が軋むほどに強くなる。
「星羅、様……? ちょっと、苦しい、ですけれど……」
掠れた声を絞り出すよりも早く、彼女は顔を弾かれたように上げた。キラキラと歓喜に輝いていた瞳が、限界まで見開かれ、深い絶望の色でみるみるうちに染まっていく。
「私、この世界のこと、まだ全然わからないのに……レティシア様がいなくなったら、絶対失敗して国を滅ぼしちゃいます」
「そ、そんな大げさな……」
引き攣った笑みを浮かべたが、星羅様は全力でぶんぶんと首を横に振った。
「本当です。レティシア様が傍でずっと教えてくれないのなら、私、聖女なんてやりませんから!」
私の心臓が酷く嫌な音を立てて跳ねる。
むせ返るような甘い花の香りが、急に息苦しく重たいものに感じられた。
『聖女なんてやりません』――その一言は、私にとって死刑宣告にも等しい。
「ま、待ってください、星羅様。ずっと傍で、というのは……その、私が引退して、領地でゆっくりと過ごすという夢は……」
「ダメです! どこに行くにも、私を連れて行ってください! レティシア様が休むなら、私も隣で休みます! レティシア様が本を読むなら、私がページをめくります! だから……お願いですから私を見捨てないで……っ!」
大粒の涙がボロボロと零れ落ち、私の法衣の胸元に濃い染みを作っていく。ヒック、ヒックと激しくしゃくり上げながら見上げる瞳の奥に、底なしの沼のような重く暗い執着の炎が揺らめいているのを見た。
これは、まずい。極めてまずい状況だ。
今の彼女を冷たく突き放せば、パニックを起こして本当に魔法を暴走させ、国を滅ぼしかねないほどの危うさが漂っている。
私の脳内に築き上げられていた完璧なベッドが、またしてもガラガラと凄まじい音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
過労死の危機からは逃れられたかもしれないが、代わりに『重すぎる後輩の愛』という恐ろしい呪縛に囚われてしまったのではないか。
私は、袖を握り締めて泣きじゃくる星羅様を見下ろしながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「素晴らしい心掛けですね、セーラ嬢」
庭の空気を鋭利な刃物で真っ二つに切り裂くように、低く涼やかな声が響き渡った。
その声の響きに、私の肩は大きく跳ねる。
油の切れて錆びついた機械のようにゆっくりと首を巡らせると、そこには案の定、専属護衛騎士であるルークが立っていた。
涼やかな佇まいとは裏腹に、青の瞳は獲物を狙う鷹のように私たちを見据えている。その顔には、最高級の絵画から抜け出してきたかのような、完璧な笑顔が貼り付いていた。
ルークは長い脚で優雅に歩みを進め、私たちのすぐ目の前でぴたりと立ち止まる。
「レティシア様を敬い、その教えを乞おうとするあなたの真摯な姿勢。一人の護衛騎士として、大変胸が熱くなりました」
ルークは星羅様の態度を大絶賛し、心底感心したように深く頷いてみせた。
彼にとって、私にべったりと依存する人間が現れることは非常に都合が良いのだ。
私がこの教会から、そして彼の手の届く範囲から一生離れられなくなるという点において。
「え、えっと……ありがとうございます……?」
星羅様は戸惑ったように涙で濡れた瞳を瞬かせている。
彼女は、ルークの甘い言葉の裏側に隠された、私の退路を完全に断つという恐ろしい『本質』に全く気がついていない。
私はその隣で、引き攣った不格好な笑みを浮かべることしかできなかった。
「ル、ルーク……」
極度の緊張により掠れた声で名前を呼ぶと、サファイアの瞳がすうっと細められる。
自分が絶対に手放したくない宝物を見つめる目であり、同時に永遠に鎖で繋いでおくべき罪人を見下ろすかのような、息が止まるほどに重い視線だった。
「レティシア様」
ルークは流れるような動作で静かに片膝をついた。そして、私の震える右手首を革手袋越しにそっと包み込む。
酷く優しいが、どれだけ力を込めても絶対に逃れられない鋼鉄の万力のような強さがそこにはあった。
「可愛い妹分ができてお喜びのところ、水を差すようで誠に申し訳ありませんが。……どうやら、あなたの退任の手続きは、当分先になりそうですね」
私の頭の中で、辛うじて繋がっていた最後の希望の糸がぷつりと断ち切られた。
それは輝かしい引きこもり生活と永遠の安眠が、残酷にも遥か遠い未来へと追いやられたことを明確に意味していた。
抗議の声すら喉の奥でつっかえて出てこない私を余所に、ルークはさらに言葉を重ねる。
「ご安心ください。俺はあなたの専属護衛騎士として、お二人の聖女を、これからの生涯をかけて誠心誠意お守りしますよ」
極上の、背筋が急速に凍りつくような冷たい圧を込めた笑顔が至近距離で私に向けられた。
「……逃げられるなどと、決して思わないことです」
低く私だけに囁かれた言葉には、呪いのような底知れぬ執着が込められているのだろう。
無邪気に私に懐き、どこへ行くにも地の果てまでついてこようとする後輩聖女。
絶対に私を逃がすまいと目を光らせる過保護すぎる狂犬騎士。
致死量の重さを持った二つの巨大な『重圧』に挟まれた私は、暖かく穏やかな空気の中で、ただ一人絶望的な冷や汗を滝のように流していた。




