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第4話 やってみてもいいですよ

 肺の奥まで凍りつきそうだった地下室の冷気がまるで嘘のように、私の自室は柔らかな陽だまりの温もりに満ちていた。


 レースカーテンの隙間から差し込む午後の斜光が、曇り一つなく磨き上げられたアンティーク調の木製テーブルに長く真っ直ぐな影を落としている。


 汚れた法衣を着替えた私は、向かいの長椅子にちょこんと腰を下ろした見知らぬ少女――古賀星羅様へ、淹れたての紅茶が注がれたティーカップをそっと差し出した。



「どうぞ、温かいうちに」


「あ、ありがとうございます……」



 静寂の落ちた部屋に、白磁の触れ合う音がやけに大きく響く。


 星羅様は両手で包み込むようにカップを持ち上げた。金縁の施された器の中で波打つ、透き通った琥珀色の液体。そこから、甘い林檎と蜂蜜の香りが白い湯気とともにふわりと立ち上る。


 私も自分のカップを手に取り、縁にそっと口をつけて一口だけ喉に流し込んだ。じんわりとした温かさが、極度の緊張と長期間の過労で石のように強張っていた胃の腑へと落ちていく。


 その熱に微かな息を吐き出しながら、私は目の前の少女を静かに観察した。


 艶やかな黒髪は肩のあたりで綺麗に切り揃えられ、彼女が首を傾げるたび、窓からの光を反射してさらさらと揺れる。


 赤みがかった茶色の大きな瞳は、まるで迷い込んだ小動物のように、ふかふかの絨毯や壁を彩る精緻なタペストリーといった周囲の調度品をせわしなく見回していた。


 年齢は十六歳。私よりも二つ年下だという彼女が身に纏っているのは、紺色を基調とした、この世界では一度も見たことがない奇妙なデザインの衣服だった。


 デザインこそ知らないが、元いた世界で『制服』と呼ばれるものなのは確かである。


 規則正しく折り目のついたプリーツの布地が、彼女が緊張から身じろぎするたびに、小さな衣擦れ音を立てていた。



 私の専属護衛騎士であるルークには、ひとまずこの部屋の外、分厚い扉の向こう側で待機してもらっている。


 ただでさえ見知らぬ場所に引きずり込まれて混乱している星羅様に対し、私への執着と周囲への殺気を隠そうともしない長身の騎士が同席すれば、彼女をさらに怯えさせ、最悪の場合は泣かせてしまう気がしたからだ。


 まずは私一人で、誠心誠意、彼女に向き合わなければならない。



 聞こえるのは、壁掛け時計の秒針が時を刻む規則正しい音と、遠くの庭から風に乗って届く鳥の囀りだけ。


 私はカップを持ったまま、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。


 言わなければならない。私が彼女を、家族や友人がいるであろう元の世界から引き剥がし、この見知らぬ異世界へと無理矢理召喚してしまった、その最低な理由を。


 異世界からの召喚といえば、本来なら「滅びゆく国を救うため」とか、「恐ろしい魔王を討伐するため」とか、そういった崇高でヒロイックな大義名分があるべきなのだろう。


 神殿の文献に記されていた初代聖女も、きっとそうやって喚び出され、人々に感謝されながら戦ったに違いない。


 しかし、私の理由は違う。


 あまりにも身勝手で利己的で、ただひたすらに自分の欲望を満たすためだけのものだ。


 彼女のこれからの人生を大きく狂わせてしまったことに対する申し訳なさで、胸が今にも押し潰されそうである。


 怒られるだろうか。泣き叫ばれるだろうか。


「ふざけるな、今すぐ元の世界に帰せ」と胸ぐらを掴まれても、今の私に文句を言う資格など欠片もない。



 私は膝の上でカップを持つ手に力を込め、深く息を吸い込んだ。



「……星羅様。まずは、あなたの同意を一切得ずに、この世界へ喚び出してしまったこと、深くお詫びいたします」



 ティーカップをテーブルに置き、長椅子の上で深く頭を下げる。視界の端で、星羅様の小さな肩がびくりと大きく跳ねるのが見えた。



「あ、いえ! そんな、頭を上げてください!」



 酷く慌てたような、裏返った声。その響きに促されるようにゆっくりと顔を上げると、彼女の赤茶色の瞳が戸惑ったように激しく揺れていた。


 私は言葉を区切るように、もう一度紅茶を口に含む。


 林檎の甘さすら、今の私にはどこか苦く感じられた。そして、己の罪を告白する重罪人のように、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。



「ここは、あなたがいた世界とは全く別の世界です。私はレティシアーナ・クライン。この国で唯一の『聖女』として、怪我人や病人の治癒、そして国への祈りを捧げる役目を担っています」



 星羅様は両手でカップを持ったまま、瞬きもせず私の話へ真っ直ぐに耳を傾けている。その真摯な態度が、罪悪感をさらに抉った。



「ですが……私はもう、限界なのです」



 無意識のうちに、声が微かに震えていた。


 貴族たちの終わりのない、血みどろの派閥争い。


 私を便利な道具として引っ張り合い、毎日休む間もなく続く治癒の公務。


 睡眠時間を極限まで削られ、食事もろくに喉を通らず、ただ機械のように魔力を搾取されるだけの日々。


 過労で大理石の床に倒れた時の、あの全身の血が腐った泥水に変わったような強烈な倦怠感と絶望感が思い出され、私は小さく身震いした。



「私はただ、ふかふかのベッドで眠りたいのです。山積みの本に囲まれて、誰にも邪魔されない絶対的な孤独の中で、ゆっくりと休息を取りたい」



 言い切った瞬間、部屋の暖かな空気がぴしりと音を立てて凍りついたような気がした。


 真っ直ぐに顔を見ることができず、伏し目がちに星羅様の膝元を見つめる。紺色のスカートの布地をぎゅっと握り締める彼女の指先が、微かに白くなっていた。



「私の安眠のために……私の身代わりになって、この国の過酷な聖女になってほしい。それが、私があなたを召喚した、本当の理由です」



 最低だ。


 他人の人生を丸ごと犠牲にして、自分の睡眠時間を確保しようだなんて、聖女どころか悪魔の所業である。


 歴代の聖女たちが聞けば、墓の下から這い出てきて私を叱り飛ばすに違いない。


 さあ、罵ってくれて構わない。持っているティーカップの中身を私の顔にぶちまけ、怒りをぶつけてくれていい。


 私は固く目を閉じ、来たるべき怒声と非難の言葉に身構えた。



「……えっと、それってつまり」



 星羅様の声は、私の悲壮な予想に反して、なんとも平坦で、どこか間の抜けた響きを持っていた。


 恐る恐る目を開けると、彼女は手にしていたティーカップをカチャリとテーブルに置き、ぐっと身を乗り出すようにして私の顔を至近距離で見つめていた。


 その瞳に、怒りや悲しみ、故郷への郷愁といった負の感情は微塵も浮かんでいない。


 それどころか、キラキラと、星が弾けたかのように眩いほどの光を宿していたのだ。



「私がその『聖女』ってやつになれば、魔法が使えたりするってことですか?」


「え? ……あ、はい。あなたには私と同等か、それ以上の規格外の魔力と治癒の適性があるはずです。召喚陣の条件に、絶対にそうなるように組み込みましたから」


「すごい! 異世界転生、じゃなくて異世界召喚!? しかも聖女チート付き!」



 星羅様の顔がみるみるうちに、ぱぁっと向日葵が咲いたように明るく輝き始めた。


 彼女は両手を胸の前で祈るように組み合わせ、まるで憧れの舞台女優にでも出会ったかのような熱を帯びた視線を私に向けてくる。



「私、元の世界での学校生活、すっごく退屈だったんです。毎日同じことの繰り返しで、なんか面白いことないかなーってずっと考えてて……。だから、面白そうだし、やってみてもいいですよ、聖女!」


「……はい?」



 口から間の抜けた声が漏れた。あまりの予想外すぎる返答に、疲れ切った脳の処理が全く追いつかない。


 やってみてもいい? 面白そう? 聖女を? 


 この、私が八年間血を吐く思いで耐え抜いてきた、あの生き地獄のような過酷な公務を?



「や、やってみてもいい、とは……?」


「聖女のお仕事、私がやります! 魔法、すっごく使ってみたいですし、この世界のこと、もっと知りたいです!」



 満面の笑み。一点の曇りもない、底抜けに明るく、そして軽すぎる快諾だった。


 私はぽかんと口を半開きにしたまま、目の前で嬉しそうに身を捩る少女をただただ凝視した。


 泣かれる覚悟もしていた。怒られる覚悟もしていた。


 最悪の場合、慰謝料として王宮の宝物庫からありったけの宝石を持ち出し、彼女に持たせて元の世界へ帰すための逆召喚陣をまた一から研究し直さなければならないとまで覚悟を決めていたのだ。


 それが、こんなにあっさりと、まるで近所の買い出しに行くかのような二つ返事で引き受けてもらえるなんて。


 全身から、一気に力が抜け落ちていくのを感じる。


 私は長椅子の背もたれに深く寄りかかり、肺の中に溜まっていた重い空気を長く長い溜息として吐き出した。



「……拍子抜け、してしまいました」


「えへへ、すみません。私、昔から適応力だけは無駄に高いって言われるんです。あと、こういう異世界モノのお話、大好きだったので!」



 星羅様の底抜けに明るい言葉を聞いて、肩から長年圧し掛かっていた重い鉛のような疲労が、ふわりと抜け落ちていくのを感じた。


 ああ、神様。本当にありがとうございます。


 これで私は、あの忌まわしい祭壇での過酷な労働から解放され、ついに夢にまで見た至福の引きこもり生活へと旅立つことができる。


 深い安堵の溜息を吐き出し、冷めかけの紅茶を一口飲む。


 この喜びを噛み締めるように、手元にあった分厚い神殿の歴史書(を偽装した恋愛小説)を開こうと右手を伸ばした。


 しかし、指先がざらりとした羊皮紙のページに触れるより、ほんの一瞬早く。


 空気を裂くような鋭い音と共に、大きな手が私の手と本の間を遮るように滑り込んできたのだ。



「ル、ルーク?」



 驚いて顔を上げると、扉の向こうで待機していたはずの専属護衛騎士が、いつの間にか私の長椅子の真横に、片膝をつく完璧な姿勢で待機していた。


 彼のサファイアのような青い瞳は、私が読もうとしていた本のページを、まるで親の仇でも見るかのような鋭い眼差しで睨みつけている。



「いけません、レティシア様。素手で新しい本を開くなど言語道断です。俺がめくりますので、あなたはそのままの優雅な姿勢でお読みください」



 ルークは氷のように冷たい声でそう言い放つと、私の代わりにぺらり、とページをめくった。



「……あのね、ルーク。いくらなんでも、本くらい自分でめくれるわ。私は腕の骨を折っているわけではないのよ」



 引き攣った笑みで抗議すると、ルークは悲痛な面持ちで首を横に振った。



「お忘れですか? 三ヶ月前の大聖堂の書庫での出来事を。あなたは古い魔導書の縁で、右手の親指の先を数ミリほどお切りになったではありませんか。あの時、あなたの白魚のような指先から滲んだ一滴の赤い血を見た俺の心臓は半分止まりかけました。あのような痛ましい悲劇は、俺の命に代えても二度と繰り返させません」



 違う。あれはただの紙で指を切っただけのかすり傷だ。しかも無意識に治癒魔法をかけたため、一秒後には跡形もなく消え去っていたはずである。


 それを、まるで国を揺るがす大惨事のように語るこの男の過保護ぶりは、明らかに常軌を逸していた。



「だからといって、私が文字を読むスピードに合わせて、あなたがずっと横でページをめくり続けるつもり?」


「ええ、当然です。あなたの瞳の動き、呼吸の深さ、すべてを完璧に把握しております。次のページを望むそのコンマ一秒前に、俺はこの指先を動かしてみせましょう」



 狂っている。


 美しい顔で極めて真面目なトーンのまま語られるその忠誠心は、もはや恐怖すら感じるレベルの狂気だ。


 隣で、星羅様がぽかんと口を開けてそのやり取りを見つめている。


 平和な現代社会から来た彼女にとって、こんな過保護すぎる主従関係など理解の範疇を超えているはずだ。きっと引いているに違いない。



 ふと、鈍い羽音が耳に飛び込んでくる。


 開け放たれた窓から初夏の暖かな空気に乗って、一匹の不運な羽虫が迷い込んできた。


 それはのんびりとした軌道を描きながら、あろうことか私の肩のあたりへとフラフラと近づいてきたのだ。



「あ、虫……」



 星羅様が指を差して呟いた次の瞬間、ビキッ、と室内の空気が物理的に凍りついたような錯覚に陥る。


 ルークの全身から、先程までの静かな過保護とは全く質の違う、研ぎ澄まされた純粋な殺意が爆発的に膨れ上がったのだ。



「……レティシア様の御肌に、羽虫一匹たりとも触れさせるものか」



 地を這うような低い声。チャキッ、と剣が鞘から抜かれる甲高い音が響いたかと思うと、ルークの姿が視界からフッと消えた。


 直後、部屋の中に突風が吹き荒れる。


 空気を文字通り真っ二つに切り裂く凄まじい破空音が響き渡り、アンティークのテーブルクロスが激しく捲れ上がる。私は思わず目を閉じ、両手で頭を庇った。


 風が収まり、恐る恐る目を開けると、そこには剣を優雅に振り抜いた姿勢のまま静止しているルークの姿がある。剣先からわずか数センチの空中で、あの不運な羽虫は四つに切り裂かれて微細な塵となり、パラパラと床に落ちていくところだった。



「……対象の排除、完了いたしました。ご安心ください、レティシア様」



 ルークは何事もなかったかのように涼しい顔で剣を鞘に納め、再び私の横で「ページめくり係」へと戻った。


 たかが一匹の虫を殺すためだけに、騎士団の最高奥義とも言えるような神速の剣技を室内でぶっ放すなど、頭がおかしいとしか思えない。一歩間違えれば、私の髪の毛ごと切り飛ばされていたかもしれないではないか。


 絶望に天を仰ぎ、もはやツッコミを入れる気力すら失っていた。



「わぁぁっ……‼ すごいです、ルークさん!」



 突然、鼓膜を劈くような黄色い歓声が上がった。見れば、星羅様が両手を叩き、目をキラキラと星のように輝かせて立ち上がっているではないか。



「今の剣、見えないくらい早かったです! あんな小さな虫を空中で斬るなんて! レティシア様、すっごく大切に守られてるんですね、まるで物語のお姫様みたい!」



 違う。そうじゃない。これはお姫様扱いなどという生易しいものではない。


 自分の所有物を絶対に傷つけさせないという、病的なまでの監視と執着だ。



「ええ、セーラ嬢。レティシア様の御髪の一本に至るまで、俺がこの命に代えてもお守りいたします。……ですから、レティシア様。どうかご安心なさって、本をお読みください」



 極上の笑みを浮かべるルークと、尊敬の眼差しで拍手を送る星羅様。


 方向性は違うが異常に熱量の高い二人に囲まれた空間で、どうやってリラックスして読書を楽しめというのか。


 私は開かれたままの恋愛小説のページを見つめながら、これから始まるであろう「全く休まらない日常」の恐ろしさを痛感し、ただ静かに絶望の溜息を吐き出すのだった。


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