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第2話 完璧な異世界召喚

 埃っぽい匂いが充満しているここは、日の光から遠ざけられた王宮のさらに奥に位置する王家の禁書庫である。


 そして、国で唯一の『聖女』という肩書きを持つ私に立ち入りが許された、忘れられた知識の墓場でもあった。


 天井の高さすら判然としない薄暗闇の中、巨大な黒檀の本棚が迷路のように入り組んでそびえ立っている。


 通路の床には分厚く埃が降り積もり、私が一歩足を踏み入れるたびに、積もった年月が白い靄となってふわりと舞い上がった。


 安眠と平穏な引きこもり生活を取り戻すための、輝かしい第一歩。


 私に代わる新しい聖女を異世界から召喚するという前代未聞の計画は、まずその方法を記した文献をこの膨大な蔵書の中から探し出すことから始まった。



 私が頼りにしているのは、聖女になったばかりの頃に教え込まれたおとぎ話のような伝承である。


 この世界で多くの人々が祈りを捧げるのは、この世界をお創りになったという女神フォルトゥナ神を祀るフォルトゥナ信仰だ。


 しかし、我がアドラー国ではそれに加え、聖女信仰が根付いている。


 というのも初代聖女は、この世界が魔物の脅威と混沌に陥った時代に、当時の高名な魔術師たちが総力を挙げて『異世界から召喚した人間』だという。


 その後、初代聖女が残した血脈から、ごく稀に後世の聖女たちが生まれるようになったらしい。


 その中でも特に血を濃く受け継ぐと言われているのが、王家の分家にあたるローゼンベルク家、武の名門であるブルーメンフェルト家、そして我がクライン家の三つだ。


 退屈な歴史の授業でも、真面目に聞いていた当時の自分を誉めてあげようと思う。


 まあ、とにかく私にとって重要なのは、過去に「異世界からの召喚」が成功しているという揺るぎない事実だけだ。


 先人が成し遂げたのであれば、その術式や条件を記した記録が、必ずこの国のどこか――王家が管理するこの禁書庫の片隅に眠っているはずなのだ。



 だが、現実はそう甘くない。


 探せど探せど、目当ての文献は一向に見つからなかったのだ。


 そもそも、私にはまとまった探索の時間が与えられていない。


 朝から晩まで続く過酷な治癒の公務と、終わりの見えない祈りの儀式。


 貴族たちの派閥争いに笑顔で付き合い、精神と魔力を限界まで搾り取られた後、私はようやく解放される。


 本来ならば、泥のように眠りにつきたい時間だ。


 しかし私は、ただでさえ少ない睡眠時間をさらに削り、重い足を引きずりながら深夜の禁書庫へと潜り込む日々を続けていた。


 右手に持った小さな真鍮のランプが、薄暗い灯りを頼りなく揺らしている。


 手袋をはめた手で、崩れかけた羊皮紙を一枚一枚慎重にめくり、装丁が剥がれ落ちた古い魔導書を開くたびに、パラパラと劣化した紙の欠片が零れ落ちる。


 そこに記されているのは、見たこともないような難解な古語や、複雑に絡み合った魔術の陣形ばかりだった。


 ただでさえ疲労で焦点の合わない瞳を細め、それを解読していく作業は、まさに身を削るような骨の折れる苦行である。



「ああもう、なんでこんなに無駄な本ばかりなのよ……!」



 誰もいない静まり返った書庫に、私の苛立ちを含んだ声が虚しく響いた。


 手に持っていた分厚い魔導書を、力任せに壁の向こうへ投げつけたくなる衝動に駆られる。


 この本には、数百年前に絶滅したと言われる魔獣の生態系について延々と書かれていた。


 研究者には最高の資料かもしれないが、残念ながら今の私にとっては、紙くず以下の価値しかない代物だ。


 こめかみを指先で強く揉みほぐしながら、私は深く長い溜息を吐く。


 限界だ。立っているのすら辛い。冷たい石の床に倒れ込んで、このまま意識を手放してしまいたい。


 それでも、私の心をどうにか繋ぎ止めていたのは、脳裏に焼き付いている『あの光景』だった。


 誰の顔色を窺うこともなく、好きな時に微睡み、好きな時にページをめくる、あの至福の引きこもり生活。


 あの絶対的な孤独と安らぎを得るためならば、私はどんな苦労だって耐えてみせる。


 この地獄のような過労死寸前の毎日から抜け出せるのなら、睡眠時間を削る程度の代償は安いものだ。


 私は自身にそう言い聞かせ、再びランプの灯りを本棚の奥へと向けたのだった。



 そうして、終わりなき探索の旅が始まってから一ヶ月が過ぎた。


 喉の奥が、常に充満している埃の所為でイガイガと荒れ果て、少し息をするだけでも咳き込みそうになる。


 目の下には、上から白粉をはたいても隠しきれないほどの、立派で濃い隈が定着してしまっていた。


 周囲の神官たちは「聖女様は夜通し祈りを捧げておられるのだ」と勝手に勘違いして涙ぐんでいたが、私の頭の中にあるのは常に『睡眠』の二文字だけである。



 そして、その日の深夜。


 本棚の最下段、最も埃の厚い場所に無造作に押し込まれていた革表紙の手帳には、複雑でありながらも、どこか見覚えのある魔力構成の陣が記されていた。



「……え?」



 私はランプを近づけ、震える指先でその古語の記述をなぞる。


『境界を越えし魂を呼ぶ』。


 間違いない。これだ。


 私はついに、一ヶ月の苦行の末に、初代聖女を異世界から喚び出したとされる召喚陣の記載を見つけ出したのだ。


 歓喜のあまり、私の目から無意識に涙が零れ落ちた。


 ぽたりと羊皮紙に落ちた水滴が、古びたインクを微かに滲ませる。それに慌てて目元を拭った私の唇は、間違いなく緩んでいたことだろう。


 やった。ついに見つけた。


 これで私に代わる救世主を喚び出し、あの忌まわしい仕事漬けの毎日から永遠に逃げ出すことができるのだ。


 埃まみれの禁書庫の床に座り込んだまま、私は見つけた手記を胸に強く抱き締める。


 私の輝かしい引きこもり生活への扉が、今、確かな音を立てて開き始めたのを感じていた。




 そして今。


 私は教会の最奥、さらにその地下深くにひっそりと存在する、冷たく暗い石造りの部屋にいた。


 太陽の光など何百年も差し込んだことのないその空間は、ひんやりと重く湿った空気が澱んでおり、薄手の法衣しか纏っていない私の肌を容赦なく刺してくる。


 どこからか微かにぴちゃん、ぴちゃんと、地下水が石畳を打つ音が規則正しく響き、それがかえってこの閉鎖空間の絶対的な静寂と孤独を際立たせていた。


 ここは普段、誰も寄り付かない古い場所だ。


 以前は修練者が外界との接触を断ち、瞑想するために使われていたそうだが、今ではそんなストイックな行為は失われてしまっている。


 しかし誰の目にも触れず、誰にも見つからずに、国家を揺るがすような大掛かりな魔術を密かに行うには、これ以上ないほど完璧な環境だった。



「……よし、これで完成っと」



 私は氷のように冷たく硬い石造りの床に這いつくばったまま、手首に滲んだ脂汗を手の甲で乱暴に拭った。


 ふわりと垂れてくる淡い空色がかった私の白髪は、床の泥汚れと何百年分もの埃、そして自身の汗とが混ざり合い、酷く薄汚れてしまっている。


 聖女でなければ、最高級の絹で仕立てられた美しいドレスの裾を優雅に翻して歩く伯爵令嬢であっただろう私が、聖女の象徴として与えられた純白の衣を汚し、這うようにして床に貼りついているのだ。


 もしもあの頭の固い高位神官たちや、体面と礼儀作法ばかりを気にするうるさい貴族たちが見たら、泡を吹いてその場で卒倒するに違いない。


 だが、そんなくだらない体裁や誇りなど、今の私にはどうでもよかった。


 私の血走った瞳の先には、最高級の魔力草から何日もかけて抽出した真っ赤なインクで緻密に描かれた、巨大で複雑極まりない召喚陣が広がっている。


 細い筆を握り続けていた右手の指先は、インクでべっとりと真っ赤に染まり上がり、爪の間に入り込んだ黒ずんだ汚れは、いくら洗っても簡単には落ちそうにない。


 床の凍えるような冷たさが、薄い布地と膝を通して骨の髄まで沁み込んでくるし、何時間も無理な姿勢で屈み込んでいたせいで、腰と背骨は悲鳴を上げてズキズキと熱を持った痛みを放っている。


 ただでさえ過労死寸前のボロボロの身体に、徹夜の精密な魔術作業は、まさに自らの命を削ってトドメを刺すような地獄の苦行だった。


 それでも、私の胸の奥底からは、ふつふつと熱い達成感と、輝かしい未来への希望が湧き上がっている。



 普通、異世界から人間を召喚するような神話級の大魔術は、数十人の熟練した宮廷魔術師たちが魔力を結集させ、何日もかけてようやく成し遂げられる代物だ。


 しかし、幸か不幸か、腐っても国唯一の聖女たる私の魔力量は、完全に人間の枠を外れた規格外だった。


 これだけ緻密で巨大な陣を一人で描き上げ、さらにそれを起動させるだけの純度の高い銀の魔力が、私の中には(過労で少なくなっているとはいえ)まだ有り余っている。


 なんとか自分一人の魔力だけで、この理不尽な代償を贖えそうだ。


 ただ召喚するだけの陣を描くのなら、然程難しくはない。


 禁書庫で泥と埃にまみれながら苦労して見つけた文献の記述を、そのまま床に書き写せばいいだけのこと。


 だが、それでは絶対に駄目なのだ。


 もしも召喚した相手が、「聖女なんて絶対にやりたくない! お家に帰る!」と泣き叫んで元の世界に戻られたり、あるいは治癒の魔力が全くないただの平凡な一般人だったりしたら、私の血の滲むような徹夜の苦労はすべて水泡に帰してしまう。


 折角の努力が無駄になり、再びあの終わりの見えない過労の地獄、無限に続く治癒と祈りの日々へ引き戻されることだけは、絶対に何が何でも避けなければならない。



 だからこそ、私はこの召喚陣に、いくつもの強固な『条件』を複雑な術式として強引に編み込んだのだ。


 一つ、聖女として相応しい美しく清らかな見た目と、私と同等かそれ以上の規格外の魔力量を持っていること。


 一つ、今の自分の生活に不満を抱いており、異世界への興味が強く、新しい環境に飛び込む勇気や無鉄砲さがあること。


 そして最後に、召喚の対象となる地域は、私が転生する前に生きていた国――つまり、私の前世と同じ文化圏で育った話の通じる人間であること。



「……本当に、骨が折れた」



 極度の疲労で酷く掠れた独り言が、冷たい石壁に吸い込まれて静かに消えていく。


 これらの極めて個人的で身勝手な要素を、既存の完成された召喚陣の術式に干渉しないように入れ込むのは、まさに神業に近い狂気じみた緻密な計算作業だった。


 陣の線をたった一本、ほんの数ミリ間違えれば術式が暴走し、最悪の場合はこの地下室ごと、あるいは教会の一部ごと吹き飛んでしまう。


 何度も何度も薄暗い自室で羊皮紙の束に計算式を書き殴り、頭の中でシミュレーションを繰り返した。


 それ故、これほどの期間を要してしまったわけである。


 すべては、私がふかふかの特注ベッドで安らかな睡眠を得るため。


 誰にも邪魔されない、絶対的な孤独の中で、インクの匂いのする新しい本を読み耽る、あの至福の引きこもり生活を得るためだ。


 その強烈すぎる渇望だけが、限界を迎えていた私の身体を無理矢理突き動かしてきたのである。



「準備は整ったわ……」



 私はゆっくりと、軋む関節を宥めるように立ち上がり、痛む腰をトントンと拳で叩いて伸ばした。


 真っ赤なインクで描かれた複雑な幾何学模様が、地下室の壁に掛けられた薄暗いランプの灯りを受けて、妖しく鈍い光を放ち始めている。


 この陣の向こう側に、私の運命を、いや、私の愛する睡眠時間を救ってくれる希望に満ちた後輩が待っているはずだ。


 胸の前で両手を固く組み、目を閉じて、来るべき安息の未来に思いを馳せた。



 ひんやりとした地下室の空気が、汗ばんだ肌を撫でていく。


 肺の奥まで完全に冷え切ってしまいそうな場所だけれど、胸の奥底では、かつてないほどの熱い炎が燃えたぎっていた。


 大きく深く呼吸をする。冷たい空気が肺を満たすのを感じながら、私はゆっくりと意識を内側へと向け、自身の核にある魔力の源泉へとアクセスする。


 歴代の聖女に名を連ねる理由となった、私の内に宿る銀の魔力。


 普段の大聖堂での治癒魔法では、患者の脆い身体を壊してしまわないように、ほんの少しずつ細い絹糸を紡ぐように小出しにしているそれを、今は堰を切ったように一気に解放するのだ。



「……さあ、来なさい」



 震える唇から紡かれた言葉に呼応するように、足元の赤い魔方陣が心臓の鼓動のように明滅を始めた。


 私の脈拍とリンクするように、陣を構成する複雑な幾何学模様が朱色の光を強く放ち出す。


 私は組んだ両手にさらに力を込め、自身の中に眠るありったけの魔力を陣へと注ぎ込んだ。全身の血管を、熱く重い液体が駆け巡るような錯覚に陥る。


 指先から溢れ出した純白に近い銀色の光の粒子が、凄まじい勢いで滝のように魔方陣へと降り注いでいく。


 本来であれば、魔力回路が焼き切れ、身体が内側から弾け飛んでしまうかもしれない。


 けれど、過労死寸前まで私を酷使し続けたこの理不尽な魔力量だけは、今この瞬間ばかりは最大限に褒めてやりたかった。



 ごうっ、と。


 密閉されたはずの地下室に、突如として強烈なつむじ風が巻き起こった。


 長年積もっていた分厚い埃が竜巻のように舞い上がり、私の髪を激しく揺さぶる。目を開けているのすら辛いほどの強烈な風圧の中、足元の魔方陣が放つ光は赤から黄金へ、そして眩いほどの純白へとその色を変えていった。


 空間が物理的に歪むような、嫌な耳鳴りが頭蓋骨をギシギシと軋ませる。足元の石畳が微かに震え、世界そのものが、次元の壁を越えてやってくる異世界からの『異物』を受け入れようと悲鳴を上げているかのようだ。


 もう少し。あと少しで、私の念願が叶う。


 貴族たちの終わりのない醜い派閥争いや、泥のように続く祈りと癒しの日々から解放されるのだ。


 限界を迎えた私の頭の中には、すでに真っ白なシーツに包まれた柔らかい特注ベッドの映像しかない。



「お願い、来て。そして私に安息の休日をちょうだい……!」



 魂の底からの、あまりにも切実で、そして酷く個人的な祈りが空間に響き渡った。



 太陽がそのまま地下室に落ちてきたのかと錯覚するほどの、強烈な極光が視界を真っ白に染め上げた。


 私は思わず両腕で顔を覆い、きつく目を閉じる。光の奔流は嵐のように吹き荒れ、肌を焼くような熱と、独特の匂いが鼻腔を激しく突いた。


 永遠にも似た数秒が過ぎ去り、やがて荒れ狂っていた風が嘘のようにぴたりと止む。


 瞼の裏を焼いていた強烈な光が収まったのを感じ取り、私は恐る恐る顔を上げた。


 静まり返った地下室。赤いインクで描かれた魔方陣はすでにその役目を終え、ただの黒い焦げ跡のような模様となって石畳に焼き付いている。


 そして、その魔方陣の中心に、一人の少女がへたり込んでいた。


 年齢は私よりも少し下くらいだろうか。この世界では見たこともない、紺色を基調とした奇妙な衣服――あれは元の世界での『制服』と呼ばれるものだ――に身を包んでいる。艶やかな黒髪が肩口で綺麗に切り揃えられており、その小柄な身体は、突然の出来事に怯えたように小刻みに震えていた。


 成功した。


 本当に、私以外の人間を、異世界から喚び出してしまったのだ。


 少女がゆっくりと顔を上げる。赤みがかった茶色の大きな瞳が、見慣れぬ薄暗い石造りの部屋と、目の前に立つ私を捉えて限界まで大きく見開かれた。



「えっ、ここ、どこ……?」



 恐怖で震える彼女の唇は、すっかり血の気を失って青ざめている。


 突然見知らぬ暗い場所に引きずり込まれたのだ。混乱し、恐怖を抱くのは当然のことだろう。


 しかし、私の胸を満たしていたのは、彼女の人生を狂わせてしまったことに対する罪悪感や同情では決してなかった。


 歓喜だ。純度百パーセントの歓喜である。


 これで私は休める。毎日泥のように眠ることができる。迫り来る過労死の恐怖から、ついに解放されるのだ。


 私は自分が今、どんな恐ろしい顔をしているのか自覚していた。


 きっと、聖女として信徒に向ける慈愛の微笑みなどではなく、極上の獲物を見つけた肉食獣のような欲望にまみれた顔をしているに違いない。


 ゆっくりと彼女に歩み寄り、冷たい床に膝をついて視線を合わせた。


 そして、私が持ち得る最高で極上の笑みを顔面に貼り付けて、優しく、かつ力強く宣言したのだ。



「ようこそ、救世の聖女様。どうかこの国を、そして何より私の睡眠時間を救ってください!」


 

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