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第17話 私の平穏はどこへ?

 王宮の地下室での、あの『大掃除』から数日後。

 謁見の間は、晴れやかで、どこか浮き足立ったような祝祭の空気に包まれていた。


 遥か高くそびえるドーム型の天井から吊るされた巨大なクリスタルのシャンデリアが、高窓から差し込む初夏の柔らかな陽光を浴びて、プリズムのように無数の虹色の光を壁や床に散らしている。

 空気中に舞う僅かな塵すらも黄金の粒に変わり、並び立つ近衛騎士たちの、磨き上げられた銀色の甲冑を眩く照らし出していた。


 回廊で醜い派閥争いをしていた貴族たちも、今日ばかりは毒気が抜けたような穏やかな顔をして整列している。

 いや、時折彼らが私へ向ける視線の奥に、畏怖や恐怖といった感情が隠しきれずに滲んでいるのを、私は見逃していなかった。


 無理もない。王宮の地下深くに巣食っていた、国を滅ぼしかねないほどの巨大な怨念の塊。それを、私が単身で完全に浄化してしまったのだ。

 王都全体を重く覆っていた瘴気は完全に霧散し、人々の心を蝕んでいた得体の知れない悪意も、嘘のように消え去った。

 結果として、私の「聖女」としての評価は、もはや人間の枠を超え、神の化身か何かのように神格化されてしまっているのである。


 そして私は今、その熱狂と畏敬の視線の中心に立っていた。

 身に纏っているのは、普段着ている法衣ではない。

 最高級の絹で仕立てられ、裾や袖口に緻密な銀糸の刺繍が施された、目が眩むほどに豪華な純白のドレスだ。

 過労と睡眠不足でパサパサになっていた私の淡い空色がかった白髪は、王室専属の侍女たちが丁寧に香油を擦り込み、艶やかに梳き上げられて見事な編み込みにまとめられている。

 頭上には、聖女の証として王家から賜った純度の高いサファイアとダイヤモンドがはめ込まれた小さなティアラが、私の動きに合わせてきらきらと冷たい光を放っていた。

 首を絞めつけるような重いネックレス。息もできないほどきつく締め上げられたコルセット。

 疲労の抜けきらない身体にはただの拷問でしかないこの正装も、今日という日を乗り切るためならば、私は喜んで耐え忍ぶ覚悟があった。


 大階段の上、黄金の玉座に座る国王陛下が、かつてないほど慈愛に満ちた、そして深い感謝を湛えた眼差しで私を見下ろしている。



「……今代の聖女レティシアーナよ。そなたは自らの身を挺して、王国の地下に眠る古き呪いを祓い、国を滅亡の淵から救ってくれた。その比類なき功績と深き慈愛の精神は、我が国の歴史に永遠に刻まれるであろう」



 国王陛下の朗々たる声が、静まり返った謁見の間に響き渡る。

 並み居る貴族たちが一斉に深く頭を垂れ、騎士たちが敬意を示すように胸に手を当てた。

 私の斜め後ろに控える星羅様からは「さすがレティシア様です!」という無言の熱い波動が伝わってくるし、ルークに至っては「俺の主こそが世界で最も尊い」とでも言いたげな、静かだが重すぎるオーラを放っている。



「救国の聖女よ。そなたの献身に、王家として心からの感謝と敬意を表する。……さあ、望みの褒美を申すがよい。余にできることであれば、何でも叶えよう」



 その言葉を――。


 私は、そのたった一言を、どれほど待ち望んでいたことだろうか。


 十歳で聖女として見出されてから八年間。

 来る日も来る日も、朝から晩まで過労死寸前まで働かされ、貴族たちの醜い欲望の捌け口にされ、人間としての最低限の睡眠すら奪われ、自由を制限されてきた。


 前世の記憶を思い出してからは、ふかふかのベッドでの安眠というたった一つの夢を見て、なりふり構わず行動してきたのである。


 異世界から後輩を召喚し、狂犬のような護衛騎士の重圧に耐え、王宮の地下の巨大な瘴気を物理と魔法で消し飛ばした。


 すべてはこの瞬間のためにあったと言える。


 私は大きく息を吸い込み、真紅の絨毯の上を一歩前へ踏み出した。王族に対する最上級の礼の姿勢をとり、深く頭を下げる。

 そして私は、これまで八年間被り続けてきた、自己犠牲を厭わない『慈愛の聖女』としての仮面を、自らの手でベリベリと音を立ててかなぐり捨てた。


 アメジストの瞳にギラギラとした欲望の火を灯し、魂からの叫びを解き放つ。



「休息をくださいっ‼」



 静まり返った広大な謁見の間に、ドレス姿の令嬢らしからぬ、私の絶叫がこだまする。


 ぴたり、と時が止まったかのような錯覚。

 国王陛下が、「えっ?」というように呆然と目を見開いて言葉を失い、傍らに立つアルベルト殿下が、普段の完璧な冷徹さを崩して「ぶっ」と小さく吹き出す音が聞こえた。


 並み居る貴族たちは、救国の英雄の口から飛び出したあまりにも俗物的で切実すぎる要求に、完全に絶句して石像のように固まっている。

 しかし、私の決意は揺るがない。誰にどう思われようと知ったことか。私は一歩も引かずに、肺に残ったすべての空気を振り絞って言葉を続けた。



「無期限の! 誰の足音も聞こえない、誰の面会も受け付けない、絶対的な休息を! 王都から一番離れた、教会の鐘の音すら届かない領地で、私が満足するまで、ただひたすらに泥のように眠り続ける権利を、どうか私に与えてください‼」



 ……こうして私は国を救った最大の功労者として、王宮の宝物庫の金銀財宝でも、王子との婚姻でもなく。

 クライン家の領地の中でも一番王都から離れた辺境での「無期限の静養」という、念願の『引きこもり切符』を手に入れたのであった。






 そして私は今、長閑な田園風景の中を滑るように進む馬車の窓から、ゆっくりと後ろへ流れていく景色を眺めていた。


 欲望と激務にまみれた王都の喧騒は、すでに地平線の彼方へと遠ざかっている。

 見渡す限りに広がるのは、青々とした初夏の草原と、雲の影がゆっくりと流れていくなだらかな丘陵地帯。のんびりと草を食む白い羊の群れが、点々と景色に彩りを添えていた。


 どこまでも高く澄み渡った空からは、鳥の楽しげな囀りが降り注ぎ、開け放たれた馬車の窓から入り込む風は、乾いた土と名も知らぬ野花の甘い香りを運び、私の頬を優しく撫でていく。

 私はふかふかの背もたれに深く身体を預けて、肺の底に溜まっていた重苦しい空気をすべて吐き出すように、長い長い安堵の溜息を漏らした。



「ああ……。やっと、やっと私の夢が叶うわ」



 ぽつりと、心の底から溢れ出た言葉が唇から零れる。


 王都から一番遠い別荘に着けば、そこには私が事前に指示して作らせた、最高級のスプリングと羽毛を持つ特注のベッドが待っているはずだ。

 部屋の隅には、王宮の大図書館から借り受けてきた、まだ見ぬ物語を秘めた本の山。

 冷めないように保温の魔術具をセットしたティーポットと、温かい紅茶。

 誰のノックの音も聞こえない、誰の派閥争いにも巻き込まれない、絶対的な孤独と静寂。


 想像するだけで、八年間の過労で強張っていた頬の筋肉が、だらしなく緩んでしまうのを止められなかった。



「レティシア様、お疲れですか? 俺に寄りかかって眠っても構いませんよ」



 私の甘美な妄想を遮るように、すぐ隣から鼓膜を直接撫でるような甘い声が聞こえてくる。

 ゆっくりと首を巡らせると、専属護衛騎士であるルークが、その彫刻のように整った顔で私を覗き込んでいた。



「あ、ありがとう、ルーク。でも、大丈夫だから……」



 私は引き攣った笑みを顔に貼り付け、彼の逞しい肩をそっと両手で押し返す。

 本当に本当は、この馬車に一人で乗って、誰とも言葉を交わさずに究極の孤独な休暇を楽しみたかったのだ。

 しかし、いくら静養とはいえ国を救った聖女が丸腰で辺境へ赴くことなど王室が許すはずもなく、護衛騎士である彼がついてくるのは、立場上どうしようもないことである。


 大丈夫。別荘に着きさえすれば、彼には部屋の外で待機してもらい、私は分厚い扉に鍵をかけてベッドに引きこもればいいのだから。


 そう自分を慰め、再び窓の外へ視線を向けようとした私の向かいから、小柄な少女が勢いよく身を乗り出してきた。



「あの、レティシア様っ!」



 艶やかな黒髪を揺らし、赤茶色の瞳を太陽のように輝かせているのは、私が異郷から召喚した救世主であり、そして私を狂信的に崇拝する後輩聖女、星羅様だった。



「私、レティシア様の静養先で、聖女としての心構えと高度な魔法の技術を、みっちり教えてもらうつもりです! 朝から晩まで、ずっとレティシア様と一緒にいられるなんて、本当に夢みたいっ!」


「えっと……星羅様? 私はあくまで、一切の仕事をしない『無期限の休暇』に向かっているわけでして……」



 私が引き攣った顔で後ずさろうとするのも虚しく、星羅様は両手を組んで、完全に私と同棲生活を始める気満々の、暑苦しいほどの熱意を放ち続けている。


 何故彼女がこの馬車に乗っているのか。

 それは「レティシア様が行くなら私も行きます! そうじゃなきゃ王都を沈めます!」と彼女が泣き叫んで暴れたため、王室が恐れをなして同行を許可してしまったからだ。


 これでは、別荘に着いたとしても、彼女が「先輩、起きてください!」と毎日ベッドにダイブしてくる未来しか見えないではないか。



「そうですよ、セーラ様。レティシア様を独占するのは、専属護衛騎士である俺の役目ですから。あなたは離れた場所で、一人で枯れ草に魔法の練習でもしていてください」



 私の隣から、ルークが氷のように冷たい声で静かに牽制を入れた。彼の目は笑っているが、星羅様に向けられた殺気は本物だ。



「狡いです! ルークさんばっかりレティシア様の隣に座って! 私もレティシア様に肩を貸してあげたいのに!」


「お断りします。あなたのその細い肩では、レティシア様の支えになることなど、到底できません」


「むーっ! 私だって、レティシア様といちゃいちゃしたい!」



 私の隣と向かいの席で、静かだが確実に命の削り合いになりかねない、重すぎる愛の衝突が始まりかけていた。

 馬車という逃げ場のない密室で繰り広げられる、護衛騎士と後輩聖女による「どちらがより私に近づく権利があるか」という地獄の争い。

 私の鼓膜は彼らの言い争う声に蹂躙され、ふかふかのクッションの恩恵すら全く感じられなくなってきていた。


 ……さらに、私の絶望に追い討ちをかける存在が、もう一人。



「ふん。お前は本当に学ぶつもりがあるのか? ただ聖女の威光にすがりつき、遊びに行くだけの足手まといに見えるがな」



 星羅様の隣の席。

 本来であればこの馬車に乗っているはずのない――いや、乗っていてはいけないはずの人物が、優雅に足を組み、冷たく鼻を鳴らした。

 純白の軍服に身を包み、見事な金髪とアクアマリンの瞳を持つ、この国の第一王子、アルベルト・アドラー殿下その人である。



「なっ……! 王子の癖に、心が狭いですね。私はレティシア様のサポートをするために行くんです!」


「サポートだと? 笑わせるな。王の御前で大泣きして脅迫するような子供に、何ができるというのだ。俺が直接監視に赴かなければ、お前たちがまた辺境で国を揺るがすような問題を起こしかねんからな」



 アルベルト殿下が、冷たい視線で星羅様を睨み下ろす。

 そう。彼がこの馬車に同乗している理由は、「この規格外の狂人たちを野放しにしておけば、国が物理的に滅びる」という、王族としての酷く不憫な使命感を抱え込んでしまったからだ。



「子供じゃありません! だいたい、王子様なら王都で大人しく書類仕事でもしてればいいじゃないですか。ついてこないでください!」


「言葉を慎め、異郷の娘。俺は次期国王として、この国の脅威を監視する義務があるのだ」



 向かいの席で、素直じゃない第一王子と、物怖じしない後輩聖女による、まるで子供の喧嘩のような賑やかで騒がしい口論がヒートアップしていく。


 私は、その言い争う二人を、半分魂が抜けかけたような状態で見つめていた。

 ……なんだかんだ言って、この二人、すごくお似合いなんじゃないかしら。

 アルベルト殿下は普段の威厳を完全に忘れて星羅様を構いに行っているし、星羅様も王族相手に全く遠慮がない。

 彼らがそのまま恋に落ちてくれれば、私の監視から少しは意識が逸れるかもしれない。

 そんな、どこか保護者のような、現実逃避に近い思考が私の頭をよぎる。


 私の隣では、相変わらず「レティシア様は俺のものです」と物騒な殺気を放つ過保護すぎる騎士。

 向かいの席では、「絶対にレティシア様に張り付きます!」と付き纏う気満々の後輩聖女と、それを「俺が監視する」と意地を張る不憫な第一王子。


 美しい田園風景の中を進む馬車の車内は、むせ返るほどに濃厚で、致死量に達しそうなほどの『重すぎる愛』と『騒がしい人間関係』によって完全に飽和していた。


 静寂など、微塵もない。

 孤独など、欠片もない。


 私は、ズキズキと痛み始めたこめかみを指先で押さえながら、そっと彼らから窓の外へと視線を逃がした。


 青い空。白い雲。流れていく平和な景色。

 王宮の地下室を掃除し、国を救い、ついに手に入れたはずの「無期限の静養」。

 しかし、私のこれから始まる生活は、間違いなく、これまで以上に騒がしい、一秒たりとも気の休まらない『静養生活』になることだろう。



 私の愛する、静かでふかふかなベッドでの安眠は、果たしていつになったら手に入るのだろうか。

 馬車の車輪の音と、三人の騒がしい声に包まれながら、私はただただ静かに、絶望と諦観の混じった遠い目をして、果てしなく続く青空を見上げるのだった。

 

これで一区切りです。

続きもあるので、まとまったらまた、連載していきます。

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