第16話 救国の聖女
部屋の手前側の床や壁が、錬金洗剤と私の磨き上げによって本来の大理石の輝きを取り戻していく。
小気味良い摩擦音が、静寂に包まれた地下室の中でリズミカルに響き渡っていた。
しかし、部屋の最奥には、これまでの埃やカビとは次元の違う、最悪の『汚れ』が鎮座している。
どす黒い紫色の、まるで巨大なゼリーのような粘体だった。
それは、王都中から集まった人々の嫉妬、憎悪、絶望といった負の感情が、長きにわたってこの地下室に澱み、蓄積し、ついに物理的な質量を持つに至った呪いの結晶体なのだろう。
一流の魔術師の集団が挑んでも、数秒で飲み込まれてしまうほどの凶悪な魔力密度だ。
けれど、バケツと雑巾を持った私の目に映るそれは、ただの『何百年も放置された、とてつもなく頑固なシミ』でしかない。
「……全く、ここまでこびりつくと、普通の洗剤じゃ落ちないのよね」
私は腰に手を当て、主婦のような深い溜息を吐き出した。
理想の寝室に、こんな悪臭を放つヘドロのようなシミがあっては、到底安眠などできはしない。
ふかふかの特注ベッドを置くためにも、この部屋を無菌状態にまで徹底的に磨き上げなければならないのだ。
「さあ、本気のシミ抜きを始めましょうか」
目を閉じ、自身の中に眠る銀色の魔力を、これまでになく深く、そして暴力的なまでの質量で引き出していく。
連日の過労死寸前の公務で鍛え上げられた私の魔力回路は、この程度の出力では微塵も悲鳴を上げない。
むしろ、自らの安眠環境を整えるという明確かつ強烈なモチベーションによって、普段の何倍もの滑らかさで魔力が巡っていた。
「――浄化の光よ」
私の両手のひらから、太陽すらも霞むほどの眩い純白の極光が迸った。
それは、細い糸のような普段の治癒魔法とは全く違う。
例えるなら、巨大な滝。圧倒的な質量の光の濁流となって、最奥に陣取る巨大な瘴気の塊へと真っ直ぐに叩きつけられていく。
ジュワァァァァッ‼
凄まじい沸騰音と共に、光を浴びたゼリー状の瘴気が、苦悶の悲鳴のような音を立てて激しく身悶えした。
濃密な呪いが、銀の魔力によって強制的に分解され、蒸発していく。
瘴気は生き物のように触手を伸ばし、私の結界を破ろうと必死に抵抗してきたが、私の光の壁に触れた端から『ジュッ』と音を立てて塵に変わるだけだった。
「しぶといわね。なら、これならどうかしら」
私は右手の光の放出を強めながら、左手でバケツの中の錬金洗剤の水を掬い上げ、魔力で球体にして瘴気の中心部へと勢いよく投げつけた。
洗剤の成分と浄化の魔力が、瘴気の核に直撃して弾ける。
ピキリ、と巨大なゼリーの表面に、無数の亀裂が走った。
「これで終わりよ!」
私は両手に持っていた雑巾に限界まで光を纏わせると、巨大な瘴気の塊に向かって、文字通り物理的に飛びかかった。
バチンッ! という破裂音。
手から放たれた極光の雑巾が、瘴気の核を完璧に拭き取ったのだ。
地鳴りのような音と共に、部屋を埋め尽していた瘴気が、一瞬にして光の粒子となって霧散していく。
空気を満たしていた腐肉と鉄錆の悪臭が嘘のように消え去り、代わりに、鼻腔をくすぐる爽やかな柑橘系の香りと、清浄な空気が部屋いっぱいに広がった。
「……ふう。やっぱり、掃除の基本は物理と魔法の融合ね」
私は床に着地し、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
乱れた白髪を直し、大きく息を吸い込む。
なんて清々しい空気だろう。あれほど淀んでいた地下室が、今や神殿の最奥にある聖域よりも清らかな空間へと生まれ変わっていた。
私は満足げに頷き、魔力で作り出した光源を部屋の隅々まで飛ばしてみる。
そこにあるのは、完全に汚れが落ち、真新しい白さを取り戻した大理石の床と壁。
古い本棚も魔力で埃を吹き飛ばしたため、見違えるように綺麗になっている。
「完璧だわ……」
私は両手を口元に当て、歓喜に打ち震えた。
これこそが、私の求めていた絶対的な孤独の空間。
誰の目にも触れず、誰の声も届かない、完璧な防音と清浄さを兼ね備えた極上の寝室。
あとは、ここに最高級の特注ベッドと、読みたい本を山ほど運び込むだけだ。
「ああ、早くベッドを注文しなければ。壁紙も少し明るい色に変えて、間接照明も置いて……」
私はバケツと雑巾を片付けながら、未来の輝かしい引きこもり生活に思いを馳せ、一人でニヤニヤとだらしない笑みを零していた。
もうすぐだ。もうすぐ、私の夢が叶う。過酷な聖女の公務からも、貴族たちの派閥争いからも、後輩や護衛の重すぎる愛からも完全に解放されるのだ。
しかし、私のその甘美な絶頂は、またしても……。いや、これまでで最大の規模の理不尽によって、木っ端微塵に打ち砕かれることになる。
ドバァァァンッ‼
という、落雷が直撃したかのような凄まじい轟音が、地下室の入り口から響き渡ったのだ。
「きゃっ⁉」
驚いて振り向くと、重厚な木の扉が、あろうことか木端微塵に破壊され、蝶番ごと彼方へと吹き飛ばされていた。
もうもうと舞い上がる土煙と木屑。
その粉塵の向こうから、血相を変えた人々が雪崩れ込んできた。
「レティシア様っ‼」
一番に飛び込んできたのは、私の専属護衛騎士、ルークである。
彼の姿は、普段の隙のない完璧な佇まいからは想像もつかないほどボロボロだった。
整った栗色の髪は泥と埃にまみれ、服のあちこちが鋭い刃物で切り裂かれたように破けている。息は大きく上がり、肩で荒い呼吸を繰り返していた。
そして、そのサファイアのような青い瞳は、無事な私の姿を捉えた瞬間、限界まで見開かれた。
「レティシア、様……、あぁ……!」
ルークは手から騎士剣を放り出すと、長い脚で床を蹴り、弾丸のような速度で私に飛びついてくる。
「えっ、ちょ、ルーク⁉」
強い衝撃と共に、私は彼の分厚い胸板に力強く抱き竦められた。
鋼鉄の檻のような腕が、私の背中と腰をギリッと痛いほどに締め付ける。
彼の身体は小刻みに震えており、私の肩に埋められた顔からは、熱く籠った息が長々と吐き出された。
「あぁ……ご無事で、本当に良かった……! 王宮の地下から凄まじい瘴気の爆発が観測されたと聞いた時、俺は……俺は、己の心臓が止まるかと思いました……!」
絞り出すような、酷く掠れた悲痛な声。
彼のそのただならぬ様子に、私は完全に状況が飲み込めず、宙で両手を彷徨わせていた。
瘴気の爆発? 違う、あれはただのシミ抜きの余波だ。
そして、ルークだけではない。
「レティシア様ぁぁぁっ‼」
鼓膜を劈くような悲鳴を上げて飛び込んできたのは、星羅様だった。
彼女もまた、白い法衣を泥だらけにし、顔を煤で汚している。
彼女の背後には、同じくボロボロになった近衛騎士たちと、純白の軍服を煤で汚した第一王子、アルベルト殿下の姿があった。
星羅様は私とルークに駆け寄るなり、そのまま私の腰にすがりついて大号泣し始める。
「うわぁぁぁん! レティシア様の馬鹿! 大馬鹿です! なんで、なんで一人でこんな危険な場所に……っ!」
「え? あの、星羅様、泣かないで。私はただ……」
「わかってます! レティシア様が、この国を覆う呪いを祓うために、誰にも内緒で単身、最悪の魔境に飛び込んだんですよね⁉」
「……はい?」
私は間抜けな声を漏らした。
星羅様は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
その赤茶色の瞳には、かつてないほどの、もはや神を崇める狂信者のような、究極の『尊敬』と『依存』の色が渦巻いている。
「私が未熟なせいで、レティシア様にこんな一人で命を懸けるような真似をさせてしまった……! ごめんなさい、私、もっともっと強くなりますから! もう絶対に、レティシア様を一人になんてしませんからぁっ!」
彼女が不甲斐ないから私が無茶をしたわけではない。
私が無茶――という名の深夜の大掃除をしたのは、星羅様が私に依存しすぎて引退させてくれないから、自力で引きこもり部屋を確保しようとしただけなのだ。
「いや、あの、これはただ寝室を……」
ルークの腕の中でもがきながら、引き攣った笑みを浮かべ、どうにか真実を紡ぎ出そうとした。
私の左手にはまだ雑巾が握られているし、足元には洗剤の入ったバケツがある。
これを見れば、私がただ掃除をしていただけだということは一目瞭然のはずだ。
お願いだから、そんな悲劇の自己犠牲ヒロインを見るような目で私を見ないでほしい。
しかし。
「見事だ、レティシアーナ」
頭上から降ってきたのは、国王陛下にも匹敵するほどの威厳に満ちた、低く落ち着いた声だった。
ゆっくりと顔を上げると、そこにはアルベルト殿下が立っている。彼のアクアマリンの瞳は、かつて私に向けられたことのないほどの、深い敬意と感嘆の光に満ちていた。
「まさか、王宮の地下にこれほどの呪いが巣食っていたとは……。我々王族の怠慢を、君一人に背負わせてしまった。……しかも、罠や亡霊の群れを一人で突破し、これほど清浄な空間に変えてしまうなど。君の力と、その深い慈愛の精神には、ただただ恐れ入るばかりだ」
終わった。
私は心の中で、真っ白な灰になった。
王族にまでこんな壮大な勘違いをされてしまっては、もう「寝室の掃除でした」などと口が裂けても言えない。不敬罪どころの騒ぎではないだろう。
国のトップに「お前、自分の睡眠のために王宮の地下で暴れてたのかよ」とバレれば、それこそ即刻処刑されても文句は言えない。
アルベルト殿下は、私の足元にあるバケツと雑巾を一瞥すると、さらに深く頷いた。
「……そこまでして身分を偽り、一人で汚れ役を引き受けようとしたのだな。レティシアーナのその気高い覚悟、俺は決して無駄にはせぬ」
違う‼ それは偽装工作じゃなくて、本当にただの掃除道具だ‼
私の魂からの絶叫は、当然誰の耳にも届かなかった。
ルークは「あぁ、俺の命に代えてもあなたをお守りします」と涙ながらに忠誠を誓い直し、星羅様は「一生ついていきます!」と私の腰をへし折らんばかりの勢いで抱き締めている。
そして、次期国王たるアルベルト殿下が、私に対する絶大な評価を完全に確定させてしまった。
私が欲しかったのは、静かでふかふかなベッドのある、誰にも邪魔されない空間だけだったのに――。
どうして、こうなってしまったのか。
私は、清浄な空気に満ちた美しい地下室の天井を仰ぎ、ただただ、絶望の冷たい涙を頬に伝わせることしかできなかった。
安らかなる引きこもり計画は、今日という日をもって、完全に、そして永遠に、私の手から滑り落ちていったのだった。




