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第13話 土下座は世界を救う

「……なるほど。王家は我々から、すべてを奪うおつもりか」



 星羅様の言葉に同調するように、今度は奥から、酷く静かで底冷えするような低い声が響く。

 忘れていた。ルークがいたのだった。

 栗色の髪が僅かに揺れ、サファイアのような青の瞳が、玉座の上の二人に向けられた。


 その瞬間、謁見の間の空気が物理的な重さを持って私の肩にのしかかってくる。


 殺気だ。


 息をするのも苦しいほどの、研ぎ澄まされた純粋な殺意。

 ルークの全身から放たれるそれは、ただの威圧感ではない。

 明確に『命を奪う』という意志を持った、本物の刃のような気配だった。



「ル、ルーク、落ち着いて! 王の御前で下手なことをすれば、反逆罪よ!」



 私はパニックになりながら、ルークの腕にしがみついた。

 しかし、鍛え抜かれた腕は私程度の力では微動だにしない。

 彼はこちらに視線を向けることなく、ただ冷たく玉座を見据えたまま、信じられない言葉を口にした。



「ご安心を、レティシア様。あなたを奪われるということは、俺にとって死と同義です。ならば俺は、あなたを檻に閉じ込めようとする愚かな者どもを片付け、この命で進むべき道を切り開きましょう」



 チャキッ、と。

 ルークの腰にある剣の柄に手が掛けられ、鞘から数ミリだけ刃が覗いた。

 鈍く光る鋼の輝きが、私の視界の端を掠める。


 狂っている。この騎士は、完全に狂っている。


 私が他の男――例えそれが第一王子であろうとも――の妃になるという事実が、執着心の暴走スイッチを完全に押し切ってしまったのだ。

 王の御前で剣を抜くなど、それだけで一族郎党が処刑されてもおかしくない大罪である。



「待って! お願いだから落ち着いて!」



 私の悲鳴のような叫び声は、三人の間に流れる危険な火花を前に、全く意味を成さなかった。



「レティシア様には、指一本触れさせません!」



 星羅様が、黄金色の魔力をさらに強く燃え上がらせて宣言する。



「言っておきますが、私たち二人の魔力に太刀打ちできる魔術師は、この国には一人もいませんよ」



 彼女の赤茶色の瞳が、ゾッとするほど冷たい光を宿した。見たこともない悪女のような笑みが、星羅様の唇を彩っていく。



「無理矢理奪おうとするなら……この国、滅んじゃうかもしれませんね」



 それは、ただの脅しではなかった。

 実際に彼女の無尽蔵の魔力と、私の規格外の魔力を合わせれば、王都の一つや二つ、物理的に消し飛ばすことは十分に可能だ。

 玉座の前で放たれた、国家の滅亡を示唆する冷酷な脅迫。


 アルベルト殿下の表情から、すべての感情が抜け落ちた。

 彼の瞳が鋭く眇められ、腰に帯びた細身の剣へと手が伸びる。

 洗礼された服の中で、豹のようにしなやかな筋肉が臨戦態勢へと移行するのがわかった。



「……愚かな。王家への反逆は、いかなる理由があろうと万死に値する。その命を以て、己の不敬を償うが良い」



 第一王子の低い声と共に、謁見の間の奥に控えていた近衛騎士たちが、一斉に剣を抜く音が響き渡った。

 無数の鋼の擦れる音が、私の鼓膜を容赦なく叩き切る。


 終わった。

 すべてが、完全に終わった。


 私の両脇には、王家を滅ぼす気満々の後輩聖女と狂犬騎士。

 目の前には、近衛騎士団を率いて臨戦態勢に入った第一王子。


 血の雨が降る。この豪華な真紅の絨毯が、本当の意味での血の海へと変わってしまう。


 私の安らかなる睡眠計画は、ふかふかのベッドどころか、王宮を舞台にした血みどろ大戦争の引き金となってしまったのだ。


 誰か、嘘だと言ってほしい。これは私が過労で見た、酷く悪趣味な悪夢なのだと。

 しかし、頬を撫でる黄金色の魔力の熱さも、ルークから放たれる凍てつくような殺気も、すべてが圧倒的な現実として私を包み込んでいた。


 息を吸うことすら困難なほどの極限状態の中で、私の脳内ではけたたましい警報が鳴り響いている。

 このままでは、本当に反逆罪で全員処刑されるか、あるいは星羅様の魔力で王宮ごと吹き飛んで国の歴史が終わるかの二択だ。


 どちらに転んでも、私の愛する『ふかふかベッドでの安眠』は永遠に失われてしまう。牢屋の硬い床で寝るのも、焼け野原で野宿をするのも、絶対に御免だった。



「……っ、待って‼」



 私は自分でも驚くほど素っ頓狂で、大きな声を張り上げていた。

 そして、恐怖で震える膝を無理矢理叩き起こし、両手を大きく広げてルークと星羅様の前に飛び出したのだ。



「レ、レティシア様⁉」


「危険です、お下がりください!」



 突然射線に飛び出してきた私に驚き、星羅様が魔力を揺らがせ、ルークが微かに目を見開く。

 私はその一瞬の隙を見逃さなかった。


 両手をいっぱいに伸ばし、長身のルークの襟首と星羅様の法衣の首根っこを、渾身の力でがしりと掴む。



「えっ?」


「レティシア、様……?」



 呆然とする規格外の戦闘力を持つ二人を、過酷な労働により鍛え抜かれた馬鹿力で強引に引きずり下ろし、分厚い真紅の絨毯の上へと強制的に正座させた。

 そして私自身も、額が床に擦り付くほどの勢いで、深く平伏の姿勢をとったのだ。



「あの、僭越ながら!」



 静まり返った謁見の間に、私の裏返りそうな声が響き渡った。



「とりあえず、先程の婚姻のお話は……保留、ということでいかがでしょう⁉」



 それはもう、必死だった。

 なりふり構っている余裕などなかった。

 王家への反逆という大罪を、まるで茶会の日程調整でもするかのような「保留」という言葉で誤魔化そうというのだから、我ながら図々しいにも程がある。


 しかし、私の背後で殺気を放っていた二人の意識が、私の突然の土下座によって完全に削がれたのは事実だった。

 ルークの剣から放たれていた冷気は霧散し、星羅様の黄金色の魔力もシュンと音を立てて収縮していく。


 あとは、玉座に座る絶対権力者が、私のこの見え透いた時間稼ぎを許容してくれるかどうかだ。

 沈黙が、謁見の間を重く支配した。

 絨毯の細かい毛足が、額に触れる感触だけがやけに鮮明に感じられる。冷や汗が背筋を伝い落ちた。

 永遠にも似た数秒間ののち。



「……剣を収めよ」



 頭上から降ってきたのは、陛下の静かな命令だった。

 チャキッ、という揃った音と共に、近衛騎士たちの放っていた殺気が波が引くように消え去っていく。


 私は絨毯に額を擦り付けたまま、密かに深く安堵の息を吐き出した。


 助かった。

 どうにか、最悪の流血沙汰と睡眠環境の完全崩壊だけは避けることができたようだ。



「……余も、少し性急過ぎたようだ」



 玉座から、国王陛下の酷く疲労に満ちた溜息が落ちてきた。

 私は恐る恐る顔を上げ、玉座を見上げる。

 陛下は額に手を当て、先程までの威圧感が嘘のように、ひとりの年老いた為政者としての苦悩の表情を浮かべていた。



「今の話は、聞かなかったことにしてくれ。……アルベルトよ、お前たちも下がってよい」


「はっ」


 アルベルト殿下が優雅に一礼し、近衛騎士たちと共に一歩下がる。


 私は掴んでいた二人の首根っこをそっと離し、乱れた法衣の裾を直しながら、居住まいを正した。

 星羅様はまだ少し不満げに唇を尖らせており、ルークは涼しい顔をして私の斜め後ろに控えているが、ひとまずの危機は去ったと見ていいだろう。


 事の発端である私が言うのもおかしな話だが、心中お察しいたします、国王陛下。



「しかし……王国内の秩序が乱れているのは確かだ」



 国王陛下の低く嗄れた声が、再び謁見の間に響いた。

 その声には、怒りではなく、得体の知れない『何か』に対する純粋な恐れが混じっているように聞こえる。



「新たな聖女の出現が火種になったとはいえ、此度の貴族たちの対立は、あまりにも常軌を逸しておる。長年国を支えてきた者たちが、まるで何かに取り憑かれたかのように、互いを憎み合い、貶め合おうとしているのだ」



 その言葉に、私の背筋を冷たいものが駆け上がった。

 昨夜、自室の窓から王宮の夜景を見下ろした時に感じた、あの肌を粟立たせるような奇妙な悪寒。王都全体をすっぽりと覆い隠すような、不自然で粘り気のある空気。



「……何か、良くないことが起ころうとしているのかもしれぬ」



 玉座に深く背中を預け、国王陛下はぽつりとそう零した。

 私の胸の奥に燻っていた『違和感』の正体を、確信へと変えるには十分すぎるものだった。


 やはり、間違いない。

 この派閥争いの激化は、ただの政治的な権力闘争ではない。何らかの理由で濃くなり過ぎた瘴気が悪意となって王都の精神を蝕んでいるのだ。


 そしてその悪意の根源は、間違いなくこの王都の中にある。



「御英断に感謝いたします。……我らも国のため、尽力する所存にございます」



 私は深々と頭を下げながら、密かに決意を固めていた。

 国を救うため、などという高尚な自己犠牲の精神からではない。

 この得体の知れない不気味な気配を放置しておけば、いずれ必ず私の安眠が脅かされるからだ。

 貴族たちが内乱を起こせば、私の引きこもり計画は頓挫する。


 ならば、やるべきことは一つ。

 あの不快な瘴気の発生源を特定し、私の浄化魔法で塵一つ残さず消し飛ばしてやることだ。

 すべては、ふかふかのベッドでの安らかな睡眠を守り抜くために。



「さあ、星羅様、ルーク。下がりますよ」



 私は立ち上がり、まだ少し殺気立っている二人の腕を強引に引いて、謁見の間を後にした。

 王宮の分厚い扉が背後で重々しい音を立てて閉ざされる。


 真紅の絨毯から続く大理石の冷たい廊下を歩きながら、私は自分の紫色の瞳の奥に、かつてないほどの静かな闘志が燃え上がっているのを感じていた。



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