第11話 仲良く川の字で
ケルン子爵邸での地獄のお茶会から数日後。
伯爵家にある私の自室は、さながら最高級の寝具を取り扱う王室御用達の展覧会場と化していた。
磨き上げられた大理石の床には、木箱に収められた色とりどりのシルクのパジャマや、安眠効果を謳う高価な香木が所狭しと並べられている。
そして部屋の中央には、私の見慣れたベッドの代わりに、雲のように白く、とんでもないボリュームを持った真新しい寝具一式が鎮座していたのだ。
「レティシア様、旧聖女派の筆頭である伯爵家より『幻の氷鳥の羽毛布団』が届いております。夏は涼しく冬は暖かい、王族すら滅多に手に入らない至高の逸品とのことです。……そしてこちらは、新聖女派の子爵家より『錬金術の叡智を結集した低反発の魔力枕』でございます」
執務担当の家人が、リストを読み上げながら恭しく頭を下げる。
「まぁ、皆様のお心遣いに感謝いたしますわ」と、表面上は聖女らしい控えめで慈愛に満ちた微笑みを貼り付けていたものの、私の内心は歓喜のスタンディングオベーション状態だった。
やった。やったわ!
お茶会で私が意図的に紅茶に文句をつけ、星羅様をこき使ったあの傲慢な態度が、何故か「疲労の限界を超えてなお、後輩を導こうとする聖女の自己犠牲」という斜め上の美談として広まってしまったらしい。
その結果、新旧の派閥が「どちらがよりレティシア様の御心を慰め、その疲労を癒やすことができるか」という謎の安眠グッズ献上競争を繰り広げ始めたのだ。
派閥争い万歳。
貴族の財力と権力闘争が、私の睡眠環境の向上に直結する日が来るなんて!
私は家人を下がらせると、もはや一秒も待てないとばかりに、その『幻の氷鳥の羽毛布団』へと身を投げ出した。
ふすっ、と。信じられないほど軽く、そして信じられないほど柔らかい感触が、過労で悲鳴を上げている身体を優しく包み込む。
頭を乗せた『錬金術の魔力枕』は、私の首のカーブに合わせて吸い付くように形を変え、凝り固まった筋肉をじんわりと解きほぐしてくれた。
「……あぁ、これよ。これこそが私の求めていた天国だわ」
私はシルクのシーツに頬を擦り寄せ、恍惚とした溜息を吐き出した。
これさえあれば、どれほど公務で疲弊しようとも、夜には極上の休息が約束される。
今すぐこのまま深い眠りの底へと沈んでしまいたい。
「すっごくふかふかですね、レティシア様!」
バフッ! という景気の良い音と共に、私のすぐ隣に、小柄な質量がダイブしてきた。
「せ、星羅様⁉ どうしてあなたまでベッドに……というかいつこちらへ?」
「だって、貴族の人たちばっかりズルいです! 私もレティシア様を癒やしたいのに……だから今日は私、添い寝して一晩中レティシア様の肩をマッサージするために来ました!」
星羅様は赤茶色の瞳をギラギラと輝かせ、私の肩に小さな両手を乗せて、ものすごい圧で揉みほぐし始めた。
「い、痛い、痛いわ星羅様! あなたの魔力が籠もった指圧は、私の肩の骨を砕くわ!」
「大丈夫です! 砕けても私の治癒魔法ですぐに治しますから!」
それは癒やしではない。ただの拷問と再生の無限ループだ。
私が涙目で星羅様の暴走を止めようと四苦八苦していると、長い影がベッドに落ちる。
「……セーラ嬢。あなたのその強引な力加減では、レティシア様のお身体に障ります。退きなさい」
氷のように冷たく、そして地を這うような低い声が、ベッドの足元から響いた。
見上げればルークが、瞳を細めて私たちを見下ろしている。彼の顔には、美しいけれど絶対に逆らってはいけない類の、完璧な作り笑いが貼り付いていた。
「それに、貴族どもからの献上品など、何が仕込まれているかわかったものではありません。睡眠作用を促す毒や、呪いの魔術具である可能性も否定しきれない。……俺が、レティシア様の隣で毒見ならぬ安全確認を行いましょう」
ルークはそう言い放つと、あろうことかベッドに腰を下ろしてきたのだ。
「ちょっ、ルーク⁉ 護衛騎士が主のベッドに入るなんて、どう考えても不敬罪よ!」
「ご安心を。俺はあなたの盾であり、剣であり、そして最も信頼に足る毛布でもあります。さあ、俺の腕枕で安らかにお眠りください」
右からは、私の骨を砕かんばかりの勢いでマッサージを続ける後輩聖女。
左からは、絶対に私を逃がさないという執着を込めて腕を回してくる狂犬騎士。
極上の羽毛布団も、魔法の低反発枕も、この異常な人口密度の前では全く意味を成さない。
ただでさえ暑苦しい彼らの体温と、強すぎる愛という名の重圧に挟まれ、私は布団の中で完全に身動きが取れなくなってしまった。
静寂。孤独。安眠。
私の求めていたものは、この世のどこにもないのだろうか。
「……お願いだから、私を一人にしてちょうだい……」
私の魂からの悲鳴は、星羅様の「えへへ、温かいですね!」という無邪気な声と、ルークの「ええ、極上の夜です」という物騒な囁きに完全に掻き消され、至高の安眠グッズに包まれた私の夜は、一睡もできない地獄の時間へと変わっていくのだった。
それから数時間が経過した。
精神力と体力は限界を通り越し、もはや悟りの境地に達しそうになっている。
二人は私の寝顔を見守るという謎の使命感に燃え尽きたのか、ようやく規則正しい寝息を立て始めていた。
名残惜しい気持ちを抱えながら、極上の羽毛布団から這い出るため、私は彼らの腕をそっと解く。
素足のまま大理石の床を踏みしめると、ひんやりとした冷たさが足の裏から全身へと伝わってきたが、それよりももっと冷ややかな気配が窓の外に満ちていた。
私は音を立てずに窓際へと歩み寄り、分厚いカーテンの隙間をそっと開けて、外の景色を覗き込む。
いつも美しく穏やかな王都の夜。
しかし、窓ガラス越しに見下ろす街は、どんよりとした重く冷たい空気に沈んでいるように見える。
月明かりを遮るように、薄墨色の不気味な靄が、王宮と貴族街を中心に渦を巻いて漂っているのだ。
それはまるで、生き物のように蠢きながら、街の路地裏や建物の隙間へとぬるぬると這い進んでいるように見える。
確かに、新たな聖女の出現は、長年固定化されていた権力図を激しく揺るがす大きな出来事だ。彼らがそれぞれの利益のために牽制し合い、水面下で争うのは理解できる。
だが、それにしても異常だった。長年、貴族社会のドロドロとした裏側を見てきた私だからこそわかる。
あの回廊での彼らは、貴族としての体面や理性をかなぐり捨て、ただただ相手を傷つけ、貶めることだけに執着しているように見えた。
そして、お茶会で見せたあの一致団結したかのような異常な熱狂。
彼らの感情は、まるで目に見えない糸で操られているかのように、極端から極端へと振れ続けている。
窓枠に置いた私の指先が、微かな震えを拾った。ガラス越しであっても伝わってくる、じっとりとした嫌な冷気。
この不気味な靄は、単なる霧ではない。
人間の強い負の感情、嫉妬や怒り、猜疑心といったドロドロとした念が、この王都のどこかから漏れ出す邪悪な魔力と結びついて物理的に実体化したもの――『瘴気』だ。
「……なんてこと。私の安眠グッズ戦争の裏で、こんな厄介なものが育っていたなんて」
私は小さく呟き、アメジストの瞳を細めた。
このまま瘴気が濃くなれば、いずれ人々の精神を完全に狂わせ、魔物を生み出す苗床となってしまうだろう。
それはつまり、私の平穏な引きこもり生活を根本から破壊する、最大の脅威に他ならない。
ガラス窓に映る私の顔は、睡眠不足で酷く青ざめていたが、その瞳の奥には冷たい怒りの炎が灯っていた。
「私の睡眠を妨げるものは、誰であろうと容赦しないわ」
王国の危機よりも何よりも、己の安眠の危機を感じ取った私は静かに、そして絶対的な決意を胸に秘めて、夜の闇に沈む王都を睨みつけたのだった。




