第10話 悪役になろう
私は自室の長椅子に深く身を沈め、手元にある分厚い羊皮紙の束を力なく見つめていた。
教会の窓から差し込む午後の柔らかな日差しが、私の淡い空色がかった白髪を透かしている。
本来であれば、この時間は紅茶を片手に優雅な読書を楽しむか、ふかふかのベッドで心地よい微睡みに落ちているはずだった。
しかし現実は、私の目の前にうず高く積まれた『陳情書』と『面会依頼』の山である。
あの夜の安眠結界が王都全土を守る奇跡の大魔術だと勘違いされた結果、私への称賛は留まるところを知らなくなってしまったのだ。
「レティシア様! この書類、私が半分やりますからね。レティシア様は休んでいてください!」
私の向かいの席では、星羅様がものすごい勢いで羽ペンを走らせていた。
大図書館で私が圧倒的な力を見せつけ、さらに今回結界の奇跡を見せつけたことで、彼女の私に対する依存と尊敬は、もはや制御不能なレベルに達している。
「星羅様、書類仕事は聖女の業務のほんの一部です。あなたはまだ、教会の複雑な人間関係や領地の事情を把握しきれていないのだから、無理をしないで……」
「いいえ、レティシア様の負担を減らすのが私の役目です。だから、私が全部完璧にやってみせます!」
彼女の赤茶色の瞳が、ギラギラとした熱を帯びて私を射抜く。
違う。そうじゃない。私が求めているのは、あなたが『私の代わりに』すべての仕事をこなせるようになることであって、『私を助けるために』限界まで働き続けることではない。
私が有能な聖女でいる限り、星羅様は「レティシア様の隣に立つに相応しい自分になるため」という謎のモチベーションで暴走し続ける。
これでは、いつまで経っても私が完全に引退する日は訪れない。
ズキリ、とこめかみの奥が痛んだ。
「……レティシア様。お疲れのご様子ですね」
背後から、氷のように冷たく甘い声が降ってきた。
長身のルークが私の椅子の背もたれに手を置き、その見事なサファイアの瞳で私を見下ろしている。
「ルーク、ただの頭痛よ。少し休めば……」
「いけません。あなたはすぐに無理をする。俺が肩を揉ませていただきます」
言うが早いか、革手袋を外した彼の大きく温かい手が、私の華奢な肩を的確な力加減で揉みほぐし始めた。
「ひゃっ……ちょ、ルーク⁉ 力が、少し強いわ!」
「ご辛抱を。酷く凝っています。これでは、安らかな睡眠などとれるはずもありません」
的確にツボを押さえるその指先は確かに心地よいのだが、至近距離から漂う彼の体温と執着の籠もった視線が、私の精神的疲労を加速させていることにルークは気づいていない。
この先、私に対する人々の勘違いを訂正できないままだと、過度な期待と重すぎる愛に絡め取られ、身動きが取れなくなってしまう。
ふかふかのベッドへ辿り着くため、それだけはなんとしても避けなければならなかった。
どうすればいい? どうすれば、私は――。
答えは一つしかなかった。私自身の評価を下げるのだ。
教会や貴族たちに『レティシアーナ様はもうお疲れだ。これからは若く力のあるセーラ様にすべてを任せよう』と、思わせるしかない。
私が『聖女』としての威厳を失い、ただの怠惰で我が儘な令嬢に成り下がれば、星羅様も私への過剰な尊敬を捨て、ルークも愛想を尽かしてくれるのではないだろうか。
(……ルークに関しては少し自信がないが、少なくとも貴族たちからの陳情は減るはずだ)
よし、決めた。私は、手元にあった一枚の招待状を手に取る。
「星羅様、ルーク。明日、新聖女派の筆頭であるケルン子爵家が主催するお茶会に出席します」
私の宣言に、二人は同時に動きを止めた。
「お茶会……ですか? でもレティシア様、最近は公務でお疲れなのに」
「ケルン子爵は、露骨にセーラ嬢を担ぎ上げようとしている新興貴族の狸親父です。あのような場に、レティシア様が自ら足を運ばれる必要などありません」
ルークの声には、明確な嫌悪と殺気が混じっていた。
「いいえ、行くわ。星羅様も同席してください。新たな聖女として、貴族たちとの顔合わせは必須ですからね」
私は優雅に微笑んでみせる。
ケルン子爵は、私を疎ましく思い、星羅様を利用しようとしている『新聖女派』の中心人物だ。
彼が主催するお茶会は、間違いなく私に対する嫌味や当てつけのオンパレードになるだろう。
そこで私が、感情的になって怒鳴り散らしたり、傲慢な態度で星羅様をこき使ったりすれば、新旧両派閥の貴族たちは「レティシアーナはついに嫉妬で狂った」と判断し、私の評価は地に落ちるはず……。
完璧な作戦だ。これで私の隠居への道が大きく開かれる。
脳内にあの至福の引きこもり生活の光景が鮮明に浮かび上がり、私は思わず口元を緩ませた。
翌日の午後。
王都の中心部にあるケルン子爵邸の庭園は、色とりどりの薔薇が咲き乱れ、むせ返るような甘い香りに満ちていた。
白亜のテラスに用意された円卓には、最高級のレースで編まれたテーブルクロスが掛けられ、金糸の装飾が目を惹くティーセットが陽光を反射してきらきらと輝いている。
集まった貴族たちは皆、流行の最先端を行く派手なドレスやコートに身を包み、手にした扇子やグラスを揺らしながら、値踏みするような視線を私たちに向けていた。
私は、ネイビーののシックなドレスに身を包み、優雅な足取りで用意された上座へと向かった。
隣には、真新しい薄紅色のドレスを着せられ、少し居心地悪そうにしている星羅様。そして斜め後ろには、彫像のように無表情で控えるルークの姿があった。
「おお、これはこれは。我らが偉大なるレティシアーナ様、そして天から舞い降りた新たな光、セーラ様。よくぞ我が邸へお越しくださいました」
ふくよかな体躯を揺らしながら、ケルン子爵が胡乱な笑みを浮かべて出迎えた。
彼の言葉には、私への表面的な敬意と、星羅様への露骨な期待が入り混じっている。
「お招きいただき感謝しますわ、子爵。素晴らしいお庭ですね」
私は完璧な淑女の笑みを貼り付けながら、席についた。
さあ、作戦開始だ。
まずは、目の前に出されたティーカップを冷ややかな目で見下ろし、琥珀色の液体から立ち上る湯気を、わざとらしく扇子で払う。
「……子爵。この紅茶、少し温度が低すぎませんこと? それに、茶葉の香りも……私の口には合いませんわ」
わざと不機嫌そうに眉をひそめ、カップをソーサーに乱暴に戻す。
カチャリ、という鋭い音がテラスに響き、周囲の貴族たちが、一斉に息を呑む気配がした。
聖女である私が、もてなしに対してあからさまな不満を口にするなど前代未聞の出来事だ。
これで「レティシアーナは権力に胡座をかく傲慢な女だ」という印象を与えられるはず。
「おお……っ! 申し訳ございません、レティシアーナ様! 私としたことが、長年の激務でお疲れの聖女様の、繊細な味覚の変化に気づけぬとは!」
しかし、ケルン子爵は怒るどころか、大袈裟に両手で顔を覆い、感極まったような声を上げた。
「なんと慈愛深き御方か。ご自身の体調不良を押してまで、我々下賎な貴族の茶会に足を運んでくださるとは。皆様、見られましたか! これが、真の聖女の自己犠牲の精神ですぞ!」
……は?
私は扇子の裏で、ぽかんと口を開けた。
私はただ紅茶に文句をつける嫌な客を演じたつもりなのに。
「やはりレティシアーナ様は素晴らしい……!」
「ああ、そのお顔色の悪さすら、神々しく見えますわ……!」
周囲の貴族たちが、なぜか涙ぐみながら私を称賛し始めた。
彼らの目には、私の傲慢な態度が『疲労困憊でありながらも気丈に振る舞う聖女の痛ましい姿』に変換されているらしい。
いけない。
これでは評価が下がるどころか、謎の同情票を集めてしまう。
私は焦りを感じながら、次の手に出ることにした。ターゲットは星羅様だ。
「星羅様。あなた、新参者のくせに少し気が利きませんわね。私の肩が凝っているのがわからないのかしら。少し揉んでちょうだい」
わざと意地悪な継母のようなトーンで、隣に座る星羅様に命じた。
公衆の面前で、新たな聖女を小間使いのように扱う。これぞ悪役令嬢の真骨頂。
新聖女派の貴族たちは、自分たちの担ぐ星羅様が侮辱されたと激怒するはずだ。
「はいっ! お任せください、レティシア様!」
星羅様は怒るどころか、待ってましたとばかりにパァッと顔を輝かせ、椅子から立ち上がった。
彼女の小さな手が私の肩に置かれ、一生懸命に揉み解し始める。
「えへへ……私、レティシア様のお役に立てるなら、なんでもしますから! 肩もみでも、お洗濯でも、魔物討伐でも!」
嬉々として私の肩を揉む星羅様の姿に、テラスの空気が再び震えた。
「おお……っ! なんという美しい師弟愛!」
「師を敬い、自ら身の回りの世話を進んで行うセーラ様の健気さ。そして、若き聖女に実務を通して奉仕の心を教えようとするレティシアーナ様の深い御心……っ!」
ケルン子爵が、ハンカチで目頭を押さえている。
全然違う。何故こうも認識のずれが生まれるのか……。
私はただ彼女をこき使って印象を悪くしたかっただけなのに、どうして『美しい師弟愛』という最高にハートフルな解釈にすり替わっているのだ。
周囲を見渡せば、新旧両派閥の貴族たちが、私と星羅様のやり取りを見てなぜか一つにまとまりかけていた。
「レティシアーナ様の深慮遠謀には敵わない」「我々は愚かだった。二人の聖女はこうして手を取り合っているというのに」などと、勝手に感動の涙を流している。
作戦は、完璧に裏目に出ていた。意図的に評価を下げようとした行動が、すべて『聖女フィルター』を通されて極上の美談へと変換されてしまう。
これでは、評価を下げるどころか、爆上がりだ。
私は冷めた紅茶を見つめながら、泣きたい気分で視線を落とす。ふと、背中に手を添えられて振り向けば、笑みを湛えたルークが力強く頷いた。
彼の瞳には「俺がしっかりとお守り致します」という忠誠が籠められている。
なんとか笑顔を返すものの、きっと私の心境など、一ミリも伝わっていないことだろう。
再び遠のいていく夢に、私はがっくりと肩を落とすのだった。




