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第1話 限界聖女の思いつき

転生ものとか始めてみる。

 ズキズキと、頭の奥でひび割れた鈍い鐘の音が鳴り響いているようだった。


 鉛のように重く、血の巡りすら忘れてしまったかのような身体を引きずるようにして、私は今日も大聖堂の冷たい大理石の床に膝をつく。


 遥か高くそびえるアーチ状の天井にはめ込まれた巨大なステンドグラスが、容赦のない朝の光を極彩色に切り取り、神聖な模様として床に落としている。


 青や赤、黄金の光の破片が私の白を基調とした服や肌を彩っているというのに、その美しさは私の干からびた心には微塵も届かなかった。


 正面の祭壇から見下ろす巨大な女神像は、いつだって無慈悲なほどに無表情だ。


 彼女はただ静かに、冷たい石の瞳で、私から一方的に搾取されていく命の輝きを見下ろしているだけなのである。


 胸の前で固く組んだ両手から、とめどなく溢れ出すのは、私自身に宿る銀に輝く魔力だ。


 呼吸をするたびに、自身の内側から温かい血がごっそりと抜き取られていくような、酷い喪失感と悪寒が全身を駆け巡る。


 それでも私の意志とは無関係に、指先から零れ落ちた銀色の魔力は淡い光の粒子となって虚空に溶け、次々と運ばれてくる怪我人たちの無惨な傷口を塞いでいく。


 裂けた皮膚が繋がり、折れた骨が音を立てて元に戻る様を、私――レティシアーナ・クラインは半ば焦点の合わないアメジストの瞳でぼんやりと見つめていた。



 元々は伯爵家の令嬢として、四季折々の花が咲き乱れる庭園や、インクの匂いが心地よい図書室の本に囲まれた、穏やかで平穏な日々を送っていたはずだった。


 それなのに、齢十歳にしてこの厄介な聖女としての力――驚異的な回復魔法と、王国の歴史上でも類を見ないほど純度の高い銀色の魔力――を発現させてしまったがために、歴代の聖女に名を連ねるという不運に見舞われてしまったのである。



 あれから八年。


 十八歳になり、少女から大人の女性へと変化しつつある今の私を縛り付けているのは、華やかな社交界でも令嬢としての甘い恋でもない。

 

 ひたすらに自身の命を削り、泥水を啜るような過酷な奉仕の日々である。


 ふわりと、手入れすらろくにされていない淡い空色がかった白髪が、前かがみになって治癒を施すたびに頬へと滑り落ちてくる。


 視界を遮るその髪を耳にかける気力すら、今の私には残されていなかった。


 指先は氷のように冷たく感覚を失い、浅い呼吸を繰り返すたびに、肺の奥がひゅうひゅうと乾いた悲鳴を上げている。


「……聖女様、西の領地から運ばれてきた負傷者たちが治癒を待っております。急ぎお願いしたく存じます」


 背後からかけられる高位神官の声には、限界を迎えている私への労わりなど、文字通り微塵も含まれていなかった。


 彼らの目に映っているのは、一人の人間としてのレティシアではない。ただの便利な治癒の道具、あるいは神殿の権威を誇示するための魔法装置でしかないのだ。


 貴族たちの終わりのない、泥沼のような派閥争い。


 そこに巻き込まれた私は、毎日毎日、太陽が昇る前から月が沈むまで、ただひたすらに祈りと癒しを強要され続けている。


 治癒を施せば施すほど、「我が陣営の者を先にしてくれ」「なぜあちらの派閥を優先したのだ」と、彼らの欲深い要求とクレームはエスカレートしていくばかりだった。



 ああ、駄目だ。息が苦しい。


 大聖堂の冷たい空気が肺に入り込むたび、数日前に過労で倒れかけたときの凄惨な記憶が、鮮明に脳裏へと蘇ってくる。




 ――あの日も、今日と同じように朝から晩まで絶え間なく魔力を搾り取られていた。


 王都の近郊で魔物の群れが暴れ、運悪く貴族たちの荷車が襲われたのである。


 護衛についていた私兵が何人も傷つき、軽い傷から重傷者まで教会へと運び込まれてきた。


 この国にだって、優秀な医術者はたくさんいる。


 運ばれてきた大半は、診療所で手当てを受ければ事足りるような怪我だ。相手が貴族でなければ、門前払いされていることだろう。


 大聖堂の石造りの広間は、生々しい血と汗の匂いに、貴族たちが身に纏う濃厚すぎる香水とが混ざり合い、胃の腑を直接かき回されるような最悪の悪臭が充満していた。



『レティシア様! こちらの派閥の者たちを優先して癒していただきたい。彼らこそが、次の王国の要となる優秀な騎士なのです!』


『何を言うか! 我が陣営の負傷者こそ、国にとっての至宝。聖女様、こちらへ。さあ早く、私の兵士を!』



 醜い権力争いの道具として私を引っ張り合う貴族たちの怒声が、高い天井に反響して鼓膜を容赦なく打ち据えた。


 右から左から、豪華な絹のドレスや、金糸の刺繍が施された重厚なマントに身を包んだ欲深い大人たちが、血走った目で私の細い腕を掴もうと群がってくる。


 酷い耳鳴りがした。キーンという高い音が脳髄を突き刺し、視界がぐにゃりと水面のように歪む。


 足元の冷たい石畳が、まるで生き物のようにうねって見えた。


『……え?』


 自分の口から、間の抜けた掠れた声が漏れたのと同時だった。


 膝からプツンと、これまで私を辛うじて立たせていた見えない糸が切れたように、全身の力が抜けていく。


 指先から紡ぎ出されていた銀色の魔力が、風に吹かれた蝋燭の炎のようにふっと途切れ、私の身体は為す術もなく冷たく硬い床へと崩れ落ちたのだ。


 大理石の床に膝と肩を強打する鈍い痛みが走る。しかし、私にはそれすらも厚いガラスの向こう側で起きている遠い出来事のように感じられた。


 薄れゆく意識の底。深い闇へと沈みかけていた私の耳へと最後に届いたのは、倒れた聖女の身を案じる優しい声などでは、決してなかった。



『おい、聖女様が倒れられたぞ!』


『困るな、まだ治癒の終わっていない者が私の陣営には多数いるというのに……これでは困る!』


『なんとひ弱な。これでは我々の計画に遅れが出てしまうではないか……。すぐに代わりの神官を呼べ! 聖女には魔力回復の霊薬を無理にでも飲ませろ!』



 心無い声の数々が、鋭い刃のように私のすり減った心臓に突き刺さった。


 誰も、私自身の心配などしていない。


 彼らにとって私は、自分たちの利益をもたらすための『機能』であり、それが突然停止したことに苛立ち、舌打ちをしているだけだった。


 私が毎日血を吐くような思いで命を削り、魔力を振り絞っても、彼らにとってはそれが当たり前の「都合の良い現象」でしかないのだろう。



 

 ――あの時の、頭蓋骨が割れるかのようにズキズキと痛む感覚と、全身の血が腐った泥水にすり替わったような強烈な不快感と倦怠感が、今もまだ身体の芯にべったりとへばりついている。


 休みたい。


 ただ、泥のように深く眠りたい。


 誰の足音も、誰の怒声も届かない、静寂に包まれた暗闇の中で、ただひたすらに重い瞼を閉じていたい。


 けれど、現実の私はこうしてまた、倒れた直後だというのに十分な休息を取ることも許されず、この冷たい祭壇の前に引っ張り出されている。


 国唯一の聖女であり、彼らの権力闘争の要である私に、休暇などという甘美なものが与えられるわけがなかった。



「聖女様? 聞いておいでですか。次の方々がお待ちです。手を休めないでいただきたい」



 神官の苛立ちを含んだ冷たい声が、再び頭上から降り注ぐ。


 私はゆっくりと、油の切れて錆びついた機械のように、ギシギシと音を立てる重い首を持ち上げて顔を上げた。


 視界に映るのは、欲に塗れた大人たちの磨き上げられた革靴の先端と、私の魔力にすがりつこうと群がる無数の血に汚れた手。



 限界だ。


 私の精神も肉体も、もうとっくに限界のその先を超えている。



 視界がぐらりと傾き、冷たく硬い大理石の床が勢いよく顔に迫ってくる。


 終わりの見えない治癒の列の真ん中で、私の身体はついに悲鳴を上げて再び崩れ落ちた。


 ゴンッ、と額が石畳に打ち付けられる鈍い音が響いたはずなのに、痛みすら感じない。


 周囲を取り囲む貴族たちの怒声や、神官たちの苛立った舌打ちが、深い水の中に沈んだようにくぐもって遠ざかっていく。


 圧倒的な倦怠感が、私を底知れぬ深い闇へと引きずり込もうとしていた。


 ああ、このまま意識を手放してしまえたら、どんなに楽だろうか。


 いっそこのまま永遠の眠りにつけたなら、明日もまた血を吐くような思いで魔力を絞り出す必要なんてなくなるのに。


 そんな自嘲めいた暗い思考すら霧散しそうになった、まさにその瞬間。



 脳裏に、酷く鮮明な光景が強烈なフラッシュバックとなって弾けた。


 それは、三年前に高熱を出して寝込んだ夜、断片的に夢で見た『前世』の記憶である。


 あの時はただの高熱が見せた奇妙な幻覚だと片付けてしまっていたけれど、死の淵に立たされた今、心の奥底に築かれていた防波堤が決壊したかのように、濁流となって私の頭の中に流れ込んできたのだ。



 ――ぽかぽかと暖かな陽だまりの匂い。


 ――背中を優しく包み込み、どこまでも柔らかく沈み込む、雲のようにふかふかのベッド。


 ――枕元には、独特のインクと真新しい紙の匂いを漂わせる、まだ見ぬ物語を秘めた本の山。


 ――窓の外から聞こえるのは、風に揺れる街路樹の葉音と遠くの鳥の囀りだけで、私を急かす者の声などどこにもない。



 そこにあるのは、絶対的な孤独と、誰にも邪魔されない至福の静寂だった。


 前世の私は、その限られた小さな世界の中で、ただひたすらに読書とお昼寝に毎日を費やしていた。


 他人の顔色を窺うこともなく、泥沼のような派閥争いに巻き込まれることもなく、自分の好きな時に微睡み、自分の好きな時にページをめくる。


 所謂『引きこもり』というやつだ。


 当時の私は、生産性のないその生活を少しだけ後ろめたく思っていたふしがあったけれど、今となっては違う。あれは、間違いなく天国だった。楽園そのものだったのだ。


 指先が、あの柔らかい毛布の極上の感触をありありと思い出す。


 鼻腔が、淹れたての温かい紅茶の甘い香りを思い出す。


 背中が、重力を忘れるほどに心地よいスプリングの反発を思い出す。



 失って初めて、あの何気ない平穏がどれほど尊く、どれほど得難い奇跡であったかを、私は魂の底から理解したのだ。


 気がつけば、冷たい大理石の床に這いつくばったまま、私は薄く目を開けていた。


 視界に映るのは、血と汗と泥に汚れた自身の服と、私の治癒を今か今かと待ちわびる欲深い大人たちの靴の先端。


 彼らの履く、塵一つなく磨き上げられた高級な革靴が、私のすり減った命と引き換えに得た対価なのだと思うと、強烈な虫酸が走る。


 私の胸の内で、ひとつの巨大な疑問符が爆発した。



「……あれ、私なんでこんなに一生懸命働いてるんだろう?」



 掠れた声は、周囲の喧騒にかき消されて誰の耳にも届かなかった。けれど、その言葉は私自身の魂を強烈に、そして決定的に揺さぶった。


 そうだ。おかしいではないか。


 私は元々、伯爵家の令嬢だったはずだ。


 それが、たまたま歴代の聖女と同じ銀色の魔力と治癒の力を持って生まれてしまったというだけで、どうして自らを犠牲にして休みなく働かされなければならないのか。


 貴族たちは私を神の使いだと崇め奉るような口を利きながら、その実、便利な道具としてしか見ていない。


 彼らの権力闘争のために私が血を吐く思いで魔力を絞り出しても、与えられるのは白々しい称賛の言葉と、さらなる仕事の山だけだ。


 私の睡眠時間は極限まで削られ、食事は生命を維持するためだけに急いで胃に流し込むだけの作業になり、心安らぐ時間は一秒たりとも与えられない。


 こんなの、どう考えても異常だ。


 前世のあの甘美な楽園を思い出してしまった今の私には、この現実が瘴気の奥深くに沈むよりも酷い場所に思えた。


 ふつふつと、心の奥底から黒くて熱い感情が湧き上がってくるのを感じる。


 それは、私の平穏を奪い続ける理不尽な世界に対する純粋な怒りであり、そして何よりも強烈な『渇望』だった。


 帰りたい。あのふかふかのベッドに。


 山積みの本に囲まれた、誰にも邪魔されないあの部屋に。


 絶対的な孤独の中で、好きなだけ微睡むことができるあの生活に。


 もう一度、あの『引きこもり』生活を取り戻したい……!



 倒れたままの姿勢で、私は強く拳を握り締めた。


 銀色の魔力が、私の激しい感情に呼応するように指先から漏れ出し、冷たい床を淡く照らす。


 周囲の者たちが「おお、聖女様が意識を取り戻された!」「すぐに次の者の治癒を!」と騒ぎ立てる声が聞こえる。


 うるさい。どいつもこいつも、私の安眠を妨げる害悪でしかない。


 私はゆっくりと身体を起こした。まだ頭はズキズキと痛み、視界は定まらないけれど、私の心はこれまでにないほど澄み切っていた。


 もはや、国のためだの、人々のためだのという自己犠牲の精神は欠片も残っていない。


 私の行動原理は、ただ一つ。


 己の安らかな睡眠と、引きこもり生活を取り戻すこと。そのためならば、どんな労を厭うつもりもなかった。




 とはいえ、ただ「休みます」と宣言したところで、この欲深い大人たちが許してくれるはずもない。

 

 私が国唯一の聖女であるという事実が、私をこの神殿に縛り付けている最大の呪いなのだから。


 ならば、どうすればいい?


 どうすれば、私はこの呪縛から逃れ、ふかふかのベッドにダイブすることができる?


 朦朧とする頭をフル回転させ、私はひとつの結論に行き着いた。


 私が唯一の聖女だからいけないのだ。代わりがいれば、彼らも私に執着する理由を失う。


 ならば――私に代わる新しい聖女を、どこかから召喚してしまえばいいのではないか?


 あまりにも突飛で、不敬極まりない考え。


 しかし、そのアイデアを思いついた瞬間、私の目の前に分厚い雲の隙間から一筋の希望の光が差し込んだような気がしたのだ。


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