鏡の中の不在者
私の素性はこの文章にとって特に重要とも思えないが、あえて紹介するならば、とある国の警察署の書記官である。遺言書とも告白書とも表現できるこの手記は、多くの人にとって現実離れしているかもしれない。もし、ここに書かれている事実に信用が置けないのであれば、これを狂人の手記として読めることだろう。
私の語るところは、十五年前にパリス郊外で発生した一家四人殺害事件に始まる。当時は世間の話題を独占したこの事件は、結局のところ未解決のまま今年の二月に時効を迎えた。十五年という長大な月日は、一人の人間の精神を摩耗させるには十分すぎる時間でありながら、犯した罪の血の色を褪せさせるには、あまりにも短いのだ。件の事件の指揮官でありながら、犯人を捕らえられなかった私は捜査責任者のひとりとして、上官から厳しく叱られることになった。
「君の間抜けのおかげで、凶悪犯は今この時間も我が世の春を楽しんでいるんだぞ。殺された方々の無念に応えられなくて口惜しくはないのかね?」
たしか、そのようなことを言われたと思う。私はただ、うつむいてその言葉に耐える振りをしていた。この記憶が間違っていなければ、この残忍な事件においては、当時まだ四歳であった少女だけが、凶悪犯の手を潜り抜けて無事に生還しているはずだ。その翌日から奇跡の少女としてメディアの注目を集めていたのだから……。
時計の針を進めよう。私は三年前、管理職研修で訪れたカタールの骨董品屋にて、豪華な白銀の飾りの付いた古い鏡を購入した。美術品や骨董品に興味があるわけではない。それなのに、これを購入したのはいったい何故だろう。おそらく、これが自分の守り神になってくれるような気がしたのだろう。
帰国後、自分の寝室に鏡を飾って毎晩それを眺める習慣ができた。これを飾った日から私の夜は大きく変質した。その詳細はいずれ語ることになるだろう。ただ、当初は、これが魔性の鏡だとは思いもしなかった。鏡を飾ってからというもの、私の身の回りでは摩訶不思議なことが続けざまに起こることになる。
つい一週間前には、私を叱り飛ばしたあの上官が、自宅の寝室において何者かに絞殺されるという怪事件が起きた。この事件の捜査は数百人態勢で行われた。幹部を殺害された警察の面子がかかっていた。この私もその現場に立ち会うことになった。何者かが乱暴に押し入ったような形跡はなかった。しかしながら、その遺体の首には人間のものとは思えない禍々しい手跡がいくつも残されていた。財布や貴金属は手つかずで残されており、恨みによる犯行としか思われなかった。私が知る被害者は非常に臆病で几帳面な人物だった。自宅のドアにも彼の寝室にも厳重に鍵が掛けられていたことだろう。犯人はいったいどのように侵入を果たしたのか、そして、殺害を成し得たのか、その疑問が多くの専門家の興味を引くことになった。しかし、この事件もやがては取るに足らない過去になることだろう。
私は今年の冬に定年退職を迎えるが、その手腕を買われ、相談役として警察署に居残ることが決まった。そして数日前、このところ何者かに付け狙われているという若い女性が、警察によって保護され、私とも面会を果たすことになる。署に在籍する多くのベテランスタッフは、この女性を我が子のように可愛がるようになった。
しかし、この女性もやがて恐るべき不幸に見舞われることになる。厳重に警護されていたはずの、この若い女性は、一昨日の夜、以前の上官とまったく同じような形で残忍に殺害されてしまう。私は皆の前で、大きな衝撃を受けたような素振りをしなければならなかった。演技のための大粒の涙も必要であった。この事件も夜の寝室という完全なる密室において行われ、どれほど捜査を尽くしても、犯人は捕まりそうになかった……。
さて、そろそろ私の真意を語ろう。毎夜、かつてカタールで購入した鏡を覗き込むことが自分の日課になっていることはすでに語ったと思う。鏡は、部屋のすべてを忠実に映し出す。使い古された家具、燃えさしのような蝋燭の火、そして壁にかかった古びた外套。しかし、その鏡の画の中に、この私自身の姿だけは存在しない。角度を変えても叩いても、どうしても映らないのだ。
おそらく、鏡の中の私は深夜を迎えると、影の殺人者として、あるいは夜の自分として、勝手に部屋を抜け出し、私自身にとって邪魔な存在を消し去りに向かうのだろう。かつて、上官の遺体の首に残されていた、あの人間離れした手跡を見たとき、私はすぐに確信した。鏡から生まれた影が、この私の代わりに『不快な存在』を排除し始めたのだと。
だが、警察に匿われていたはずの彼女が無惨な死体となって発見されたとき、私は鏡の中の「影」が、すでにこの私よりも鮮明な記憶を持ち合わせ、私よりも冷徹で俊敏な行動を取れることを思い知らされた……。
私は今、自宅の寝室の中にひとりで佇んでいる。ふと魔性の鏡を覗き込んでみる。やはり私自身の姿はそこに映らない。今夜もどこかに獲物を探して、殺人者として街を彷徨っているのだろう。
なぜ、あの美しい令嬢が私にとって不利な存在であったのか、この記述を読んでいる方は、おそらく、それを一番知りたがるであろうが、その詳細を説明するには及ばない。おそらく、鏡から生まれた影は知っているのだ。十五年前、あの吹雪の夜……、私は事件現場にいた。今でも被害者たちの血液の温かみがこの手に残っている。彼らの断末魔の叫び声がこの耳に届くような気がする。彼女は運命の導きによって殺されるしかなかった。唯一あの地獄から生還した、四歳の少女の瞳に加害者として焼き付いたのは、他ならぬこの私の素顔であったはずだから……。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。他にも多くの短編作品がありますので、できればそちらもご覧ください。よろしくお願いします。




