かつての理系女は一人目を見つける
ジャンヌとともに神学校の講堂に入ったアンだったが、立ち並ぶ学生たちの中からステファン王子の学友フィリップの姿を見つけることはできなかった。それもそうである。1学年40名、6学年合計240名の学生がいるのだ。それでもアンには、この中にかつての仲間がいる気配は強く強く感じていた。いるのは明か、カサドンか?
ジャンヌの講義が始まった。いずれアンも同様の講義をするのだろうから、しっかりと聞くことにする。
内容は聖女の立場を神学的に説明するものだった。歴代聖女のなしてきた奇跡をたどり、それが神学理論においてどういう意味合いをもつのか説明されていった。
ただ、アンは途中で飽きていた。アンとしては理論的裏付けよりも実践だった。将来自分が講義をするにも実践的内容に集中し、神学的側面はフローラにでも代講してもらおうと不謹慎にも考えていた。物理のときは杏が理論、優花は実験だったから逆になる。それもまた楽しく思える。ただ、多くの学生はノートにペンを必死に走らせている。その中で一人、ノートもとらず、ジャンヌの方もみていない学生が一人いた。視線の先はヘレンに思える。あれがフィリップなのだろうか。
講義が終わったあと、一行は一つの空き教室に案内された。教室に入るといつものようにレギーナ達は四方に散って警備体制に入る。
教室の椅子に座って待っていると、さきほどノートを取っていなかった学生が入ってきた。
「お待たせいたしました、ノルトハイムのフィリップです」
静かに入ってきたフィリップはヴェローニカに案内され、アンと向かい合うように机を挟んで着席した。ヴェローニカはアンに聞いた。
「どうされますか」
「私から話します」
「はじめまして、ベルムバッハのアンです」
「はじめまして、ノルトハイムのフィリップです。おうわさはかねがね」
人を食ったような話し方をするフィリップに、なにか懐かしい気もする。
「うわさとは?」
「貴方がた四人は4年も早く女学校に入学し、ドラゴンを見つけたり、算術の授業を受けないどころか自分たちでやったりと、有名ですよ」
「貴方も優秀だそうではないですか、同い年で、同じように飛び級でご入学だとか」
くだらない話をしていても仕方がないので、アンは用意してきた紙を取り出しフィリップに渡した。
フィリップは渡された紙を見て、ぎょっとしたようだった。しばらくその紙を見つめていたが、懐からペンを取り出し何事か書き加え、アンにその紙を返してきた。
アンは返された紙を見た。
そしてアンはフィリップの正体を知った。
アンがフィリップに渡した紙には、実は4つの式が書いておいた。地球の字で書いた。
第一の式はK-dV方程式だ。K-dV方程式とは非線形偏微分方程式のひとつで、非線形波動を表すもっとも基本的な式とされる。杏と修二が初めて二人で過ごした年末年始に、現実の磁性体上でK-dV方程式のソリトン解が現れないか二人で調べていたのである。思い出深い式だから、修二であればこの式に反応するはずだ。
第二の式はアインシュタイン方程式だ。宇宙は膨張していると観測されているが、そこに杏による影響を明が付け加えた。明はそれを聖女項と名付けた。
第三の式はギンツブルグ-ランダウ方程式である。超伝導を学ぶ時、避けては通れない方程式である。杏とともに池田研究室で超伝導を学んでいたカサドンなら、この式に反応するだろう。
第四の式はスチレンを重合させてポリスチレンをつくる化学反応式だ。健太は化学だったから、高校で学ぶこの式は必ず知っている。残念なとこに杏には化学の知識は高校レベルで止まっているからこれ以上は書きようがなかった。
フィリップから返された紙には、アインシュタイン方程式にアルファベットでSという項が書き加えられていた。聖女項である。この項の存在は、固く口止めしたから札幌でも杏の仲間しか知らない。
「のぞみ」
と言って、杏はその紙をヘレンに渡した。
ヘレンはしばらくその紙を見つめ、アンに返すと立ち上がり、フィリップの方に歩いていった。
フィリップも立ち上がり、自然と二人が手を取り合った。
美しい、美しい光景であった。
二人がバラバラになってから、何年かかっただろうと杏は考える。
自分も同じように修二と手と手を取り合えるだろうか不安になる。
いや、それを実現するためにここに来ている。
健太とカサドンも見つかっていない。
ここで感傷に浸っている暇はない。
アンは立ち上がり、悪いなとは思いながらもヘレンとフィリップに近づいた。
フィリップは赤い目をこちらに向けて言った。
「ひさしぶりだね、聖女様」




