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かつての理系女はかつての記憶をとりもどす

 唐沢杏(旧姓神崎)は理論物理学を学ぶ大学院生である。高校時代、学園祭の演劇で聖女役をして以来、あだ名は聖女様である。今、学食で学生結婚した同期の修二と昼食中である。入籍直後から別居中で久しぶりの二人の昼食を満喫したいところだが、なぜかこれまだ同期の岩田明が同席している。専門は杏が物性理論、修二が物性実験、明は宇宙論なので、学問的にもおじゃま虫である。

 

 おまけに明は、宇宙膨張の観測異常と杏の睡眠中の夢に関連がある可能性を見つけ、宇宙方程式に「聖女項」なる部分を付け加え、仲間内だけとはいえ流布させてしまった前科がある。その明が会話の中心にいた。

「ブラックホールの中ってどうなっているのかなぁ」

「あんたが分からなければ、物性の私達にわかるわけないでしょ」

 学徒として昼食時に学問の話をすることは、ごく普通である。杏と修二も二人だけの会話でも、物理のことを話すことは多い。おそらく会話の九割方は物理である。物理以外の話題が貧困であることも事実だが、物理マニアの杏はそれでおもいっきり幸せである。

 杏としては修二と話していたいので、明をぶった切りたく冷たい返事をする。しかしそれを気にする明ではなかった。

「いやぁ、見てみたくない?」

「見てみたくない。そもそもブラックホールに近づくに連れて時間のすすみが遅くなるんでしょう。考えるだけで恐ろしいわ」

 杏としては、この話題どころか明自体切って捨てたいところだが、やっぱり明にへこたれた感は無い。

「外からの観測ではそうだけど、ブラックホールに落ち込む側は、有限の時間で落ち込むらしいよ」

「意味わかんない」

 杏と明の応酬に修二は無言で微笑んでいる。彼女持ちの余裕である。

「例えばさ、宇宙船がブラックホールに飲み込まれるとするでしょ。外からそれを観測していると、時間の進みが遅くなって永遠にブラックホールに飲み込まれないように見えるんだけど、宇宙船内の乗員は、ちゃんとブラックホールに入り込むのがわかるらしいよ」

「どうでもいい」


 杏にとっては心の底からどうでもよかった。現実に実験で検証できないことなど、興味が欠片もなかった。

「俺としてはさ、ここで聖女様の力でなんとかならないかと」

「はあ?!」

「聖女項は聖女様が夢で見ている間だけ有効だろう? 夢でブラックホールに飛び込んでよ」

「バカバカしい」


 杏は会話を打ち切り、昼食のトレーを片付けに席を立った。

 

 その夜寝る前、杏は明のバカ話を思い出してしまった。腹がたつ。せっかくとなりに修二がいるのに。布団に潜りながら、修二と話すことを考える。甘い言葉を送りたいのだが、明のせいでいいことが思いつかない。しかたなく

「もう寝る」

と言った。ほどなく

「おやすみ」

と帰ってきた。杏も「おやすみ」と返す。


 眠気につつまれた。


 夢をみた。ブラックホールに飛び込む夢である。しかし幸せいっぱいの杏は、修二と手を繋いで宇宙を飛び、軽やかに笑い合いながらブラックホールに突入するのであった。


 杏は目を覚ました。部屋は真っ暗である。杏の両側には静かな寝息が聞こえる。上半身を起こす。両側にいるのは父さまと母さまであることに気づく。喉の渇きをおぼえ、両親を踏まないよう気をつけながら、ベッドから降りた。

 

 台所の汲み置きの水を飲みたい。洗い物のかごにコップがあるはずだが、妙に位置が高い。

 杏は気がついた。

 自分は神崎杏であるが、アンでもあった。膝に力が入らない。足がガクガク震え、台所の床にへたりこんでしまった。

 

 夢で見たかつての記憶が断片的に次から次へと頭をよぎる。何かを思い出すたび涙があふれる。

 

「修二くん!」

 声に出してしまった。そこからは大きな声を出して泣いてしまった。

 

 突然抱きしめられた。アンの泣き声を聞いた母さまが飛び起きてきたのだ。

「どうしたの、どうしたの」

 アンには答えることができない。慟哭はおさまらない。

 母さまは優しく抱きしめ続けてくれた。父さまも近くに感じる。母さまのやわらかい胸に包まれ泣くうち、アンはいつのまにか再び眠りについていた。

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