かつての理系女は力尽きる
王都へ戻ることを決めたアンは、それでも一週間ヘルムスブルクに留まった。天候が悪いということもあったが、けが人の治療、戦死者の葬儀を人任せにする気がしなかった。その一週間、王都から増援の兵は一兵も来ない。
やっとヘルムスブルクを出て王都へ馬車で向かう途中、ちょうど道半ばのところで初めて王都からの増援部隊とすれ違った。この日は天気が良く遠くまで見え、本来なら真っ白な景色を背景とした行軍は美しく見えただろう。だがアンの目には、一番苦しいときに来てくれなかった増援部隊は、とてもではないが美しくは見えなかった。
第三騎士団には寄らず、まずは宮廷教会にある聖女室に向かう。聖女代理のジャンヌやマリアンヌに宮廷の様子を聞くためだ。フィリップとマルスにも来てもらうよう言ってある。
王都の中は除雪され、かえって道がドロドロになっていて、同行する親衛隊の面々がドロハネで気の毒だ。第三騎士団の甲冑が白で統一されているから余計に目立つ。
宮廷教会に着いたときアンはレギーナに、
「打ち合わせに時間がかかるでしょうから、みなさんは御休憩ください」
と言っておいた。休息の間に泥を拭いておけると思ったからである。
聖女室では、ジャンヌとマリアンヌが待っていた。ひさしぶりの再会に笑顔になる。ひとしきりみんなで握手したり抱き合ったりした後、マリアンヌが言った。
「アン様、怒ってらっしゃいませんね」
アンは増援が遅いことにイライラはしていたが、自分の怒りを公的に表明したことはない。
「なんのことでしょうか」
「いえ、宮廷や教会では、聖女様が激怒されていると言う噂がひろまっているのです」
「私はべつに激怒していませんが、詳しくお教えいただけますか」
噂はこうだ。聖女は前線に立ち負傷までしながらも力を尽くしている。なのに中央貴族はくだらない政争に明け暮れ防衛戦に協力しない。非協力的な貴族の名を、聖女と聖女室は未来永劫忘れない。
「私はそんなことは申しておりませんが」
とアンが言うとマリアンヌも
「そうですよね。アン様がそんなこと」
と応じた。ヘレンとネリスが顔を見合わせている。アンはなんとなく事情を察した。
ちょうどそのとき、聖女室にフィリップとマルスが顔を出した。ヘレンとネリスの顔がぱっと明るくなる。アンに挨拶しようとする二人を目で制し、ヘレンとネリスのほうを優先するよう怖い顔で促す。
少し待ってからアンはフィリップに話しかけた。
「フィリップ、噂ってあんた流したんでしょ」
「あ、わかる? ヘレンから聞いてたんだよ、聖女様がイライラしてるって。聖女様ならイライラですむけど、ヘレンやネリスならそうはいかないじゃん。ここはさ、女性の恐ろしさを利用させてもらおうかなってね」
「あのさ、女の怖さを出すのはいいけど、その例としてヘレンとネリスを引き合いに出すのはどうかと思うよ。ね、マルス」
「は、はい、その通りだと思います」
急に振られたマルスの答えにネリスが反応した。
「その通りとは、どう言うことかの? 私が恐ろしいのかの?」
ヘレンもそれに乗る。
「フィリップ、あんたまだわかってないようね」
アンはネリスとヘレンが遊んでいるのがわかるので、二人がなにかの間違いで仁王様モードにはいらないよう、早めに手を打った。
「ま、フィリップ、その噂のせいか、増援は出たようね」
「うん、おそいけどね、どっちにしろ予定も含め、増援部隊の構成はこうなってるよ」
と、一枚の紙をアンに手渡した。読んでみると、増援を出す貴族名、爵位、増援の人数、さらには領地名と領地の人口、収入源、収入額まで書いてある。いまだに増援に応じない貴族についても同様に書いてある。増援に応じた貴族については、増援を依頼された日、応じた日、実際に増援を出した日と部隊規模もある。
「よく調べたね、ありがとう」
「細かいことはマルスがやってくれたよ」
「そっか、よくやった。これがあれば私は戦える」
「よかったです」
アンは皆に一休みするよう伝え、それからフィリップのくれた紙の中身の暗記を始めた。
「アン様、そろそろです」
ジャンヌに言われて顔をあげると、フローラ、ヘレン、ネリスは甲冑姿に着替えていた。それも傷だらけの甲冑である。
「陛下の前で、汚くない?」
と聞くとヘレンは、
「私これしか持ってない」
と言う。さらにネリスは大きな包みを持っている。
「なにそれ」
と聞くと、アンの甲冑だと言う。アンは3人のやろうとしていることがわかった。
徒歩で謁見の間に向かう。ネリスが大荷物で大変そうである。問題は親衛隊の面々で、なんと甲冑についた汚れを落としていない。どう考えてもわざとだ。案の定宮廷の建物に入るところで衛兵に嫌な顔をされている。
さらに謁見の間の入り口でネリスの荷物がひっかかった。中を見せろと言われて、ネリスは嬉しそうにアンの甲冑を出す。傷だらけなのはともかく、煤だけでなく血痕までついている。ぎょっとする衛兵にネリスは、
「聖女様の甲冑です」
と告げた。包みから出したので一人では持てず、ヘレンとフローラも手伝った。
親衛隊は謁見の間入り口で待機、アンはフローラ、ヘレン、ネリスを伴って入室する。
王座の前に立つと合図があり、国王が入室してきた。アンも頭を下げる。
「聖女アン、この度の戦、ほんとうによくやってくれた。面をあげてください」
アンが顔を上げる。居並ぶ王族に、ステファン王子がいない。それで腹がきまった。
「一同面をあげよ。さあアン殿、戦の様子を皆に聞かせてくれぬか」
「はい、わかりました」
それからアンは、戦の様子を説明した。
⚪⚪月⚪⚪日 どこどこで戦闘、投入人員⚪⚪名、戦死⚪⚪名、負傷⚪⚪名、残存兵力⚪⚪名、全部隊の残存兵力⚪⚪名、稼働可能人員⚪⚪名
アンはすべての日の死者数と負傷者数は暗記していた。だからそこだけはメモ書きを見ないでも言えた。戦闘がどのように行われたとか、なにが大変だったとかそんなことはどうでもいい。現実に怪我人が続出し、死者も出、動ける人数がじわじわと減っていく。この恐怖はその場にいないとわからないだろう。
最初の頃の死者は、名前も顔も覚えていた。しかし途中から死者の顔を覚えきれなくなった。名前もそうである。せめてもと、胸のポケットには全戦死者のデータが入れてある。国のために散っていった者たちが生き残った人々の記憶から消えていってしまいそうで、そのことが悲しい。
途中からたまに見るメモ書きが涙で見えにくくなってしまった。
戦闘が終わるまでの毎日の数的データをアンは涙を流しながら淡々と伝えた。指揮官だろうと貴族だろうと、戦死者の名は一切出さなかった。アンにとっては一般兵士であっても命の大切さは同じだからである。
アンの足元には戦で汚れたままの甲冑が、おかれたままになっている。
続けてアンは、やっと出始めたばかりの増援部隊について言及した。
「〇〇様、増援⚪⚪名、ご領地の人口は⚪⚪⚪⚪人でしたね。ありがとうございます」
「〇〇様、増援予定⚪⚪名、ご領地の人口は⚪⚪⚪⚪人でしたね。ありがとうございます」
これは完全に嫌味だった。すべて暗記しておいたのでメモは見ない。あんたの領地の規模は知っている。そこからやっと、たったこれだけ応援か、と数字で言っているのである。
最後にアンは、部隊の現状をごく簡単に述べて報告をしめくくった。
「現在現地部隊でまともの動けるものは、第三騎士団をふくめても約半数、ですがこれだけ増援をいただければ交代で休息もとれ、ノルトラント領内で活動する敵遊撃兵の掃討も可能でしょう。次の敵大攻勢は春早く、地面が凍ったままのうちに行われると思います。それまでに万全の増援をお願いいたします。また可能であれば外交交渉もお願いいたします」
そして胸元から例の紙をとりだした。
「陛下、こちらが戦死者の一覧です。どうかお納めください」
すると国王はなんと玉座からたち、段をおりてアンのところまでやってきた。
そしてアンの手から直接、戦死者名簿を受け取った。時間をかけ、内容を読んでいる。
「王として勇者たちの名を、業績を称えさせていただく」
と大声で言った。そしてアンに顔をちかづけ小声で、
「本当にありがとう。苦労をかけてもうしわけない。ステファンのことはもうちょっとだけ待ってくれ」
と言った。
アンは膝から力が抜けてしまい、床に膝と手をついてしまった。
王が大声で、
「親衛隊をこれへ」
と叫び、アンは親衛隊に謁見の間から担ぎ出された。