かつての理系女は茶を配る
目覚めたらまだ雨だった。戦火が近づく今、あまり気持ちのいいものではない。観光で来ているわけではないので、朝食後はすぐ領主の館内での作業になった。アン達は広間を一つ借りて作戦室にする作業をした。その作業中フィリップから伝書鳩が飛んできて、ケネスが近衛騎士団に到着したことを伝えてきた。作戦室の準備ができたところで、アン達は野戦病院を見に行くことにした。見に行くと言うよりは、挨拶しに行った。それというのも、かつて中央病院でいっしょに仕事したことがある外科医グントラムや看護師ロッティが来ていると聞いていたからである。
野戦病院は領主の館の倉庫の一つを空けて設置されていた。まだガランとしているが、いくつかベッドなどが置かれている。
「こんにちはー」
と声をかけると、8人ばかりの人が駆け寄ってきた。グントラムとロッティはもちろん、見知った顔ばかりである。
「ネリス殿、久しぶりだな」
医療ドラマ好きのネリスは病院で活躍していたから、人気がある。だからグントラムはまずネリスに挨拶した。
「みなさんがヘルムスブルクに出るというんで、私達も来たんですよ」
ロッティが笑顔で教えてくれる。フローラが、
「これだけの人数で足りるのですか?」
と聞くと、
「いえ、あとからまだ来ます。わたしたちは先発隊です」
と答えてくれた。いったいどれくらいの傷病者が発生するのか、だれにもわからない。
アン達はここに至ってやることがなくなったので、館の中を見て回ることにした。案内役は領主メルヒオールの夫人ゲルダがやってくれた。メルヒオールは素敵なおじさまという雰囲気だがゲルダはそれにお似合いのきれいな中年女性である。アンとしてもこんなふうに年齢を重ねたいと思ってしまう。
美術品などもあり、こんな場合でなければしっかり鑑賞したいところではある。でも今は間取りをしっかり覚えることが重要なので美術品に関してはスルーした。ただ、図書室はヴァルトラントの書物が充実している。タイトルからすると、旅行記や民話集などがけっこうある。ヴァルトラントに近い都市の領主として、貿易先の情報をきちんと勉強しているようだ。メルヒオールの意見は要所要所で聞いておいたほうが良さそうだとアンは考える。
そしてそろそろ昼食が欲しくなってきた頃、恐れていた事態がおきた。
アンはそのとき作戦室に戻っていた。開け放たれていたドアから男性騎士が姿を現し、ヴェローニカのところまで小走りに来た。こころなしか甲冑は汚れているようだし、汗もかいている。
「ヴェローニカ様、グリースバッハ近くの森に突破口が開かれました。ただいま担当部隊が応戦中です」
「うむ、ご苦労! その他の情報は」
「とりあえず第一報ということで、それだけです」
「うむ、休息を取ったうえで原隊にもどれ!」
「ハッ!」
肩で息をしているその騎士のところにフローラが行き、作戦室の隅の空いた席に導いた。ヘレンはお茶を淹れはじめているので、その騎士のところに持っていこうとしているのだろう。
ヴェローニカは何事がブツブツつぶやきながら大きなテーブルに置かれたやはり大きな地図の周りをウロウロしている。アンはヘレンを呼んで、手頃な大きさの地図を入手してくるように頼んだ。そのうえでアンはヴェローニカのところに行った。
「ヴェローニカ様、どうぞこちらへ」
アンはヴェローニカの手をとり、やや強引に部屋奥に置かれた指揮官席にヴェローニカを引っ張っていった。不満そうなヴェローニカを無理やり座らせ、耳元で囁いた。
「指揮官はドーンと構えていていただかないと、部下が浮足立ちます」
「う、うむ、ありがとう」
もうヴェローニカはいつもの不敵な笑みに戻っていた。ネリスも地図を持ってきた。
ネリスを伴い、茶道具のところに行く。まだそこにいたヘレンにアンは声を掛ける。
「わたしたちでみんなでお茶を配ろう」
アンとしては参謀たちを落ち着かせたかったのだ。眼の前の参謀たちは動揺しているわけではないが、落ち着かない者が多い。フローラも戻ってきた。
「みんないい、参謀たちに潤いを与え、脳に糖分を届ける。それが今の私達のできることよ」
アンは3人に言った。あとは自然と手分けしてお茶と少しだがお菓子を配った。
フローラはかわいいし、ヘレンは美人だから、第三騎士団の参謀たちや連絡役として配置されている他の騎士団の男性騎士もすっとお茶を受け取ってくれる。ネリスはもともと騎士志望で騎士団に溶け込んでいたから、みんな完全に仲間扱いだ。アンは美人でもないし愛想もない自覚がある。せめて聖女の微笑みを分け与えようと、不安な気持ちを抑えて必死に微笑みを浮かべてお茶を配った。
しばらくして続報がぼちぼちと入り始めた。突破口は予想通りグリースバッハの近くの森、早いうちに兵力を移動させてあったので、突破口はまだ小さいらしい。そしてこれまた予想通り、ノイエフォルトも攻撃を受けているという。
「偵察部隊を編成し、他の突破口が無いか調べよ!」
ヴェローニカが最初の命令を出した。




