相談してもいい?
「拝啓 さとーくん。
さとーくん元気ですか? 掘られてませんか? 男同士はノーカンだから怒らないよ?
でももし落ち込んでいたら遠慮なく電話してね。
蝶子さん助けて! って言ったら飛んでっちゃうからね」
野々山は早朝の教室で手紙を開き、そして脱力した。
手紙の差出人は野々山の彼女である花代蝶子からであった。
付き合って2年となり彼女の人となりは承知してきたつもりであるが、やはり脱力するものはする。
野々山が思うに、蝶子は一般の女子高生とは感性が違うのだ。
それこそ、直筆の手紙で彼氏の貞操の心配をするような。
蝶子は所謂お嬢様だ。それも古い家柄で、何かと古風な彼女はメールの遣り取りよりも手紙のやりとりを好んだ。勿論現代っ子らしく、携帯で電話やメールの遣り取りもするのだが。
蝶子とは学校が違うせいもあり、最近合うことは少ない。そのためか、寂しがった蝶子から提案があったのだ。
「さとーくんの文字が見たいから」
それが手紙の遣り取りの始まりであった。この学校へ入り1年。
毎回毎回冒頭の言葉に、貞操の心配をする言葉が連ねられている。まあ、確かに特殊な学校ではある、と野々山は苦笑する。
野々山の通う学校は、県下に名を轟かせる名高だ。校名にはブランドがつき、進学先は明るいと評判である。
ただ、何故かこの学校は同性に走る輩が多い。男子校だとはいっても、寮は有るといっても大体は自宅通いがほとんど。野々山も自宅通学の一人だ。
それなのに、ちらりちらりとそういった光景が目に入ってくる。
入学した手の頃はさすがに面食らったが、1年たった今ではそういうものもあると慣れてしまった。決して毒されたわけではないと信じたい。
入りたての頃に驚いた旨を蝶子に伝えて以来、あの貞操の常套句がつきはじめたのだった。おおよその予想では、ほぼ楽しんで分かりきっている上で書いているに違いないのだろう。
手紙を折りたたんで机の中にしまった。
今日は日直当番の日ということもあって、早めに登校してきたのだ。時間は7時10分。当番の仕事をして早朝の勉強を行うにはまだ十分余裕がある。
まずは花瓶の水も換えて、あとは黒板消しもきれいにしなければ。
野々山は椅子を引いて立ち上がり、黒板へ向かい黒板消しを手に取る。昨日の当番は適当に済ませたらしい。黒板消しに汚れが残っていた。先にこれをキレイにする必要がある。
そう思っていた矢先、黒板側の出入り口から、クラスメートが入ってきた。
「おはよう、野々山」
にこりと笑顔で挨拶してきたのは、級友の先田一だ。1年の頃から仲良くさせてもらっている、いい友人だ。そそっかしいのは難点ではあるが。
先田は童顔に似合うボーイソプラノの声をもち、その声で合唱部の期待を担う実力者だ。
いつぞやは教育番組の特番で合唱部が歌っていたが、この学校の合唱はレベルが高いと改めて思わされた。
「おはよう」
挨拶を返すと、先田は荷物を自分の机に置いて野々山に近寄った。
「あのさ、野々山。ちょっといいかな」
どこか躊躇うような、もじもじと指先を動かして先田は口を開いた。
黒板消しを手に持ったまま、野々山は振り返る。
「野々山だから話せるんだけど」
言いづらそうに先田は言葉を続けて、教室の時計を仰ぎ見た。
こち、こち、と秒針が進む。
始業時間は8時30分だからまだまだ時間に余裕がある。
あたりに誰もいないことを確認するかのように、先田は次に周りを見て、また野々山に視線を戻した。
「あの、さ」
黒板消しを置いて、先田と向き合う。先田は視線をつま先に向けてまごついている。
先田は野々山に比べると幾分か小柄だ。
ぼんやりと様子を眺めていると、先田はその間に決心がついたようで、「実は」と切り出した。
「実は、好きな人ができたんだ」
野々山はその言葉に、急に思考を戻されたが、ごく普通に「そうなんだ」とだけ返した。
野々山の長所は、大らかで優しいところだと、蝶子は我がことのように自慢げに言っていたのを思い出す。
「うん」
小さく先田が頷く。
「外か?」
「……内なんだ」
俯いて言う先田は、どうしようと小さくこぼした。
「野々山、好きな人がいるってどんな気持ち?」
「それは、まあ、ありきたりに言うと幸せ、じゃないか? 先田もそうなんだろ?」
「そう、なんだけど」
また、言葉を濁す。
「先田、聞くだけなら、いくらでも聞くよ。でも、言いたくなかったら言わなくていいし」
「いや、いいんだ。気持ちの整理、したくて話しかけたから」
「整理?」
野々山が聞き返すと先田は、顔をようやく上げた。
「なんていったらいいかな、野々山ってなんでも聞いてくれそうな、そんな感じがする」
そう言って先田はゆるく笑う。
「それに口が堅いのだって、付き合いは短いけどわかってるし、うん、相談役というより聞き役にぴったりだったんだ」
「そう、か?」
「ごめん、急に言われても困るのは野々山だよね。でも、お願いしていいかな。ちょっとだけ、できるなら引かずに聞いて欲しいんだ」
「構わないけど」
承諾すれば、先田はほっと息をついた。
「俺が好きなのは、顧問の先生なんだ」
ぽつりと言われた言葉に、野々山は内心で「助けて蝶子さん」と叫びそうになった。
友人の恋? は応援してあげたいが、教師と生徒でとなると、さすがに拙いだろとつっこみの1つや2つ入れたくなる。
気持ちをぐっと抑えて、平静を装う。
そんな野々山には気づかず、先田はぽつりぽつりと言葉を続けた。
「気づいたのは1年の秋ぐらいかなあ。俺、ちょっとスランプ気味で、どうしたらいいかわからないときに先生が教えてくれたんだ。当り散らしたのに、全然気にしてない風で。あんなに真剣に、真正面に向き合ってくれて、すごく感謝したな。でもこんな感情もっちゃうなんて思ってなくて、抑えよう抑えよう思ってても最近はもう、苦しくてさ。先生の声、女の人の声だけれどちょっと低くて俺の声とはもると綺麗に聞こえるんだよ。今度聞いて欲しいな。あ、聞いてみてといったら、この間のコンクールのときにも先生にちょっとだけ個人レッスンつけてもらったんだけど、そのときの先生がね」
次第にいかに先生がすごいか、素敵なのかという話に移行しかけている。
野々山は慌てて制止の声をあげた。
「先田! 先田、ちょっと落ち着け」
「あ、ごめん。駄目だな、一つのことに夢中になると全然見えなくなっちゃって」
「本当に好きなのはよく分かったよ」
半ばげんなりしながら、言えば先田は照れたように前髪をくしゃりとした。
「駄目だな、整理っていって全然できてないや。こんなんじゃ、告白なんて出来もしない」
「告白、するのか?」
「……うん、先生今月いっぱいでこの学校はなれて外国へ飛ぶんだって」
なるほど。先田の言葉に納得する。
「先田、その先生を俺はよく知らないが、そのスランプの話からするに人の気持ちを無碍にする先生じゃないんだろう? そう先田と面してきたなら、先田の性格もすこしは知っているだろうし……」
「うん」
「まあ、ありきたりなアドバイスだけどさ。先田が後悔しないようにすればいいと思う」
「うん……」
先田は考えるように、下を向いた。
余計なことを言ってしまっただろうか。
野々山は聞き役とは思ってはいたものの、つい、言葉が出てしまった。年が離れているうえに教師生徒の間柄だろうが、先田の応援をしてみたくなったのだ。蝶子がいれば、「さとーくんちょっと無責任じゃないかしら」と言うかもしれない。
「野々山、ありがとう」
少しの後悔を野々山がしていたところ、先田は野々山に感謝の言葉を投げかけた。
「ちょっと、整理、ついたかも」
「本当か?」
「うん、大丈夫。今から言ってくる!」
「そうか、今か……今から!?」
「まだ7時30分すぎたころだし、今日も早朝練習で一緒に歌う予定なんだ! うん、砕けるなら早いほうがいいから!」
駄目だ。こうなった先田は、そうそう止まらない。
「き、気をつけていってこいよ?」
「ありがとう野々山! 昼ごはんパンおごるね!」
荷物から楽譜を取り出してぱたぱたと走っていった。
にこりと笑った先田の顔は、確かに可愛らしいという評判にかなった顔だった。
しかし先田は、約束の昼休憩になっても現れなかった。
昼休憩のチャイムが鳴る。
野々山はちらりと先田の席を見るが、結局先田がその席に座ることはなかった。
何かあったのだろうか。
朝の遣り取りがあった手前、心配がつのる。先田はそそっかしい奴だから、何かやらかしたのかもしれない。
午前授業の教師陣は先田の欠席を知っていたが、今日に限って授業延長つづきのために聞くに聞けず、昼になってしまった。
弁当を机に置いたものの、どうにも手が進まない。
「食わないのか?」
後ろから声がかかり、思わず身がすくむ。
振り向けば、野々山の後ろから覗き込むように、クラスメイトが一人立っていた。
「市橋」
市橋好人。先田と同じく1年の頃からの同級で、少々頭が緩いが人の良い奴だ。
市橋は野々山の机の上の弁当を見て、それから先田の席を見た。
「なあ、先田知らね? 朝からみえねーし」
先田と市橋は学校の寮に入っている。それに確か部屋が隣同士だったはずだ。早朝は教室にいたのだから、市橋が知らないのは仕方がないだろう。
野々山は、先田を教室で見たと言おうとして、口をつぐんだ。先田のプライバシーに関することであるし、デリケートな話題だ。市橋には悪いが、市橋が空気を読んでくれるとは思えない。
「さあ、何があったんだろうな」
適当にあわせれば、市橋は「だよなー」と言っての野々山の近くに椅子を引いてきて座った。
「先田いないと古文困るんだよな……野々山ァ」
「課題をしてこないお前が悪い。古文は6限。間に合うだろ」
市橋が訴える視線をよこしてくるが、一度許すと市橋のためにならない。1年の頃から市橋は後ろから数えたほうが早い成績であり、しかも本人はそれを良しとしているのが尚悪い。
市橋は技能推薦でこの学校に入っており、美術技術の面は秀でているのだが他の教科はからっきしである。
考査が来るたびに先田や野々山に泣きついてくる。
「俺が間に合うと思うかよ……時岡みたいに頭よけりゃなあ」
「時岡なあ……」
話題に上がった時岡は、この学校では有名人だ。もてるだとかそういう意味ではない、ただ、すごい奴というその点において有名だった。
通称歩くチート。
校内には時岡伝説なんてまことしやかに噂されている話もある。
時岡恵。野々山らとは同学年であるが、それほど話すこともなく仲は良くも悪くもない。
重たそうな頭にひょろりとした身長でだるそうに歩いている姿は、噂とはそぐわない。
しかし、野球をさせたら数度ふるだけでホームランを飛ばし、短距離を走れば悠々と一位を攫っていく。勉強も大してしてないといってはいるが、常に学年上位へ食い込んでいる。勉学運動のほかにも、やらせてみたらあっさりしてのけた等、野々山も耳にしている。
「時岡は時岡、お前はお前。ほら、後で手伝うくらいならしてやるから」
ううと唸る市橋に声をかけると、ぱっと顔が上がった。
「野々山ぁあ! なんだかんだ甘いお前が好きだ!」
「俺は蝶子さんのほうが好き」
「酷い! 俺の心をもてあそんで!」
ひしっと両腕で自分の体を抱き締める市橋に笑いがこぼれる。
市橋は頭が緩いが、場を明るくする才能がある。先田を案じて沈みがちになる思考に、市橋の明るさはありがたかった。
机に置きっぱなしの弁当を開きながら、食べ終わったら先田を探しに行こうと野々山は決めた。
依然、先田の姿は見えなかった。
昼食も終え、市橋に適当に言い訳した野々山が向かったのは職員室だった。
教師陣が先田の欠席を知っていたのだから、何か知っているのは道理だ。
先ほどの授業を持っていた教師を探して、復習の話題のついでで先田について尋ねれば、教師はなんでもないように言ってのけた。
「先田か? それなら保健室で休んでいるそうだぞ。見舞いか?」
「ああ、はい。そんなところです」
曖昧に笑えば、感心した様に教師はうなずいた。そそくさとお礼を言って、野々山はその場を辞した。
何故、保健室に行ったのだろう。やはり上手くいかなかったのか。そっとしたほうがいいのだろうか。
だが、様子だけは見ておきたい。
躊躇いはしたものの、野々山は足を保健室へと向けた。
構内は広いが、昼休みということもあって生徒の行き来は多く、雑然としている。
保健室前に立つと、「校医は外出中」と書いた不在札がかかっていた。
鍵がかかっていないことを確認して、野々山はノックをして扉を開いた。
「先田、いるか?」
そっと声をかけながらベッドの方へ歩く。
カーテンで区切られ、締め切ったベッドが一つだけあった。
きっと先田だろう。
そろりとそのベッドの前に立つともう一度、野々山は声をかけた。
「先田」
返事はない。それでもじっと待つと、音を立てて勢いよくカーテンが開いた。
「の、野々山ああああ」
先田だった。
さっきまで泣いてたであろうとわかる、赤い目で、先田はベッドの上を這って野々山のほうに寄ってきた。
「ののやま、どうしよう、どうしよう」
「何か、あったのか」
「あったどころじゃないんだ!」
ばっと顔をふせて両手で頭を押さえる。小柄な先田にはなんとなく似合っている仕草だ。
「俺、俺……時岡と付き合うことになった……」
力なく言った先田の言葉に、野々山は固まり、少しの間を置いてようやく言葉を発した。
「……どうしてそうなった」
野々山の問いかけに、先田はなんとも聞き取れない声をあげたあと、投げやり気味に「俺だってどうしてこうなったかわかんないよおおおお!」と叫んだ。
*
憂鬱そうな顔で、先田は事情を話し出した。
「俺、野々山に相談したあと技術棟にいったんだ」
この学校は広く、主に生徒の教室がある一般棟、図書室や音楽室といった文化系設備がある技術棟、運動部系の設備がある体育棟の3種類に別れる。
技術棟は野々村らがいる2-Aクラスと同じ階から繋がっており、音楽室もすぐ近くだった。だから、先田は数分で目的地へとついたのだろう。
「すぐ先生を見つけて、でも告白するって決めても、なんて言おうか緊張しっちゃってさ……思い切って声かけたら、いたんだ」
「時岡が?」
「時岡が」
がくりと頭を下げて、先田はうなだれる。
「時岡ってうちの合唱部にもたまにピアノ伴奏で借り出されてて、早朝練習にも時々来てくれるんだ。先生も結構熱心に時岡を入部させようとしているくらいでね……だから、時岡はいたんだと思う」
「それで、先田お前は」
「いっそ笑ってくれるかな、野々山……いっぱいいっぱいになって、うつむいて告白して……顔を上げたら真正面に時岡がいたんだ……!」
「……」
先田の心情を量れば、どんな言葉をかけるのが正しいのだろう。野々山は言葉が見つからず、無言で先田を見た。
「先生がいる前で! 時岡に! 告白したんだ!!」
完全にうつぶせて先田はくぐもった声をあげた。
「先生は完璧に誤解したよね。それは優しい笑顔でね、俺のほう見て……先田、そうだったのか、そういうのもアリだと先生は思うよって!」
はは、と自嘲の笑みを先田が漏らす。
「時岡は時岡で、面食らった顔して……もう、疲れたよ野々山」
「あー……先田、時岡なら事情を話せばわかってくれるんじゃないか?」
「本当に、そう思う?」
顔を上げた先田は、眉をハの字にして聞いてくる。
時岡とは親しくないから、時岡がどういう性格なのかもよく分からない。もし、時岡が鼻持ちならない性格ならば簡単に請け負ってくれるだろうか。下手すると先田を傷つけるだけの結果もありえる。
「簡単に言って、悪い」
「いいよ……でも、野々山の言ったように訂正しないと。だけど、今日はもう、疲れた」
横になった先田を見て、野々山は小さく息をついた。
先田のそそっかしさは知ってはいたが、ここでやらかすとは。
「お大事にな。ノート、とっとくから」
「ありがとう、野々山……」
力なく言う先田に野々山は軽く肩を叩いて、保健室をあとにした。
あれでは暫く再起不能そうだ。
保健室の扉を開けて出て教室へと足を進める。
廊下の天井上に設置している時計を確認すると、昼休憩も残りわずかだ。
野々山は足を速めて教室へと急いだ。
教室へ辿り着くと、市橋が不機嫌そうに野々山を迎えた。
「おっそいぞ野々山! 俺に教えてくれる約束忘れてんじゃねーだろうな」
「ああ。うん、覚えてる覚えてる」
「適当!」
市橋をあしらいつつ席に座り教科書とノートを取り出した。
「ほら、市橋ノート」
「おい、あと5分で授業始まるんだが」
「市橋に10分教えようが1時間教えようが同じだから。解説はあとでな」
古文のノートを市橋に差し出すと、文句を言いながらノートをひったくられた。
「野々山め! ありがとう!」
「感謝しているのか、それ」
「いやー、いい友達もったよなー俺!」
いい笑顔で言う市橋は、まったくもって成長していない。適当に済ませすぎたか、と内心反省したが、今はそれよりも先田のことが気になる。
不機嫌から上機嫌に一転した市橋を見て、単純だと思う。
時岡が市橋のように単純だったらいいのだが。
「それはないよなあ」
あの時岡が市橋のようだったら、それはそれで怖い。
自分で考えておきながら、野々山はぶるりと体を震わせた。
*
午後の授業が始まれば、夕方まであっという間だった。
やはり先田は戻らずじまいで、野々山は先田の心労いかばかりかと心中でそっと合掌した。
先田自身のせいだとはいえ、あまりに可哀想でもある。
人がはけていった教室で、日直である野々山は教室の掃除に取り掛かった。
市橋にでも手伝ってもらおうかとおもったが、早々に「インスピレーションが舞い降りてきた! 俺は今、腕が震える!」と言ってハイテンションに技術棟へとかけていった。
とはいっても簡単な掃除だ。黒板の清掃と教卓くらいを綺麗にしておけばいい。一人でもそう時間は食わないだろう。
机の中から担当日誌を取り出して、ふと廊下を見ると件の人物を見つけた。
重たそうな黒い髪はそぞろに伸び、ひょろりとした体躯をだるそうに動かしている。時折あくびを噛んでいるが、寝不足なのだろうか。
「時岡」
ぽつりと言って、日誌を机の上に置いた。
椅子から立ち上がったところで、ちょっと待てと静止の声が頭で働いた。
野々山が言ったところでどうするのだ。これは先田の問題だ。それに、時岡になんて言えばいい。
人様の色恋は分からない。ただでさえ蝶子との恋愛関係は、野々山自身もよく分からないのだ。蝶子さんが規格外なのだと、そっと恋人の責任転嫁をする。
そうこう考えている間に、時岡は教室の前を通り過ぎようとしていた。
聞くだけなら。
野々山は席を立って、教室を出たところで時岡に声をかけた。
「時岡、あのさ」
時岡は立ち止まると、ゆっくりと野々山の方へ向いた。
「何か用? 野々山、だっけ」
時岡は有名でも、こっちの名前を知っているのは驚いた。少々面食らっていると、面倒くさそうに時岡は頭をかいた。
「同学年の名前くらい、覚えている。先田と仲がいいし」
先田という言葉にはっとする。そのことで聞きにきたのだ。
「あー……その、さ。先田のことでちょっと聞いたんだが」
だがやはり、聞きづらい。回りくどい切り出しになってしまう。
けれどそれでも時岡は分かったようで、ああ、と言って淡々と答えた。
「いい。聞きたいことは分かってる。知ってるよ、先田は相生が好きなんだろ」
相生とは、先田が好意をよせる部活顧問であり、本来先田が告白するはずだった女教師だ。
敬称をつけないあたり、時岡は不遜な性格なのかもしれないと感じた。
しかしそんなことよりも、時岡の発言だ。
当に分かっていたのに、何故先田は時岡と付き合うのだろう。
「あれ、じゃあなんで先田は時岡と付き合うことになって?」
「先田が俺みたいなのと本気で付き合うわけないだろ。だけど、ただ、ちょっと惜しいと思っただけ。それだけ」
「は?」
疑問をそのまま声に出して聞けば、ちょっとだけ顔をしかめて時岡が答える。
「あのさ、もういいだろ。察しろ、そのくらい」
「えっ、あ、ああ、悪い」
まさか。
よぎった想像に、首を振って、時岡に軽く頭を下げた。
「そのうち俺からも先田に言っとくから、口を出さなくていいよ。すぐ終わるだろうし」
つまらなそうに時岡は言って、そのままきびすを返して歩いていった。
本気で付き合ってはいない。事情も知っている。だけど、付き合ったことになっていて、理由は察しろ。
遠くなる時岡の背を見送って、野々山はなぜだか無性に蝶子の声が聞きたくなった。
余計なことをしたのかもしれない。「しっかりしてよさとーくん!」と自分をなじる蝶子の姿が脳裏に浮かんだ。