泣ける陰キャ(寝る前の一思案。過去最悪の、脳回転)
「胸を打つ物語に触れてこそ、子供は成長していくのよ!」
ある作品の、ある少女が無い胸を張って言っていた。
僕もこの意見には賛成だ。もっとも、これは物語でしか成長出来ないなどという極論を言っているわけではない。感受性を豊かにし、脳内で描き、新たな世界を知る事のできる物語というものは、確かに子供の成長に影響しているだろう。
かくいう僕も物語を読んで育ってきた人間だ。それが胸を打つものだったかは置いておくとして。
ふと思ったのだが、『胸を打つ』必要があるのだろうか。胸を打つ程の作品でなくとも、少しは心に何かは残るだろう。僕の場合もそうだった。
もちろん言いたいことはわかる。駄文の塊か胸を打つ作品か、どちらがより影響を及ぼすかと言われると後者だろう。しかし、駄文が成長に関係しないとも言い切れないはずだ。
葵さんは会話を好む。内容に関わらず、会話が目的で内容は二の次だと言っていた。この時点で理解し難いが、これと同じように考えるのならば「物語に触れて成長することが目的で、胸を打つかどうかは二の次」ともいえる。質の良い物でぐんぐん成長して欲しい的なあれなのかもしれない。
もしくは、有名だから読ませたいのかもしれない。世界的ヒットした作品は世間では当たり前のように読まれていたりする。その作品を知らないと言えば「人生の〇割損してる!」と言われるだろう。
魔法学校に入学する作品だって、巨人を駆逐する物語だって、鬼の首を斬る奇譚だって、読んでいる人にしか分からないのだ。
つまりこの場合は、成長とは知ることで、胸を打つ物語は教養だ、ということになる。なんかこっちは生々しい解釈なので気乗りはしないな。
結局僕が言いたいことは、と聞かれると特に無い。単に『何故胸を打つ必要があるのか』と疑問に思っただけだ。実際なんで成長するのか分からず仕舞いな気もするが、そもそも文字に触れればその分語彙が増えるのだから、案外そういう事なのかもしれない。
話が30度ほど変わるかもしれないが『全米が泣いた』や『全世界が涙した』のようなキャッチコピーを見かける度に、誇張表現なのは当然として『別の国で大ウケでも日本で同じとは限らないのではないか?』と思う。
ウケるウケないの差は文化とか思想の違いが理由だろうが、そういう意味では『全米』のような枕詞を使えば日本人はそれだけで好きになる傾向があるかもしれない。
しまった、一瞬で矛盾のようなものが生まれてしまった。要するにアレだ、日本人は大多数の発言に流される節があるから、そういうキャッチコピーを使えば流される側面もありつつ、日本人のストライクゾーンから大きく離れれば、それはもちろんウケないという……結局当然のことをそれっぽく言っただけじゃないか。ま、まぁ、このミスを次に活かせるかもしれないからセーフだ。
結局、泣ける物語とか、そういうのじゃなくて、人生が人を成長させるんだから。小さいミスでも僕は成長してるんだから。ほら、なんだっけ……別の生徒会でも言ってたじゃないか。
『世界は平凡か?未来は退屈か?現実は適当か?安心しろ。それでも、生きることは劇的だ!』
どんな作品だろうと自分の人生には勝てないんだから、泣ける作品よりも自分の経験こそが……いや、その場合泣ける作品を読むという経験が自分を……考えるの、やめるか。明日、竜田達来るんだし、早く寝よう。




