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みじかいラブみ集

綿あめの君

作者: 秋月小夜

 部屋のドアを開けると、スパイスのいい香りが鼻をくすぐる。

「わあ、おいしい匂い!」

「お帰り梨花(りか)さん。今ドライカレー作ってるよ」

 キッチンからひょこっと顔を覘かせて(さとる)が言う。

「智っていい子!あー、お腹空いたあ」


 私の赤いエプロンを着けた智の姿を見ると嬉しくて、ご褒美にはしゃぐ犬みたいにじゃれついてしまう。

 頭一つ分背が高い彼の背中に腕を回し、癖毛の髪に手を伸ばしてワシャワシャ、する。

「ただいまのワシャワシャ!」

 フライパンに向かう智が笑ってこちらに体をよじり、キスを一つしてくれた。

「こら危ないよ。着替えておいで」

「いや。キス一個じゃ足りないもの」

「じゃあもう一つね」

 もう一度、智はキスしてくれた。


 温かく湿って柔らかい唇の感触が甘く残る。

 智は、ふうわりと淡く煙る虹色をした私だけの綿あめ。


 でもこの頃その幸せは甘いだけじゃなく少し物悲しい藍色を帯びている。

 それは智のせいじゃなく、私の気持ちが勝手にセンチメンタルになるせいなんだ。


 この虹色の幸せが、いつか溶けて跡かたもなくなってしまうんじゃないかって。



 六歳年下の本城智(ほんじょうさとる)が入社した時、私が指導役だった。

 素直で明るく仕事もきちんとこなす智を可愛い、と思った。

 案の定、彼は部署のみんなに可愛がられる後輩になって、みんなが彼を智と名前で呼んだ。


 休憩スペースでお昼を一緒のテーブルで食べると、器用な智は自作のお弁当を持って来たりする。


「智って結構料理するんだね」

「そんな。節約にもなるし、料理は割と好きな方かも知れません」

「うらやましいな、私はさあやるゾ!って気合いがないと作れない」

「梨花さん気合いで料理するの?」

「おかしい?」

「うん、なんか意外で」


 二年後の春に、彼は違う部署に異動した。

 外勤するせいか休憩スペースでも姿を見かけくなった。


 そしてその数ヶ月後チャットが来た。

『久々に梨花さんとご飯に行きたいです』



 週末の夜、小ぢんまりとお洒落なビストロのカウンターで智と並んで座る。

 ワインのグラスを掲げ、お疲れ様の乾杯をした。


「久しぶりだね、今度の部署には慣れた?」

「仕事はまあ、大丈夫です」

「そう?何かあったかなって思って」

「心配かけました?でも、会いたいなんて言ったら重いかなあって。正直になれなくてつい」

「懐かしくなった?」

 そう言ったら智は少しこちらに体を向けた。


「違います。そんな遠い優しい気持ちじゃない。異動してから毎日何かが足りないって思って……。それが辛かった」

「辛い?」

「ああ辛いです、梨花さんが足りない。それが僕には辛すぎる」


 外は花冷えの夜。

 店を出ると智は私の手を取った。

「少し冷えますね。ねえ梨花さん、手を繋いでください」

 手を繋いで夜の公園を抜けて歩く。


 しばらく黙って歩いたけれど、繋いだ手の指が時々キュッと握られた。

 見上げると、唇を結んだ智がこちらを見て目だけで笑う。

 またキュッとする。

 そうして笑いあう。

 今夜顔を合わせた時の、あの切実さとはまるで違ういたずらな微笑みで。


 ああ私、困った子に捕まってしまったの?


「智、今はもう辛くない?」

「ええ、すごく安心してます」

「ならよかった」

「梨花さん、そばにいたい。僕と付き合ってください」

「智……」

「そうだ、僕が梨花さんの好きなもの作ってあげる。ね、きっと喜ばせる。だから……お願いします」


「いいよ」

 魔が差した。


 いじらしい智の言葉にうたれて、イエスと言ってしまった。

 でも、彼はまた微笑んで繋いだ手を引くと、もう片方の腕で胸の中に私を包んだ。

 ぬくもりは抗えない力になって、温かく柔らかな智の唇が私の唇と触れ合う。

 少し濡れたその感触が生々しくてクラっとする。

「嬉しい、嬉しくて僕……」

 智の腕の中。

 艶を帯びた彼の瞳も今しがた味わった感触に染まっていた。



 智がテーブルに置いた冷たいグラスが部屋の暖気にみるみる白く曇る。

 ビールの金色と白く幸せな泡。

 二人で向かい合う食卓。

 お風呂の後に私の髪をドライヤーで乾かしてくれて、寒い夜にはピッタリと寄り添って眠る。

「梨花さん足が冷たいよ。ほら、こうして……」

 腕の中にすっぽりと私を納めて脚を絡ませて。


 でもあまり幸せすぎると、青紫の靄の向こうから醜く卑屈な顔の悪魔がケチをつけにやって来る。


『梨花、この幸せはそう長くは続かないよ。あんたには勿体無い!こんな七色の幸せなんて』



 智と出会う八年前、私は今とは別の会社で仕事を覚え、一回り以上年上の素敵な人に恋をした。


 でもその彼には家庭があった。

 それでも彼と別れられず二年が経って、ついに彼の奥さんに私たちのことが知れた。

 彼と別れて会社を辞めた。

 その後、彼も離婚したと噂に聞いた。


 モーブの霞の中から悪魔がまた囁く。

『人を傷つけて不幸にして!この先もう一生、あんたには美味しい恋なんてくれてやらないよ』


 あの時から、恋愛の神様に見放されたと思った。

 それなのに。

 ふいっと現れた智。

 三十一の私より六歳も年下で、優しくて、たおやかで綺麗な智。

 虹色の綿あめが甘く溶けて、私の上に虹色の雨を降らせる。

 その雨に、私の心が体がどれほど溶かされても。

 なし崩しの甘い幸せはいつか終わる。

 そう思う。


 智との初めての夜。

 ベッドの中で彼はためらいがちに触れながら言った。

「梨花さん、綺麗。……とても綺麗だよ」

「智、そんな褒められたら恥ずかしいよ」

 癖毛の智の髪が胸に触れてくすぐったい。

「梨花さん、僕あまり経験ないんだ。梨花さんを喜ばせたいけど、よくわからない。だから、どうしたらいいかおしえて」

「経験なんて……私も智を喜ばせたいよ。でも、いつも正直でいるね」



 あれから二年が過ぎて、お互いの正直さと共同の自由研究は実を結んだ。

 でも幸せな時こそ忘れちゃいけない、モーブの悪魔の教訓を。

 今の幸せの向こう側、智が私のそばから居なくなる日の事を思わなきゃいけないのだ。


 そんな事が頭の片隅にあるせいなのか、久し振りにあの修羅場になった日の夢を見た。


「梨花さん、どうしたの?」

 目が覚めたら涙が溢れていて、智が後ろから抱えるように抱いてくれた。

「夢……見てた」

「悪い夢だね、『ごめんなさい、ごめんなさい。二度と……』て言って泣いてた」

「ごめん、智。他にも私何か、言ったかな……」


 少しの間があって智は言った。

「……名前呼んでた。『ユウジさんには二度と近づきません……』って」

「そう」

 灰色にくすんだ私。

 薄汚れた曇天の想いが、ささやかな日々を打ちのめす。


 その数日後。


「ただいまー」

「お帰り、梨花さん」

 そう言って迎えてくれた智が私の手を取ると、居間に引っ張っていく。

「そこに座って待ってて」

 ソファに掛けると、寝室に入ってとって返した智がキラキラとした瞳で現れた。


 赤いバラの花束を持ってひざまづく。


「梨花さん、楽しい時も悲しい夢も、僕と分け合ってくれませんか。一生涯」


 七色の綿あめが涙に溶けて、二人に甘く降り注ぐ。

 大切な、大切な智。

 あなたは私だけの、綿あめの君。

原宿で売られている七色の綿あめから思いつきました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 甘い甘い恋物語、とファンタジックな七色の綿あめ、というコンビネーションが素敵なイメージだと思いました。 [一言] 僕の小説も感想くださいね。♡
2019/07/20 11:53 退会済み
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