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四、

 最初の弔問客が訪れたのは正午を少し過ぎた頃だった。

 会社の昼休みにやって来た感じの、スーツを着た中年女性である。店に入って来た時から、もう涙ぐんでハンカチを目に当てていた。

「ありがとうございました」

 線香を上げて拝んだあと、彼女は親父に深々と頭を下げて嗚咽をもらした。

 見知らぬ女性だが、親父と何か特別な関係でもあったのかと俺は動揺した。思わずお袋を見ると、目に涙を溜めてはいるが表情は穏やかだ。

「どうぞ、お茶でも飲んでって下さい」

 お袋は女性の背中をさすって声をかけた。察した俺は急須でお茶を淹れ、饅頭と共に女性の前に差し出した。テーブルの上には大皿に盛った煮物や即席の漬物なども並べられている。

「ごめんください」

 店の方から大きな声がして、静香が立って行く。今度は三人連れのサラリーマン風の男性だった。

 それから次々と弔問客がやって来て、俺達は対応に追われた。会社員のような人々、作業着姿の男性にスーパーの制服を着た若い女性など様々な人々が訪れ、午後には幼稚園服の小さな子供を連れた母親達が集団でやって来た。そして夕方になると、学校帰りらしき中学生や高校生までやって来た。

「ありがとうございました」

 訪れた人々は一様にそう言って親父に頭を下げていく。誰もが義理でなく本当に心から悲しんで見えた。別れを惜しむように長い間じっと手を合わせていく人も少なくない。

 俺は不思議でならなかった。

 親父と同年輩で古い付き合いというならわかるが、老若男女こんなに様々な人間が親父の死を悼んでいるのはどうしてなのか。人柄を慕って来られるほどの人格者だったかというと、ひいき目に考えても怪しいものだ。

 それとも、俺が考えるより店の経営は順調で、常連客を惹き付けて止まない工夫でもしていたのだろうか。

 首をひねっている俺を、静香はなぜか得意げな目で見てくる。

「小父さんの凄さがわかった?」

 訊かれたのは、陽が傾いてきて来客が一段落した時だった。お袋は少し横になりたいと二階に上がり、俺と静香は一息つこうとお茶を飲んでいた。

「わかったような、わかんないような」

 俺はテーブルの上に残された饅頭を一つ取って口に運んだ。静香が黙って俺の湯呑みにお茶を注ぎ足す。

「こんなに慕われてたってことには驚いたけど、なんでって思う」

「そっか」

 静香も饅頭を手に取ると、軽く溜め息をついた。

「理由があるんだよ。でも私が口で説明したんじゃ、てっちゃんには伝わらないと思うの」

「もどかしいな」

「頑張って自分で解決してちょうだい」

 饅頭を食い終わったら、ほのかに懐かしく甘苦い黒糖の風味が舌に残った。

 だいぶ暗くなってきたので、俺は店に下りて外灯のスイッチを押した。ついでに真ん中の通路の蛍光灯だけ点ける。

「あれ?」

 ガラス戸に人影が映っていた。入って来るかと思ったが、影は動く気配を見せずじっと立ち尽くしている。まるで朝の自分を見るようだった。

 俺は静かに戸に手をかけ、そろそろと開けてみた。

「あ……」

 緊張の面持ちで立っていたのはブレザー姿の少年だった。どこの学校の制服か知らないが、体つきがしっかりしているところを見ると高校生のようだ。

「親父を拝みに来てくれたのかな?」

「あの……俺みたいなのも拝ませてもらっていいんですか?」

 少年は不良という感じではなさそうだが、制服を着崩し耳にはピアスが光っていた。長い前髪の隙間から、こちらを窺うようなおどおどした目が覗いている。

「どうぞ」

 俺は迎え入れて奥へ案内した。

「失礼します」

 少年は遠慮がちに茶の間に上がり、ぎこちない動作で線香に火を点けた。

 それから黙って手を合わせていたかと思うと、突然ガバッと頭を畳に擦り付け嗚咽しはじめた。肩がぶるぶる震えている。

「ごめんなさい……」

 少年は絞り出すように謝罪の言葉を口にした。

 俺は驚いたが、下手に声などかけない方がいい気がして、黙って様子を見ていた。

「てっちゃん」

 静香が小声でささやく。

「この子の話、聞いてあげて」

 有無を言わさずタオル地のハンカチを押し付けられる。静香はそのまま立って台所に消えた。

 俺は複雑な気持ちで泣き伏す少年から目をそらした。心のどこかで、自分もこんな風に泣きながら親父に詫びるべきなのではないかと思ってしまう。

「すいませんでした」

 ひとしきり泣くと、少年はそろそろと身を起こした。

「小父さんに恩返し出来なかったと思うと、なんか悔しくて」

「恩返しって?」

 俺はハンカチを差し出し、少年と向きあった。

 なかなか答えが帰って来ない。少年はハンカチを遠慮して受け取らないが、顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃである。あまり見ないようにしてティッシュの箱を押しやると、小さくすいませんと言って手を伸ばしてきた。

「中学ん時、本を万引きしたんです」

 少年は消え入りそうな声で、ぽつりと語り出した。

「軽い気持ちで……」

 今こうして話せるということは、きっと解決済みで後悔しているのだろう。俺は黙って耳を傾けることにした。

 かつて友人達と万引きでスリルを楽しんでいた少年はある時、盗んだ本を古本屋に持ち込めば良い小遣い稼ぎになることを知ったのだという。この店はいつも店主一人だし簡単だと目を付け、連係プレーでまんまと高く売れそうな本を持ち出すことが出来た。その後どうかと様子を窺いに来てみたが、自分たちを疑っている様子はない。間の抜けた爺さんだと小馬鹿にして何度も万引きした。そして気を大きくした彼らは、ショッピングモールの大型書店でも万引きしようとして警備員に捕まったそうだ。

 少年達は手口の悪質さから追及を受け、この店でも盗んだことを白状した。それでこの少年は母親に連れられて謝罪と弁償にやって来たのだが、親父は一言も責めなかったらしい。

「本が好きでなければ持ってかないだろうし、本屋にとって本の好きな子供は宝物のような存在ですから」

 親父はそう言って、少年のために一冊の本を選んで手渡したのだという。

「貸してあげるから読んで感想を聞かせて欲しいって、小父さんニコニコしてたんです」

少年はまた肩を震わせた。膝の上で握ったこぶしに、ぽろぽろと涙が滴っている。

「本当は俺、本なんか……くそつまんねって思ってたのに」

 かつての自分を見るようだった。いつも本ばかり読んでいる親父を冷たい目で見て、何がそんなに面白いのかと馬鹿にしていた俺が重なる。

「親の手前っていうか、一応ちゃんと返しに行かなきゃって、その本を読んでみたんです。そしたらすごい面白くて、すっかり読書にハマっちゃったんです」

 少年は夢中になって読み終えると、おそるおそる感想を話しに訪ねた。親父はとても喜び、帰りには別の本を選んで渡した。それもまた少年好みの面白い本で、親父と本を介した交流は続いた。悪さをする友人達とはだんだん疎遠になり、自然と勉強する気になって高校にも合格できたそうだ。

「今の俺があるのは小父さんのおかげなんです。だから、いつか恩返ししたかった……」

 俺はやっぱり複雑な気持ちで、うまく慰めてやれそうにない。

「そんな風に思ってもらえるだけで、親父は十分なんじゃないかな」

「でも俺……」

「君が本好きになってくれたことで恩返しはもう出来てると思うよ」

 ありきたりな言葉しか浮かばなかったが、少年は深々と頭を下げて帰って行った。

 俺は大きく息を吐いて、低い天井を見上げた。

 もし親父が説教じみたことを言って少年を叱っていたら、彼は本好きになることもなく、悪い友達と遊び回って高校にも行けなかったかもしれない。本を紹介することでその人の人生を変えるなんて信じがたいが、まぎれもない事実として受け止めざるを得ない。

「てっちゃんの親父はな、みんなに本を選んであげてたんだよ」

 ぼんやり考え込んでいると、いつのまにか佐藤さんが戻って来ていた。静香も隅の方に黙って座っている。

「本は人を元気にも幸せにも出来るんだってのが持論でな、その時のその人にぴったりな本を出してくる。アイツが薦めた本で人生が変わった人、この町にはいっぱいいるんだぞ」

 佐藤さんはしんみりした口調で言うと、目をゴシゴシこすりながら鼻をすすった。

「俺だって、静香だってそうなんだ」

 ふり返ると、赤い目をした静香が俺を見ていた。

「小父さんに選んでもらった本がなかったら、私、写真の専門学校なんか行かなかったと思う」

 そうだったのか――常に本を手にしていた親父の姿が脳裏に浮かぶ。

「まさか、いつも本読んでばっかりいたのは……」

 俺はハッと気が付いた。親父は活字中毒だとばかり思っていたが、あれは単なる読書趣味ではなく、出来るだけ沢山の本を知って誰かに薦めるためだったのか?

 佐藤さんが大きくうなずいた。

「本の神様みたいな人だった」

 体の底から震えが上がってくるのを感じ、俺の中で過去の様々な出来事の意味がぐるりと転換していく。

 俺はかつて親父に渡されたまま開いてもいなかった本のことを思い出した。

 足がもつれそうになりながら階段を駆け上がった。手前の部屋のふすまを開けると、そこが寝室だったらしく敷布団にお袋が横になっていた。

「俺が親父にもらった本って、どこにある?」

 浅く眠っていたらしいお袋は、俺の剣幕に面食らったようだ。

「隣にあるよ。お前の物は一つも捨ててないから」

 言われて隣室のふすまを開けてみれば、売り払った自宅で俺が使っていた学習机やベッドがあった。いくつかダンボール箱のまま置かれている荷物もあるが、本棚には昔読んだ児童書から受験の時に使った参考書の類まできっちり並べられていた。一番下の棚に大人向けらしき単行本がかなりの数あるが、どれも読んだ覚えのない本ばかりだ。

「お父さん、哲史の誕生日のたびに選んで並べてたんだよ」

 俺は本棚の前にへなへなと腰が抜けたように座り込んだ。

「送ってくれれば良かったのに」

 思わず口にしたが、東京の住まいに送られてきたとしても俺はたぶん読まなかっただろう。帰って来る気になれば読んでくれるかもしれないという親父の思いが、痛いほど心に突き刺さる。中学入学の時にもらった本、高校卒業の時にもらった本、就職が決まった時にもらった本、どれもタイトルだけは覚えている。だが中身は一ページも見ることなく実家に置き去りにしてきたのだ。

 ふと、喧嘩別れする直前にもらった本を見つけて手に取った。ハードカバーの凝った装丁で、前世紀の文豪が書いた小説である。表紙をめくると親父の字が目に飛び込んできた。

『ルーツなど振り返らなくていい。哲史の人生は哲史のものだ。足枷や呪縛は振り捨て、己が選んだ道を胸を張っていきなさい』

 こみ上げてくるものを抑えることが出来ず、俺は本を抱きしめ、小さい子供のように声を上げて泣いた。


 通夜の晩、線香を絶やさぬよう管理しながら、親父が遺してくれた本をむさぼるように読んだ。

 多少青くさくも感じられる内容だったが、まだ社会に出る前の俺が読んでいたら感銘を受けたに違いない。文句なしに面白かった。これより前に選ばれた本も、この後の本も、きっと俺にとって必要な内容の素晴らしい本ばかりなのだろう。

「なんでわからないのかと思ったら、小父さんの本を読んでなかったのね」

 打ち明けた時、静香は憤慨したように俺を睨んだ。

「これから読むよ」

「手遅れなんじゃないの」

 記録係として参列する人々にカメラを向ける姿はさまになっている。女だてらに写真館を継いでやっていこうというのだから、静香も相当に努力してきたのだろう。

「まだ人生はこれからだろ」

 今はそう言うのがやっとだ。

「ふうん」

 静香は意味ありげな目をしていたが、なにも追及して来なかった。


 お袋が続けたいというので、本屋は再開することになりそうだ。

 葬儀が済んで店に戻ると、明るい表情をした親父の写真が額に入れられて張台の上に飾ってあった。

「歯が見えすぎてるから遺影には使えなかったんだけど、良い顔してるでしょ」

 仕事中に撮ったものなのか、背景は店の本棚である。

「いいんじゃないか」

「佐藤さんが撮ってくれたのよ」

 故人の写真を飾ってある本屋なんて普通はどうかと思ってしまうが、親父の場合はあんなに慕って来てくれる人達がいたのだから、写真ぐらいあった方が喜ばれるかもしれない。お袋も心細さが和らぐだろう。

「ここはもういい加減、古くて住みづらいんじゃないか?」

 お袋に問うときっぱり否定された。

「私はここがいいの」

「水回りぐらい直してやりたいけど、俺もそんなに余裕なくてな」

「哲史が思ってるほど困ってないし、心配しなくて大丈夫」

 お袋はなんだかさっぱりした顔をしていた。

「お父さんの選んだ本、読むなら送ってやろうか?」

「いや、たまに読みに帰って来るからそのままでいいよ」

 思い切って言ったつもりだが、ふうんという気の抜けたような返事が返って来た。見れば何か言いたそうな顔をしている。

「なんだよ?」

「静香ちゃんはまだ独身だよ」

「……馬鹿なこと言って」

 柄にもなく顔が火照った。


 今の俺は「本屋を継ぐ」とは言えない。勉強も知識も何もかも足りないのだから、まだ口にすることが来ないのだ。東京に戻ったら手始めに、どこかの書店に修行のつもりで転職してもいいかもしれない。

 親父が選んだ本は、多くの人々にとって特別な意味を持っている。これから始めるのでは親父に到底及ばないだろうが、俺も出来るだけ沢山の本を読んでいこうと思う。

 遠くないうちに必ず戻る――俺はそう心に決めて故郷を後にした。




(完)

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