三、
佐藤さんに続いて店の奥に進むと、茶の間の上がり口には白黒の幕がかけられていた。紐で左右に括り分けられたその幕をくぐれば、ふり向いたお袋と目が合った。
「お帰り」
涙声で言われ、昔より一回り小さくなったようなお袋の姿を目にすると、さすがに胸に迫るものがあった。
「ただいま」
口にしたい言葉は色々あったはずだが、そう応じるのが精一杯だった。
八畳の茶の間に、親父は北枕で寝かされていた。傍に寄ってそっと白布をめくると、意外に穏やかな表情で眠っているかのようだ。茶色いチェックのシャツと緩めのジーパンを着せられている。
「店に出る時の格好そのまんまだな」
佐藤さんがちょっと笑う。
「硬くならないうちにって、病院で着せてもらったのよ」
お袋もいくらか微笑んで言った。
「この人には白装束よりいいでしょ」
俺はそんなものかと聞きながら、記憶よりずっと老けている親父の顔を眺めた。
おそらくは、経営状態が好転してはいなかっただろう。だからといって、廃業したところで、年齢的に別の仕事を見つけるのは困難だったと思う。それなりに悩んだかもしれないが、結果的に親父は自宅を売ってまで続ける道を選んだ。
――尊重してやるべきなのか。
未だに燻る思いを捨てきれず、複雑な気持ちで物言わぬ親父を見つめた。
「哲史、いつも仕送りありがとうね」
お袋がまた涙声で言う。
「お礼言われるような金額じゃない」
学生時代の礼として、時々いくらか送っていただけである。
「お父さん、もったいなくて使えないって神棚に上げてたんだよ」
「そりゃあ自慢の息子だったからな」
――やめてくれ。今そんな話は聞きたくない。
俺は返事をしなかった。
ほどなく親父の仲間が集まって来て、葬儀の段取りが話し合われた。葬儀屋が火葬場の予約を取ってきたので、そこから逆算して葬儀日程が決まった。
「ご遺体は通夜の日の午前中に斎場に移します」
葬儀屋が日程表を印刷して持ってくると、お袋はホッとした顔をした。
「良かった、すぐ連れて行かれなくて」
「ここでアイツとの別れを惜しみたい人も沢山いるだろうしな」
佐藤さんが相槌を打ちながら、不思議なことを言った。ここで、と強調するからには店の常連ということだろうか。
「俺らが準備するから、てっちゃんはドンと座って構えてて」
なんだかわからず戸惑う俺をよそに、佐藤さん達はそれぞれ立ち上がって動きはじめた。
「ポットは二本で足りるか?」
「ウチの饅頭でよけりゃいくらでも持って来るぞ」
「座布団あるかい?」
「揃いのやつを貸してやるよ」
そんな会話にあっけにとられている間に、茶の間から座椅子やちゃぶ台が消え、代わりに長テーブルが運び込まれて茶菓の準備が整えられていく。
「こんなに顔揃えてたって邪魔なだけだし、俺らはこれで失礼するよ」
「あとは佐藤に聞いてな」
一段落すると、彼らは波が引くように帰って行った。
「出来るだけ沢山の人に知らせたいんだよ」
声が聞こえ、佐藤さんはどこかと見回せば、店の方に下りて誰かに電話しているようだ。
「とにかく急いでな」
念を押して電話を終えると、佐藤さんは俺の方をふり向いた。
「てっちゃん、俺はこれから訃報を印刷して配りに行って来るけど、代わりに娘を寄越すから何でも手伝わせてな」
「えっ」
娘と言われて小学校の同級生の顔がぼんやり浮かんだが、名前を失念してしまっている。
「なんだい、忘れちゃったのかい」
顔をしかめた佐藤さんの後ろで、ガラス戸が開いた。黒いエプロン姿の女が入ってくるのを見て、俺はやっと幼馴染の名前を思い出した。
「静香?」
「お久しぶり」
会うのは成人式以来かもしれない。佐藤さんによく似た丸い顔は、年齢より若く見えた。
「ずいぶん早いな」
「店じまいして電話待ってろって言ったのに、全然かかって来ないから、こっち向かっちゃってたのよ」
静香が口を尖らす。
「とにかく行って来るから。後は頼んだぞ」
佐藤さんはそう言うと、せかせか出て行ってしまった。
「このたびは御愁傷様です」
静香は奥へ案内する俺に、改まった調子で悔やみの言葉を口にした。
「残念だったね、まだそんな年じゃないのに」
親父の枕元には香炉の載った小さな経机が設置され、線香の煙が漂っている。
「小母さんは?」
そういえば、お袋は仏飯が必要と聞いて台所に立ったっきり戻っていない。
台所は茶の間のすぐ横にある。
「大丈夫か?」
声をかけながら戸を開けると、飯の炊ける匂いに混じって煮物の旨そうな匂いがした。見れば、ガスコンロで大きなアルミの鍋が湯気を立てている。甘じょっぱい味付けの煮物はお袋の得意料理で、親父も好物だったのを思い出した。
「お客さんに出そうと思ってね。ありあわせだけど」
「お手伝いしようか?」
俺の後ろから静香が顔を出す。
「あれ、来てくれてたの。ありがとうね」
静香は慣れた様子でお袋の隣に立ち、野菜を洗いはじめた。
またしても、俺だけが手持ち無沙汰である。
「俺も手伝うか」
「哲史はお父さんの傍にいてやって。それで、誰か来たら教えてくれる?」
お袋はふり向かずにそう言った。
仕方なく茶の間に戻って親父の傍に座ると、さっきからの一連の状況を頭の中で整理してみることにした。
バタバタ準備されたこの部屋の様子から察するに、今からここに沢山の「お客さん」が弔問に来るらしい。店の客なのか、地域の知り合いという意味なのか、その辺は判断しかねている。誰かに尋ねてみればいいだけの話なのだが、なんとなく訊きづらかった。
俺の常識でいうと、誰か知り合いが亡くなったら通夜か告別式に参列するのが普通である。親しかったら知らせを受けてすぐ自宅に行ったりするかもしれないが、そんなことをするのはよっぽど特別な付き合いがあった場合に限られると思う。ましてや「よく利用する店の主人が亡くなった」なんて場合は葬儀に行くかどうかもわからない。
だが、この地域の常識はどうやら違うらしい。