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第八話:異世界学園

「それでは約束通り、今日から貴方はオルドミア学園の教師となります。必要な物はこちらで手配したけれど、他にも入り用な物があれば言って頂戴。すぐセシルドに用意させるから」


 そう言うとナーサリアは、手にしたティーカップに優雅に口付けた。

 学園長という多忙な地位にある彼女は、こういう個人的な場を利用しないことには息を吐く暇すら持てないのだ。ともすれば公私混同と揶揄されかねない行為だが、普段の彼女の働きぶりを目にしている者ならばそんなことは口が裂けても言えないだろう。

 たとえどれだけ精力的に働いた所で、彼女の仕事机はいつだって未決済の書類で溢れ返っているのだから。


 何もこれはナーサリアに事務処理能力が欠如しているというのではない。

 事実は逆で、彼女ほど有能な人材をもってしても処理しきれないくらい、膨大な案件が日々持ち込まれているというだけのことなのだ。

 ひたすら人間性を摩耗させる行為を仕事とは呼ばない。並の人間であればこのような拷問じみた生活から早々に逃げ出しているだろう。

 人は誰しも健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有している。もちろんこの異世界にそんな憲法など存在しないが、人として生まれたからには人らしく生きる権利があって然るべきだ。


 それなのに弱音一つ漏らさず、来る日も来る日も全力で仕事に取り組み続ける彼女の超人的な姿を見ていると、やはり英雄の子孫に相応しい傑物なのだと思わずにはいられない。逆説になるが、鎮座する書類の前に座り続けているという事実こそ、彼女が優秀な人間である何よりの証左なのだった。


 ともすればその光景は、溺れかけた少女が必死でもがいているようにしか見えないが、その比喩は次の二点において正鵠を射てはいなかった。

 一つは、容姿こそ年端もいかぬ少女に過ぎないが、ナーサリアが時折見せる深い知見や経営手腕からして、彼女が十代だとは到底思えないということだ。実は俺より年上だったと聞かされても驚きはしない。もちろん女性の年齢を聞くという愚を犯す勇気など俺にはないけれど……。

 そしてもう一つは、ナーサリアが自分の置かれた状況をそれほど悲観的に捉えていないということだ。アーネンベルク家当主代行にしてオルドミア学園を統括する彼女には、生まれながらの重責と生きていく上での重圧が嫌というほど課せられてきたはずなのに。


 人は生まれる場所を選べない。だから獅子の子である彼女は、千尋の谷を住処とするしかなかったのである。そんな悲劇的な宿命を背負った彼女が、俺にはどうしようもなく憐れな存在に思えた。しかしナーサリアは自分の過酷な運命を恨むどころか、むしろ光栄にさえ感じているのだ。アーネンベルク家に生まれたからこそ、自分は最良の未来を創り出す一助になれているのだと。


 常により良き未来を。


 それがナーサリア・フォン・アーネンベルクの矜持であり、荒れ狂う海で生きていく為の確固たる指針だった。

 だから俺の憐憫など、ナーサリアにとっては無用の長物でしかなかった。彼女はただ未来に待っているであろう幸福を目指しているだけなのだから。俺と同じように……。


「御用の際は何なりとお申し付け下さいませ、ミカミ様」


 先程のナーサリアの言葉を受け、従者であるセシルドが一礼する。その所作はいつ見ても洗練されており、彼女が優秀な人間であるということが一目で分かる。

 従者の言動はそのまま主人の評価へと繋がるが、その点においてセシルドは十分にナーサリアの品格を保証する存在足り得ていた。そんな主従二人のすることに遺漏などあるはずもない。恐らくこれまでと同様、行き届きすぎた配慮が俺に対して払われている事だろう。ナーサリアの庇護下にあったこの一年で嫌というほど分かっていた。


「既に学園長には十二分にお世話になっています。ただでさえワタシの我儘で学園に勤めさせてもらうのですから、正規の給金さえ頂けるならそれ以上の望みはありません」


 異邦人である俺が、未知のこの世界で生きてこられたのはひとえにナーサリアの助力があればこそだった。力もなければ知識もない。その上魔法も使えない俺が、どうして異世界で生き延びられるというのか?

 そんな人間が、今日から大陸一の名門と名高いオルドミア学園の教師となるのだ。これ以上一体何を望めば良いのだろう?そのはずなのに、俺の答えを聞いてナーサリアは困った表情を浮かべた。


「……これまで何度言ったか分からないけれど、もう一度言わせてもらうわ。貴方たちをこの世界に呼び寄せてしまった原因がこちらにある以上、わたくしが貴方を助けるのは当然なのです。貴方が元の世界に還りたいと望むなら、我がアーネンベルク家の総力を挙げてその方法を見つけましょう。もしもこの世界で生きることを選ぶのであれば、この先の生活は全てわたくしが保証します。どちらを選ぶも貴方次第なのよ。だから望みがあれば遠慮しないで言って頂戴。力の及ぶ限り叶えてみせるから」


 余りにも寛大な言葉を頂いて、今度はこちらが困ってしまう。


「学園長のお気持ちはありがたいのですが、ワタシ自身まだ自分がこの世界で何ができるのか分かっておりません。そして何をしたいのかも。それを見極めるために、しばらくの間は学園で学ばせてもらいたいと思っています」


 本来なら学園生として通いたい所であったが、如何いかんせん他の生徒との間に年齢差がありすぎた。オルドミア学園に在籍しているのは、原則として14歳から18歳までの男女である。そこに22歳の、それも身元すら定かでない人間が混ざるというのは流石に無理がある。下手に好奇の目に晒された挙句、それが原因で俺の正体がばれるという事態も避けたかった。ならば多少は本来の道筋を外れてでも、教師として勤めるというのは悪い選択ではないように思える。教えることだって学ぶことの一形態ではあるのだ。


「そう言うのであれば、わたくしは貴方の意思を尊重します。苦労も多いと思うけれど職務に励んで頂戴。この学園に通うのは、いずれもその将来を嘱望されている子供たちなのだから」


 ナーサリアの言う通り、オルドミア学園には大陸全土から才気溢れる若者たちが集まって来ている。この学園が光の英雄によって創設されたということも理由の一つだが、それ以上に次の条文の影響が大きかった。


    『本学は生徒となる者の身分を問わないと、ここに明記する』


 学費は決して安くないが、それでも未だ身分制が厳然と存在しているこの世界において、教育の門戸が庶民にまで開かれているというだけで驚嘆に値した。

 要するにオルドミア学園とは、人材発掘とその育成を目的とした国際的エリート養成機関なのだ。卒業した生徒の多くが、いずれは各国の要職に就くことになる。よって、この学園での出会いや経験が大陸の未来を左右すると言っても過言ではない。そんな場所に何の実績もない俺が、それも欠員が出た訳でもないのに急遽採用されたのだ。何でもない事のようにナーサリアは言っているが、相当な横紙破りがあったであろうことは想像に難くない。その結果が余分な仕事として彼女の前に積み上がっているということも。

 それにも関わらず、彼女は俺の要望を快く叶えてくれた。本来なら幾ら感謝しても足りないのである。力の及ぶ限り俺の望みを叶えてみせるという言葉に嘘はなかった。

 だから俺は本当の望みを口にしない。

 それが彼女などでは決して手の届かない遥か彼方に存在しているからだ。


 確かに俺たちは幸福を目指している。しかし彼女の幸福が未来にあるのに対し、俺の幸福は過去にしかなかった。三人で日の出を見たあの朝に戻れれば……。


 人の身に過ぎた願いであることは理解している。それでも諦められない切実な願いを表す言葉がこの世にはある。それは悲願だ。此岸の者には叶えられない心からの願いだ。

 たとえ違法だったとしても、そして外法と呼ばれようとも人の欲望は善悪の境界線を簡単に越えようとする。必要とされるのは超人的な意志だった。


「それと、貴方が異邦人であるということはわたくしとセシルド、その他僅かな職員しか知りません。いつまで隠し通せるか分からないけれど、疑われるような行動は極力控えて頂戴。どうしようもなければこちらで手を打ちます」


 ナーサリアの言葉に、俺は頭を下げて了承の意を示す。


「話は以上です。それではまた後ほど」


 話はこれで終わりだった。

 俺は踵を返して部屋を出ていく。未来ではなく過去に向かって歩むために。



     ◇     ◇     ◇


 廊下を歩きながら俺は考える。これまでの事、そしてこれからの事を。

 元の世界ではただの大学生でしかなかった俺が、この世界では史上初の異邦人となったのだ。もしも正体を知られてしまえば、この国どころか大陸中を揺るがす騒ぎとなりかねない。俺の処遇をめぐって多くの権力者たちが頭を悩ませることは火を見るより明らかだった。そして異端者の末路など決まりきっている。良くて処刑、悪ければ人の形をしたモルモットとして実験室で生涯を終えることになるだろう。

 もちろんそんなのはご免蒙りたいが、迷路を進まされるモルモットと右も左も分からない世界で生きていく俺の間に何の違いもありはしないというのが皮肉なところだ。むしろ、一片のチーズのために懸命になれるモルモットが俺には羨ましい。あいつらにあるのはただ生存する事だけなのだから。餌さえあれば事足りてしまう。生き方などという余計なものに心煩わされることがないのは、生物としてとても合理的だった。

 しかし人は違う。たとえ十分な食があろうと、精神的な糧がなければ生きる価値を見出せない難儀な生き物なのだ。


 自分の胸に手を当ててみる。かつてここは輝かしいもので満たされていたはずだ。明日を生きていけるだけの温かさが、確かにここにはあった。たった一年前のことなのに、思い出せないくらい遠い昔のように感じられる。けれど事実なのだ。

 その証拠に、決して消えない傷が胸には刻まれている。心にまで達する深い深い傷だ。


(それが今では……)


 俺に残されたのは過去の温もりを忘れられない愚かな心と、残り火を見つめる墓守のような眼差し。こんなものを抱えて生きるのは辛すぎる。俺は苦しむために生まれて来たのではない。生きるというのはもっと楽しいことであって良いはずだ。ならば……


(捨ててしまえ)


 生存本能がそう告げる。

 治らない傷であるなら取り除くしかない。壊死した傷口を切除して、正常な機能を回復させるのだ。それも叶わないなら心ごと捨ててしまえ。そうすれば俺はこれ以上苦しまずに済む。

 一条春来と二見響子を愛していた。そう割り切るだけで俺は新たな幸福に向かって歩きだすことができるのだと頭では理解している。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」という言葉の通り、人生において同じ瞬間は二度と訪れない。だから我々は未来に向かって歩き続けるしかないのだ。たとえそれが本当の幸福から遠ざかる行為だったとしても……。

 その現実を俺の心だけが受け入れられない。夢のような幸福を知るが故に。

 人間とは貪欲な生き物だ。どこまでいっても満足することがない。昨日よりも今日。今日よりも明日。より裕福に、より幸福になることを欲してしまう。


(俺は過去の幸福に縛られている。いや、人とは常にそういうものではないのか?)


 我々が幸福を手に入れる時、それは過去のものとして過ぎ去っていく。だから次を求めるのだ。終わってしまった幸福の代わりを求めて。

 失っては手に入れて、手に入れた途端失ってしまう。しかし人の欲望は留まることを知らない。


(現在とは過去に対する代償行為の呼び名に過ぎないのではないか?)


(注いでも注いでも満たされぬ空の器。何かが間違っている)


 この負の連鎖から抜け出すには、全てをリセットしてしまうことだ。過去と現在を切り離してしまうのだ。

 昨日の自分と今日の自分は同じではない。だから昨日の幸福と今日の幸福は別物であるのだと言い聞かせる。

 だからもし、俺が二人のことを忘れたとして誰も俺を責めはしないだろう。それが適応であり、成長するということなのだから。もしも責めるとしたらそれは俺自身だ。


(事実から目を逸らすのは止めろ。変化が必ずしも進化であるとは限らない。与えられることが救済だと限らないように。おまえは前に向かって歩いているつもりかもしれないがその実、犬のように同じ場所をぐるぐる回っているだけではないのか?それを適応と誤魔化し、成長だと偽るほど生とは価値あるものなのか?)


 分からない。自分でもどうかしていると思う。

 

 俺は何のために生きている?何のために今日まで生き永らえてきた?

 そう自問すると決まって心が同じ答え返してくる。


(一条と二見に出会うためだ)


 俺は既に満たされていたのだ。その記憶に比べれば、この先に待つどんな幸福も見劣りする。だから絶えず願ってしまう。あの頃に戻れればと。

 

 俺が二人の存在に異常なまでに執着しているのは、きっと彼らが俺の一貫性と唯一性を司っているからに違いない。

 

(俺は俺であって、俺以外の何者でもない)


 当たり前だが、よくよく考えてみると不思議なことだ。絶えず変化し続ける俺という存在を、いつでも三守秋途だと認識しているのだから。現在の俺と十年前の俺の間に一体どれほどの共通点があるだろう?氷と水蒸気ほどの隔たりがそこにはある。同一のものであると説明されても、生じる違和感を拭い去ることができない。

 それでも俺は俺で在り続ける。それも他とは取り換えのきかない唯一無二の存在として。

 論理的に証明する手立てはない。それにも関わらず俺は俺であることを信じている。矛盾、錯覚、あらゆる不合理がそこには内包されていた。こんなものは無い方が生き易いに違いない。しかし心の叫びを止めることはできなかった。


(記憶喪失の時と状況は何ら変わっていない)


 唯一変化があったとすればそれは体験。かつて俺が幸福であったという過去が存在しているということだ。三人で眺めた朝日がそれを象徴していた。俺たちの存在の全てが風景の中で一つに溶け合っていたあの至福の瞬間。

 その時に俺は知ったのだ。俺は俺であると同時に彼らでもあった。一条と二見の存在が三守秋途を満たし、三守秋途という存在が二人を補完していた。

 だから一条と二見の価値が変動してしまうことを俺は心の底から恐れていた。

 

 もしも二人が俺にとって取るに足らない存在になってしまえば、それは俺の一貫性に綻びを生じさせるだろう。三守秋途とは何なのだろうという苦悩に再び突き落とされてしまう。

 もしも二人の代わりになる人間が見つかってしまえば、それは俺という存在の唯一性を揺るがせにする。なぜこの世に三守秋途が存在しているのかという存在意義の根源へと押し戻されてしまう。


 俺は俺の幸福のために生きている。しかし俺が幸福を求める時、そこには二人の存在が必要不可欠であった。だから俺はこの世の何よりも一条と二見を愛している。二人が幸せでなければ、俺も幸せになれない。ここまでくると、卵が先か鶏が先かのように際限がなかった。果たして俺は自分のために生きているのか、それとも二人のために生きているのか。多分いつまで経っても答えは出ないだろうし、その方が良いとさえ思える。

 だから俺はこう考える。俺は俺たちのために生きているのだと。これが最も誤解のない答えだろう。


(まるで神話に出てくるケルベロスだ)


 それなのに一心同体である二人はもういない。もはや俺の心は役に立たないガラクタだった。


(だから捨ててしまえ)


再び本能が囁く。けれど心が騒ぎ出す。


(馬鹿を言うな!)


 なぜなら、俺の心が負ったこの傷は形見として二人が残してくれたものであるからだ。

 

 だからこの傷は癒されてはならないし、捨ててしまうなど以ての外である。

 俺の存在意義である二人が消えた今、俺が生きる意味は二人を失った心の痛みと一生付き合っていくこと以外にあり得なかった。

 三守秋途とは存在に付けられた傷の名だ。胸に残ったこの傷こそが、二人と俺を繋ぐ唯一の絆だったのだ。

 

 塞がらない傷口からは延々と血が滴り続ける。その臭いに誘われた悪魔が俺の前に姿を現わしたのは、今思うと必然だったのかもしれない。

 俺はこの世界で何をしたいのか分かっていないとナーサリアに言ったが、あれは嘘だ。

 俺がこの世界で何をしたいかなど決まっていた。


(一条、二見、待っていてくれ。必ず君たちを生き返らせる!)


 異世界に来て失ったものは、異世界で取り戻してみせる!

 たとえそれがどれほどの犠牲を出そうとも、そのことで俺自身がどれだけ傷付こうとも、一条と二見のためならば耐えられる。傷は、傷によってのみ癒されるのだ。



 異世界学園での教師生活が始まる。

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