第七話:契約
一条と二見を失ってからというもの、僕の意識は幽体離脱したように原初の海を漂っていた。恐らく自閉した僕の心が作り出した精神世界だろう。ここでは時間という概念が欠落している。
だから夜が明けることはない。僕は来る日も来る日も波のさざめきに耳を澄ませ、星々の煌めきを見上げているばかりだった。
どんなに綺麗でも、空に浮かぶ輝きに手を伸ばすことはもうしない。手に入らないということを知っているから。
よしんば手に入れられたとして、その先に待っているのは喪失の悲しみだ。手に入れた輝きが、自分の手の中で色褪せていくことをひたすら怖れなければならない。
貧しい者は幸いである。
どうして人の世とはこうなのだろう?
変化と呼べば聞こえは良いが、その本質は獲得と喪失の繰り返しではないか。
もう疲れたんだ。
期待することにも、絶望するのにも……。
だからここはとても居心地が良い。何も変わらない悠久のこの場所は、さしずめタナトスの海といったところだろう。
とはいえ、現実問題として僕の肉体はまだあの世界—―異世界――に留まっている。
だからと言って、それで生きているなどと思わないで欲しい。生への執着が抜け落ちて以来、不思議と五感すらまともに機能しなくなっていたからだ。
目は見えていてもそれは像を結ばず、聞こえているはずなのに耳は音を捉えず、腹は減っているだろうに飢えを感じず、鼓動はあっても心は動かなかった。
要するに、僕の世界から色と音と匂いと味と躍動、つまりは生きる喜びが消えたのだ。
それらはかけがえのない二人と共にどこかへ行ってしまった。
もう何を失おうと構わない。僕は生きる動機そのものを失ったのだから。
それなのに僕の肉体が朽ちずにいるのは、毎日無理やり口に食事を流し込んでいく世話焼きなメイドがいるせいだった。
僕は死ぬ時すら自由に選ぶことができないらしい。
ならば人が持つ自由意志とは何なのか?人を人たらしめる条件とは何なのか?そんなことをタナトスの海に浮かびながらずっと考えていた。
答えの出ないそんな問いも、この空間でならば慰めになる。
『そんなにここは心地良いか?』
突如世界に声が響く。だけど姿は見えないし、探す気にもならない。
僕が作り出した声に決まっているからだ。
「あの世界に比べれば随分とね」
自分で自分に答える。
『しばらくここにいて良いか?』
「ご自由に」
隣に存在の気配がする。しかしこれも僕が作り出したものだろう。
『尋ねても良いか?』
「ご自由に」
『ここはどこなのだ?』
「……フフッ……フフフ、あははは!」
どうしても僕は笑いを堪えることができなかった。
「わるいわるい。あんまり真面目に聞くものだからつい、ね。ここがどこなのか僕にも正確には分からないんだ。一応タナトスの海と呼んでいるけれど」
『たなとす?』
「死の欲動のことだよ」
暫しの空白。
『死にたいのか?』
「死にたいね。と言っても殆ど死に体のようなものではあるが」
『何故死のうとする?』
自分で作り出した幻想にしては嫌に物分かりが悪い。しかし暗中問答は続く。
「命より大切な者たちを失ったらもう死ぬしかないさ」
『そうか、苦しんでいるのだな』
労りの言葉をかけてくる。だが僕はそれに反発する。
「僕は二人のために苦しめることを誇りに思っている。『悲しむ者は幸いだ』という言葉を知らないのか?」
それきり声は黙り込んでしまった。
手に入れては失くし、失くしてはまた手に入れる。けれど決して取り戻すことはできない。だから僕はひたすらこの場所で悲しみ続けようと思う。
そんな未亡人のような生活が、まさかたった一言で終わりを告げるとは思ってもみなかった。
『取り戻せると言ったら君はどうする?』
「は?」
現実逃避も度が過ぎてやしないだろうか?これは僕が作りだした願望に違いないのだ。
それでも、何も変わらないこの世界でならば、口にすることだけは許されるだろうか。
「もしも…………もしも、だ。一条と二見を取り戻せるのであれば、僕は僕のすべてを捧げるだろう」
『ならば我と契約せよ異邦人。さすれば失ったものを取り戻す力を汝に与えよう』
人の力に限りがあるように、人の叶えられることにもまた限度がある。そして世の中には叶えられないことの方が圧倒的に多い。どれだけ技術が進歩しようとも、未だ世界は不可能で溢れている。
人とはさながら草原を彷徨う一羽の白兎のようなものだ。道心を起こそうとも何をすればよいか分からず、心からの願いも叶えられない。ただただ運を天に任せ、世界の広さと己が矮小さに歯噛みするしかないのである。
一寸の虫にも五分の魂。
されど燕雀如何にして鴻鵠と成り得んや。
しかし救いはある。
もしも刎頸の友と呼べるような人物を見つけることができれば、献身ですらも喜びを得るよすがとなるだろう。献身の本質とは自己犠牲ではなく、自己満足にこそあるのだから。
その身は供物となり、空へと立ち上る煙のように天までの道を指し示す。
運が良いことに僕には刎頸の友が二人いた。
一条春来と二見響子。二人と一緒にいられることが僕の最大の幸せだった。たかだか二十一年の人生ではあるがそう断言できる。
この先の世界がたとえ地獄の業火に包まれていようとも、二人のためならば生きていくことができる。そう思っていた。
この上なく尊くて、それでいてとても切実な望みだったのに……。
そんなある日だ、世界が二人を奪ったのは。それを思い出すのに半年、認めるのにさらに半年の時間を費やした。
認めたくなどなかったけれど、どれだけ目を瞑ろうとも心の傷と痛ましい記憶が僕に現実を訴えかけてきた。それが紛れもない事実であり、そしてもう失われてしまったことなのだと……。
二人のおかげで、僕はこれまで夢のような時間を過ごすことができた。だからこそ忘れていたのだ。
夢は
醒めるからこそ
夢なのだということを。
夢は決して僕たちを守ってくれるためにあるのではなかった。だから二人を失い、僕は魔王と契約した。
三守秋途に異世界で初めての学園生活が訪れようとしている。




