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第四話:境界線

 石畳の凹凸に車輪が跳ねる振動を座席越しに感じながら僕は考えていた。

 何がナーサリア様をここまで躊躇わせているのだろうかと。

 

 理由を尋ねたとしても、おそらくナーサリア様は答えて下さらないだろう。聞かれただけで簡単に話す位ならば、最初から教えて下さるはずだからだ。

 目の前のこの方は、それだけの聡明さと意志の強さを兼ね備えておられる。


(そのナーサリア様をして悩ませる何事かが、僕の過去に、あるいはこれから会う人物にあるということなのか?)


 けれど記憶の回復は、僕にとって避けて通れないことでもある。どうして自分自身から逃げ出すことができるだろう?


(僕のそんな事情も、ナーサリア様ならばすべて承知しているはずなのに、なのに、どうして……)


 憂い顔のナーサリア様とその隣に控えるセシルドさん。そして物思いに沈む僕。状況は夕食の時と何ら変わってはいない。

 そんな車内に立ち込める気まずい空気を打ち破ったのは、意外にもセシルドさんだった。


「ミカミ様、一つだけお聞かせ下さい。もしも取り戻された過去が、貴方様を苦しめるようなものであったならば如何致しますか?」

「セシルド!!」


 今までに聞いたことのない厳しい声がナーサリア様の口から飛び出した。

 驚いた僕は思わず身を竦めてしまったが、ナーサリア様の威厳を以てしてもセシルドさんを制止することは叶わない。


「申し訳ありませんお嬢様。しかし今だけは、差し出口をきくことをお許し下さい」


 ナーサリア様に謝罪したセシルドさんは、再び真剣な眼差しを僕へと向けてくる。

 

 目は口ほどに物を言うと聞くが、彼女の瞳に籠められた感情にどのような名称を与えるのが相応しいのかなんて僕には分からない。

 分かるとすれば、彼女が何らかの覚悟を持って僕と向かい合っていること。そして先の発言が僕を困らせる意図でされたものではないということ位だ。


 セシルドさんは僕を助けるという職務にいつだって忠実だった。だから今回のことも、きっとその延長線上にあるのだ。


「屋敷での生活はミカミ様にとってどのようなものでございましたか?」

「夢のような生活でした。親切な人たちに囲まれて何不自由ない暮らしを送れたのですから」


 そんなことは聞かれるもでもない。誰であっても僕と同じように答えるだろう。


「そのように仰っていただけると、私を含め、侍従一同本望でございます。ですが此度の訪問で、ミカミ様が御自分の記憶を取り戻されたならば、もちろんそこには好ましくないものも含まれていることと愚行致します。反対を申せば、このまま過去の出来事をお忘れになられている限り、アーネンベルク邸での日々がミカミ様の全てとなります。どちらが貴方様にとって幸せであるのか、私などには判断致しかねます。ですから何卒、それについてのミカミ様の率直な心の内をお聞かせ願いたいのです」


 セシルドさんの話は、記憶の変容が僕の人格にまで影響を及ぼすのではないかという可能性を示唆するものだった。


 現在とは詰まるところ、僕に蓄積されてきた過去の情報のまとめ役である。人が膨大な記録を内包した袋であるとすれば、その袋の口を縛っている紐こそが現在なのだ。ならば袋の中身に変化が生じることで閉じ口の位置が、ひいては袋そのものが変わってくる恐れがある。

 つまり、僕が取り戻した記憶内容の如何(いかん)によっては、既に手に入れた日常すら脅かされるということに他ならないのだ。

 

 過去を求めることで現在の幸福を損なう危険性があるのなら、無理に完全な記憶というものにこだわらなくても良いのではないか?

『何故僕が死の淵を彷徨っていたのか?何故ナイフを握る度に奇妙な感覚に襲われるのか?』 

 それらの疑問に答えを出すことを諦め、屋敷での平穏な暮らしを享受し続ける方が賢明ではないか?

 

 きっとセシルドさんはその答えを聞きたいのだ。


 今のはあくまで僕の一方的な解釈だ。だがそのように考えること自体、ナーサリア様が与えて下さった幸福にしがみつこうとする僕の心根の表れに思えてならなかった。

 だけどこれは至極当然な心の動きである。

 誰だって自ら好んで手の内にある幸福を手放したいとは思わないだろう。


 しかし、こちらを見つめる二対の真摯な瞳が、僕にもっと大切なことを思い出させてくれた。


(そうだ、僕の気持ちなんてとっくに決まっていたではないか!)


「ただ幸福に生きるだけならば、ここで引き返した方が良いのかもしれません。確かに僕には自分を自分足らしめる記憶が欠けています。あるいはそれが、僕から望みや拘りを奪っているのかもしれません。ちゃんとした記憶があれば、僕はもっと違った生き方をしていたのかもしれません。しかしそれは誰にでも当てはまることです。人は誰しもが何らかの不如意の中を生きているのであり、僕の場合はそれが記憶だったというだけの話です。確かに不便ではありますが、手足を失った人や生まれつき指の数が不揃いな人に比べれば、生きていく上での不都合は少ないでしょう。でも……」


 次の言葉を発するために、僕は背筋を正して表情を引き締める。


「それでも僕は思い出したいのです! 僕は、どうすればあなた方に恩を返せるのかずっと考えてきました。ですが、何度考えても答えは一緒です。今の僕では何もできない! 僕があなた方の役に立つためには、自分が何者であるのかという過去が必要なのです!!」


 目覚めて以来、初めて僕は自分の意志を明確に口にしたように思う。

 話の流れではセシルドさんの質問に答えたはずだが、僕の視線はしっかりとナーサリア様を捉えていた。

 彼女は驚きに目を瞠った後、悲しみと喜びが()い交ぜになったような声色でただ一言「不器用な人」とだけ呟いた。


      ◇      ◇      ◇


 ほどなくして馬車が止まると、目的地に着いたことを御者が告げる。

 開けられた扉をセシルドさんたちに続いて降りると、目の前には教会の入り口があった。

 

 もう夜も遅い時間ではあるが、ステンドグラスを通して漏れ出る光によってそれと知れたのだ。

 入り口の大扉は既に締め切られている。このような時間帯に礼拝に訪れるような物好きもいないだろうから当然だ。


 予め約束が取り付けられていたのだろうか。セシルドさんが脇戸を叩いて案内を乞うと、まるで待ち受けていたように戸が開かれ、中から白い祭服に身を包んだ老人が出てきた。


「ようこそお越しくださいました、ナーサリア殿」


 恰幅の良い男は、柔和な声でナーサリア様にそう言った。


「夜分にごめんなさい。待たせてしまったかしら?」

「なんのなんの、ちょうど夜の礼拝を終えたところでしてな。ところで彼が例の?」


 二人は軽い挨拶を終えると、揃って僕へと視線を移した。


「紹介するわね。彼はゴードン神父。ここの管理を任せているわ」


 ナーサリア様が間に立って僕と彼を引き合わせる。


「アキト・ミカミと申します。ナーサリア様の屋敷でお世話になっております」

「儂はゴードンと申しまして、ナーサリア殿よりこの礼拝堂をお預かりしとる者です」


 そう言って僕たちは握手を交わした。年のわりに衰えを感じさせない肉厚な手だ。


「お元気そうで何よりです。ミカミ殿の様子はしばしばナーサリア殿から聞き及んでおりましたが、それでもあのような大怪我をなさったのです。実際に自分の目で見ないことには中々安心できませんでな。ですがこれでようやく、儂の胸のつかえも取れたというもの」


 奇妙な物言いをするゴードン神父に僕は尋ねた。


「失礼ですが、あなたとお会いするのは今日が初めてではないのですか?」


 僕の疑問に答えたのはナーサリア様だった。


「瀕死だった貴方に治癒魔法を施したのがゴードン神父よ」


 その一言で僕の疑念は一気に氷解した。

 だとすると目の前のこの人物は、僕の命の恩人ということになるではないか!

 僕は慌てて自分の非礼を詫びた。


「そうとは知らず、大変失礼なことを申し上げました! どうかお気を悪くされませんよう」


 しかしゴードン神父は気分を害した様子もなく、白い顎髭に手を当てて微笑むばかりだった。


「さて、このような場所で立ち話もなんでしょうし、どうぞ中にお入り下さい。心ばかりのおもてなしをさせていただきます故」


 僕たちは礼拝堂の中へと招き入れられる。

 

 闇の中に聳え立つ外観から分かっていたことだが、内部の造りも(およ)そ礼拝堂などというこじんまりしたイメージとはかけ離れたものだった。

 しかしあくまでもここは、ナーサリア様が学園長を務めるオルドミア学園の一施設に過ぎないという。

 よって、名称の上では礼拝堂で間違いないのだが、その役割から教会と呼ぶ者もいれば、荘厳な佇まいのために大聖堂と呼ばれることもあるらしい。


「ここを大聖堂と呼ばれてしまうと、教皇猊下に申し訳ないのですがね」とはゴードンさんの言だ。


 すべては司祭室に着くまでの道中で聞いた話だった。


     ◇     ◇     ◇


 僕たちは司祭室の来客用テーブルを囲んで向かい合っていた。


 上座にはナーサリア様が、そしてその左右にゴードンさんと僕が分かれて座っており、セシルドさんは主の背後を守るように控える。

 

 テーブルの上には、先ほどシスターが運んできた紅茶が温かな湯気をくゆらせているものの、素直にそれを味わっている心の余裕が僕にはない。だからすぐに口火を切った。


「ナーサリア様の仰っていた僕をよく知る人物とは、ゴードンさんのことでしょうか?」


 僕を手当てしてくれたということは、重態だった僕のすぐ近くにゴードンさんがいたということだ。そうであるなら、僕が死にかけていた経緯を知っていてもおかしくない。

 しかしナーサリア様が告げたのは思いがけない真実だった。


「違うわ。彼はあくまで貴方の治療をしただけよ。いいえ、正確には貴方たちの、と言うべきね」

「え!?」


 ハンマーで殴られたような衝撃が僕の脳を痺れさせ、思考に空白が生まれる。


(貴方……たち?)


 言葉を選ぶ余裕もなく、僕は思い浮かんだ事を片端からナーサリア様に投げかけていた。


「貴方たちということは僕以外にも誰かが倒れていて その人たちも僕と同じように怪我をしていて それをゴードンさんが治してくれて でもナーサリア様の屋敷に僕しかいなかったということはその人たちは今……ああそうか だから僕がここに居て いや来て そしてそれで」

「気をしっかり持ちなさい!」


 自分でも何を喋っているのか分からず、ただ反射運動のように無闇矢鱈と思考の断片をまき散らしていた僕を、ナーサリア様の一喝が正気に戻してくれた。


「あっ、申し訳ありません! で、ですがもちろん説明して頂けるのでしょうね?」


 謝りながらも僕は、決して譲れない点をナーサリア様に突き付けた。すると信じられないことが起こったのだ。

 何と、あのナーサリア様が気圧される気配を見せたではないか!


「それは……わたくしの当然の責務です。いつかは貴方に伝えなければならないと思っていました。それが今日という日になってしまったのは、全てわたくしの力不足が招いた結果です。まだ分からないとは思うけれど、先に謝らせて頂戴」


 膝の上に両手を揃えると、ナーサリア様は僕に向かって深々と頭を下げた。

 未だ僕の思考は目の前の光景に追いつけずにいる。それだけ非現実的な出来事なのだ。

 それなのに、セシルドさんもゴードンさんも何故か平静を保っている。

 

(一体どういうことなんだ? また僕だけがおかしいのか?)


 いいや、そうではない。僕が知る限り、ナーサリア・フォン・アーネンベルクという人物は、いかなる状況においても毅然とした態度を崩さず、常に正しい判断を下せる尊敬すべき人間だ。

 そんなナーサリア様が自らの落ち度を衆目の前で晒すなどということは、本来あり得ないはずなのだ。


 ならばそれが意味するところは何だ?


 それはつまり、このような信じ難い事態が持ち上がるほど、僕の過去に関する事がナーサリア様の重荷になっていたということではないのか?

 そしてセシルドさんとゴードンさんは、そのことを知っていたから驚かなかったのではないか?


 賢者は黙して語らずというが、ならば言葉にしてもらってようやくその可能性に思い至った僕は、救いようのない愚か者であるに違いない。

 それでも、事の重大さを知らなかったからこそ、ナーサリア様をして躊躇わせる程の真実を僕は希求することができたのもまた事実。これほどの代償を支払うだけの価値が、僕の記憶にあるのか不明であるにも関わらず……。


 僕は、ナーサリア様たちに少しでも恩返しがしたくて記憶を取り戻す決意をしたのに、それがどうだ!?

 実際はこうして、恩人であるナーサリア様を苦しめてしまっているではないか!!


 この矛盾が、途轍もない無力感となって僕を襲う。

 全てはただの自己満足に過ぎず、そんなものの為に僕は多くの人間に犠牲を強いているような気がしたからだ。それも僕に良くしてくれた人たちの犠牲を。


 もしかすると、最悪の選択を僕はしてしまったのかもしれない。しかし一度吐いた唾はもう飲み込めないのだ。


「ここから先は儂が話しましょう」


 ナーサリア様の窮状を見かねたのか、ゴードンさんが説明を引き継いだ。


「ミカミ殿が倒れていた場所には、他にも怪我人がいたのです。皆が手酷い火傷を負っておりました故、儂ら礼拝堂の者たちで手当てしました。ミカミ殿は、他の二人に比べればまだ軽傷だったと言えましょう。そのため、ナーサリア殿の屋敷で引き取ってもらうことにしました。後の二人は到底動かせる状態にはありませんでしたので、引き続き儂らの方でお預かりしておったという次第です。」


 ゴードンさんの説明で、ようやく僕はこれから自分が会うべき者たちのことを知った。


「会わせていただけますか?」

「もちろんです。ナーサリア殿のお考えは分かりませんが、儂としてはミカミ殿がこれまでの全てを思い出されることを望んでおります。そうしないことには、これからの運命を定めることすら叶いませんからな」


 ここで運命とは、いかにも聖職者らしい大仰な言い方をするものだと思ったけれど、ゴードンさんが言っていることは正しい。

 過去を回復することで現在を確立し、その確かな現在を元手にして未来を作り出すしかないのだ。そして過去を取り戻した僕が何を望むかなど、実際その時になってみなければ分かるはずがない。

 

 そもそも、僕の知り合いらしき者たちと会ったとして、記憶が蘇るかさえ定かでないのだ。そんな僕の気持ちを、奇しくもナーサリア様が代弁して下さった。


「それを決めるのも、すべては記憶を取り戻してからよ」


 舞台は整い、役者は揃いつつある。僕にどのような役が与えられているのか知らないが、ここまで来たからには幕引きまで役割を全うするしかない。

 できるのに何もしなかったという選択が一番後悔を残すと思うから。


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