第三話:崩壊の足音
僕が意識を回復してから早三ヶ月、つまりこの屋敷に連れてこられてから半年が経過した。
相変わらず自分のことは何ひとつ思い出せないけれど、もはやアーネンベルク邸での暮らしを日常と呼び得るほどには、ここでの生活に馴染んでいた。
セシルドさんに起こされ、ナーサリア様と朝食をご一緒し、アンドレイさんに稽古をつけてもらう。
そして能う限りの時間を読書につぎ込んでは気絶するように眠る。
そんな日常だ。
この暮らしがいつまで続くのか分からないが、まさか次の瞬間になくなるわけもなし。アーネンベルク家の心優しい人々に支えられ、僕はこの上なく穏やかな時間を過ごしていた。
◇ ◇ ◇
「よしよし! だいぶ様になってきたじゃねえか」
僕の横には満足気な笑みを浮かべたアンドレイさんがいる。
いくら素人とはいえ三ヶ月も同じことを続けているのだから、いい加減様になってもらわなければ困る。
しかし裏を返せば、それだけ繰り返してようやく物になったのだから、教える側からしてみれば気の遠くなるような話だろう。
それでも、僕の上達をアンドレイさんは我が事のように喜んでくれる。
「ありがとうございます。自分でも前と比べて何というか、動きに体が馴染んできた感じがします」
「それだけ動ければ小型の魔物なんかは大丈夫だろう。冒険者になっても何とか食っていけるんじゃねえか?」
「魔物、ですか?」
「おうよ。サシで魔物を倒せて初めて一人前の冒険者を名乗れるからな」
「僕の勘違いだったらすいません。ですが六英雄の活躍によって魔物はいなくなったのではないのですか?」
本から得た知識だと、たしか千年前に魔物は討伐されていたはずだ。
「確かに古の英雄様たちのおかげで地上から魔物は一掃されたが、やつらはもともと大地の亀裂から湧いてきやがったんだ。だから俺たちが立っている地面の下には、今もそいつらがうじゃうじゃしてやがるのさ」
先ほどとは打って変わった深刻な表情で、アンドレイさんはそう説明する。
それを聞いた僕は、思わず自分の足元を見つめてしまう。
この大地が薄氷のようなものであると知った途端、今にも魔物が地面を突き破り、僕を地の底に引きずりこむのではないかという不安に駆られたからだ。
(僕が立っている場所は、本当に確かなものなのだろうか?)
記憶喪失である僕は自分のことを知らない。つまり自分で自分の正当性を証明することができない。
そんな僕の存在は、周囲の環境に依ることで辛うじて成立していた。
ナーサリア様を始めとする屋敷の人々がアキト・ミカミという存在を認めてくれる。そして図書室や庭園など、僕にとって親しみを持てる場所がここにはある。
どちらも僕の記憶が失われる前から存在してきた確かなものだ。
だが、その確かな存在でさえ、いつ崩れてもおかしくない一時的なものに過ぎない。
アンドレイさんの言葉は混乱と恐怖を僕にもたらした。
(一体何を信じれば良いのだ?)
疑心の坩堝と化した僕だったが、すぐに後悔することとなる。
「まあその亀裂も今は六つの国が厳重に管理しているから安心だがな。ガッハハハ!」
その屈託のない笑顔を見て、自分がからかわれていたのだと理解する。
憤慨するよりも先に、余りに小心な自分が恥ずかしくなった。穴があれば入りたい気分だ。
地下深くに潜む魔物が、ピンポイントに僕だけを襲ったりなどするものか。そんなのは少し考えてみれば分かることだ。
それに、もし僕の妄想が現実だとしたら、人々が普通に暮らせるはずがない。
僕は自分の浅慮を深く後悔した。
だが豪放な(デリカシーに欠けるとも言う)アンドレイさんは、そんな僕の心情にすら無頓着である。
「昔の亀裂、まあ今じゃあ迷宮と呼ばれているんだが、そこに潜って魔物を討伐するのが冒険者たちの主な仕事ってわけだ」
知るべきことはまだまだあると痛感した僕は、気持ちを切り替えてアンドレイさんから知識を得ることにした。
「国が管理している場所に、こう言ってはなんですが身元の不確かな人間を入れても大丈夫なんですか?」
冒険者とは、仕事にあぶれた人間がなるものだと聞いていたからだ。
「まあお前さんの心配も分からんではないが、迷宮に入るからにはどうやったって人死には避けられねえ。だからといって放置しておくこともできねえんだ。ほっとくと奴らはどんどん増えて、仕舞いには溢れ出してくるからな。俺にゃあ小難しい理屈は分からんが、金のために命を張れるような連中ってのを国が必要としているんだろうな」
頭を掻いて呻吟しながらではあったけれど、アンドレイさんは僕の質問に答えてくれた。
「なるほど……」
アンドレイさんが言おうとしたことを僕なりに考えてみると人的資源の問題に行き着いた。
正規兵でも非正規兵でも、魔物の住処に踏み込む以上は必ず犠牲が出てしまう。そして同じだけの人員を補充しようとした時、どちらの損失がより深刻かという問題だ。
一人の正規兵を育て上げる金と時間と労力を天秤にかけた結果作られたのが、冒険者という制度なのだろう。
「さあ、頭も使ったし今日はこれくらいにしておくか。明日も頑張れよ」
そう言って門衛の仕事に戻っていくアンドレイさんの背中に僕は頭を下げる。
この人のおかげで僕は、屋敷を出ても生活していけるだけの力を身に付けることができたからだ。
祖霊石を持たない人間が、外の世界でどのような扱いを受けるかは分からない。
それだけに、力を持つということの重要性が、僕の中でより一層増していたのだった。
◇ ◇ ◇
庭園を抜けてテラスに向かうと、そこには既に飲み物の用意をしたセシルドさんが控えていた。
「お疲れ様でございました、ミカミ様。お飲み物はいかがなされますか?」
「冷たいジュースをお願いできますか?」
「かしこまりました」
ワゴンの中から取り出された縁の薄いグラスに、小気味好い音を立てて氷が投入され、さらに鮮やかなオレンジ色の液体が注ぎ込まれる。
マドラーで手早くかき混ぜられるグラスからは、それだけで渇きを癒してくれそうな涼やかな音色が聞こえてくる。
庭園には色とりどりの花が行儀よく咲き誇り、澄み渡った青空からはやわらかな日差しと小鳥のさえずりが地上の全てに等しくふりそそぐ。
庭と太陽と小鳥の楽園、つまりは人工物と自然と動物の共存空間だ。
アンドレイさんとの稽古後にこの風景を眺めるのが、僕の密かな楽しみだった。
セシルドさんがジュースを運んでくるまでの僅かな間、調和のとれた眼前の光景に胸躍らせる。
「こちらはフィノキスク南部で採れた果実を使用したものになります」
セシルドさんの説明を聞きながら、上品な甘さの果汁を僕は一口ずつ大切に味わった。
「そういえばナーサリア様の邸宅があるこの街は、フィノキスク教国のどの辺りにあるのですか?」
ふと思いついた僕の疑問に、セシルドさんが答えてくれる。
「ここオルハイム自治領は、フィノキスク教国のほぼ中央に位置しております」
「つまりここはその自治領を構成している街の一つなのですね?」
「いいえ、そうではございません。この街のみを指してオルハイム自治領と呼びます」
僕は意外の感に打たれた。
「この街はそんなに広いのですか?」
「順番にご説明いたします。お嬢様がオルドミア学園の学園長でいらっしゃることはご存知でございますね?」
「ええ」
「オルドミア学園の基礎を築かれたのは六英雄の御一方なのです」
その後のセシルドさんの話をまとめるとこうだ。
地上に存在する魔物の討伐に成功したものの、何世代にも渡って人類に刷り込まれた魔物への恐怖は簡単には消えない。
夜になる度、人々は闇の中に最悪な未来を幻視した。
「再び魔物たちが攻めて来るのでないか?そしてまた自分たちは鼠のようにこそこそと魔物の目から逃れる暮らしに逆戻りするのではないか?」と。
特にそれは、魔物の支配が最後まで続いた大陸中央部において顕著であった。
そんな人々の不安を見て取った光の英雄は、魔法で作り出した消えることのない光の下に彼らを集め、車座になって自分たちの冒険譚を一晩中語り聞かせたのだ。
仲間のヘマで食事にありつけなかった話。
力を合わせて強大な魔物に挑み勝利した話。
戦いの最中で命を落とした戦友の話。
それらを時には軽妙な、またある時には神妙な語り口で巧みに話した。
人々は魔物への恐怖も忘れ、東の空が白み始めるまで光の英雄の話に聞き入ったのだ。
それが一月も続くと、そこには雨をしのぐ屋根が張られ、椅子と机が用意されていた。
その場所で光の英雄は、昼間は復興に必要な知識を授け、夜になると語り聞かせを行った。
復興が進むにつれ、屋根は小屋になり家になり屋敷となる。
一年が過ぎた頃、人々はその場所を学校と呼ぶようになっていた。
これがオルドミア学園の始まりである。
「その学校を中心としてできたのがこのオルハイムという街であり、ひいてはフィノキスクという国なのです」
つまり、オルドミア学園のためにオルハイムという街があり、オルハイムという街のためにフィノキスク教国が存在しているということだ。
「なるほど。この街はいわゆる学園都市なのですね。治めているのはどなたですか?」
「お嬢様のお父上であらせられます、ビルゲンハイム・フォン・アーネンベルク様です」
ナーサリア様の父親の名前も、また彼がこの街の領主であることも初耳だった。
「それはエルレンシア王国と同じように、光の英雄がアーネンベルクの先祖に後事を託したということでしょうか?」
「そうではありません。アーネンベルク家は光の英雄の子孫にあたります。それ故にフィノキスク教国はオルハイムを自治領と定め、街と学園の経営を代々アーネンベルクの一族に任せてきたのです」
驚くべきことに、僕は今まで光の英雄の末裔に養われてきたというのだ。
果たしてそれだけの価値が自分にあるのだろうかと自問するも、その答えが僕の中から返ってくることはもちろんない。
自分の価値を、誰よりも僕自身が理解していないのだから。
「新しいお飲み物はいかがですか?」
「いえ、もう十分です。ありがとうございました」
セシルドさんにお礼を言って僕は席を立とうとした。いつものように図書室に向かうためだ。
僕は僕自身の過去を知らない。ましてや未来のことなどもっと分からない。
けれど一つだけ肝に銘じていることがある。
それはナーサリア様たちに恩返しをするということだった。
この屋敷で過ごした月日はまさに夢のように満ち足りた時間だった。たとえ以前の僕がどんな人間であろうとも、その事実は変わらない。
ナーサリア様やセシルドさん、それにアンドレイさんやその他の屋敷の人たち。みんな、空っぽな僕に多くのものを与えてくれた大切な恩人だった。
彼女たちと巡り会えた幸運に心の底から感謝している。感謝なんて言葉では言い表せないくらいだ。
だから、いずれ僕も彼女たちに何かを与えたい。そうして初めて、僕は本当に感謝を伝えることができるのだと思う。
(そのためには世の中のことをもっと知らなければならない)
決意を新たにした所で、僕はセシルドさんに呼び止められる。
「お嬢様より伝言を預かっております。今日は早めに仕事が終わりそうなので夕食を一緒にとりましょう、とのことです」
「分かりました。僕ならばずっと図書室にいますので、ナーサリア様がお帰りになったら教えてもらえますか?」
「承知致しました」
朝食とは違い、これまで僕がナーサリア様と夕食を共にしたのは数えるほどだった。
それだけ忙しい身でいらっしゃるということだが、予め早く帰れることが分かっているのだから、もしかすると抱えていた仕事が一段落したのかもれない。
食事の席でナーサリア様とどんな話をしよう?
アンドレイさんが認めてくれたことを報告しようか。
それともセシルドさんにアーネンベルクが英雄の末裔だと教えてもらった話をしようか。
何にせよ、今日はいつにも増して良い日になりそうな気がした。
◇ ◇ ◇
広い食堂には、僕たちの立てる食器の音だけがひそやかに鳴り響いている。
屋敷に戻ってからというもの、ナーサリア様はずっと浮かない顔をされており、僕が話しかけても上の空であった。
もちろん給仕中のセシルドさんが積極的に話題を提供することもない。
結果として、昼間の僕の予想は大きく裏切られ、久方ぶりのナーサリア様との晩餐は至極味気ないままに終わりそうであった。
ナーサリア様がようやく言葉を口にされたのは、珍しくも食後酒で喉を潤した後である。
「早いもので、貴方がここに来てからもう半年になるのね……。何か困っていることはないかしら?」
それは僕にというよりも、どこか自分に向けて語り掛けているようである。
常とは違うその様子が気にはなったが、とりあえず僕はナーサリア様の質問に答えることにした。
「皆様にはいつも本当に良くしてもらっており、身の回りのことで不自由を感じることはありません」
「そう。今でも貴方は……自分のことを思い出したいと思っているのかしら?」
その濁した言い方から、こちらが本題なのだと見当がついた。
「僕自身のことなのですから知りたいと思うのは当然ですよ。ナーサリア様は僕の過去をご存知なのですよね? 深い考えがお有りだとは思いますが、まだ教えて頂く訳にはいかないのでしょうか?」
「わたくしは貴方の過去を知りません」
「えっ!?」
僕は自分の耳を疑った。これまでの発言からして、ナーサリア様は僕の過去を知っているものとばかり思っていたのだ。
そして心身ともに万全ではない僕が、過去を受け止めきれるだけの態勢を整えるまで時間を置いているのだと勝手に解釈していた。
だからこそ僕は、記憶の取っ掛かりを探すことはしても、この屋敷に来るまでの経緯をナーサリア様に面と向かって問い質すような真似を控えてきたのだ。
もちろんそこには、見ず知らずの僕を保護して下さったことに対する遠慮もある。
だが何より、時が来ればナーサリア様の方から教えて下さるだろうという強い信頼があったのだ。
しかし、彼女は僕の過去を知らないと言う。
(全ては僕の思い違いに過ぎなかったのか?)
そんな僕の疑惑は、ナーサリア様の次の言葉によって打ち消される。
「けれど貴方のことを知っている人物にならば心当たりがあります」
「そ、それは誰ですか!?」
思わず、ナーサリア様の方へと身を乗り出してしまう。
「落ち着いてちょうだい。記憶がない今の貴方に教えても仕方がないのではなくて? それに口で説明するのがちょっと難しいのよ。だから貴方さえ良ければ、これから会いに行こうと思っているのだけれど……どうかしら?」
その申し出を断る理由などもちろんない。
「是非ともお願いします!!」
気が付くと、僕は供された酒を一息に飲み干し立ち上がっていた。
幸いにも、その無作法が咎められることはなかったが、皮肉にもそれが、この場に生じていた歪みを証明する事となった。
必死に過去に執着する僕と、気の進まない表情で僕を見守るナーサリア様。
つまり、僕たちの間には明らかな温度差が存在していたのだ。
それが何に起因するものなのかは分からない。
ただ、セシルドさんに馬車の準備を命じている合間も、ナーサリア様の表情が晴れることはなかった。