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第二話:日常その2

「お疲れさまでございました、ミカミ様」


 ようやくアンドレイさんに解放された青痣だらけの僕を、セシルドさんが迎えてくれる。


「随分と激しい稽古をされたのですね」


 いつもの冷静な表情を少しも崩すことなくセシルドさんは言う。

 

 長髪をアップにまとめて楕円形の銀縁眼鏡をかけた彼女の風貌は、真面目ながらもどこか冷たい印象を見る者に与えがちだ。

 

 しかし実際に彼女と話してみると、その印象が的外れであると分かる。

 不思議と彼女の声音から冷たさを感じることがないからだった。


 今だって、彼女が僕のことを慮ってくれているのが柔らかな口調から伝わってくる。


「お茶をご用意する前に魔法で怪我の手当てをいたしましょうか?」

「セシルドさんは治癒魔法が使えるのですか?」

「多少でしたら心得がございます」

「もしかして重態だった僕の治療をしてくれたのって……」

「それは違います。申し訳ありませんが、私では到底、あの時のミカミ様をお助けすることはできませんでした。同じ治癒魔法にしても熟練度による差というものがございます。私の魔法では小さな傷を治すくらいが精々なのです」


 やはり一切表情を変化させることなく、けれど申し訳なさそうな調子を出すという器用なことをやってのけながら、セシルドさんが説明してくれる。


「そうですか。それでも僕がセシルドさんのお世話になったという事実は変わりません。改めて感謝します。本当にありがとうございました」

「恐縮でございます」


 お互いがお互いに気を遣って頭を下げ合うという可笑しな光景ができあがる。そんな照れくささを誤魔化すためにも、魔法での治療をお願いすることにした。


「ではお願いして良いですか?」

「かしこまりました。椅子に掛けて楽にして下さいませ……そうです、しばらくそのままの状態でいて下さい。では始めます」


 セシルドさんの手の甲に宿る祖霊石が淡く輝き出す。祖霊石とは魔法を使うのに必要とされる媒介で、生まれつき人の手に埋まっている結晶体のことである。

 最初、麦粒大ほどしかないそれは、年を経るにつれて大きさを増し、成人を迎える頃には、手の甲から露出する位のサイズになるのが普通らしい。

 

 らしい、などという遠まわしな言い方をするのは、僕がその例外に当たっているためだった。

 僕の場合、両手どころか片手にすら祖霊石が現れていないのだ。だから当然魔法も使えない。

 

 僕にとって魔法なんていうものは、遠い世界の夢のような出来事であった。


 

 アンドレイさんの打ち込みをいなし損ねて受けた肩や腕の痛みが、魔法によって消えていく。数分もすると、もはや青痣すらきれいに引いていた。

 セシルドさんには申し訳ないが、まるで騙されているような気分だった。


 傷は治っているのに、怪我をしているという感覚だけが依然として残っていたからだ。


 けれど、先ほどまで痛んでいた箇所を(さす)っても痛むことはない。

 これは単に、僕の感覚と現実の間にズレが生じていただけなのだ。


「ありがとうございます。すっかり良くなったようです」

「お役に立てて光栄でございます。これからも怪我をされた際には遠慮なくお申し付け下さいませ」

「いやいや、僕なんかのことでそこまでお手を煩わせるわけにはいきませんよ」

「そのようなお気遣いは無用に願います。ミカミ様はアーネンベルク家の賓客でいらっしゃいますれば、くれぐれも不自由な思いをさせることのないようにとお嬢様から仰せつかっております。ですから何卒我が家のようにお寛ぎ下さいませ」


 何が彼女たちにここまで言わせるのだろう?

 

 それこそ、自分の家であっても――もちろん覚えてなどいないが――ここでのような下にも置かない扱いを受けることはないはずだ。

 実は僕の正体が国王の御落胤だったというなら納得もできる。

 

 だが、ここフィノキスク教国は教皇を頂点とした宗教国家だ。フィニキス教の聖職者たちの手で国は運営されている。そしてフィニキス教は聖職者の妻帯を認めていない。

 

 つまり、僕がやんごとなき方の不義によって生まれた子供である可能性は限りなく低いのである。

 それに万が一、僕が高位の聖職者の血を引いていたとしても、わざわざ国内に匿ったりはしないだろう。

 保身に長けた権力者が、スキャンダルの種をわざわざ身近に置くとは考えにくいからだ。


 ではどうして僕がこれほどまで優遇されているのか?

 

 結局は当初の疑問に戻ってきてしまう。

 答えの出ない問題を延々と考え続けるほど不毛なことはない。だから僕は思考を打ち切って、セシルドさんへと向き直った。


「ありがとうございます。ですが僕はもう十分にこの屋敷で寛がせてもらっています。快適な寝床、豪華な食事、親切な人々と、足りない物を探す方が難しい。これで満足できないなんて言ったら罰が当たりますよ」

「そのように言って頂けて光栄でございます。ですが御用の際は、どうぞ何なりとお申し付け下さいませ」


 そう言って再び頭を下げるセシルドさんを見るにつけても、やはり足りない物を思いつくことはできないのだった。


 満ち足りていることに悩まされるという、何とも奇妙な体験を僕はしたのである。



     ◇     ◇      ◇


 セシルドさんが淹れてくれた紅茶で喉を潤した後、僕はいつものように夕食までの時間を図書室で過ごしていた。しかし、アンドレイさんとの稽古みたいに有意義な時間を送れているという自信はない。

 

 なぜなら、長年に渡ってアーネンベルク家が蒐集してきた群書の収められた書架を前に、今日も僕は読むべき本を見つけられなかったからだ。

 

 どれだけ本の背表紙を眺め渡しても、閉じられた記憶の扉は微動だにしない。

 自分の過去にまつわる知識を得られなかった代わりに、この世界の過去についてまた一つ詳しくなっただけであった。

 

 一度もこの屋敷から出たことのない僕が、ひたすら文字をなぞることで外の世界を知っていくというのは、どこか倒錯した行為のように思える。

 

 例えるなら恋に恋するような、もしくは生の実感を得るために自傷するような、そんな手段と目的の乖離を感じさせるからだ。

 

 だが、何もそれは今に始まったことではない。


 記憶が消え、在るべき自分と在りたい自分を見失った現在の僕こそが、ある意味では乖離そのものであったからだ。

 

 過去から未来への連絡を、不確かな現在が乱している。


(どうすればこの状況から抜け出すことができるのだろう?)


 答えは明白だ。過去を回復することで現在を確立し、その確かな現在を元手にして未来を作り出せば良い。

 

 しかしそれは叶わない。


 いくら僕が過去の回復を望んでも、中心となるべき場所に肝心の僕がいないのだから。


 自分の居場所すら分からないような人間が、果たして落とし物を探すことができるだろうか?

 曖昧な現在からの逆照射が、未来どころか、確かなはずの過去の輪郭すら霞ませてしまっていた。

 

 思考が麻のごとく乱れる。


 けれど長い時間をかけて丁寧に解きほぐしていけば、僕を悩ませている問題が次の一点に集約されていることが分かった。




   自分を自分たらしめるのは現在の存在か、はたまたこれまでの行いか、ということだ。


 


 確かに僕はアキト・ミカミだ!

 過去・現在・未来を問わずアキト・ミカミで在り続けるだろう。

 しかしアキト・ミカミがどのような人間なのかと聞かれたら答えに窮してしまう。


 反対に、過去の僕を知っている者は、現在の僕に違和感を持つかもしれない。

 自分が知っているアキト・ミカミではない、と。

 しかし僕こそがアキト・ミカミなのだ!


 しばらく頭を悩ませていたが、やはりこの問題にも答えは出そうにない。

 たとえ記憶を失くす前の僕が何者であったとしても、ナーサリア様やこの屋敷の人たちが向けてくれる厚意は本物だ。


(なら、それでいいじゃないか)


 そうやって強引に自分を納得させると、僕は開きっぱなしにしていた本のページに目を戻した。それは魔法史について書かれた本だった。

 

 セシルドさんの治癒魔法を見た後だということもあり、自分とは無縁のものと分かってはいても興味が湧いたのである。


 本の序文にはこう記されていた。


『遥か昔、この大陸を滅亡の危機が見舞った。大地が裂け、その亀裂から大量の魔物が出現したのである。それはまさに天災であり、人は抗う術もなく虐殺されていった。逆らう意思を失った僅かな生き残りたちは、魔物でさえ近寄らない過酷な土地での生活を余儀なくされる。それから長い年月が経過し、魔物をすら拒む極限の環境下、このまま人類は緩やかに死滅していくはずだった。


 六人の英雄が現れなければ。


 後に六英雄と呼ばれる少年少女は、光り輝く石を両手に宿して生まれてきた。彼らは超常の力を次々と発現させる。

 

 目にした者曰く、道具を用いることなく火をおこした。

 曰く、干からびた大地に雨を降らせた。

 曰く、枯れた植物を蘇らせた。

 曰く、遥か遠くまで自分の声を届けた。

 曰く、素手で大岩を砕いた。

 曰く、消えない光を生み出した。


これらが人類最初の魔法である。彼らはその力で大陸中に蔓延る魔物を討伐し、人類の生存圏を取り戻していく。やがて彼ら以外にも、石を宿した子供たちが生まれ始める。ここにおいて人々は確信した。魔法とは、人類が絶望を乗り越えるために神が与え給うた奇跡の力であるのだと。

(※しかし著者の見解は少し異なる。果たして奇跡の力を得る資格が人類にあるのか?

それを見極めるための試練として、太古の絶望は存在したのではないだろうか?

その証拠に、魔物の減少と比例して祖霊石保有者の数は急激に増加している。著者は、魔物と魔法使いの数に何らかの因果関係があると考えているが、詳しくは別書を参照していただきたい。)

 話が逸れたが、六英雄と新たに生まれた魔法使いたちが大陸全土を奪還した時より、人類の新たな歴史が始まった。すなわち魔法時代の黎明である』


 大陸の歴史書から得た知識と突き合わせてみても、遥か昔に起こった原因不明の大災害、長く苦しい人類の雌伏、六人の人間を中心とした大反抗、そして大陸の解放と、おおよその経緯は変わらなかった。


『六英雄が全ての魔物を駆逐してから今日に至るまで、約千年という歳月をかけて魔法は大陸中に普及した。一つは先ほども述べたように、祖霊石を持つ者の数が爆発的に増加したためである。二つは、多くの人間が魔法の研究と発展に尽力した成果であった。魔法の発動には祖霊石という媒介が必要であると証明したのもその一つである。つまり祖霊石さえ宿していれば、上は王から下は奴隷まで、文字通り全ての人間が魔法を扱えるのだ。神によって与えられた天上の力は、人が設けた身分の枠すらをも軽々と越えて見せた。しかし喜んでばかりはいられない。過ぎたる力は、常に騒乱の温床と成り得る。復興を果たした国々は、魔法を管理する必要に迫られた。本来であれば、魔法が発動されるまでのプロセスを解明するはずの魔法理論が全く正反対の物を、すなわち魔法発動を無効化する道具の開発に貢献したのは皮肉である。しかしそれも、当時の歴史的背景を考えると必然だったのかもしれない。魔法抑止の術を得た瞬間を、人類の新たな一歩だと位置づける歴史家は多い。何せ、人類が天上の力を支配下に置いた象徴的な出来事であるのだから。ここに魔法時代は隆盛を極めた』


「魔法の発展に寄与した全ての偉大な先人たちに本書を捧ぐ」という献辞で序文は締めくくられていた。 

 夕食の用意ができたことをセシルドさんが知らせに来るまで、僕はその本の続きに目を通していたが、著者が関心を寄せているのは、どのように魔法を使うかであって、なぜ魔法が使えるようになったのかということにはなかった。

 

 現在の大陸では、全ての人々が祖霊石を持って生まれてくる。序文にある通り、理論上は誰でも魔法を使えるというのがこの時代における大前提なのだ。

 

 この本を選んだことを僕は後悔した。自分の異端性がますます露わになったような気がしたからだ。

 

 この屋敷から出た途端、世界中の人々が「この世界にお前の居場所などないのだぞ」と僕を責めそうな予感すらした。

 そんな妄想を振り払うことができたのは、セシルドさんが声をかけてくれたお陰である。


「失礼致します。ミカミ様、ご夕食の準備が整いましたが如何致しましょう?」

「ああ、もうそんな時間ですか。ナーサリア様は今日も遅いのでしょうか?」


 ナーサリア様は、アーネンベルク家当主代行の他にもう一つの顔を持っていらっしゃる。大陸でも有数の教育機関と名高い、オルドミア学園の学園長という顔である。


「何時に帰れるか分からないと伺っております」

「ならば先にいただくことにします」

「かしこまりました。それでは食堂の方へどうぞ」


 セシルドさんに先導されて食堂に入ると、そこは眩いばかりの光で満たされていた。

 天井から吊り下げられた豪奢な魔光灯が、西日を跳ね返すほどの光を放っているのだ。これだけでもアーネンベルク家の経済力が窺えるが、ナーサリア様の話だと、これを超える貴族家など数え切れないほどあるというのだから驚きである。

 

 セシルドさんに給仕されながら、贅の尽くされた料理を僕は平らげていく。

 

 この屋敷にはセシルドさんの他にもメイドはいるのだが、なぜか僕の身の回りのことは全てセシルドさんに一任されていた。自分の最も信頼する者を世話係に()てるというナーサリア様なりの気遣いの表れなのだろう。

 

 しかし本来なら、セシルドさんはメイド長としてナーサリア様を補佐しなければならない立場にある。

 そして、僕がこうして悠々自適に過ごしている間も、ナーサリア様はアーネンベルク家とオルドミア学園での実務に奔走していらっしゃる。


 つまり、ナーサリア様が必要以上に苦労されている原因は僕にこそあったのだ。


(もしも世界の幸福の総量が決まっているとしたら……)


 さしずめ僕は、他人の厚意を貪り食らう餓鬼といった所だろうか?


 そう思ったら、のんびりと食事をしていられる余裕などなく、一刻も早く記憶を取り戻さなければならない焦燥感に襲われる。


「食後のお飲み物はいかがいたしましょう?」

「紅茶をお願いします。それと面倒をかけて申し訳ないのですが、部屋まで持ってきてもらえますか?」

「かしこまりました。すぐにお持ち致しますので、先にお部屋でお待ち下さいませ」


 急ぎ足で食堂を出た僕は、図書室に寄ってから自室へと戻った。

 この自室にしても、与えられた当初は余りの広さに落ち着かない思いをしたものだ。それが今では慣れてしまったのか、それとも諦めないことには睡眠さえままならないと諦めがついたのか、いつの間にか気にならなくなっていた。

 

 人間とは何事にも慣れる生き物であるらしい。ならば記憶がない状態にも早く慣れて欲しいものだが、冷静に考えると記憶を失っている方が異常なのだ。


(異常を異常だと認識できている間は正常だ)


 言葉遊びも程々にして、備え付けの書き物机に僕は向かう。もちろん先ほど借りてきた本を読むためだ。

 人を殺せそうなほど分厚い本だが、装丁もそれに相応しく、(なめ)した茶皮が金の唐草模様で仰々しく縁取られている。

 経年劣化で摩耗した題名は読めなかったが、中表紙を開くとそこには「バルトクロス大陸史」という題が掲げられていた。

 言うまでもなく、この大陸の歴史書である。


 今までにも何度か目を通してはいたのだが、どの国の話を読んでも自分との関わりは感じられなかった。しかし、今日新たに魔法の歴史を知ったことで、これまでとは異なる観点で大陸の歴史を眺めることができるのではないかと考えたのだ。

 

 結果から言うと、セシルドさんがドアをノックするまでに僕にできたのは、単なる歴史の復習でしかなかった。

 

 考えてみれば、僕に思い付けるようなことを、過去の人々が試みなかった訳がないのだ。

 それを、ちょっと見方を変えただけで新しい発見ができると期待するのは、余りにも自分の力を過信し過ぎた行為だった。僕は二重の意味で自分を見失っていたようだ。


「本日はエルレンシア産の茶葉を使用いたしました」


 内容の説明をしながら、セシルドさんは香り高い湯気を立てているティーカップを机の上に置く。


「エルレンシアは確か、緑の英雄を祖とする国でしたね」


 大陸を平和に導いた六英雄のうち、枯れた草木を蘇らせし者。

 貧困に喘ぐ当時の人類を食糧難から救った男。


「左様でございます。そして古の荒廃した大陸で最初に決起した地域でもあります」


 人間の欲望は段階的にできており、何よりも優先して満たさなければならないのが寝食といった生理的欲求である。

 ならば、それを満たした緑の英雄たちが真っ先に蜂起できたというのは、さほど不思議な話ではない。

 今日を生きのびてこそ、明日を考えることができるからだ。

 

 緑の英雄はその手に宿った奇跡の力で、明日への希望を人々に与え続けた。それがなければ、牙を抜かれた人類の反抗など夢のまた夢であったろう。


「それが今では穀物や茶葉の生産地として栄えているわけですね」


 この紅茶を口にする為に、何世代にも渡る人々の苦難の歴史があったに違いない。僕たちの現在の暮らしは過去の人々の苦労の上に築かれていた。

 しかしどれほど歴史に思いを馳せようと、自分の過去すら忘れてしまった人間が「いつか」「どこか」で起きた出来事に思い至れるはずもない。

 僕にできるのは、セシルドさんが淹れてくれた紅茶を能う限り楽しむことだけだった。


「大陸一の穀倉地帯を抱え、安定した貿易を行うことがエルレンシア国王の方針でありますので」


 僕が歴史書を手にしているのを見て、セシルドさんが現在の状況を補足してくれる。


「それは英雄の末裔としての自負ですか?」

「いいえ、エルレンシアの王室は緑の英雄の血を引いておりません」

「そうなのですか!?」


 現在のバルトクロス大陸は六つの国によって統治されている。

 てっきり僕は、大陸を解放した英雄たちがそれぞれの国をうち建てたのだと思い込んでいた。そんな僕の勘違いはセシルドさんによって正される。


「緑の英雄は、大陸が平和になると信頼する者に後を任せ、その後は市井に紛れて農業の発展に従事したと伝えられております」

「ではもしかしたら、どこかの国民の中に緑の英雄の子孫がいる可能性も?」

「ないとは言い切れません。しかし敢えて別の者を後任としたほどの御人が、わざわざ自分の素性を子供に明かすとも思えません。仮に子孫がいたとしても当人に自覚はないでしょう」

「確かに混乱の元にしかなりませんね。なるほど、緑の英雄は大陸全土に豊かな未来を与えたかったのですね」

「おかげで私たちはこのように生きることができております」


 今まで僕は、自分がどのように生きてきたのかばかりに気をとられ、生きていること自体にさして疑問を抱かなかった。

 

 でも違うのだ。

 

 生きているということは生まれたということであり、僕が生まれるためにはそれこそ何百年にも及ぶ人々の奇跡的な巡り合わせが必要だったはずなのである。


 ならば、現在の僕が送っているこの日々ですら、遠い未来を形作る一助になっているということではないか?そのように考えると、過去を思い出せないことへの罪悪感も少しは弱まるのだった。


「確かにそうですね。こうしてセシルドさんと話している今でさえ、次の瞬間には過去になっています。それと同じように、未来は現在となり、現在は過去へと流れていく。人は案外、未来に向かって進むことしかできない生き物なのかもしれません」


 セシルドさんの言葉に、僕は目を開かれた気がした。


「出過ぎたことを申し上げました。所詮は従者の戯れ言とお聞き流し下さいませ」


 これだけの教養を示しておきながらそれを見逃せとは無理な相談だ。

 何より、セシルドさんの知識は僕の助けにもなっていた。だから僕は、素直にそれを伝えることにした。


「昼間、セシルドさんは僕に余計な気遣いは無用だと言いましたね? じゃあ今度は僕が同じことを言わせてもらいます。何の自慢にもならないけれど、今の僕には助けてくれる人が必要なんです。ですから、セシルドさんにそうやって遠慮されると、却って僕の方が困ってしまいます。これからも色々と教えてくれると嬉しいのですが……」

「かしこまりました。私に答えられることでしたら何なりとお尋ね下さいませ」


 心強い返事を貰ったところで、遠くから馬蹄の音が響いてくる。恐らく、ナーサリア様が帰っていらしたのだろう。

 ちょっとした世間話のつもりが、予想以上の時間を費やしていたようだ。


 僕は慌ててセシルドさんを解放すると、本を持って自分のベッドに潜り込む。

 僕には祖霊石がないから、眠るまではナイトテーブルにある蝋燭の明かりだけが頼りだ。その他の魔光灯は、部屋を出る際にセシルドさんが消していってくれた。良い感じに頭が疲労していて、とてもこれ以上は読み進められそうになかったが、それでも睡魔に負けるまではと、しばらく文字の羅列を眺めていた。 


 しかし、遂に重みを増す瞼に耐えきれなくなった僕は、振り絞った最後の力で蝋燭を吹き消すと、力尽きるように枕に顔をうずめた。今日もまた、幸福な一日が終わりを告げたのである。


     ◇     ◇     ◇


 屋敷に戻ってからも、ナーサリア・フォン・アーネンベルクの一日は終わらない。

 彼女の信頼する従者、セシルド・クラウツィアからの報告を聞かなければならないためだ。


「彼の様子はどうだったの?」

「午前中は剣術、午後は読書と、特にこれまでと変わりはございません」

「そう……記憶を取り戻しそうな様子は見られなかったのね?」

「ございませんでした。ですが、いつ不意に思い出されないとも限りません。恐れながら、いたずらに先延ばしにされるのは得策と申し難いかと」

「分かっているわ。でも、このまま思い出せないならそれに越したことがないのもまた事実ではなくて?」

「仰る通りにございます。時折考え込む様子は見受けられますが、その他においてのミカミ様は、常に落ち着いた振る舞いをされております」

「敢えてその均衡を崩す必要なんてないわ。引き続き注意を払っておいて頂戴」

「かしこまりました、お嬢様」


 アキト・ミカミが瀕死の状態でこの屋敷に運び込まれてより三ヶ月。目覚めてからだと僅か一ヶ月余り。未だ傷が癒えるのに十分な時間が経ったとは言い辛い。

 

 だから今日も、ナーサリアは残酷なだけの真実を胸の内に留めおくのだった。





 いつの日か、ただの悲劇が喜劇に変わることを祈って。


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