第十四話:邂逅
授業後に細々とした業務を終えると、日は既に大きく傾いていた。
薄紅に染められる研究室の中、俺は長椅子に深々と身を横たえていた。
夜ごと訪れる悪夢のせいで満足に眠れないのだ。
だからすぐに疲れてしまう。
「そっちの成果はどうだ?」
共犯者に問いかける。
『順調だ。力のある者を数名発見することができた。だが現行の能力においてやはり二年生は見劣りする』
俺はパーティーメンバーの条件に二年生という縛りを設けていた。
それは自分の担当学年であることと、精神的に未熟だという二つの動機によるものだ。
迷宮攻略を第一に考えるなら心技体揃った人間が理想ではある。ただそれでは俺の付け入る余地がなくなってしまい、パーティーの掌握が困難になると考えたのだ。
だから心技体の「心」に欠けた者を積極的に登用する必要がある。
「面倒なことだ」
『違いない。それにしても恐ろしく広い学園だ。あれだけの使い魔を放ってまだ半分しか調べられていないのだからな』
確かに学園の敷地は広大だった。施設の規模や生徒数は高校というレベルをはるかに超えていたし、選択制という授業形態から考えても、もはや大学と呼んだ方が良いくらいだろう。
「だからといって目立つような真似は控えてくれ」
『心配無用だ。今の我は自由に力を振るうことができないのだからな』
そうだった。礼拝堂を中心とした強力な結界がベルサリウスの力を制限している。
けれど知性はその限りでない。
「心」については俺が、「技」「体」に関してはベルサリウスが見極める。そういう役回りだ。
「アウレリア・フォン・クロイツェル――」
『気になるのか?』
「まあ……そうだな」
『汝にしては歯切れが悪いな』
ベルサリウスの言う通りだ。気にならないといえば嘘になる。
しかし俺自身、どうしてそこまでアウレリアを気にかけているのか理由が分からなかった。
(思春期でもあるまいし)
確かに美しい少女ではあったが、恋煩いと呼ぶにはこの感情は余りに茫漠とし過ぎていた。
ようやく越えた峠の先で目にしたのが、花園ではなく荒野だった時のような気持ちだ。
それにも関わらず、落胆はないどころか果ての無さへの羨望が胸中から沸き起こってくる。
(期待しているのか?)
それは俺にも分からない。きっと俺が俺ではないせいだ。
これまでにも同じようなことは多々あった。
その度に過酷な現実が俺という存在を押し潰し矯正したのだが、この世界でもそれは有効なのか?
(いっそのこと狂ってしまえれば良いのに……)
俺を中心にして、世界そのものが無へと還ってしまえば良い。幾度そう願ったことか……。
底抜けの闇、悠久の静寂、永遠の沈黙の中での眠り……眠り……やがて死に絶え…………。
それなのにやがて朝がくる。敬虔な夜の帳を無遠慮に捲り上げる光の群れだ。
穢れた光の齎す痛みが俺を狂気の手前で押しとどめる。
ここでようやく仮面を被ることができる。
「アウレリアは戦力になるか?」
『魔石の質は良好だ。魔力操作の訓練を受けている形跡もある。魔術においてはまず及第点だろう』
「剣の方は?」
『振らせてみなければ何とも言えないが、足運びからは武術の心得があるように見えた』
脳裏に浮かんだのは、隊の中心で力強くメンバーを牽引していくアウレリアの姿だった。
「万能型の中衛か。惜しいな」
『我らの希望にはそぐわないか?』
「既にアウレリアには彼女なりの矜持があった。多分クロイツェル家で培われたものだろう。だとすればメンターがいると考えるべきだ。彼女の世界に、俺が入り込める余地はない」
もしも彼女の精神的支柱が揺らぐとすれば、それはメンターの教えを凌駕した、より大きな公共の正義に導き入れられた時である。
つまりナーサリアと同じく俺の悲願への妨げと成る時だ。
『我の方でも気になる者がいた』
第二学年教養科所属、ユーリ・フォン・アギニス。
ベルサリウスの話では類稀な剣才を感じたという。
『ただ本人は実力を隠しているように見えた』
「戦術科ではなく、わざわざ教養科を選んだんだ。きっと何か事情があるのだろう」
後はそれが深刻な理由であることを願うのみである。
『それにしても汝の知見には驚かされっぱなしだ』
「住む世界が違うのだから、知識体系が異なるのは当たり前だ」
『そういう意味ではない。汝ほど人間の弱さに精通している者を我は見たことがないのだ』
嬉しくない誉め言葉だった。
「実際問題、俺は弱者以外の何者でもないと思うが?」
『世界の理を曲げようとする弱者がどこにいる?』
「理など最初から曲がっていたさ。本質を知るという一点においてのみ、俺は他の弱者よりも優れているらしい」
弱者であるがため、彼らは己の内に潜む弱さを直視することができない。それ故に抜け出すこともままならない。
いずれは麻薬中毒者のように弱さの虜となり、罪の沼地へと身を持ち崩していく。跡には悪の華が咲くばかり。
かつてニーチェは、『悪とは弱さから生じる全てのもの』であると言った。
悪徳と退廃の都の住人であれば諸手を挙げて喜ぶだろう。つまるところ、人間とは罪悪の化身に他ならないのである。
弱さと共に生まれてしまったことが罪であり、弱いままに生きていくことこそ悪なのだ。
(同情すべき点があるとすれば……)
それは弱さが先天的なものであるという一点だけだ。
生まれつき人間の胸には病魔が巣食っている。
いずれ来る審判の日に、浄化の炎で焼き尽くされることを望まないのであれば、持って生まれた弱さを強さへと変換しなければならない。
そのための道徳であり、哲学であり、倫理であった。
人類が長い歴史の中で鍛え上げてきた知性の刃である。
「重要なのは見せ方だ」
確信をもって俺は告げる。もちろんベルサリウスに向けて。
『真実とは何を言うかで図られるべきものであると汝は言わなかったか?』
どうしてこの魔王は人間ごとき矮小な存在の矛盾に対してここまで貪欲なのだろう?
俺の癖がうつったのか?
「もちろんそうだ。だけど変だと思わないか? 真実――人間の本質――が一つだとすれば一朝一夕に変化したりはしない。もしも今日の俺の話を聞いた生徒たちが、以前には無かった価値を自身に見出したとすれば、果たして変わったのは本質だろうか? それとも見え方が変わっただけだろうか?」
『それは……』
「真実は一つだが、それに対する解釈は幾通りも存在する。たとえば――」
俺はテーブルの上にあったグラスを持ち上げる。
「このグラスに酒が半分残っていたとしよう。まだ半分と感じるか、もう半分と感じるかは人によって異なる。俺はオプチミストたちの危機感を煽っただけだ。当然彼らは余計なお世話だといって俺を非難するだろう。けれど『あと半分しかないのだ』と覚悟していれば、残された半分を尊んで真剣に味わおうとする。以前よりも価値の重みは増す。ならば見え方こそが重要だと思わないか?」
どちらが正しいかではなく、どちらにより重き価値を置くかという問題なのである。
『騙し絵のようなものなのだな』
「しかも玉虫色で描かれた騙し絵だ」
『それは何だ?』
「見る者によって変化する色のことさ」
『そこまで分かっていて何故人類は進化しない?』
「きっと変化を進化と取り違えているんだろう」
そう言って肩を竦める。
人は否応なく年をとる。能うならばそれを成長だと信じたい。
歩数計は我々が踏み出した回数を保証してはくれるが、どれだけ進んだかまでは教えてくれない。
もしかしたら犬のように、只ひたすらに同じ場所をぐるぐる回っているのかもしれないという可能性を失念しているのだ。
その癖、価値ある生を望んでもいた。
「だから見え方こそが全てだと言ったんだ。もしかしたらアンタも――」都合良く俺への態度を変えるのではあるまいな。
そう言おうとした時に扉を叩く音がした。
「アウレリア・フォン・クロイツェルです。お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
俺は身体を起して彼女を招き入れる。
「十分なもてなしはできないが取り敢えず掛けてくれ」
そう言って向かいの長椅子を示す。彼女はスカートの裾を払いながら静かに腰を下ろした。
茶でも淹れるべく立ち上がったところで、肝心の茶器が無いことに気付く。
「参ったな」
予告通りの不調法を詫びると、彼女は軽く首を振って見せた。
「約束もなく押し掛けたのはこちらですから」
「では早速用件を聞こう」
アウレリアが居住まいを正すと、つられてこちらも背筋が伸びる。
年齢差などあってないようなものだ。
「まずは先ほどの件に対して正式な謝罪を」
「授業についての?」
「そうです。ハロルド同様、目上の方に対して余りにも礼を失した言動であったと深く反省しております」
そう言って頭を下げる彼女からは気品が溢れており、とても謝られている気分にはなれない。
立場の高い人間が謝罪を強要されているのを見るような心持だ。
「君が気に病む必要はない。実際にワタシは君たちの反感を煽るよう振る舞っていた」
目を瞠るアウレリアに、俺は狙いの一端を披歴した。
「何故この学園が、敢えて身分の垣根を越えた教育を施しているか分かるか?」
昨日今日勤め始めた分際で賢しらげに俺は問う。
「学園の始祖が大陸全土の発展を願ってのことかと」
優秀な彼女は淀みなく答える。
「同感だ。しかし統治する側から見れば、民衆とは無知であるほど望ましい。是非を判断することなく、盲目的に従ってくれるからだ。それなのにわざわざ平民にまで学ばせようとする理由は?」
アウレリアは顎に指を添えてじっと考え込んでいる。
俺も膝の上で手を組んで思索に耽る。
(たっぷり時間をかけると良い。高く跳ぼうとする者は、一度深く踏み込まねばならないのだから)
質の高い沈黙が心地良い空間を演出する。手元に紅茶があれば言うことはなかった。
「貴族の暴走対する抑止力、でしょうか」
それがアウレリアの紡いだ答え。
「何故そう思う?」
「『貴族は成る者だ』という先生の言葉に目を開かれた生徒は多いはず。気付かぬ内に我々は驕っていたのです。自分で貴族の価値を貶めていたということが、私は恥ずかしい」
自尊と自戒。あるいは自損と自壊か。
「だが『人間は成る者だ』とも言ったはず。命そのものは単なる元手に過ぎない。誰にでも与えられる物であるからこそ、それ自体に特別な価値は無い。ようは命にどれだけの価値を上乗せ(レイズ)できるかというゲームなのさ」
俺の見立てが彼女には気に入らないようだ。
「賭け事は嫌いです」
「潔癖だな。同時に不誠実でもある」
「!?」
彼女の厳しい視線に射抜かれる前に、急いで俺は話の穂を継いだ。
「君は博打を運否天賦の破滅的行為だと考えていないか?」
「もちろんです」
即答する彼女。それに対して俺には思考を巡らせる時間が必要だった。
「末路に関してはその通りだが、天命の前には必ず人事がある。破滅の過程に分析と決断が存在することを忘れてはならない」
俺はそう言いながらポケットから一枚の硬貨を取り出した。昨夜セシルドから受け取らされたものだ。
「この部屋から出られるのは一人であり、コイントスでそれを決定する。ワタシが投げて君が選ぶ」
突然のことにアウレリアは戸惑いを見せるが、話の流れを察したのか早々に表を選択した。
「裏だったな」
何の感慨もなく俺は呟き、彼女は話の行く末を見守る。
「単なるメタファーだが、意図する所は分かるだろう?」
コクリ。
「私たちはいつも選択を迫られている」とアウレリアが呟く。
「その通り。そしてその多くは予期すらできず、大抵は不本意なものばかり」
俺は長椅子に背中を預ける。
「だから人は腐っていく。そこに貴賤の別はない。生きている以上、別離に半身を食い千切られていくのだ。生とは『死』そのものだ」
宵闇が彼女の顔にかかる。瞳に憤懣の炎が燃えている。
「命と死が等価だと言うのですか?」
不満げな少女の言葉を受け流す。
「少しだけ違う。たとえ永遠の命を与えられたとしても――むしろと言うべきかもしれないが――人は腐敗するだろう。故に死とは、可能性でもあり契機でもある」
「私には分かりません」
「分からない方が君のためだと思う」
これが俺たちの分水嶺だ。
それを無理に超えることを理解とは呼ばない。
それでなくとも回りくどい説明をしてきた俺に、アウレリアは辛抱強く付き合ってくれた。
「続けて下さい」
それは無謀か蛮勇か。どちらにしても愚かな選択のように思われた。
ならば遠慮なく引き摺り込むまで。
「生を定義するなら、それは内容物ではなく死を前提とした形式だ。そして形式を理解するにはある程度の知識が要る。そのための教育だ」
「では先生は、一部の特権階級だけがゲームに参加している現状を憂いているのですか?」
未知の領域にも関わらず、アウレリアは必死に追いかけてくる。
「内輪だけの娯楽に興じている暇などない。いつだって人類は足元から脅かされている」
彼女は思い至る。
「魔物!?」
「そうだ。ワタシ達の生活を支えている最も基本的で重要な事実だ」
正確には魔物から採取できる魔石が、である。
「ワタシ達の生活は迷宮に依存している。そうだな?」
「はい」
「しかし迷宮が齎すのは、何も繁栄だけではない」
「…はい」
「成長に痛みはつきものだ。誰かが責任をとるから犠牲も許容できる。それなのに権力者たちは責任をチップに変えて次のゲームを始めようとする。これは重大なルール違反だ。君が賭博を敬遠する気持ちも分からなくはないさ」
「……」
「だが人間はどんな物事からでも学ぶことができる……というのはまあ受け売りだがね」
俺は立ち上がり窓辺に寄る。
「生きとし生ける者すべてに責任がある。オプチミストたちは一切合切を清算してくれる救世主の到来を信じているようだが、そんな幻想からは直ちに目を醒ますべきだ」
西日の最後のきらめきは殊更美しい。きっと今日という日に別れを告げているからだろう。
「救世主は1000年前に現れ、そして死んだ。もう現れないと知るべきなのだ。払われた犠牲は甚大で、負うべき責任は山積している。なら返済者の数が多いに越したことはない」
(雄弁は銀なのに――)
黄金に輝く地平線を眺めながら俺は思う。
「そこまで言わせて理解できないほど、私は愚か者ではありません」
彼女はのたまう。
「先生は人でも国でもなく、時代という枠組みで物事を捉えているのですね」
それは誤解だ。俺たちの間に横たわるのは世界だった。
喋りすぎたという自覚はある。
だがそもそもからして、俺は金無垢ではないのだから仕方がない。あくまで下らない自己顕示欲に踊らされる俗物の一人なのである。
そんな人間が目の前の少女と対峙できているのは、卓越した文明の中で生活したからに他ならない。
たった1000円で過去の偉人たちの思想を購入できるようになった現代のなんと恵まれていたことか。
時代を経るごとに知識は廉価になったが、反比例するように人の志は堕落していった。
命を長らえようとする――死と向き合わない――限り、我々は死よりも無価値な生へと滑落していくに違いないのだ。
きっとそれを目の前の少女は許さないだろう。
なまじ頭が良いだけに、パンドラの箱(人間)の底に残された希望を見逃せないのだ。
学びとは同じ過ちを犯さないためにある。
ならば知識とは幸福を助けるものであって良い筈なのだ。それなのに泥中に金を見つけた者の行く先は決して明るいものではない。
手足を汚して溝を浚うか、砂金の輝きに目を瞑るかの二択である。結局どちらも幸福には行き着かないと胸を張って言うことができる。
地獄の門を前にした時点で一切の希望を捨てよ。お前は既にこっち側だ。
「生憎と生れつき小心なものでね。利子が少ない内に返しておきたいだけなんだ」
肩を竦めるがプロパガンダとしてはきっと軽すぎる。だがもしも、アウレリアがかつての三守秋途と同じ絶望に憑りつかれているのだとすれば、分の悪い賭けではなかった。
なまじ公平を期そうとするから失望する。知性なぞ額に捺された罪人の印だ。
それを俺たちの親和力とする。
(罪で捕らえて貴様を離さない)
どこの世界いつの時代においても寒い時こそ人は身を寄せ合うものだ。
(さあ力を合わせてこの苦難を乗り越えるとしよう!!)
既に表情が読み取れないほど夜は迫っていた。




