第十三話:初授業
「アキト・ミカミ!! あなたは我ら貴族を愚弄するつもりかっ!?」
ヒステリックな声が俺の耳朶を打ち付ける。
「アウレリア嬢、君は少し勘違いしている。ワタシは貴族を馬鹿にしたのではない。貴族という立場に頼ることでしか正しさを証明できない愚か者を軽蔑したのです」
そう訂正したところで彼女の怒りが収まるはずもない。
この教室にいるのは教養科の学生。すなわち大半が貴族家に生まれた後継者たちなのだから。
「我が先祖が代々積み重ねてきた信頼と実績があればこそ、私たちは貴族足り得ている。自分の家に誇りを持つことが間違っているなどということがあるものか!!」
「持っているのが本当に誇りならば問題ありません。ですがそのために真実を見誤るということなら、それは誇りではなく目を曇らせる埃でしかない」
このように一方的な決めつけは聞く者の心に反発しか生まないだろう。
だがそれで良いのだ。これは授業という名を借りた決闘であるのだから。
事の発端は数分前に遡る。
初めての授業に臨むべく教室に向かった俺は、早くもその場に序列が生まれているのを発見した。
オルドミア学園の門戸は万人に開かれている。素質とそれなりの財があれば僻地の平民だろうと入学することが可能だ。しかしそれは必ずしも身分からの解放を意味しない。学園が世界の全てではないのだから当然の話である。学校とは単なる通過点だ。モラトリアムという言葉があるように、子供たちは一時的にこの場に立ち寄っただけなのだ。そんな場所に留まり続ける教師という存在は、いつまでも過去という、終わった時間にしがみついている俺と似てどこか歪だった。
(類は友を呼ぶ、か)
人は自分と似通った存在に親近感を覚える。ならば生徒たちが、郷里や身分の近しい者で集まっているのも人情というもの。学校が社会の縮図とはよく言ったもので、その結果がヒエラルキーの具現化となって俺の前に広がっている。階段状になった教室の後方に陣取るのは上位貴族の子弟たち。教壇に近付くにつれ家格が下がっていくようで中位・下位貴族と続き、最前列の隅っこを平民たちが占めている。
(まるで人間ピラミッドだな)
窓から見えた光景に苦笑を禁じ得ない。
身分制を否定するつもりは毛頭ない。確かにそれは公の差別かもしれないが、見方を変えれば役割に応じて棲み分けが為されているとも言えるのだ。馴染みのない制度であるからといって即座に否定するのは賢明な判断とは言えない。
ここで重要なのは、身分差によって形成されたピラミッドが、彼らの自己定義に大きな影響を与えているということである。貴族だから自分には価値があるとか、平民だから自分は劣っているとかいった錯覚を誘発するのだ。
俺からすれば身分など環境的要因の一つに過ぎない。名誉や血統を表すための形式としては便利だが、全ては受け継ぐ者の度量次第ではないか。どれほど高価な酒でも、割れたグラスに注ぐことはできないし、汚れたグラスでは風味が損なわれてしまう。
それなのにさも不変という顔をして、身分制度にもたれかかっている者たちがいる。身分が自分の価値を保証してくれると勘違いしている連中だ。きっと奴らは悩まない。俺と違って自分の存在について苦悩しない。
(そんな奴らが人間的に優れているだと? 冗談じゃない)
取り返しがつかなくなる前に教えてやらなければならない。身分が絶対的なものではないということを。そして頼りにしていたものが無価値だと知った瞬間の奴らの絶望を撫で回してやりたい。さらに気が向いたら見届けてやろう。奴らがどのように自己存在を定義し直すのかを。
暗い決意を秘めて教室へと踏み込んだ。
「今日から君たちに倫理構築学を教えるアキト・ミカミです。始業式で話した通り、この授業では人間の価値や可能性を扱うものです。そこでまずは質問をさせてもらいたい。君たちは自分に価値があると思いますか?」
一石を投じると、彼らは一様に驚いた顔をした。
当然だ。
自分を無価値だと思いながら生きる者などいない。どれほど自己卑下に囚われた人間であっても、心の底では自分の価値を信じている。そうでなければ生きてはいけない。
しかし往々にして我々は、自分が何のために生きているのかを理解していない。彼の孔子でさえ天命を知ったのは齢五十の頃だという。
天命を得ない間は代替品としての生だ。自分の代わりなど幾らでもいると分かってはいる。それでも生まれてしまった以上は、何かしらの固有の価値が自分にはあるのだと信じたい。いや、信じないことには生きられないのだから仕方ない。
実に人間的な矛盾を孕んだ生き方だと思う。一条二見と出会うまでずっと俺を苦しめてきた矛盾であり、知らない方が幸せなこともあるという一つの事例だ。
自分を殺すかもしれなかった矛盾を、俺は今彼らに付きつけている。貴族様のお手並み拝見といこう。
「君は自分に価値があると思っていますか?」
そう言って俺は一人の中位貴族を指名した。ふてぶてしい態度の見るからに傲慢そうな少年だ。不機嫌な子豚に似ていなくもない。
「当たり前だ。我がハロルド家は、かつてシンクレアの宰相を務めたこともある家柄だ。価値の有無など聞くまでもない」
腕を組んでそう言うが、実に下らない答えだった。
矛盾を解決する方法は大きく分けて二つある。
自らの価値を過去か未来に求めれば良い。生まれたことを価値とするか、生きることを価値とするかの違いだ。
そして彼は前者を選択した。より安易な方法を。
「素晴らしい。けれどその場合、価値があるのは君の先祖であって君自身ではない」
「どういうことだ?」
「君の代わりは幾らでもいるということです」
少年は血相を変えた。
「少なくとも、この場にいる人間は君と同じだけの能力を有している。この中から君の代わりを見つけることは難しくないでしょう」
俺は微笑みかけたが、それが却ってハロルド少年には挑発と映ったようだ。
「この俺が、よりにもよって平民と同じだと!? 俺たち貴族は王に従い民を導く特別な存在だ。そんなことは物乞いだって知っている!!」
激高しているのは彼一人ではない。
家柄を否定された貴族たちは心穏やかでないだろうし、争いに巻き込まれた平民たちは戦々恐々としている。
「確かに君の家は特別だ。爵位と歴史があるからね。しかしそれを手に入れたのは誰なのか? 少なくとも君ではない。家格を誇るのは結構だが、それは親の七光りを自慢しているだけだ。親が偉大だからといって、子供まで偉大だとは限りません。今のところ平民異対する君個人の優位性は感じられないな」
意地の悪い言い方だが、それでも正論のように聞こえるから性質が悪い。
「そんなのは貴族を妬む奴の言い掛かりだ!」
「では君が考える貴族がどのような存在なのか教えてもらいたい」
「何?」
ハロルドは眉を顰めた。
「君は自分の家を継ぐためオルドミア学園に来たはず。君が貴族家の当主になるにはどのような過程が必要なのか。ワタシはそれを聞いたのです」
虚をつかれたような表情をしたのは彼だけではなかった。
気持ちは分かる。
身分制度の中で生まれ育った彼らにしてみれば、貴族は何かという問いは、人間とは何かという根源的な問いかけに等しい。だから彼らの驚きは当然といえば当然だ。
「まさか学園を卒業すれば貴族になれると思っているのではないだろうね? 確かに貴族は多忙な王の代わりに民を導く存在だが、その資格を得るために君はここで何をしようとしている?」
普段から貴族としての自覚を持っていなければ答えることのできない問題だ。
もちろん自分が立派な貴族であると信じて疑わないハロルドには無理である。ならば次の言葉で彼の下らないプライドをズタズタにしてやろう。
「もしも君が生まれを持ち出すのなら、結局のところそれは単なる運です。貴族とは、たまたま爵位を持つ家に生まれた幸運な人間を指す言葉となるだろう」
ハロルドの顔が怒りに染まる。けれどもこれはほんの前哨戦だ。
「アキト・ミカミ!! あなたは我ら貴族を愚弄するつもりかっ!?」
「ク、クロイツェル殿!?」
ハロルドが素っ頓狂な声を挙げたが、クロイツェルと呼ばれた少女は意に介さない。
「君は?」
「我が名はアウレリア・フォン・クロイツェル! シンクレア王国クロイツェル侯爵家が一子! 確かにハロルド殿の態度は目上の人間に対するものではなかった。それについては同国人として謝罪しよう。しかしあなたの発言はそれ以上に問題だ! 賤しくも我が祖先は代々王の信頼と民の期待に応えてきた。だからこその貴族!その誇りを汚すことは何人にも許されない!!」
混じり気のない金髪は赤立ち、ライトブルーの瞳が義憤に燃え上がる。
全身から発散される彼女の存在感が教室中の視線を釘付けにしていた。
(これが本物の迫力か!?)
ナーサリアと同等の雰囲気に口中は渇き、冷たい汗が背筋を伝う。
だが退くことは許されない。俺はこの状況を望んでいたのだから。
貴族も平民も、等しく全てを闘争の渦に引きずり込み、代表者と俺が対峙するこの瞬間を。
これから俺は彼らの価値観を崩壊させる。彼らの足元を突き崩す。
そのためには身分の象徴たる上位貴族を屈服させねばならなかった。そして登場したのがアウレリアという訳だ。
彼女を制してこそ、教室内のイニシアティブを握ることができる。
パーティーメンバーを揃えるために、俺の都合が良いように彼らの価値観を作り変えてやろう。
これはそのための第一歩。
彼女の真の貴族としての矜持があるとすれば、俺にも人間としての覚悟がある。
これは純然たる闘争であり、己を賭けた闘いだった。
「アウレリア嬢、君は少し勘違いしている。ワタシは貴族を馬鹿にしたのではない。貴族という立場に頼ることでしか正しさを証明できない愚か者を軽蔑したのです」
「我が先祖が代々積み重ねてきた信頼と実績があればこそ、私たちは貴族足り得ている。自分の家に誇りを持つことが間違っているなどということがあるものか!!」
「持っているのが本当に誇りならば問題ありません。ですがそのために真実を見誤るということなら、それは誇りではなく目を曇らせる埃でしかない」
アウレリアを追い詰めるために俺は続ける。
「人は誰だって誤謬と無縁ではいられない。平民であれ、貴族であれ、王であれ、ね。もしも完全無欠に見えるというのなら、それは黒を白だと偽った結果でしょう」
「言うに事欠いて王まで侮辱するかっ!! 不敬であるぞ!!」
「そうやって幾つもの諫言が退けられ、耳喜ばせる甘言だけが残る。そうやって人は真実から遠ざけられ堕落していく」
知ったようなことを言っているが、美しい理想に気を取られ、現実に目を向けられなかった愚者が俺だ。ならばこれは復讐なのだろう。
俺は他人を通して自分の愚かさを罰しようとしている。
「身分とは身に纏う衣のようなもの。それは共同体における役割を示すのであって、その者の価値とイコールではない。有能な者が人格者であるとは限らず、逆もまた然り。能力と人格は切り離して考えるべき事柄だ。要するに、社会的価値と個人的価値は等価ではないのです。だから君の言う積み重ねは、先人の偉大さを証明こそすれ、君自身の正しさを証立てるものになりはしない」
「だが我らは家格に見合うだけの教育を受けていきた」
「それが何よりの証拠でしょう。生まれた時から貴族である者などいはしない。貴族家に生まれた者にあるのは資格だけだ。その中で相応の教養を身に付けた者だけが貴族と成り得る。だから身分という権威に寄りかかるな、転がり落ちるぞ」
昨夜交わしたゴードンとの会話を思い出す。
穏やかで敬虔と思いきや、巌のような威厳と柔軟な信仰を併せ持つ男だった。
『人とはか弱く、それでいて弱さを理解できる唯一の生き物です。それを補うために信仰を利用したとしても、それが罪だと儂は思いません』
『だから愚かしいのです。どんな人間にも弱さという罪がある。それは個々人が背負うべきものであって、誰かに肩代わりさせるものではないはずだ』
『信仰ゆえ人は罪を逃れてしまうと、ミカミ殿はそのように考えているのですな?』
『自分の弱さを認めることができるのは強い志を持った人です。そしてそんな人間はそもそも信仰自体を必要としない。信仰を言い訳にして弱さに甘んじてしまうのはいつだって弱者の方なのです。ならば確かに神は巣食っていると言えるでしょう。弱さや身勝手さとして』
ハロルド家の少年にしても同じことだ。
身分制自体は良い。貴族が特権を享受しているのも構わない。
問題は、与えられた権威によって自己を正当化することだった。
「失礼、言葉遣いが乱れました」
俺は一呼吸入れた。教室中の緊張が高まっている。
ここからどうにかして小康状態に持っていかなければならない。
「別に君たちに悪意を持っている訳ではありません。ただワタシは心配なのです。自分に特別な価値があると信じているからワタシ達は生きていくことができる。そして特別を表す記号として身分は非常に分かり易い。可視化された境界線ですからね。それだけに危険なのです。君たちが自分を『貴族の一員』や『平民の中の一人』と定義してしまうことは」
そう言って彼らを見渡す。
さも重大な秘密を打ち明けるような憂いを帯びて。
「もしも君たちが貴族や平民の枠組みから逸脱した時、自分を否定することができるのですか? 答えなさい、アウレリア・フォン・クロイツェル」
互いの視線が交差する。一瞬の邂逅の後、彼女は口惜し気に目を逸らした。
しかし俺にとっては予定調和の出来事だ。
これは時代の暴力なのだ。さながら戦車で騎馬の相手をするようなものである。
ならば死角からの攻撃で、アウレリアが立ち眩むのも無理はない。
それにも関わらず彼女は、一瞬の内に自分との格差を悟り、見苦しく保身的な弁明に手を染めなかった。それがアウレリアの性格と能力を表している。
有能にして善良。誠実にして潔癖。
理想的な個体だ。
「生きていれば役割など幾らでも変わります。いずれ君たちは大人になり、結婚すれば夫婦となる。子を持てば親になり、後進を育てて老人へ。もちろん最後は屍に……。その度毎に存在定義を変えられますか? そもそもそんなものを定義と呼ぶのでしょうか? 空虚な自分を隠そうとしているようにしか思えないのです」
立て続けの質問に彼らは答えられない。いや、正確にはアウレリアの去就を見守るに徹している。そう仕向けたのだ。
責任感を持つ奴ほど安く使い潰される。それでも権力がある分だけ、まだ現代よりもマシと言える。
「簡単に仮面を付け替える者が、人を導けるとは思えないのです。なにより、かつてのワタシと同じ轍を君たちに踏んで欲しくはない」
悲劇の主人公よろしく、沈痛な面持ちで辛うじて笑ってみせる。もちろん腹では舌を出す。
それでもアウレリアの雰囲気は随分と柔らかくなった。
ハロルドでさえ、狐につままれたような顔をしている。
ならば俺の授業もいよいよ佳境ということだ。
「アキト・ミカミ。どうやら私は、あなたのことを誤解していたらしい。申し訳ない」
そう言って頭を下げる彼女に、昨夜のセシルドの姿が重なる。
「結局のところワタシと君は、同じことを言おうとしていたのだと思います」
「どういうことでしょう?」
「ワタシは身分を与えられた役割と言いました。そして貴族とは成る者だとも。それに対し君は、地位に見合うだけの教育を受けていることを教えてくれた。ならばワタシ達にとって重要なのは、役割に相応しくあろうと努める態度なのではないでしょうか?」
先程までの熱が嘘みたいに引き、全ての耳目が俺に向かって開かれていた。
「生まれというのは一つの結果です。この授業で扱うのはその逆、つまり過程です。ワタシ達は生まれる環境を選ぶことはできません。ですが与えられた環境で努力することはできます。同様に、人は生まれた意味を知りません。ですが生きる中で意味を探すことはできるのです」
希望溢れる言い方だが、要するに生きるという価値の棚上げだ。
例えるなら、目的地に向かって走るのではなく、目的地を探すために走るようなもの。
存在の矛盾には違いないのだ。
つくづく世の中とは不合理に出来ている。
感心してしまう程に悪辣だ。
ならば俺もそれに倣おう。
「人間とは、在る者ではなく成る者であり、それは貴族も平民も変わりません。むしろ人間とは何かを問う場において、身分という人工的差異は不純物とさえなり得るでしょう」
多少は真実が混じっているのかもしれないが、その俺自身が完全には信じていなかった。
それにも関わらず、言霊は響く。
「真実が身分によって姿を変えることはありません。それは神が与えた魔法のように、この世に遍くものです。だから憶えておいて下さい。真実の価値は、誰が言うかではなく何を言うかで図られるべきものであることを」
終わりの鐘が鳴る。




